尾行の末

そうざ

The End of Trail

 夫は、樹海を貫いて伸びる小道をよろよろと歩き続けていた。

 背広に革靴という軽装で、片手にスポーツバッグを提げている。場に不似合いな恰好は、時折、擦れ違う観光客を訝し気に振り返らせた。

 まだ昨夜の事を気にしているのだろうか。

 確かに、あんなに激しい喧嘩は結婚以来、初めてだった。私も我を忘れて興奮してしまい、結局どんなかたちで終息したのかもよく覚えていないくらいだ。

 翌日――つまり今日の午後、夫が外出する気配を感じた私は、着の身着のまま後を追った。夫の後ろ姿には何か悲壮感のようなものが漂っていた。私は声も掛けられず、唯々密かに夫の後を追い続けるしかなかった。

 ――どれくらい歩いただろう。

 日は傾き掛け、観光客の影もすっかり消えた頃、前方を黙々と歩いていた夫が不意に足を止めた。道沿いのにじっと視線を注いでいる。

 やがて、辺りをきょろきょろと窺うと、何かを決心したかのように森の中へと足を踏み入れた。

 私は心の中で、やっぱり、どうして、と同時に呟いた。夫はそういう心積もりだったのだ。

 私は後を追った。が、鬱蒼とした森を眼前にした途端、足がすくんでしまった。薄暮の頼りない光も手伝い、森全体が禍々しい妖気を発しているかのようだった。それは何人なんびとも二度と帰れぬ奈落へと誘う、とば口に見えた。

 木の間に白く浮かんだ夫のワイシャツがぐんぐんと闇の彼方へ沈んで行く。その足取りにはもう何の迷いも感じられない。

 樹海には未だ発見されていない数多くの遺体が眠っていると聞く。夫は亡者達にそそのかされてしまったのか。

 助けを呼びに行く猶予はないだろう。私は再び怖ず怖ずと足を踏み出した。

 そこは一歩進むのにも難儀する世界だった。茂り合った樹木が暮れ掛かる光を更に遮り、膝の辺りまで伸びた下生えと至る所に横たわる苔生した朽ち木が執拗に行く手を阻む。

 一方、夫はそんな足場の悪さを物ともせず、道なき道をぐんぐんと進む。まだ私の存在に気付いていないようで、容赦なく距離を引き離して行く。

 不安、情けなさ、悲しみ――色んな感情が渦を巻いた。私から謝って仲直りしよう。喧嘩の種が何であれ、自殺を決心させるまで夫を傷付けた私が悪い。こんな場所に長居は無用だ。早く帰りたい。一緒に帰りたい。今ならまだ幾らでもやり直せる。

 堪らず夫の名を叫んだ――筈だった。

 私の声は響かなかった。何度、試みても声が出ない。絶え間のない恐怖心が声帯にまでこびり付いてしまったのか。せ返るような草熱くさいきれが周囲の空気を湿らせ、音の伝達さえ許さないのか。

 不図、足下あしもとの草に赤い染みを見付けた。それは、夫の道程を指し示すかのように点々と続いていた。

 直感的に胸騒ぎを覚えた。染みの一つを指先で拭ってみる。ぬめぬめとした感触が悪寒となって背筋を走った。

 再び夫を追う。携えたバッグの底が赤く染まっている。そこから断続的に液体が滴っている。夫は気付いていない。私はサンダルが脱げるのも気にせず、必死に駆け寄って行った。

 夫は何の為にここへやって来たのだろう。

 喧嘩の結末はどんなものだったのだろう。

 何故、私は口が利けないのだろう。

 遂に追い着いた私は、必死に夫の肩を掴んだ。夫は反射的に飛び上がり、草叢に派手に倒れた。その勢いでバッグが転がった。夫は私を見て驚愕の形相になり、悲鳴を上げながら漆黒に塗られた森の深部へと逃げ去ってしまった。

 私はもう夫よりもバッグの中身の方が気掛かりで仕方がなくなっていた。好奇と不安とに駆られた私は、バッグのジッパーを勢い良く引いた。辺りはほとんど暗闇に支配されていたが、私にははっきりと中身が判別出来た。

 蝋細工のように血の気のない私の頭部が、半開きの目で虚空を見詰めていた。

 私はそれを愛おしく抱き締めた後、本来あるべき箇所ところにゆっくりげた。

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尾行の末 そうざ @so-za

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