いつか、麦畑で
このところの僕はスランプに陥っていた。課題の絵は提出期限が迫っているというのにちっとも完成の目処が立たない。カンバスに向かい、ああでもない、こうでもないと手を動かす。見かねた友人が、気晴らしにでも行ってこいと一枚のチケットをくれた。近くの美術館でやっている展覧会のチケットだった。
美術館は平日だというのに賑わっていた。僕は作品の前に立ち、一枚一枚と対話をする。構図、色、筆のタッチ、作品のテーマ。昼過ぎに入館したはずが、気付けば夕方になっていた。
美術館の帰りに、三枚のポストカードを買った。僕の尊敬する画家の絵だ。家に戻り、ポストカードを眺めながら酒を飲んだ。そして、いつの間にかテーブルに突っ伏して眠ってしまった。
気が付くと、そこは一面の麦畑だった。夕日に照らされた麦畑に風が吹き、金色に波打つ。その麦畑を前に、一人の男がこちらに背を向け、一心不乱にカンバスに向かっていた。男が何を描いているのかは見えないが、鮮やかな色彩がカンバスを彩っていることは分かった。
男はしばらくそうしていたが、その背がにわかに崩れ始めた。サイレント映画のように無音だった世界に、ざわざわと音が溢れ出す。僕は耳を澄ます。大勢の人の声は、その男とカンバスを中心に聞こえてくるようだった。そしてそれら全てが彼を苛んでいることに気付いた。カンバスの前で男が静かに倒れる。僕は彼に駆け寄る。男には左耳がなかった。左胸の辺りが赤く染まっている。
「このまま死んでゆけたらいいのだが」
彼は哀しみに沈むうつくしい瞳を僕に向け、呟くように言った。僕はその言葉にどう返せばいいのか分からなかった。
「僕は、……あなたの絵が好きです」
絞り出すように僕は言う。
「あなたの絵が好きです。あなたの絵が……」
男が僕の言葉をどう聞いたかは分からない。彼がゆっくりと瞼を閉じるのと同時に、風景は眩い光に包まれて消えた。
目を覚ますと、見慣れた部屋の中だった。時計はもう日付をまたいでいる。目の前には酒の入ったグラスと、三枚のポストカード。7月27日と日付の入った美術館のチケット。僕はふと気になって、スマートフォンから画家の名前を検索した。そして、その検索結果から、どうしてこのような夢を見たのかを知った。
――――1890年7月27日。フィンセント・ファン・ゴッホ、拳銃自殺を図る。二日後に死亡。
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