本日をもって教師を辞めます。

石油王

第1話

雅明美(みやびあけみ)——。学校の教師を目指す高校三年生。ちょうど受験シーズンでクソ忙しい。早く帰って塾に行かないと他の受験生に遅れを取ることになる。そんな時に——。


「——明美、お前のことが好きだ。私と付き合ってくれ」

「はぁ⁉」


放課後の二者面談中。担任の先生(女)から急に告られた。驚きのあまり表情筋がピクピク痙攣する。


「せ、先生がご冗談を言うなんて珍しいですね~」


机を挟んで担任と対面する形で座っている。机の横には私が今まで受けてきた模試の結果がどっさり置かれてある。


「冗談じゃない。本気だ」

「いやいや、冗談でしょ。ホントは生徒として私のことが好きで——」

「違う。私は明美に対して恋愛的な感情を抱いているし、なんなら性的な目でいつも見ている」

「あ、これって警察呼んだ方がいいパターン?」


うちの担任の先生はこんな事を言うような人じゃない。いつもはもっと凛々しい感じで、自分の感情を表に出さない。誰に対しても冷たく無愛想な先生で有名。都内を歩けば大手芸能事務所にスカウトされそうなぐらい絶世の美女だが、鋭い目つきが相俟って人相が悪い。だから、先生からも生徒からもあまり好かれていない。


「呼びたければ呼べばいい。今の私に失うものは何もない」

「つまり無敵な人?」

「そうだ。私は高校の教師ではなく無敵の女だ」


目の前にいる人間は一体、何者なんだ? 絶対、先生の皮を被った別の何かだ。有り得ない発言を繰り返す先生に戸惑いを隠せない。


「お前には悪いが私は本日をもって教師を退職する」

「急過ぎません?」

「だから思い出作りに明美とキスがしたい」

「はい⁉」


表情を一切崩さず、淡々と話が進められていくが何一つ情報が頭に入らない。

先生はゆっくりと椅子から立ち上がり、至近距離までこちらに迫る。


「いくよ」

「いや、何が——。んむっ⁉」


柔らかく生暖かい感触が肌に伝わる。この感触はもしや、唇⁉

しかし——、


「先生」

「なんだ?」

「どうして、私の“顎”にキスしたんですか?」


このまま初めてを奪われると思いきや、直前に唇から逸らして顎にキスしてきた。先生は少し頬を赤らめ、身をよじらせる。


「唇を奪おうかと思ったが、ちょっとひよった。やっぱ恥ずかしい」

「ん?」

「今日の面談はこれで終わり。また明日」

「えっ、ちょっ、待って——‼」


呆然とする私を置いて先生は逃げるように教室を後にする。進路面談なのに一回も進路について話さなかった。しかも全く関係ない愛の告白を受けてしまった。もう訳が分からん。

一瞬、誰かに相談しようかと考えたが、やっぱりいいや。先生の告白を受けて別に不快な気分にはならなかった。むしろ、ちょっぴり嬉しかった。

今日の出来事は墓場まで持っていく二人だけの秘密にしよう。


■■■


愛の告白を受けた翌朝。朝のショートホームルームにて——。

目の下に隈を作った担任が教壇に立つ。見た感じ、変わった所は見当たらない。昨日のキスはなんだったんだ?


「ホームルーム始めんぞ。みんな、席につけ」


うちの高校はハッキリ言って頭が悪い。偏差値がボーダフリーで、誰でも入れる底辺校。生徒はサルとチンパンジーしか居らず、教師たちは頭を悩ます。特に担任の先生は皆から舐められていて、いくら注意しても言う事を聞かない。友達と喧しく談笑か、友達と騒がしく喧嘩するかのどちらか。どこを見渡しても問題児ばかりでクラス崩壊も秒読みだ。


「取り敢えず、静かにしろ。話が進まん」

「センセーが静かにしろや。担任だからってオレたちに指図すんな‼」


リーダー格の男子がそう吠える。「そうだ、そうだ」と他の生徒が考えなしに賛同する。コイツらのアホさ加減はいつも見ていて腹が立つ。

先生はいつものポーカーフェイスでリーダー格の男子を睨む。


「なに、そのすかした顔。オレたちに文句あんの?」

「別に」

「そんなに教室を黙らせたいんだったら夜、俺と付き合わってよ。近くのラブホでいい事しようぜ」


リーダー格の男子はそう言って下品に笑い声を上げる。「俺も、俺も‼」と他の男子達が手を挙げて、先生との夜の相手をご所望する。


「では、今日の予定は二時間目の数学に代わって現代文の授業が入ります。自習なので教科書は要りません——」

「チッ、無視かよ」


低俗な野次を完全に無視。先生は淡々と自分の仕事に専念する。リーダー格の男子はその態度が気に入らないらしい。大きく舌打ちして、荒々しく自分の椅子を蹴とばす。


「センセー、オレのこと無視してんじゃねぇよ‼」


リーダー格の男子は胸ぐらを掴む勢いで先生に迫り、必要以上に声を荒げる。先生は彼に怯えるわけもでもなく、涼しい顔で静観する。


「器がちっせぇ男だな。無視されたぐらいでキレてんじゃねぇよ……」

「ああぁん⁉」


ボソボソッと私の口から心の声が漏れる。心の声が耳に入ってしまったリーダー格のヤツは狙う獲物を担任から私に変える。


「なに、地味子がオレに口答えしてんだよ‼」

「口答えっていつの間にアンタが私より上の立場になってんの。ただのヤンキー風情がイキってんじゃねぇよ‼」


二人は一触即発。両者ともに立った状態で睨み合う。私はいつでも殴れる態勢に入る。


「二人とも、ケンカすんなら他所でやれ。即退学させんぞ」

「センセーにそんな権限ないだろ」

「フフッ。確かにそうだな……」


先生は教卓に視線を落とし、不適に笑う。彼女が初めて鉄壁のポーカーフェイスを崩した。教室に少しどよめきが走る。不気味に思ったのかリーダー格のヤツは驚いた表情を浮かべて後ずさる。


「実は先生は近々、教師を辞める予定なんだ。だから、お前らとは赤の他人になる。今まで世話になったな。立派な大人になれよ」


先生はそう言い残し、颯爽と教室を後にする。教室はすっかり静まり返る。まだ理解が追いついていないのだろう。私だってそうだ。


「あの話、本当だったんだ……」


昨日の面談で言っていたことはただの冗談ではなかった。私は自然と先生の背中を追いに走り出す。廊下に屯(たむろ)する輩をかいくぐって、走り抜ける。転げ落ちるように階段を下り、職員室の前にたどり着いた。


「失礼します」


職員室のドアを雑に開け、ズカズカと中に入っていく。朝のホームルーム中とあり、職員室には人がいない。勝手に先生はここに来たと判断したが、勘違いだったようだ。他の場所へ探しに行こうと踵を返したその時、奥から誰かの声が聞こえてきた。


「——ぁぁ」


若い女性がむせび泣く声。しゃっくりと鼻水をすする音が微かに鼓膜を刺激する。

私は音がする方向へ歩き出す。


「——まだ、辞めたく、ない……」


見つけてしまった。プリントが散乱した机に向かって嘆き、泣きじゃくる先生を見つけしまった。綺麗に整った美貌をクシャクシャにして、絶え間なく涙を流す姿を見て声を掛けるのを躊躇する。


「——あれ、なんでここに明美さんが?」


ガサッと音を立ててしまい、私の気配に気づかれた。赤く腫れあがった瞼でこちらを振り向く。


「あちゃ~、ダサいとこ見られちゃった……」


私の前で強がってお茶目に舌を出す。当然今まで見せたことがない表情だ。

彼女は必死に笑ってみせるが、目から零れ落ちる涙は一向に止まる気配がない。


「先生……」


名は体を表す——。先生の名は“白鳥詩心(しらとりことみ)”。

どこにも穢れがない澄み切った名前だが、すぐに壊れてしまいそうな儚さを感じる。今の彼女にピッタリな名前だ。

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