本日の柳田家

植原翠/『おまわりさんと招き猫4』発売

父・汰月

 ダイニングに朝の陽射しが差し込んでいる。天気のいい、心地の良い朝だ。

 僕の名前は柳田やなぎだ汰月たつき。三十五歳、妻と、ふたりの子供がいる会社員だ。

「汰月さん、またコーヒー飲みかけのまま忘れてるわよ」

 ぼんやりしている僕に声をかけてくれるこの女性が、妻の美鳥みどりさん。髪を首の後ろで縛って、花柄のエプロン姿でトーストをかじっている。

「本当だ。つい新聞を読みふけってしまって、コーヒーがすっかり冷めてしまった」

 僕は冷たくなったコーヒーに唇をつけた。新聞記事の端に、高齢者の孤独死の記事が載っている。僕はその小さな文字を目を細めて読んでいた。

 朝から残念なニュースを読んでいた僕の元へ、重たい声が届いてきた。

「ああーくっそ……だりい」

 寝起きの低い声は、息子のものだ。

「おはよう風太ふうた

「んー。うるせえな。飯どこ?」

「飯どこ? じゃない。挨拶は?」

「っせえな! おはよう!」

 グレーのスウェットに手を突っ込んで、お腹をボリボリ掻いている。中学生の息子、風太は絶賛反抗期中だ。

 そこへ、元気な甲高い声が飛び込んできた。

「きゃー! 遅刻しちゃう!」

 ダダダッと廊下を駆ける音と、悲鳴に近い叫び声。ダイニングに飛び込んできた彼女は、朝から顔を真っ赤にしていた。僕は唇の手前でコーヒーを止めた。

「おはよう、はな

「おはようパパ。ああどうしよう、学校間に合うかな!?」

 彼女は僕の最愛の娘、花。小学三年生だ。

 人懐っこくて優しくて、かわいくて仕方ない。

「あら、お母さん起こしたわよ、何回も」

 妻が焼きたてのトーストを差し出すと、花は飛びつくように手を伸ばし、「あつっ」と叫んで一旦離した。

「今日は朝から学校の清掃活動の日なの! 急ぐから食べながら行くね!」

「こら。お行儀悪いぞ」

 僕が制しても、すでにランドセルに片腕を通した花はトーストを咥えて駆け出す寸前である。

 そんな漫画みたいなことする奴、本当にいるのか。

「行ってきま……きゃーっ!」

 花が盛大にすっ転ぶ。僕も妻も息子も、全員が振り向いた。花の足元には、茶色い子犬がまとわりついている。

「もう、プーちゃんたら! 帰ってきたら遊んであげるから!」

 どうやらペットのプーちゃんが花の足に擦り寄って、転ばせたみたいだ。

 トーストは落とさずしっかり死守していた花は、プーちゃんを振り切って玄関へ飛び出した。

「朝から慌ただしいな。怪我はないか?」

 僕も、玄関まで花を見送りにいく。花は照れ笑いを浮かべて僕に片手を振った。

「大丈夫。じゃあ、今度こそ行ってきます! パパ、お仕事頑張ってね!」

 慌てているくせに、僕へのエールを忘れない。

「パパ、大好きだよ!」

 花は扉を押し開けて、朝の街へと飛び出していった。

 ああ、本当にいい子だ。僕は素晴らしい娘を持った。花は自慢の娘だ……。

 閉まった扉を見つめて花の優しさに胸をじーんとさせていると、ダイニングからお兄ちゃんの大声が響いてきた。

「あー! もう無理!」

 僕は我に返って、ダイニングへと戻った。風太がテーブルに顔を突っ伏している。

「人間喰いてえよー! 今が喰い時なのにー!」

 彼の頭からは、親指の爪くらいの角がふたつ、ちょんこり飛び出していた。

「我慢しなさい。あんたひとりで花を喰べたら承知しないからね」

 トーストをかじっている妻の背中からは、鷹のような茶色い翼が伸びている。僕も、気が抜けてお尻から尻尾を出した。

「そうだぞ、抜けがけは許さない。少なくとも、花が気がつくまでは」


 僕の名前は柳田汰月。三十五歳、妻と、ふたりの子供がいる会社員。妻は専業主婦、息子は中学生。

 というのは、「設定」だ。僕らは家族ではない。それどころか、僕らの真の姿は、人間ですらない。


 九年前、僕は、山に捨てられた赤ん坊を見つけた。赤ん坊なんて、待っていれば勝手に死ぬ。火車かしゃという死体を集める猫の物の怪である僕は、新鮮な獲物に嬉々として近づいたのだ。

 しかし、狙っていたのは僕だけではなかった。なんと子を攫う物の怪である姑獲鳥こかくちょうの美鳥さん、子を喰らう鬼である風太も、この捨て子目掛けて突っ込んできたのである。

 喧々諤々の言い争いの最中、赤ん坊はぎゃあぎゃあ泣きはじめた。あまりにうるさいので、僕らは一旦議論をやめて、人間に化けて見様見真似でミルクを買ってきてやり、寝かせた。引き続き誰が花を喰べるか議論するべく、僕らは基地として人間のアパートを借りた。赤ん坊が死んだら火車の僕がひとり勝ちしてしまうので、他の二匹が躍起になって生かそうとする。僕も、狡をしたと思われるのは癪なので、結論が出るまでは赤ん坊の世話をすることにした。

 人間の赤ん坊を育てるのには、人間の生活を知る必要があった。僕らは人間に化けて、人間の行動を真似して、社会に溶け込んで情報を集めた。

 そうしていつの間にか、僕らの生活は花中心になっていったのだ。

「全く、いつになったら喰えるんだよ」

 お兄ちゃんである風太が文句を垂れる。

「本当に。このまま放っておいたら大人になっちゃうわね」

 お母さんである美鳥さんもため息をついた。

 物の怪の一瞬でも、人間にとっては長い時間である。花はすくすく大きくなってしまい、物事を理解するようになってきた。僕らは花が社会的に苦労しないよう、「家族」を演じることにした。

 火車の僕が夫で、姑獲鳥の美鳥さんが妻。鬼の風太は中学生の息子。なんならペットのプーちゃんだって、犬ということにしているけれど、あれはいつの間にか住み着いた脛擦りだ。

 議論の決着は未だついていない。僕ら三匹は、九年経った今でも花を巡って揉めている。

「まあ、そのうちね」

 僕は椅子に腰掛け、コーヒーを啜った。そのうち、と言い続けて、なあなあにしてきている。

「あなたねえ。いつか花があなたの正体に気づいたら、悲しむわよ。お仕事だと言って、未処理の死体を集めてるだなんて……」

 美鳥さんが頭を抱える。僕は新聞記事の、人が死んだニュースを目でなぞっていた。

「美鳥さんだって、赤ちゃん見かけると目の色変えるじゃないか。怖いからやめてくれよ。風太も。小さな子供を見て『おいしそう』って呟く癖は直した方がいい」

 この嘘がいつまで花に通用するか分からないが、そうなったら、この家族ごっこは終わりだ。


 花に対してだけではない。

 僕は、この「家族」に嘘をついている。

 いつか花に正体がばれてしまったら、僕は姑獲鳥と鬼を取り押さえて花を逃がそうと思っているのだ。できればそのあと花に謝って、嘘つきの僕を花が許してくれるならば、父と娘としてふたりだけで暮らしたい。

 だって、あんないい子に育ってしまったではないか。二匹には内緒だが、僕は花にすっかり愛着が湧いてしまった。


 僕の名前は柳田汰月。三十五歳、妻と、ふたりの子供がいる会社員。

 という設定の、「火車」だ。

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