『神の器』

プロローグ


 その日は突然訪れた。


 玄関から戻った彼女はこう言った。

「アルヴァー。届いたわ」

 その手には差出人不明の乳白色の封書。堅苦しい筆致と重々しい深紅の封蝋に、祝い状の雰囲気などなく。いつかの予言通り、それは確かに届けられた。

 けれど不安などない。心配も不要。私たちはもう、決めているから。微笑みを添えて彼女を迎える。

「行きましょう。一緒に」

 答えの代わりに、美しい笑顔がそこにあった。


***


 その日をずっと、待っていた。


 朝一番の郵便で届けられた、差出人不明の封書。開封せずとも内容が分かったから、駆け足で寝室へ戻る。執事の呼び止めも聞かず、真っ直ぐに戻る。広い寝室、僕らのキングサイズのベッドの上。君はまだ夢の中。

「ルカ。起きて。ついに来たよ」

顔を背け、夢の中にとどまろうとするきみ。僕は構わず、隣で一緒に横になって思い切り抱きしめた。目を開けたまま、幸せな夢を見ている気分になる。

「わかってた。僕らは必ず呼ばれるって。幸せが、僕らを選んだんだ」


***


 何の前触れもなくやってきたそのとき。俺たちの間にはいつもの日常が流れていた。

 玄関ポストで封書を拾い、他の郵便物と併せて陸都に渡す。

「来たよ」

 それを手に取り開封し、ゆっくりと目を走らせる陸都。

「明日だって。よかった、今日の記念日お祝いしてから行けるね」

 手紙を置いて、コーヒーを味わう君。そうやって、俺たちの間にはいつもの日常が流れてゆく。定められた、そのときまで。


***


『親愛なるあなた方へ

下記お目通しのうえ、明日の然るべき時間に然るべき場所へご参集ください。



我、神の器。我に示せ、汝等の全て。

汝等、選ばれし者。もがけ、足掻け、人らしく。

汝等、試されし時。望めよ、夢見よ、求めよ全て。

汝等、選ばれし時。行け、時間ときの最果て。

以上 』



「さあ、始めましょう。集いなさい、人の子よ。星が手招くその先へ」




一話 開演 


「そう、俺は意味が欲しかった」

 その瞳が、星のように瞬いた。

「俺だけの、俺らしい生きる意味が」


***


 陸都に連れられ辿り着いたのは見知らぬ洋館。重厚な扉を押し開けると花の香りが出迎えた。それは軽やかで涼やかな、凛とした甘い芳香。広いエントランスホールの中央で華やぐ、大輪の白い百合の生花いけばな。あまりの瑞々しさと透明感に違和感さえ覚えるほどだった。ふと頭上から日が差し花弁を照らす。見上げた先にはドーム型の屋根、その中央で星型の天窓が光を呼び込んでいた。


「蓮、こっち」

 先を行く陸都の足音に迷いはなく、目の前の階段を登りながら目的地だけを見据えている。

「ねえ陸都。何でそっちだって分かるの?」

 彼は踊り場で足を止め、こちらにゆっくり振り向いた。いつもの柔らかい微笑みと共に。

「星が、導いているから」

 そう言って指し示す足元には、夜空の色を模したカーペットで瞬く金色こんじきの星々。それはエントランスドアから流れ始め、規則的な旋律で彼の行先へと流れている。陸都のそばにある綺羅星に視線が移ったところで彼は再び歩みを進めた。俺も急いで階段を駆け上る。すぐに追いついて、光で満たされた白い廊下をひたすら進んだ。


 気づくと目の前にはガラスドア。逆光で先は見えず、何の音も漏れ出てこない。陸都はドアノブに伸ばした手を止め振り返る。

「怖い?」

「どうして? 一緒にいるのに」

 その手が伸びて抱き寄せられ、交わす口づけ。しばらくの後、そっと離れる唇。陸都はそのままこちらの肩口に顔を埋めた。

「お願い。もう一度、名前を呼んで」

「陸都。大丈夫」

「うん、ありがとう。全部終わったら、また呼んでね」


 静かにドアを押し開くと、そこはまるで教会だった。光を浴びたステンドグラスが床一面を彩り、無機質な大理石がカラフルなキャンバスのよう。十字架も祭壇も見当たらないが、不思議と神々しさを内包する空間だった。

 身廊の最奥へと近づくにつれ集まる視線。右手には男女のカップル、左手に幼い双子、そして中央には謎の紳士。彼は濡羽色の仮面で目元を覆っており、身に纏う上質なスーツもそれと同色。全体的に黒色こくしょくが勢力を誇示する中、艶やかなブロンドヘアは星のような輝きを秘めて。

 薔薇窓の下、シンプルなアームチェアに腰掛け長い脚を組み、泰然とこちらの到着を待っているようだった。軽く口角を上げ歓迎を示しているのだろうけれど、全く隙のない雰囲気が妖しい。


 こちらが足を止めると同時に、彼は悠然と立ち上がった。

「揃いましたね」


 落ち着き払った、威厳のある声だった。

「候補者の皆様、結びの間へようこそおいでくださいました。我が名はアストラ。神の器の代弁者です。以後、お見知り置きを」

 恭しくこうべを垂れるアストラ。

 再び背筋を正して微笑んだ。

「前置きはこれくらいにして。本日このように御呼び立てしたのは、ご存知の通り、神の器がそう願うからです。あなた方にも新たな風を呼ぶ声が聞こえるでしょう」

 解き放たれた言葉が、静寂へと溶け込んでゆく。

「さあ。私に魅せてください。最も相応しいのはどなたなのかを。器が選ぶのは一組のみです」

 彼はこちらに手を差し伸べ言った。

「ご準備はよろしいですか」


 間髪入れずに響く、芯の通った女性の声。

「私達は棄権するわ」

「それはまた、どうして」

 彼女に視線を向けて答えるアストラは全く動じず、むしろそうなることを予期していたかのようだった。彼は続けた。

「よろしいのですか。今の言葉は、手中にある栄光への切符を破り捨てたも同然。保留も撤回も叶いませんが、本当によろしいですか」

 そばにいる男性が彼女に合図を送り、続きを引き取った。繋いだ手のひらを固く結び直して言った。

「撤回するつもりはありません。二人で生きると決めましたので」

「そうですか。承知いたしました。ですが」

 アストラの声に呼応するように、空間が波打ち始める。床が、薔薇窓が、全てが色を滲ませ形を無くし、溶け合っていく。遠くにいるはずのアストラの声が何故か耳元で聞こえた。

「全て魅せてもらいますよ。それが代弁者わたしの使命ですので」

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