Ⅵ 魔法の瞬間

 キッチンの小窓から差す淡い小麦色の西日が、ゾハールの横顔を照らしている。もうすぐ日が沈むのだろう。

「それは過去か」

 視線の先は、床に横たえたフランの幻影だ。


「だろうな」

「白き炎の力だ。スヴァルト・ストーンにはこのように示されている。"白き炎が過去と現在を圧縮する。強い炎は遠い未来までもを引き寄せられる"と」


「だからって、力を強めるためだけにフランさんを魔物化なんてさせるもんか!」

「魔物と言うが、人の進化形なのだぞ」

「フランさんはそんなの望んでない」

「なぜだ? あの少女といい、なぜわざわざ退化を選ぶ?」

「進化すれば何でも願いが叶うわけじゃないだろ! ナユちゃんはバルドと生きて死にたいんだよ。魔物になって一人で百年二百年を生きるのなんて望んでない。フランさんだって……」


 そこまで言いかけて思う。本当はどうなんだろうか。

 暴走した時にあんなに苦しんでいたし、その後の苦悩を見ていたから望まないはずと決めつけていたが、本当の気持ちをフランが語ったことがあったか?


 魔物になったらお腹のことは気にせず好きな物を好きなだけ食べて、体調の心配もなく毎日過ごせる。魔法の力は意のままで、フランにとっては人生が百八十度変わるのかもしれない。

 さっき見た少年のフランは、羨ましそうに遠くを眺めていた。あれは体調が優れないせいで運動や遊びに参加できなかったのではないか。友だちと一緒に楽しめなかった過去を、もし今からでも取り戻せるのだとしたら。


「どうした? 自信が持てないようだが」

 ゾハールが意地悪く左の口角だけを上げる。


 なによりフランは、そうなればもうルゥのことなど必要としなくなるのではないか。

 ——聞かなきゃ。今度こそ。

 ルゥは深呼吸した。


「いいか。あんたの望みにフランさんの力が必要なら、おれからも頼んでみる。だからもう、無理矢理捕らえるのなんてやめてくれ」

 貧しい者にも、病める者にも、身勝手な者にもならず者にも対等に向き合うフランの姿を思う。

「あの執事だって、そんなに悪い奴じゃない。あんたのためにしてるんだろ」


「さっきまでの勢いはどうした? 何か策でも思いついたか」

「作戦なんかない。さっきまでは、折れた剣であんたらをやっつけるしかないと思ってたよ。でもフランさんは暴力には頼ろうとしなかった」

 そのための交渉なのだ。ならばルゥがぶち壊すわけにいかない。


 人を一方的に実験台にして何も感じない黒羽の主のことは、到底理解できないし分かりたいとも思わない。けれど、待っても誰も来ないのに灯された燭台と、ホコリがかぶってしまった皿は悲しい。


「人格が二つに分かれているあんたの苦しみがどんなものか、おれには分からない。それにフランさんを実験台にして苦しめたのは絶対に許せない。けど、執事があんたを悲しみや孤独から解放したいと思ってるのはよくわかるんだよ。悔しいけど!」


「だからどうした。私は進化を諦めぬ。白き炎も手に入れる。魔法の力は人のままでは年齢と共に枯渇していくものだ。このままでは白き炎が近い将来失われてしまう」

「だからどうした⁉︎ そっくり返してやるよ。魔法を失ったって、フランさんはフランさんのまま変わらず生きていくんだ。それにあんたが本当に欲しいのは進化じゃなくて、人を招いて大勢の食卓を囲むことじゃないのか?」

「違う……」

「あんたが失った過去は、家族か? 友だちか?」


 ゾハールがカッとひび割れた赤目を見開き、台に置かれていた包丁差しから一本取り出す。よく研がれた刃が西日を受けた次の瞬間、ルゥの眼前へと迫る。

 すんでのところで顔を傾けて避けると、背後の壁に突き刺さった。


「あっぶねぇな!」

 バランスを崩して床に手をつくと、さっき横たえたフランの幻影がいた。

 産まれつき容姿には恵まれているし、生家はきっと裕福なのだろう。知識教養に加えて、十代で火葬場を買い取り起業する気骨など、フランはルゥには無い多くのものを持っている。

 しかし垣間見た過去は、決して華やかなものではなかった。フランにも、そして黒羽の主にもやり直したい過去があるのだ。


「手に入らなかった過去を取り戻したい。おれだってそうだし、きっと誰もがそう思わずにはいられない。あんただけが特別なわけじゃない。けどな、おれはやっぱりフランさんには、過去のための進化なんてしてほしくないよ」

 ご遺体の過去には触れないのがフランだ。過去というものを通して人を見たりしない。ルゥのこともそうやって選んで、認めてくれたのだ。


「あの日からまだたった二ヶ月なんだ。進化の過程で圧縮されたら、きっとフランさんの中にはおれなんて粒ほどにも残らない。忘れられてしまう寂しさは、あんたになら分かるだろう?」

「黙れ。お前などに何が!」


「フランさんはあんたの悲しみだって分かる! あの人はずっと一人で魂の最期に向き合ってきたんだ。どんなに取り戻したくても決して叶わない、数えきれない喪失に立ち会ってきたんだよ」


 横たえたフランの顔にかぶさった、緋雨で赤く染まった髪を後ろに撫でつける。真っ白な顔は細く目を開けていて、ルゥの目の前で倒れたあの日と同じく、まだ働こうとしているようだ。


「名前も知らない死者と遺族のために、こんなになるまでする人なんだぞ。だからフランさんを元気にするのは、おれの使命なんだ。フランさんのためなら、おれはあんたの実験台にだってなるし、その結果、もし魔物化したとしてもかまわない」

 ゾハールがもう一本の包丁を取り出し握る。しかしルゥはもう、拳銃で反撃しようとは思わなかった。


 たとえ退化と言われようとも、遠回りでも、ガスストーブの火で丁寧に湯を沸かす時間を共に過ごしたい。

「だから頼む。フランさんを返して」


 包丁を握るゾハールの手が、わずかに震えている。乾いた赤目が食器棚の横の壁をちらりと見た。

 はっとして斧を握りしめると同時に、ゾハールの手からカランと包丁が床に落ちた。

「そこかっ!」


 斧を振りかぶって壁にめり込ませる。苦労して引き抜いて、もう一度思い切り打ち込む。すぐに息が上がるが、気合の声と共に振り下ろすと、五回目で灰色の壁がボロボロと崩れ始めた。更に繰り返すと、中にふわんふわんの白金髪が見える。

 斧で壊して手で壁を引きはがす。無我夢中で崩していく。すると冷蔵庫の扉を開けた時のように、フランの体がこちらへ倒れ込んできた。


「フランさんっ! フランさん! 生きてますか⁉︎」

 抱き止めると今度はちゃんと体温があるし、閉じた瞼が少し動いている。本物だ。しかし黒い斑点が顔にまで広がっていた。


 仰向けに寝かせると、「これを飲ませろ」とゾハールが鼻をつまんで顎を上に向かせる。赤い液体を口の中に流し込む。フランの喉仏が上下した直後、ガバッと起き上がった。赤い目を全開に剥いている。


「ぅえええっ、まっず! なにこの味! 吐きそう。ヴエェッ」

「吐いちゃダメですフランさん堪えて!」

「うぶ……みず……」

 ゾハールが銀のカラフェを差し出すと奪い取り、直でがぶ飲みだった。それからようやく大きな息をつく。

「どうにかならないのこの味……。拷問だよ」


「フランさん、どこか痛くないですか。もう苦しくないですか?」

「うん。手足と顔が痺れてるけど苦しくはないよ」

「よかったぁ。ほんとによかったあ」

「よく僕を見つけてくれたね、ルゥ。また命を救われたよ」

「おれはフランさんの秘書兼料理人ですから」

 フランは小さく頷いて、笑った。


「あの、さっきフランさんの過去が見えたんですけど。もしフランさんが進化したら——」

「え。僕の過去? なにそれ。一体何を見たの?」

「小さい頃とか十代の頃とか」

「じゅっ⁉ 十代の何を見たのさ⁉ ねぇ⁉ ちょっとゾハールさん! なんて事してくれたの⁉」

「? なんのことだ?」


「ルゥッ! 僕の黒歴史を見て、それでどうするつもり?」

「おっ落ち着いてくださいよ。どうするって、フランさんには、体調のせいであきらめてきた事やできなかった事があるんだろうなって思いました。だからもし魔物に進化したら、もうそんな思いしなくて済むんじゃないかなって」


「それだけ? ほんとに?」

「はい。ところで黒歴史って何ですか?」

 ニヤッとしたルゥに問われ、自ら墓穴を掘ってしまったことに気付いたのだろう。うっすら赤面して、下からじとっと見上げる。


「教えないよ! じゃあ僕からも聞くけどね。僕の料理を作るの、本当はイヤになってるんじゃないの? ひどすぎる偏食だし、すぐ残すし」

「え、どうしてですか?」

「さっきゾハールさんに散々言ってたじゃない。こんな面倒くさいヤツに食べさせられるもんならやってみろ! って」

「もしかして気にしてたんですか?」

「気にするよ」

 そうだったのか。気づかなかった。


「そりゃ、フランさんが何でも食べられるようになってくれたら嬉しいですよ。健康になるでしょうし」

 けどそうなれば、おれなんかよりもっと腕のいい料理人を選びますよね。

 そんなルゥの沈黙を、フランはすくいとってくれる。


「僕はいつも、自分が何を食べたいのか分からないんだよ。食べたいものなんてずっとない気がする。でもルゥの料理を口にすると毎回、あぁこれだったんだなって感じるんだ。だから今のままがいい。中途半端な半魔でいるよ」


 胸がいっぱいになった。まるで天使の白き炎フランベルジェを灯されたみたいで、嬉しくて体が熱くなる。このまま溶けてベルジェモンドになってしまうかもしれない。


「おれはこれからも作り続けますから。だから今のまま、偏食でワガママなフランさんでいてくださいね」

「一言余計だよ」

 斑点が薄くなった手で、天使がルゥのくせ毛をくしゃくしゃにかき回した。

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