Dord

キャベツ

第1話

「ふふふーん♪ ふふっふーん♪」


 曲名の思い出せない鼻歌を奏でながら、何もない筈の宙を見上げる。顔が存在しないはずのソレと目が合った。



 母が遂に仕事の拠点を海外に移した。そうでなくとも母は今まで一年のうち九ヶ月程を海外で過ごしていたし、日本にいる残り三ヶ月も丸々家に居たわけではないので俺も拓人も「仕方ないか」という諦観というよりは納得に近い感情を持ってして生まれ故郷を離れることにした。

 とはいっても母について海外に行くわけではない。俺と拓人は共に入学したばかりの学校に半年でサヨナラを告げて母の生家がある広島の片田舎に世話になることになった。



 新幹線で新横浜から広島まで三時間弱。そこまではよかった。そこから鈍行列車に乗り換えて揺られること三十分。七月の真昼の弱冷房車は俺たちを含めても八人しか乗ってないなかった。一つ、また一つと駅を通る度に人は減り、もう乗客は俺たちしかいない。それにも関わらず満員電車のような圧迫感を受ける。

 目的の駅に近付いて、拓人の手を引き席を立つ。立ち尽くすソレらの隙間をすり抜けるようにしてドアの前に移動した。


 電車は上下に左右に揺れながら緩りと速度を落として完全に停止する。ドアが開いて電車とホームとの十センチあるかないかの隙間から伸びでる手を蹴飛ばして駅のホームに降り立つ。爆音が過ぎるセミの鳴き声、何処からかする線香の香り、夏が俺たちを待ち構えていた。


「ねぇ兄ちゃん、田舎だね」

 電車の扉は閉まってソレらは次の駅に向かう。俺は横に並び立った拓人に少し目を向ける。拓人の言葉は不服というか不満の色があった。

 無理もないか。ここに来るまでに見えた車窓の風景は顕著で、最初ビル街だったのから徐々に建物同士の間隔が拡がり、直近三十分は山間部の森林と田園とが交互に続いていた。


「田舎だな。…でも川とかあるし、カブトムシだって取れる。駄菓子屋もあるしコンビニも一応ある。七歳児がこれ以上何をお求め?」

「といざらす」

「…誕生日とかクリスマスが近付いたら連れてくよ」

 俺は拓人の頭をキャップごと乱暴に撫でて歩き出す。

「よーかい、いる?」

「田舎だし、そこら中にいるんじゃねーの?」

 切符を改札に食わせて駅を抜けた。高く笑う夏日影を遮る雲はない。嫌になる程の青天だった。



 小さい駅に案内図は必要ない。すぐ目の前に錆びたバス停が寂しく佇んでいる。元は赤かったのだろうか、限りなく白に近い薄桃色のベンチに拓人を座らせる。不埜村へ向かうバスは予定ではあと十分。まぁ田舎なので信用はできない。


「拓人、喉渇かないか? 何がいい?」

 俺はすぐ側の自販機の前に立って拓人に訊く。拓人は少し考える素振りをして、目線を手元に移して小さく呟いた。

「たんさん、たんさんのーシュワシュワするやつ」

「オレンジ味がいい? グレープ? コーラもあるよ」

「グレープのやつ」

 五百円玉を突っ込んで光るボタンを二つ押す。ガコンと音が立て続けにして、しゃがみこんで釣り銭と二つ重なって詰まり絶妙に取り出し難くなった缶、ドクペとファングレをを取り出す。拓人の隣に腰掛けて、ファングレのプルタブを開けて拓人に手渡す。


「ありがとう」

 拓人が飲み始めるのを見て俺もプルタブを開けて缶に口をつける。薬品みたいな匂いが鼻を抜けて喉を鳴らした。


 飲み終えた缶をゴミ箱にダンクすると、意外にも路線バスは定刻通りに着いた。ドアが開くと車内の冷気が身体を迎えて心地いい。拓人を先に車内に入れる。


「拓人、乗車券取って」

 不埜鴫村行きの路線バスは本数が少ないが利用客が少ないわけではないらしい。いや今日が特別多いだけかもしれない。

 黒いスーツや和服に身を包む人々が談笑する側を抜けて乗客のいない後部座席目指して車内の通路を行く。拓人は一番奥の窓側の席を陣取って降車ボタンを見つめていた。

「次は“ふのしぎ”って運転手さんが言ったら押して」

「うん、ふのしぎ、ふのしぎ……」

 車内の様子に目をやれば、誰も彼も何処も彼処も穏やかに笑いながら何か話をしている。何がそんなに可笑しいのか聞き耳を立てるが不思議と何も頭に入ってこない。音は確かにしているし、彼ら彼女らが歓談しているのも間違いない。時折耳が捉えた言葉は綺麗な標準語だが、しかしやはりと言うべきか内容は理解できない。或いはただ日本語の単語を適当に羅列しているだけで本当に中身のない会話をしているのかもしれない。諦めて外の風景を眺める。山林、田園、住宅街、車内の賑やかさをBGMにして移ろう景色に現を抜かす。


 いくつかのバス停で停車するが、ドアは誰を乗り降りさせるわけでもなく一度開いては一拍も置かずに閉まる。わかりやすい山中に入って傾斜のきいた道をゆく。山林の間に敷かれた道を暫くするとバスは橋に差し掛かって右手にダムが放水しているのが見えた。


 橋の丁度中間くらいに来ただろうか、やっと違和感に気づく。肌が、鼓膜が痛みを感じる程に静かだった。視線を車内に戻す。俺と拓人以外の乗客たちが黙祷を捧げている。手を合わせたり、ただ下を向くように頭を下げたり、堂に入っているように見える。拓人に目をやるとじっとして窓枠についた降車ボタンを睨んでいた。

 刹那にも数時間にも感じた橋を渡り終えて車内に賑やかさが戻る。うふふ、あはは、と笑い声だけ聞こえるが相も変わらず何を話しているのか分からない。


「次はー終点ー。不埜鴫ー、不埜鴫ー」

 拓人が人差し指でボタンを押し込む。

「バスが停車してからー、席をお立ち下さい」

 俺は財布を開いて小学生料金を拓人に手渡す。

「落とさないようにちゃんと握って」

 俺はその倍の小銭を取る。バスは止まったが誰も立ち上がりはしない。拓人が立ち上がり俺も後を追うように立ち上がって乗車券と小銭を支払う。

 二人してバスを降りた。此処が終点の筈なのに誰も俺たちの後に続かず、バスは扉が閉まり走り去っていく。一陣の風が着ていたTシャツの裾を揺らした。

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