第2話・春蕾


 そしてとうとう、氷霞ビンシャはどうすることもできないまま、時の皇帝陛下・ジャン春蕾チュンレイの治める後宮へ入内することになった。


(こうなったらもう、後宮でもぼっちを目指すしかない。とりあえず、不気味がられる毒霧の姫を演じるか)


 氷霞の待遇は思いの外良く、中級妃として宮の一室を与えられた。


「荷解きもあっという間に終わってしまった……ちょっと少な過ぎたかしら?」

(まぁ、どうせ誰に見せるわけでもないのだから、いいか)


 何気なく空を見上げる。雲雀が高い声でさえずりながら、天高く舞っていた。

 風がそっと頬を掠めて流れていく。草がそよぎ、風に乗ってほんのりと甘い香りがした。


「……水仙かしら」

(いい匂い。庭の手入れまでしっかり行き届いてる。これだけ広大な庭なのに、すごいわ)


 氷霞はふっと頬を緩めた。

 そしてその日の夜、さっそく皇帝陛下・春蕾チュンレイのお通りがあった。

 春蕾は一人の家臣を引き連れてやって来ると、氷霞を花でも愛でるかのような瞳で見下ろした。


「そなたがシュウ氷霞ビンシャか。私はジャン春蕾チュンレイだ。よろしくな」


 氷霞はなにも言わず、じっと春蕾を見上げた。

(へぇ……)

 芳の言う通り、春蕾は氷霞がこれまで出会った男の中でもとりわけ整った容姿をしていた。

 柔和な細面に、雪のようにきめの細かな白い肌。切れ長で涼し気な目元と、すらりとした体躯。


(絶対お父様の虚言だと思っていたのに、本当に美男子イケメンだった……)


「……なんだ。私の顔になにかついているか? なにやら言いたげな視線だな?」


 ハッとする。


(って、そうじゃないそうじゃない! 美男子だろうがなんだろうが、私には関係ないことだ。権力に負けてたまるか。私は一人で穏やかに生きるんだから!)


 常に暗殺の危険がつきまとい、疑心暗鬼にならざるを得ない籠の中の鳥なんて、死んでも御免だ。


「陛下。お話したいことがございます」

「なんだ。申してみよ」

「私は、貴方の妃にはなりません。夜伽よとぎはしません。ですので、給金もいりません。私は妃としての役目を果たせません。故に、早々に実家に……」

「そなた、私を拒むのか?」

「天上の人の命に背くということは、この国では死を意味するものだぞ」


 背後に控えていた側近宦官が目を光らせた。しかし、氷霞は負けじと見返した。

 そして当の春蕾は、怒るわけではなく。


「妃にはならない、か……入内した妃にそう言われたのは初めてだな……」


 ずぅんと効果音が聞こえるほど落ち込んでいた。側近宦官がかすかに身動ぎをした。手元には、小刀が握られている。

 そんなものは氷霞には恐るるには足らない玩具だ。


「……良い。海里」


 海里と呼ばれた側近宦官もまた、美しい容姿をしていた。中性的で、いかにも仕事のできそうな軽やかな身のこなしの男だ。

 きっと心から春蕾を慕い、忠誠を誓う側近なのだろう。


「氷霞。私はなぜそんなにもそなたに嫌われているのだ?」


 特別責める口調ではなかった。むしろ、驚くほど穏やかな声音だった。氷霞はほんの少し拍子抜けして、春蕾の顔を見上げる。


「……陛下も一度は聞いたことがあるでしょう。朱家の娘は毒霧の姫。毒霧の姫に愛されたら死ぬ……と。その通り、私は毒霧の姫です。私を妃にすれば、あなたに悪評が立ちます」


 すると、春蕾はふっと笑った。


「そうか。私の身を心配してくれたのか。うん、思った通り、そなたはとても優しい女性なのだな」


 春蕾はそっと氷霞の前に膝をつくと、頬に触れた。すぐ間近で視線が絡み、氷霞は息を飲む。


 こんなに近くに人の気配を感じたのは、いつぶりだろうか。家族以外では、初めてかもしれない。


「っな、なにを……」

「可愛いな。こんなことで頬を染めるのか」

「かっ、からかわないでください!」


 氷霞は堪らずその手を払い除けた。


「からかってなどいない」


 春蕾は真剣な眼差しで氷霞を見ていた。


「そなたを朱家に帰す気はない。入内した以上、そなたはもう私の妃だ」

「ですから私は……」

「私はそなたを大切にしたい。だから、そなたが私を認めてくれるまでは、夜伽を命じないと誓おう」


(それはつまり……私がいいと言うまでお手つきはないと? そんなことが有り得るのか……?)


「陛下!」

 海里が不満げに声を上げるが、春蕾が手で静止する。春蕾はくるりと部屋の中を見回した。


「一人で入内したのか? 侍女は置かぬのか」

 氷霞は春蕾から目を逸らした。


「……私は、人々の恐れの対象ですから。身の回りのことは自分でできますし、侍女など必要ありません」


 これまで家にいた侍女は、氷霞の能力を不気味がって皆去っていった。置くだけ無駄だ。


「恐ろしくなどない」


 春蕾が氷霞の手を取った。


「そなたは綺麗だ。蓮の花のように美しく、たくましい。私としては、昼夜問わずずっと愛でていたいと思っているくらいだ」


 直接的な愛の言葉に、氷霞は戸惑いを隠せない。


「なにを言われても、私はあなたの愛を受け取ることはできません」

「……そうか」


 春蕾は音もなく立ち上がった。


「……今日はいろいろと忙しなかっただろう。疲れているだろうから、もう休むといい」

「お気遣い、ありがとうございます」

「また、明日も来ていいか」


 氷霞は惑う。


「嫌だと言ったら、来ないのですか」

(それならば、いくらでも言うのだけど)


 すると、春蕾の背後で再び海里が目を光らせた。失礼なことを言っているのは分かっている。でも、嫌なものは嫌なのだ。


「それは困るな。今帰るのすら惜しいと思っているのに。来るなと言われるのは、少し堪える」


 春蕾は、本当に悲しげに言った。その表情に、氷霞の胸はなぜだかちくりと痛んだ。


「……なら、聞く意味はないのでは」

「それもそうだな。では、また来る。氷霞」

「……お気をつけて」


 春蕾はぽんと氷霞の頭に手を置くと、にこりと笑って出ていった。


(……不思議な人だ。まるで、凪いだ夏の海のような……)



 

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