仮面の魔法が終わるとき
郡冷蔵
本編
第一章 敗けて北げる
第1話 うだつのあがらぬ月曜日
「はぁ……」
図書館の机の上は、水面のように冷たい。
あらゆる現実に疲れ切ったわたしは、ただいま絶賛べったりと机に頬を貼り付けている最中にあった。
顔の下でくしゃりと潰れた髪の一房から、枝毛がちょこんと跳ねているのを目にして、さらに気分が落ち込んでいく。黒い髪はこういう不出来ばかり目立つようで、嫌いだ。
半ば惰性で魔導書をぱらぱらとめくってみるが、当然頭になんか入ってこない。
もう帰ろうかな、なんて。帰れないけど。
「フィオーレさん?」
「ぴゃあぅっ!」
背筋に氷を突っ込まれたような衝撃のまま、姿勢を正す。
対する反応は深いため息だった。
「情けない悲鳴ですこと。腑抜けた格好で腑抜けた顔を衆目に晒すのは貴女の勝手ですが、わたくしの頼み事はもう終わったのでしょうね?」
略式の外套、その下にはしっかりした縫製の詰襟、膝上丈のスカート。わずかに覗くソックスと、それを覆い隠す背の高いブーツ。魔法学園の制服だ。それに加えて、腰にはマナタイト剣と、主に授業でノートとして用いる
そして、古くから魔法使いには必須の装備である、両手の手袋。
身に着けているものはわたしとほとんど同じはずなのに、朝、鏡を見るときとは、受ける印象がまるで違う。
なにせ中身が違うからだ。
乳白のブルーブラッドよりもさらに一回り色素の薄い、病的な儚さを思わせる肌と白い髪。唇やまつげも同じように存在感が希薄で、鮮血色の瞳だけが爛々と輝いて見える。
まるで凍てつく氷雪の奥に隠された罪深の果実のような、そんなひとだった。
「す、すみません、イザベルさま。難航してまして」
再びのため息とともに隣の椅子が引かれると、ふんわりと金火草の香水が香る。
イザベル・リンデ・イナスチア・ノルボース。
この王立魔法学園から、要するに王都からそう遠くない位置に広大な領地をもつ、大魔女リンデの血を引くノルボース領イナスチア家の長女。学園でも指折りの、名家のご令嬢だ。
それに比べてこちらのララベル家はといえば、辺境貴族というのもやや過大評価なくらい。領土的にも歴史的にも、ちょっとばかり裕福な平民というほうが正しい紹介になるくらいの、なんちゃって貴族だ。領地こそ持っているが、広くもなければ何かがあるわけでもないし、むしろ不名誉と取られてもおかしくないくらいだ。
それにそもそも、わたしはあまり自分が貴族だということを積極的に名乗ってはいない。もともとの無名さも相まって、二か月たったいまでも、きっとわたしの本名を知らない学徒のほうが圧倒的に多いだろう。いずれにせよ、自明の理として、由緒正しき貴族家の皆々様がひしめく当学園においての立場は、非常に低いのだった。
騒がず目立たず無理をせず、のらりくらりと日陰暮らしをしていこうと思っていたのもつかの間の話。なぜだか入学早々に目をつけられてしまい、わたしは唯一の生存戦略として、彼女の取り巻きとして学生生活を過ごすこととなったのだった。それはもう、へこへこと。
さて、そんなわたしに課せられた今日の難題はというと、先週末の大型魔法演舞、輪竜冠にて、万能の魔女ソーマが使用した魔法の数々、そのメカニズムの参考になりうる本を探し出せ、というものだ。
が、当然そんな都合のいい本があるわけもなく、わたしは途方に暮れていたのだった。
そんな魔導書があったらいまごろベストセラーだ。ソーマの話題性は、そういう領域である。
「とりあえず、ソーマさんが輪竜冠で使用された魔法は、こんな感じです」
偶然、週末に街で買っていたキングマジックジャーナルの号外を差し出す。一面を飾るのは、もちろん輪竜冠を戴いたソーマさんの記事だ。彼女が初戦から決勝までに用いた魔法の数々も、事細かに記載されている。
とはいえ、その詳細のほとんどは記者たちの憶測で、お世辞にも正確とは言いがたいが。
「それはとっくに読みましたわよ。そうでなく、魔法の設計とか、欲を言えば弱点とか」
「え、えぇ……」
そんなこと言われても。
本当に、軽く調べて解明できるような代物ではないのだ。おそらくほぼすべての魔法にかなりのアレンジが施されていて、彼女専用と呼ぶべき魔法にまでチューニングされている。
というか、そこまでやっているのだから、仮に理解したところで、陥穽らしい陥穽は軒並み潰されたあとだろう。
それをへこへこと変換すると、こうなる。
「その、なんといいますか。ちょっと、わたしの頭じゃ思いつかなくてですね」
「黙らっしゃい。あなたを無能となじるのはわたくしの役割でしてよ。身勝手に諦めることなど許しません」
ぐりぐりと額を指先で揺すられる。しかし、許されようが許されなかろうが、無理なものは無理だ。なので話をそらすことにした。
「ところで……どうして、ソーマさんの魔法を解析しようと思われたんですか? ソーマさんが冠を取ることなんて、これまで何回もあったじゃないですか。なんで今回は急にと思うと、どうしても気になって」
ソーマ・ヴィ・クライン。万能の魔女。
いまを生きる伝説の魔法使い。先日の輪竜冠を数えれば、手中に収めた竜の冠は、実に九つ。
そもそも魔法演舞というのは、一年にひとつでも冠を手にしていれば、これ以上ない出来といえるのだ。それが一年と半年で九つというのは、異常ですらあった。
加えて彼女は、わたしたちの一年上の先輩として、この学園で学ぶ二年生。魔法史に残る偉業を打ち立てておきながら、彼女はまだまだ発展途上なのだ。末恐ろしいどころの話ではない。
さて、わたしの疑問を受けたイザベルさまは、ぐっと拳を握ったかと思うと、激情のままにそれを机へと叩きつけた。衝撃と共に、机の上の本が跳ねる。
「決まっているでしょう。あの憎きソーマ・ヴィ・クラインの弱点を調べ上げ、今度こそフレザリオ様に勝利していただくために、ですわ!」
「へっ?」
「嗚呼、おいたわしやフレザリオ様。輝かしい無敗の経歴があのようなトンチキ魔女に奪われてしまうなど」
「え、えっと」
一瞬言葉に詰まる。けれど、その文字通りに透き通った肌は誰よりも興奮がわかりやすく、それが嘘であるとは思えない。どうやら変な婉曲表現とかではないらしい。
さらにそれを示すように、イザベルさまは目を剥く勢いで迫ってくる。
「貴女、ご覧になってないの?」
イザベルさまはジャーナルをひとページ捲ると、二面にでかでかと描かれた『流転の貴公子フレザリオ、万能を前に敗北す』の文字をバシバシと叩いてみせた。
「み、見てました見てました! 準決勝ですよね。フレザリオさん、残念でしたよね」
「いまいち気のない返事ですわね……。流転の貴公子フレザリオといえば、ソーマにも負けずとも劣らない注目株。それを追いかけないのは魔法使いとして怠慢です」
「……でも、今回負けちゃいましたし。やっぱり流転属性だけじゃ、万能の四属性適性には、勝てないですよね」
「……そういえば、貴女も流転使いでしたわね。その苦労に免じて許しますが、そういうことを口に出すのは、野暮というものですわ」
破壊の火、流転の水、創造の土、激化の風。魔法には四つの属性があり、人は生まれ持った適性に合わせた魔法しか使うことができない。
そして、それらの属性は決して対等な関係ではない。激化属性はその影響範囲・応用力が他属性とは比べ物にならないように。流転属性が常に力不足に悩まされるように。
あるいは、適性として現れる頻度としてもそうだ。激化属性適性が稀有なのに対して、流転属性はほとんどすべての魔法使いが二級適性以上を有している。
要するに、流転使いとは蔑称なのだ。
他の属性のように、流転に最も優れているとは捉えられない。
ロクな属性適性を持っていない、劣等の魔法使い。
イザベルさまはいまやその興奮をすっかり冷ましていたが、ふと熾火が風に煽られたかのように、再びその顔に意思を点した。
「……ああ。いいことを思いつきましたわ」
嫌な予感。
イザベルさまと反比例するかのように、自分の顔からさあっと顔から血の気が引いていくのがわかる。
そう、こういうとき、猫のようにいたずらな笑みを浮かべたイザベルさまは、いつにも増してとんでもないことを言い始めるのだ。
果たして、イザベルさまは告げる。
「貴女。ソーマに決闘を挑んできなさい」
「え、いやいやいや!」
いやいやいやいや。
視線で必死に無理を訴えてみるが、イザベルさまはまるで意に介してくれない。その嗜虐的な笑みをさらに美しく尖らせて、わたしを妖しく見つめるのみだ。
「し、私闘は禁止じゃないですか! 貴族として!」
頼みの綱である貴族作法に訴えかけてみるが、考えてみればそれは下策だった。イザベルさまはわたしよりそれを重んじているからこそ、わたしに言いくるめられてしまうわけがない。
「そうですわね。けれど、魔法演舞の練習試合であれば、何の問題もありませんわ」
「それは、そうかもしれませんけど、どうして!」
「当然。わたくしの頼み事を放り出して、ぼけーっとしていた罰ですわよ」
ついに興の乗りがしきい値を超えたのか、すっと伸びてきたえんじ色のベルベット地が、わたしの頬をぎゅうぎゅうつねり上げる。幸い、その行為自体にはさほど意味がなかったらしく、赤くなるかならないかくらいで離してくれた。
「それに、一度ソーマと相対すれば、フレザリオ様の尊さも少しは身に染みるでしょう?」
「え、ええぇぇ……」
思わず頭を抱えていると、かたん、と小箱を置くくらいの軽い音。顔を上げると、イザベルさまが椅子を机に戻しているところだった。不承不承ながら、急かされる前に立ち上がる。
「戦って、必ず何か掴んできなさい」
「……はあ。頑張ります」
とは言ったものの、何かわかるとは思えないし。
何かそれっぽいことを考えておかないと。思考をぐるぐる回しながら、わたしはイザベルさまの二歩後ろを追った。
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