第41話 由里子

 家に帰る途中――

 ふと、由里子は足を止め、北の夜空を見上げた。


 何かが、光ったような気がしたのだが、気のせいだったのか。


 そう思った途端、轟音がその方向からした。

 雷だ。そう思い、反射的に首をすくめる。


 同時に、湿気を含んだ強い風が吹いた。

 吹き上げられる髪を押さえていると、無性に胸騒ぎがしてスカル・バンディッドが巻き込まれた抗争のニュースを思い出した。


 夜の港の埠頭で、スカル・バンディットとブラック・マンバの間で大規模な抗争が起こり、多くの怪我人が出た上、一般の車両も巻き込まれたのだ。


 病院で昏睡している竜一には関係ないが、もしも目が覚めたら大騒ぎするだろう。頭の中に竜一が怒っている様子が浮かんだ。


「竜くん……」

 由里子は呟いた。


 一度考え出すと、次々といろんなことが頭に浮かぶ。

 笑顔、声、匂い、体温――


「会いたいな」

 そう呟くと同時に、涙がこぼれた。


 その時だ。

 生暖かい風が吹いて、気がつくと目の前に中年のサラリーマンが立っていた。


 ぴっちりと七、三分けにした髪型で、グレースのスーツを着ていた。腹が少し出ていて、スーツの着こなしも少しだらしないように見える。


 由里子は涙を拭いながら、男の横を通り抜けようとした。

 すると男は由里子の腕を乱暴に握った。


 突然のことに由里子は声が出なかったが、気丈にもその腕を振り払おうとした。

「ふふふ。お前、いい匂いがするなあ。お前のようにツンとすました気の強そうな女が好きなんだ。無理矢理にでも従わせたくなるぜ……」


 男の右手が、タコの触手のようにヌルヌルになり、ずるりと伸びて絡まってきた。開いた口からは黒い小動物が見えている。それはねずみのようにも蝙蝠こうもりのようにも見えた。


「や、止めてください! 何なんですか! あなたは?」

 男は答えずに、由里子の目をめつけた。その目は真っ赤に光っていた。明らかに尋常ではない。


 由里子は男のすねを蹴りつけたが、男は意に介さずに由里子を地面に押し倒した。

「ふふふ。ここでたっぷりと楽しんでから、お前はビゼム様の元へと連れて行こう。何かの役に立つかもしれんしな」


 男はしゃがれた声で言った。

 由里子には知るよしもなかったが、男はただの邪霊憑きではなかった。悪魔ビゼムの使い魔にその体を乗っ取られていたのだ。


 男の右腕だけでなく、左腕も、また両足までもがタコのような触手に変化していた。由里子の足に触手が絡みつき、真っ白なブラウスをびりびりと破き、白く柔らかな肌を露わにしていく。


「い、嫌。やめて……」

 由里子は息も絶え絶えに喘いだ。


「嫌と言われて止める馬鹿がいるものか……本当にいい女だ」

 男が涎を流しながら言った。


 触手が由里子の胸を露わにし、スカートをめくって股間に侵入していく。

 その時、由里子の心に爆発的な感情が現れた。それは目の前の風景を真っ白に焼き尽くすほどの怒りだった。


 同時に、由里子の右膝が思い切り、男の股間に突き刺さった。

 悶絶した男の鼻にその額を思い切り打ち付ける。


「う、うごっ」

 由里子は呻く男から体を引きはがすと、触手に絡みつかれたスカートやブラウスを自ら引きちぎり、立ち上がった。


「私はスカル・バンディッドの頭、九条くじょう竜一りゅういちの彼女よ! 気安く触るんじゃない!!」


 由里子はそう宣言すると、思い切り、男の鳩尾みぞおちに右のサッカーボールキックを思い切り蹴り込んだ。つま先がくるぶしまで埋まるような強烈な蹴りだった。


 怒髪天どはつてんを突くとはこのこと――その怒りに燃える様は、ふだんの優しくおしとやかな由里子からは想像もできないような姿だった。


 男が「うげえっ」と何かを吐いた。それはビゼムの使い魔である小さな蝙蝠こうもりだった。

 由里子はその勢いのまま、蝙蝠をも思い切り蹴った。


「ギィッ!」

 と、一瞬悲鳴を上げた蝙蝠は、真っ黒な夜空へ打ち上げられるように飛んでいった。


 爆発的な怒りが由里子の奥底にあった霊力を呼び覚ましたのか、使い魔は空の上で散り散りに霧散した。由里子は気づいていなかったが、一種の霊的な存在であり、邪霊の上位互換とも言える使い魔を生身で撃退したのだった。


 後に残ったのは、失神したサラリーマンの男だった。男の腕も足も元に戻っている。


「もう。いったい、これは何なのよ!!」

 我に返った由里子は、ビリビリに破られた服を両腕で押さえて叫んだ。何が何だか分からない。


 竜くん! 早く帰ってきて。

 北の空を見上げ、由里子は心の中で叫んだ。

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