第七話「雑司ヶ谷の悲劇」

 女人にも高等教育をするという歓喜堂が怪しいという事で、女奉行所と町奉行所の合同で捜査をする事になったのだが、同じ頃千寿は別件で雑司ヶ谷を訪れていた。


 言い交した者がありながら、将軍から側室にと望まれた大奥の腰元まつの件である。


 まつの相手である平蔵は、この日故郷の村から江戸に出てきている。


 二人で相談し、吉宗の意向に従うのか、それとも断るのかを決めるためである。


 まつを理由をつけて外出させるのはそう難しくは無かった。まつは側室にと望まれていっるが、生まれは百姓であり身分は御目見え以下だ。この身分の者達は年季奉公であり、定期的に宿下りが許される。まつはそれをまだ使っていなかったので、当然の権利として外に出て来た。


「まさか、滝川様まで来るとは思いませんでしたよ」


「当然の事、何か問題が有っては困るのでな」


 まつの監視役として、御年寄の滝川がついて来ていた。城から外に出る事に関しては、まつよりも滝川の方が本来難しい。御年寄をはじめとする御目見え以上の女達は、その生涯を城で過ごす事になる。外出出来るのは公務か自分や親が重病の時だけであり、例え休みであっても外に出る事は許されない。


 一応今回は将軍生母である浄円院へのご機嫌伺いと言う名目が立てられている。そのため、千寿は女奉行所で隠居状態にある浄円院を連れて来たのだ。


 そして、雑司ヶ谷の鬼子母神のすぐ近くの茶店を陣取り、まつと平蔵に話し合いをさせているのだ。


 女ばかりの集団だ。おそらく周囲からは奇妙に思われているに違いない。


「千寿殿、まつの相手――平蔵には何か言ってありますか?」


 滝川は大奥勤め時代の千寿の上役にあたるが、丁寧な態度で尋ねた。いくら大奥で滝川が権勢を誇っているとはいえ、今の千寿は幕府の公的機関で奉行職にある。その立場を尊重しない訳にはいかないのであった。


「特に何も言ってはいません。ただ、自分達の思いを良く考えて結論を出す様にと。それにもしも上様の居にそぐわない結論だったとしても、その時は私から上様に話をつけると言ってはおります」


「それは何も言ってないとは言わないのではないか? まあ良い。私も同じ様な事をまつに言ってある」


 大奥を取り仕切る立場にある滝川としては、まつが何を考えていようと公方の意向を優先させるのが賢いやり方だ。


 それでもまつの気持ちを何とか汲んでやりたいというのは、滝川の矜持なのであろう。


「すまんねぇ。あの子が余計な事を考えたせいで苦労をかけて。もしも何かあったら、私からも言い聞かせるから」


 千寿と滝川の会話に入ってきたのは、吉宗の母である浄円院だ。吉宗が今は天下を統べる将軍であろうと、母としては悪さをしでかした子供のために頭を下げるのと同じような感覚なのかもしれない。それに、浄円院はその身分の低さから、紀州徳川家の男子を産んだ後もその扱いは決して良いものでは無かった。そのため、まつが側室に上がる事に対してもあまり良い事だとは思えないのかもしれない。


「ところで、まつ達が駆け落ちするなどと言い出したらどうしたものか」


「出した結論は尊重するとは言いましたが、流石にそれは止めねばならないでしょうね。二人とも家族の事があるので、そんな事は言わないと思いますが」


 不安になる周囲をよそに、まつと平蔵は話し続けた。だが、結論はまだ出ない。


 気持ちの上では二人で添い遂げたいのであるが、理屈では将軍の側室になった方が二人にとって得になる事も理解している。世の中の仕組みをよく理解している、感情に任せる様な人間でないからこそ二人は悩んでいるのだ。


「ところで、もしもまつが中臈になる事を拒否した場合、別の者を推挙せねばならぬのだろうか?」


「さて? どうなのでしょうね。そもそも上様がまつを側室にすると言い出したのも、どれだけ強い御意向なのかも分からないのでしょう? まさか、本当にまつの名前を尋ねただけではないのでしょうが」


 吉宗の女人に対する態度は、中々複雑なところがある。


 大奥の美女五十人を解雇すると言い出すあたり、あまり美醜で判断してはいないと言えるが、だからと言って全く女に興味が無い無欲な人間でもない。


 千寿の様な有能な者であれば、女人であっても高く評価して取り立てる柔軟さはあるが、だからといって広く女人を保護すると言う訳でもない。女奉行所の設置は認めたが、それは千寿が望み、自らの統治に良い影響を与えると判断しただけであって、思想的・感情的なものは何も無い。


 浄円院は深く瞼を閉じた。おそらく、吉宗の複雑な性格は身分の低い自分が生んでしまったため、辛い思いをして育ったためだと悔やんでいるのだ。


「何なら、私がまつに代わって中臈になりますか?」


 浄円院が悩んでいるのを見て、千寿はそんな軽口を口にした。


 千寿は文武に秀でており、美醜に拘らない吉宗にとっても魅力的に思えるはずだ。また、今の江戸城で隠然たる勢力を持つ御留守居の娘でもあり、幕政改革に邁進する吉宗にとってこれは良縁である。


 もしも千寿が女奉行として大奥を出る事無く留まっていたのなら、中臈にと望まれた可能性は非常に高い。


 だが、それを阻む重大な障害があるのもまた事実である。千寿は毒味をして倒れた影響で、子供を産む事は出来ない。


 つまり、今の軽口は自虐である。


 かつての上役である滝川と、女奉行所で千寿を含めた皆を母の様に見守る浄円院の前だからこそ言えた事だ。美湖は幼馴染だしせんも大奥からの付き合いで信頼する仲間だが、彼女らは部下である。この様な事は口に出す事は出来ない。


 もちろん男の赤尾などもっての外だ。


 話し合いが始まって半刻ほど過ぎた頃である。遠くの方から悲鳴が聞こえて来た。


「大変だ。若いのが死んでるぞ! 心中だ!」


 只ならぬ事態が起きた事を察した千寿は、浄円院と滝川に断ると声のする方へと走り出した。


 そして、人だかりをすり抜けて現場に到着すると、そこには見知った顔がある。


「千寿様、何故ここに?」


「まつの件で、この近くに居たのです。ところでこれは一体?」


 人だかりの中には、千寿の部下である美湖や、町奉行所の同心忠右衛門の姿がある。忠右衛門は検屍をしているのか、男の方の死体のそばに屈みこんでいる。


 そして、女の方の死体には、


「赤尾、もしやその方は?」


 泣き崩れる赤尾の姿があったのだった。

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