第3節(2/2)
目を転じ、再び歩を進めた政綱は、折れた松を注意深く観察した。斧が入ったような痕跡はない。物がぶつかったか、風で折られでもしたものか。この数日を遡って思い出してみると、大風の吹いたことはなかったはずだ。
足元に視線を落とし、しゃがみ込んだ。根元の地面は、大きな丸型の足跡によって踏み荒らされている。政綱は自分の手と大きさを較べてみた。足跡のほうがふた回りも大きい。
地面を睨む政綱の頭上から、羽音が聞こえた。降り立った野分丸のほうは見ず、政綱は考え込むように低い声で言った。
「野分、こいつは中々の大物らしいぞ。この辺りで暴れたようだな」
折れてささくれた松の断面に、わずかな黒い滲みがあった。おそらく血だ。それと一緒に、黒い毛の塊が引っかかっている。政綱は毛に触れてみた。
「硬い毛だが、猪とは違うな。臭いもそう酷くはない」
「その毛の主も、足跡を残しているようだ。踏まれてわかりにくいだろうが、見えるか?」
政綱は、滅茶苦茶に荒らされた土をじっと見た。大きな足跡と足跡の間に、形の異なる物が交じっている。丸いが、より小さく、どうやら太くて短めの爪があるようだ。これなら何度も見たことがある。
「こいつは……ホウドラだ。本当にどこにでもいるな。もう何匹狩ったかわからん」
「〝殺したホウドラと水虎の数を忘れるほどならば、やっと一人前〟。憶えているか?
「だからおれも
野分丸は笑った。
「ひねくれ者め。あぁ、それでこそ鳳至人狗だ」
政綱も笑いながら、目では足跡を追っていた。二種類の足跡は、前後に並んで川へと向かっている。ホウドラは俗に、〝人喰いカワウソ〟と呼ばれるだけあって、泳ぎが得意だ。そのホウドラを追い立てた大きな足跡の持ち主も、どうやら水を恐れないようだ。
「ふむ……」
ひとりで小さくうなずく政綱に、野分丸が尋ねて言った。
「ホウドラの相手に見当がついたか?」
「ああ――」
答えようとしたその時だった。川の真ん中辺りで、ぶしゅっと激しい音と共に、鯨が潮を吹いたように水しぶきが舞い上がった。何か
野分丸が素早く飛び立った。
政綱は、立ち上がって抜刀すると、うしろにいる〈望月〉と雲景に振り向いた。
「そこにいると危ない。早くさがれ」
うなずいたふたりは、柳丸を曳いて、子どもたちのいる辺りまで戻り始めた。
赤茶色をした妖は、水からゆっくりと姿を現した。頭は馬に似た形だが肉づきがいい。胴も太くて丸みを帯び、無毛の皮膚が少し弛んでいる。最大の武器である大きく裂けた口は閉じているが、血走った目が油断なくじろりと政綱を睨んでいた。
「野分。思った通り、カワコマだ。用心しろ」
カワコマが真っ直ぐにこちらを向き、じわりと距離を詰めようとしている。
政綱は深みを避け、底が見えている浅い場所だけを選んで川を渡り始めた。あのカワコマは群れてはいないようだ。そうなると、おそらくあれは雄だろう。
水は少し冷たいが、幸いにも水流は穏やかだ。脛まで水に浸かった政綱は、カワコマから二十間(約三六m)ほど離れてそろりと横切って行く。
カワコマが、ぶぅーんと唸り声を発した。水の中から前脚が持ち上げられるのを見てすぐ、政綱は対岸に向かって走り出した。
身を揺すって水をまき散らしたカワコマは、更にひと声唸り、猪よりも遥かに大きな身体で、猪よりも素早く迫って来た。子どもたちの叫ぶ声が聞こえる。
政綱は逃げるのをやめ、腰を落として待ち受けた。視界一杯に広がった赤茶色の頭が、上下にがばっと開いた。桜色の口腔に生えた黄ばんだ牙は、さながら杭のようだ。
頭上で、野分丸が鋭く鳴いた。
政綱は横に跳び、カワコマの牙を避けた。がつんと肝の縮むような音が響いた直後、水面をかすった人狗の愛刀が、妖の横っ面に襲いかかった。
斬られたカワコマは、血を流しながら吼えた。横に廻った政綱を、大口を開いて追いかけ、川の水ごと嚙み砕こうとした。
政綱はまた横に跳んだ。落ち着く間もなく、カワコマの鼻先がこちらを向く。拳が収まりそうな鼻孔と、中に生えた毛がよく見えた。遠くで雲景の喚き声が聞こえた。政綱は真っ直ぐ跳び上がり、すかさず左手を水面に向けて振った。
〈風〉が巻き起こる音は、耳鳴りとカワコマの暴れるとよみで聞こえなかった。空に向かって噴き出した〈風〉が、政綱を宙に舞い上がらせた。
カワコマの背中の上でくるりと身を捻った政綱は、水しぶきと共に着地した。カワコマが身を躍らせて向きを変えようとすると、腰を回して、流れるように斜めに斬り上げた。冷たく光る切っ先は、カワコマの顎の下に潜り込んで斬り裂き、右肩の上まで長い傷をつけた。
小山のようなカワコマが、少し身体を傾けた。政綱は走り出した。カワコマのでっぷり太った尻の横を駆け抜け、対岸の雑木林を目指した。
ばしゃっと水音が鳴った。二度、三度と続く。カワコマは追って来ていた。重量感のある気配と、生暖かい吐息を背中に感じた。口の開く音。政綱は横向きに身を投げ出し、〈風〉を吹かせた。
水面から、掬い上げるようにして強く〈風〉が吹いた。錐揉みしながら飛んだ政綱は、両足でしなやかに着地した。足元に水はない。対岸に到った政綱は、こめかみの痛みに顔をしかめながら、生えている木々を一瞥した。
「来るぞ!」
野分丸の声が脳内に響いた。
鳳至山の鳶は、人狗に迫るカワコマの頭を目がけて垂直に降下した。鋭い鉤爪の生えた足で頭を蹴り、噛まれそうになると跳ね上がって
時を与えられた政綱は、逃げる間に探していた物をどうにか見出した。竹だ。駆け寄った政綱は、太さが二寸(約六㎝)ばかりの物を選び、すぱっと斜めに切り口をつけた。
「野分、もういいぞ! 離れろ!」
野分丸が高く空に舞い上がり、カワコマがこちらに突っ込んで来る。政綱は竹を握り締めて弓なりに
カワコマは真っ直ぐ向かって来る。このまま政綱を吹き飛ばすつもりだ。
刀を左手に持ち替え、手甲に隠して差した短剣をひとつ抜いた。右手で構え、狙いをつける。カワコマの口が大きく開いた。投げつけた短剣は、切っ先を向けたままカワコマの口に吸い込まれ、深々と刺さった。
妖はもがき、政綱の数歩手前で足を止めた。カワコマが身体ごと首を
カワコマは激しく暴れた。政綱は竹を叩き斬り、離れて様子を窺った。カワコマは、竹に滴る血で地面に模様を描いて暴れていたが、それも長くは続かなかった。
地響きを立てて倒れたカワコマを、政綱はしばらく見おろしていた。完全に息絶えたのを確かめると、懐から引っ張り出したぼろ切れで刀を拭って鞘に納め、川を渡って皆が待つ対岸へと歩いた。
途中でおりて来た野分丸を、政綱は腕にとまらせた。そうして岸に辿りつくと、雲景が出迎えた。
「お見事。さすがは〈鳳至童子〉だ。ところで政綱、あれは……カワコマ、だったか?」
政綱はうなずいて返した。
雲景も満足そうにうなずき返し、こう言った。
「前に聞いたことだが、御苑のひとつであれを飼おうとした学者がいるそうだ。中々見つからないから、どうも諦めたらしいがね」
「その学者がもしおまえの友人なら、絶対に止めてやれ。あれは肉食ではないが、かなり気性が荒い。そばに寄るだけでも危ない奴だ。そもそも、並みの獣ですら飼うのが難しいのに、妖まで飼おうというのがまともな考えじゃない」
「ああ。見ていてそう思ったよ」
子どもたちが手を振っている。彼らと一緒にいる〈望月の君〉が紫色の袖を振るのを待って、政綱は手を振り返した。
「さてと、雲景よ……」
「そうだな。このまま帰るわけにはいかないようだ」
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