『星の在処』

プロローグ 


 そしてまた今宵も仕事に出る。

 午前零時。それが私の始業時間。同僚と共にオフィスを離れ、今宵の対象「A-15」エリアを目指す。太陽のもとに寝静まり、月華で目を覚ます区画、A-15。別名を「ベースの寝室」と言う。

 ベース、それはこの国の階級の一つで、名前の通り土台部に位置する。階級は人々の間に実在する、恐れにも似た差異。決して越境することのできない壁だ。

 私は彼らを見守り、迷うものがあれば再生へと導く任を負う「サテライト」という役人。本来はベースの管理監督、並びに厳格な更生指導を求められているのだが、私の所属するチームは敢えて「見守る」と言う立場を取っていた。望んでベースに身を寄せた人々を、それ以上追い込む必要があるのだろうか。

 そう。ベースは他の階級と異なり、自ら望んで同化する、志願制の居場所。



 パトロール専用車両でA-15に向かう途中、同僚が言った。

「また増えてるらしいな」

「ああ、聞いてる。若年層も増加傾向にあるとか」

「そうだな。どうしてなんだろう」

 ハンドルを握るその手に力がこもる。

「どうして、手を差し伸べる人が少ないんだろう」

 私は何も答えなかった。

 かつて手を伸ばした先で見た後悔に、口を封じられていた。


 駐車場に車を置き、いざ現場へ。深い時間にも関わらず沸き立つ笑声、陽気な交遊。自由奔放と形容される彼らの姿は、見ていて清々しい。慚愧の手綱から解き放たれた者は、基本的に明るい。自らが自ららしくあることを、自然に許せているからだ。


 静かなエリアを抜け、徐々に人工灯の集いへと近づいてゆく。繁華街を縁取り煌々と主張するネオン、一層際立つ路地裏の暗がり。我々は光を浴びながら、その視線は暗闇に向いている。華やかな世界の裏で、人知れず涙が落ちていないか。危険が広がっていないか。

 スーツの下に隠した防護服と警棒は、さまざまな役割を担っていた。


 途中、同僚は怪我人の手当のため車に戻って行った。猫に引っ掻かれたと泣きじゃくる子どもを背負う姿はまるで親子のよう。頼もしいと思った。

 残された私はパトロールを続け、しばらくしてから駐車場を目指すことに。見たところ、A-15の治安は好ましい状態で維持されている。


 繁華街を抜ける直前、路地裏に人影を見た。晴夜で風もない春宵に、フードを深く被り足早に去る姿が気になり背中を負う。

「すみません」

 こちらの声が届かない。闇から闇へ移ろい、追っても掴めぬ姿は陽炎。

「待って」

 ようやく足を止めたとき、その人は偶然月影の中にいた。振り向き、そっとフードを下ろす。華奢で繊細な線の持ち主は言った。

「なあに」

「…………虹階にかい…………どうして、ここに…………」

 その名を読んでも反応はない。こちらの困惑に首をかしげる虹階。

「もしかしてそれ、僕の名前だった? ごめん、忘れちゃった。今はエルだから」

 言いながら歩み寄り、眼前で妖しい微笑みが広がった。

「君はこっちの人じゃないね。わざわざ会いにきてくれたの?」

「いや、私は」

「わかってるよ、スーツのサテライトくん。安心して、フードを被る理由は単純に寒いから。冷えは体に良くないだろう。それともなにかな。指導のためじゃなく、本当に会いにきてくれただけなの?」

 更に近づき、口元にかかる吐息。

「欲しいなら欲しいって言って」


 邂逅、それは後悔の裏付け。記憶の中の君は、いま瞳に映る君とは別れを告げていた。


 どうして、あのとき。




1.


 擦り寄る唇を遠ざけ、無言でその手を引いた。虹階も、抵抗せず無言で続いた。車で待機していた同僚には「栄養失調により保護観察対象にする」と体よく濁し、「対象」には大人しく後部座席に座ってもらった。


 オフィスに戻り、明るい面談室に二人きり。事務手続き上必要なカルテを作成することにした。対面して座すその表情に、不安や疑念、期待はない様子。胸ポケットからボールペンを取り出し日付と保護地を書いていると、虹階は言った。

「僕は細身なだけで、ちゃんと栄養は足りてるよ。基底保護制度、知ってるでしょう」

「ああ。嘘ついてすまなかった」

 ベースの人々は定職に就かないケースがほとんど。そこに起因する不具合を抑えるため、食事や宿泊地、治療施設などを提供し、安定的な生命維持活動を促すのが基底保護制度だった。

「君が思うより優しいんだよ。この国は」

「それは皮肉か?」

「好きに受け取って」

 水分を補給し一息ついて、カルテの作成を進める。

「名前は?」

「LLC31582-SA、通称エル。前はニカイだったらしいけど」

「それは忘れてもらって構わない。宿泊地番号は?」

「そこには行ってない。誰かの家に泊めてもらうか、秘密の屋上で寝てる」

「なるほど。普段は何を?」

「わんこ」

「説明をもらっても?」

「誰かに寄り添って生きる人だよ。別に誰でもいいんだけど、今はロイ君」

「そうか」

「他にご質問は?」

 この先の空欄を埋めることに意味はない。これまでの経験から、それがわかった。自由が味方する者に、根掘り葉掘り質問をぶつけるのは野暮というものだろう。もし、最後に聞くとしたら。

「どうして、ここに?」

「君が連れてきたから」

「失礼、質問を変えよう。何故、あのエリアに?」

 虹階は笑って言った。

「難しい質問をするね。思い出したら教えてあげる」

 それは予想通りの回答で、同時に、予想通りに私の期待を打ち砕いた。



 一般的なベースに対する印象は「逃げ道」。私に言わせれば、ときに救いになり得る道。命を諦めずに保護するための一つの選択肢だ。

 ベース、それは過去の記憶と、寿命の一部を引き換えに開かれる新しい人生。自らの階級を最下層へと下げながらも、いつかの後悔や手酷い失敗、悪夢のような失望から一切縁を切ることができる。引き抜かれた記憶は国が保管するが、返却と再装填には相当な費用が掛かるため、元の居場所に戻った人を見たことはない。

 記憶を担保にするさまは非人道的と批判されることも多いが、思い出を失っても、知識記憶の一部は引き継がれるため社会生活に何ら支障はないというのが国の見解だ。社会の通念、常識、社会性や道徳など、「良き人」として生きる最低限の機能を残すあたりが、虹階のいう「優しい」部分なのかもしれない。


「僕は誰のことも覚えてないし、過去にはもう帰れない。もし失望させたならごめんね」

 鎖骨まで伸びる長い髪を耳にかけ、微笑みという強さを見せつける君。

「ところで相談なんだけどね、護英ごえいくん」

「どうしてその名を」

 指先で名札を撫でつけ、こちらの言葉を遮った。

「僕を飼ってよ」

「どういう意味だ」

「そのままの意味。僕は君と違って誰でもない。何にもなれない。だから、何者かである君が僕を飼ってよ」

 甘い瞳がこちらを捉える。机の上に身を乗り出し、優しく頬を撫でた。

「僕の命をつかってよ。そうやって、僕をいかしてよ。君のために、そして社会のために」

「何を言って」

「ねえ、お願い」

「…………無論却下だ」

「うん。そう言うと思った」


 そのまま、虹階をオフィスの宿泊室に泊めた。翌朝起きると、そこに姿はなかった。

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