第5話 真っ黒な幽霊

 路地裏に入りしばらく進むと、野良猫が一匹、また一匹と現れた。

 オレの周りを歩くそいつらは合計で四匹。どれも知らない奴らだった。


 余計な争いは避けるに限る。オレはUターンしかけたところで、立ち止まった。

 背後に、野球帽キャップを被った子どもが立っていたのだ。


「にゃああおう……」

「なあああおお……」

 猫どもが、口々に威嚇の鳴き声を上げる。


 オレは囲まれている猫たちに油断なく目を走らせ、子どもを見た。

 子どもは小学校高学年くらいか――


「さっそくだ」

 あることに気づいたオレは、子どもの背後に貼り付いた黒い影を睨んで言った。

 首筋の毛がピリピリと逆立ち、ヒゲがピクピクと動いた。


(あれか?)

「ああ……あれが真っ黒な幽霊だ」


 そいつは、いつものように何を考えているのか分からない不気味な表情で背中に貼り付いている。だが、普通の幽霊と決定的に違うところがある。反吐が出そうな瘴気とでもいうべき雰囲気を放っているのだ。


 何かが腐ったかのような匂いがする錯覚に囚われるが、実際にはそうでは無い。しかし、こちらまで腐った臭いまみれになりそうなこの感じは、完全に錯覚と言うにはあまりに現実感があった。


(戦ったことは無いのか?)

「いつも逃げてたからな……」

 オレは竜一にそう答え、身構えた。耳が後ろを向き、尻尾がピンと直立する。


(おい。あいつから溢れている真っ黒な空気のようなものが、ここら中に埋まっていくような感じがするぞ)


「ああ」

 オレは竜一の言葉に、頷いた。

 邪悪な瘴気が、目に見えるような密度で路地裏に溢れかえっている。


「……うぅぁグぉガガぁ……!!」

 真っ黒な幽霊が口を大きく開き、言葉にならない声を発した。


 途端に、四方から猫たちが飛びかかってきた。

 一瞬下に沈みこむと、一拍置いてから跳び上がる。


 オレが跳ぶと思い込んだタイミングで繰り出された、猫たちの一撃がことごとく空振りする。


 遅れて跳んだオレは、目の前にいた猫の鼻面を思い切り引っ掻いた。

 その勢いのままに、左の猫の鼻にもパンチを叩き込む。


 オレの攻撃を食らった二匹は、

「ギャン」と鳴き、下に転げ落ちた。

 一瞬で戦意喪失したそいつらは、そのまま走って逃げ出す。


(やるじゃないか)

「ふん」

 竜一の賞賛に鼻を鳴らして答える。これまでの野良猫としての生活で身につけた得意技だった。


「にいいいッ!!」

 オレが残りの二匹を威嚇すると、二匹はジリジリと後ずさった。


 すると、突然

 ぶんっと風を切る音がした。


 オレは前回りのような形で、転がりながらその攻撃を避けた。

 子どもが背後から蹴りを入れてきたのだった。


 転がりながら、帽子のひさしの下の目と目が合った。爛々と燃えさかっているようなその目は、明らかに普通ではなかった。


 背後の真っ黒な幽霊の右手が動いた。連動するかのように、子どもの右手に折りたたみ式のナイフが現れる。


 真っ黒な幽霊の口が動くのに合わせ、

「おい……お前の真っ赤な血を見せろ。その綺麗な目も欲しいな」

 子どもが冷たい声でささやいた。


 背中の毛を逆立て、

「しゃああッ……」と威嚇の声を上げる。手加減している余裕は無い。両手の爪は全開だった。


「うきゃっ!!」

 奇声を上げ、子どもがナイフを振り上げた。


 ビュウウウウウウウウウ……!!

 突然、強風が吹いた。


 埃やゴミを巻き上げながら大きなつむじかぜが巻き起こる。

 今にも飛びかかってこようとしていた子どもと二匹の猫は、目をかばってその場に立ちすくんだ。


 オレは、尋常じゃなく強いエネルギーを、その旋風から感じていた。


 風が止むと、そこには黒いコートを着た背の高いやせた男がいた。男の髪は黒色の長髪で、彫りの深い顔立ちをしていた。顔やコートから覗く肌の色が抜けるように白い。


「悪魔ではなかったか……」

 男はそう言いながら、右の手のひらを子どもに向けた。

 子どもが帽子を落とし、苦しむ。その姿はそこらにいる普通の子どものように見えた。


 子どもはしばらく震えながら男を見ていたが、突然男にぶつかっていった。

 男は身を翻し、少年の右手を打った。

 地面に音を立て、ナイフが転がる。


 男は、少年の右手を背中にひねり上げながら、オレを見て「おや?」という顔をした。


「おい。お前……この少年に憑いている邪霊が見えているな? 出て行けと叫んでみてくれないか?」


「何?」

 オレは突然の男の申し出に戸惑ったが、すぐにやってみるかと思い直した。その時、何で素直にそう思ったのかは今でも分からない。


「にゃああううううおおおおお!」

 ――真っ黒な幽霊よ。出て行けっ!


 オレの声は自分の声では無いかのように、力強くまっすぐに真っ黒な幽霊を打ち付けた。


「ギいぃぃ、ヤあぁぁッ……」

 鳴き声の直撃を受けた真っ黒な幽霊は、悲鳴を上げて引き剥がされるかのように消え去っていった。


 それまで、辺りを埋め尽くしていた瘴気が、跡形もなく消えていた。

 子どもは我に返ったような顔になり、尻餅をついた。残っていた二匹の野良猫が奥へと駆けていくのを見て、慌てて自分も逃げ出す。


(今の力は何だ!?)

「分からん」

 竜一にそう答えると、オレは突然現れた男を睨みつけた。


 九月に入ったばかりで、コートを着るには暑い季節だ。なのに、そいつは汗一つかいていなかった。一瞬幽霊か? とも思ったが、影はある。


「お前は誰だ?」

「私か? 私は……死神だ」

 男はニヤリと笑って言った。


(死神? 死神って大きな鎌を持ってるんじゃ無かったか?)

「それは人間が勝手に作ったイメージだ。まあ、それはいい。ここであったのも何かの縁だ。ついてこい」


 死神を名乗る男は、オレの頭の中だけで鳴っているはずの竜一にそう答えると、奥へと足を進めた。

 オレは何が何だか分からないままに、足を進めた。


「お前の声には力がある」

 死神が唐突に言った。

「力?」


「ああ。そうだ。邪霊を祓う力だな。まだ、弱いが……お前が力込めて鳴くと、その言葉は必ず邪霊の支配する人間に届く。おそらく、人の魂がお前の中に入っているせいだろう。そのことが、お前に元々あった才能を開かせたんだ」


「邪霊って、あの真っ黒の幽霊のことか?」

「そうだ……話している間に、もう一匹の所に着いたぞ。こっちの方が危なそうだな」


 街中の路地裏で中年の男が狂ったように叫び声を上げている。中学生くらいの少女を背後から抱え、どこから持ってきたのか包丁を振り回していた。


 背中には真っ黒な邪霊がべったりと貼り付き、男と一緒になって耳障りな叫び声を上げている。


「何だ!? こいつはっ?」

「正真正銘の邪霊憑き。それも大分魂を浸食されたヴァージョンだな……」

 死神がオレたちに言った。


 ここで、ようやく最初の話に繋がる。オレはこうして、竜一と死神と出会い、目の前の狂人のような邪霊憑きと戦う羽目に陥ってしまったってわけだった。


 途中の詳細は既出なので端折はしょるが、今は、オレが邪霊憑きに鳴き声を浴びせ、竜一が霊撃百裂弾とやらを食らわし、その隙に囚われていた少女は逃げていったというところだった。


「ギギッ、グぉウぅぅ……」

 竜一の攻撃で壁にしたたかにぶつかった男の背では、真っ黒な邪霊が苦しみの声を上げていた。


 オレは四肢を踏ん張ると、大きく口を開けた。


「にいいやああっ! やあああうおおっ!!」

 ――さっさと外れろっ! そいつから出てけっ!!


 思い切り出した鳴き声が、邪霊に直撃する。


「ギぃイぃヤぁぁーッッ!!」

 邪霊は悲鳴を上げながら散り散りに引き裂かれ、空中に消えていった。中年の男は気絶し、その場に崩れるように座り込んだ。


「さすがだ。やるな……」

 死神はそう言うと、オレの背中をぽんと叩いた。

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