第35話 浸食
碧海浜市の飲み屋街――
高校の帰り道。辺りは既に夜の十一時を過ぎている。
ずっと向こうに、飲み屋街の名物である大銀杏の枝振りが少しだけ見えていた。
チェックのプリーツのミニスカートに、薄いピンクのサマーセターを合わせ、靴は高校のローファーをそのままだ。服は駅のトイレで私服に着替えていた。早くロッカーから制服を出して着替えないと行けない。
親には友だちの家に行ってと遊ぶと言ったが、早く帰らないと心配される時間になっていた。
お酒はあまり飲まないようにしていたつもりだったが、頭がぼうっと火照り、酔っ払ったかのように、足下がおぼつかない。
おかしいな。なんでこんなにふらつくんだろう。
沙絵は不思議に思いながら、飲み屋街の道をふらふらと歩いた。
「お嬢ちゃん。こんな時間にここを歩いてたら悪いおじさんに連れて行かれるぞ」
太ったはげ頭のおっさんが話しかけてきた。茶色のスラックスにストライプのワイシャツを着ている。
いや。悪いおじさんはあんただろ。
沙絵は心の中ではそう毒づきながら、愛想笑いをして通り過ぎようとした。
だが、すれ違いざま、おっさんは沙絵の腕を乱暴に掴み、目を覗き込んだ。
「酒臭いわけでもないのに、目つきがおかしいな。お嬢ちゃん」
おっさんに言われて気づいた。たぶん、あの時だ。見知らぬ若い男が私にノンアルコールのカクテルだと言って勧めた飲み物。奢りだと思って喜んで飲んだが、あれに何か危ない薬が入ってたんだ。そう言えば、最近学校で危ない薬にはまった同級生がいるって噂になっていた。
沙絵が後ろを振り返ると、案の定、その男が仲間を連れてついてきていた。
やばい!
私はおっさんの腕を力一杯振り払うと、走り出した。男たちにいたずらをされるのもごめんだが、おっさんに薬のことを騒がれて学校にばれることも避けたい。
走っていると、いつの間にか暗い路地を走っていた。
「おい! 待て」
若い男たちが声を荒げてついてくる。
しばらく走っていると、突然辺りが真っ暗闇になった。
先ほどまで、看板のネオンや街灯の明かりがあったはずなのにどうしたというのだ。
気がつくと、体が震えるほどに寒くなり、目の前に得体の知れないものがいた。
禍々しい瘴気と鼻が曲がりそうな臭気を発するそれは、沙絵の前で両腕を大きく広げた。
思わず立ち止まった沙絵の肩に男たちが手を置く。
「逃げてんじゃねえよ。今から俺たちと楽しむんだからよ……」
男の一人が、野卑な声を上げて笑った。
何で、そんなことを言ってるんだろう。この人たちにはこの化け物が見えていないのだろうか?
沙絵は、若い男たち三人の顔を見た。男たちは下品な顔で笑っていた。溜まっている性欲を隠そうともしないその表情を見ていると、それだけで吐きそうになる。
よく見ると、男たちの背後にも真っ黒な影のようなモノがこびりついている。
沙絵の背後にいる化け物とは比べものにならないが、これはこれで何か不吉なモノだった。
「邪霊ども。よくやった。活きのいい女だ」
背後の化け物がしゃがれ声で言った。
「な……!?」
男の一人が声を上げて私の背後を見た。目が張り裂けんばかりに開いている。
ようやく、化け物に気がついたのかと思った途端、
ヒュガッ!! と、何かをもの凄いスピードで振る音がした。
男たち三人の首が一瞬で胴体から離れ、地面を転がった。
ぶしゅうう……
盛大な音を立て、首から上がなくなった胴体から血柱が吹き上がった。
沙絵は突然のことに反応できなかった。
今起こったことが、冗談か何かのようで、本当の出来事だとは思えない。
ゆっくりと後ろを見ると、
化け物が背中から伸ばした蝙蝠のような羽を鋭い爪の生えた手で拭いていた。真っ暗でシルエットしか見えないが、あれを伸ばして、一瞬で首を切ったのに違いなかった。
沙絵の足下にみるみるうちに温かい液体が溜まっていく。あまりの出来事を目の前にして失禁したのだった。
「い、嫌……」
沙絵は呟いて、逃げようと
「女よ。お前の若さ、生命力も我の力としてやろう。お前のその恐怖もちょうどいいスパイスだ。さぞかし美味かろう……」
背後から、化け物が囁くように言った。
「やああっ!! やめてっ。お願い! 助けて!! お父さん!! お母さん!!」
沙絵は走りながら叫んだ。
目の前に、父と母の笑顔と飼い犬のジョンが尻尾を振る様子が、一瞬よぎった。
だが、その暖かい幻を遮るように、
「駄目だ」化け物のしゃがれた低い声が響いた。
「今日の夜遊びをお前が、どんなに反省しても、悔やんでみても、お前の運命は変わらない」
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……
沙絵は心の中で必死に謝り続けながら、後ろを振り向いた。そこには姿を露わにした化け物が立っていた。
蝙蝠のような羽を持ち、恐竜のような姿をした、凶悪な存在。それは悪魔としか言いようのないものだった。
悪魔はサディスティックな笑みを浮かべると、沙絵に触手を伸ばした。
*
「おい、大丈夫か!?」
生活安全課の
女の子は気を失い、その周りにも三人の若い男がうつ伏せに倒れている。男たちは首を鋭利な刃物で切り取られていた。
女の子を引き起こして顔を見た鮫島は息を呑んで、はげた頭を掻きむしった。
ここ、最近、頻発している事件と同じだった。
女の子の顔は恐怖に歪み、老婆のようにしわしわになっていた。
「いったい、この街はどうなっちまったっていうんだ……!?」
鮫島は大きくため息をつくと、携帯電話で署に電話をかけ、救急車も呼んだ。
空から鮫島の様子を見ていた悪魔は大声で笑いながら、夜空を舞った。完全復活に足りない生命力を狩り集めるため、たまにこうして恭一から離れ、夜の街を徘徊していたのだった。
霊感のある者であれば、悪魔の声に気づいたに違いないが、あいにく鮫島にはその類いの才能は無かった。
鮫島は悪魔の様子には全く気づかず、必死で沙絵の介抱を続けていた。
悪魔は、更に夜空に高く舞い上がった。背中から邪霊を街中にばらまいていく。
「我は復活した。それも、前よりも遥かに巨大な力を持って。もうすぐ、ここを地獄に変える。人間どもよ。楽しみにしていろ!」
錆びた鉄の塊が
悪魔の周りを小さな蝙蝠が舞っていた。それは、復活した悪魔の使い魔たちだった。
目を真っ赤に光らせるそいつらは、無数に生まれる邪霊を遥かに超える邪悪さを持っていた。
もうすぐ混沌がやって来る。悪魔の作り出す混沌が――
使い魔たちは、口々にそう呟きながら、邪霊とともに街へと降りていった。
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