10月29日

「お願い健ちゃん!やめて、落ち着いて……ねぇ!何があったの?私なら何でも話聞くよ」

涙を堪えて夫を諫めようとする沙羅に、健人は我も忘れて暴力を振るった。


二人のお揃いの皿、美しい思い出、彼女の血


彼の拳はそれらを壊し、大きな音を立てて落ちていく。


恐れおののき、遂に涙を流す沙羅を見てようやく我に帰ったとき、彼は既に自分がこの世で最も醜い獸になったことを悟った。決して誇張などではない、文字通りの怪堕物だ。


靴を掴みドアを蹴り開け10階から階段を掛け降りる。そうして、ただただ夢中で走り続けた。体にぶつかる向かい風にこの記憶を消し去ってほしかった。


狭くとも、二人の幸せで満ちるはずだった1005号室を振り返って見ること無く、彼はひたすら走った。

ーー出来るだけここから遠い場所へ、ここじゃないどこかへ


すっかり息が上がった彼はついに膝に手を付き、しゃがみこんだ。そうして顔を上げると目の前には小さな見知らぬ公園があった。近くには線路が通っている。

「ここなら見つかりはしないだろう」

そう呟き、彼は中に入っていった。


古い木製のベンチに座り、自分の醜さを改めて感じた。

ーーこれならまだ走っていた方が良かった

そうは言っても彼にそんな体力は残っていない。力無くベンチに座り、自分を受け入れ、ほんの五分前の出来事を思い返す他は無かった。

突然のリストラ、再就職失敗、

情けなくて仕方なかった。

ーー本当に殴ってやりたかったのは自分自身だ。こんな情けない自分に一発浴びせてやりたかった。だが、俺はその身代わりに彼女を使ったのだ。もしも、俺が誰かに襲われそうになったとき、俺はその時もきっと彼女を身代わりに使うのだろう。つくづく最低な男だ。汚い、醜い奴だ


秋の夜の冷たい風が彼を強く責め立てる。

ーーそうだ。今夜はこの風の叱りを受けながら一晩を過ごそう。もう身の安全などどうでもいい。なんならどこか、どこか知らない場所に連れてってくれよ


そうしてベンチに寝転んだ。風に吹かれてきた新聞紙を掴み布団代わりにする。

「まるでホームレスだな」

いや、既にホームレスか

そうしてまたため息をついた。破れた新聞の見出しには「明日、世紀の天体ショー」と書かれている。見上げた夜空に散らばる星がまた、彼には目障りだった。青、白、青、赤、白。色とりどりの星を見ると床に落ち、粉々に砕けた食器を思い出すのだ。

ーー風に責められ、星は嫌がらせか、

つくづく自分勝手に捉える自分に対して「いい加減にしろ」と吐き捨てるように呟いた。今夜は全てを受け入れる他はないのだから


諦めたように空を見上げ、そして目を瞑る。だがすぐに目を開けた。あまりの寒さでじっとしていることが出来ない。薄着で飛び出して来たことを健人は少し後悔した。体を動かそうとベンチから起き上がり噴水がある方を向く。

「なっ!…」

それはいつの間にかそこに現れていた。呆気に取られる健人に対し、それは小ぶりながらも重厚な存在感を放っている。木造の建物の真ん中に一つの入り口があり、そこは暖かな光で溢れている。健人はその入り口に近付いた。ここを通れば、別世界に行ける気がした。


ーー今いる場所から逃げられればそれでいい。過ちを犯した俺が知らない、俺のことを誰も知らない、そんな場所であれば俺は何処にでも行きたい


さっきまでは北から吹き荒れ、彼を責め立てていた冷たい風はいつのまにか彼の背中を押す追い風に変わっていた。まさに彼が中に入ろうとしたその時、にわかに光が強くなり、あまりの眩しさに思わず彼は目を瞑った。その時、自分の体がわずかに宙に浮いた気がした。






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