第八話「正室の切腹」
「おや、せん、どうした? そんなに急いで」
美湖は女奉行所内でこの前拾ったら娘であるおけいに奉行所内の仕事を教えていたのだが、せんが女奉行所に帰ってくるなり、挨拶も無しに走り去った事に面食らっていた。いつも元気で礼儀正しいせんが美湖を無視して行ってしまった事に疑問を感じたが、せんは千寿のお供として外出していた。何か頼まれごとをされて急いでいるのかもしれないと深く考える事はしなかった。
「美湖殿、今せん殿が奉行所の外に出て行った様ですが?」
「その様だな。千寿様に何か頼まれごとでもされたのではないか?」
しばらくすると赤尾がやって来て、美湖に問いかけた。赤尾の言からするに、せんは奉行所内に駆け込んできた後、また外に出て行った様だ。
「それが、せん殿は鉄棒を持っていたのです」
「鉄棒を? 何故だ」
せんが昔から愛用している鉄棒は削り出しで製造された総鉄製のものであり、長さ四尺、重さ三貫にもなる代物で常人ではまともに振るうことすら出来ない。だが、せんはこれを軽々と振り回し、かつては熊の頭蓋を粉砕して仕留めた事すらある。
「せんは深畠家の行列を、襲撃するつもりなのです!」
千寿が美湖達の話しているところに走り寄って来た。相当急いでいた様で、珍しく息がかなり乱れている。
「深畠家の行列って、それはつまり大名行列を襲うという事ですか? 一体どうして」
「葦姫様がお亡くなりになったのです。しかも腹を切って。吉親様をお諌めするためだったそうです」
深畠家を訪れた千寿とせんが直面したのは、深畠吉親の正室たる葦姫が、既に切腹して果てたという驚愕の事実であった。
しかも、吉親は参勤交代で今朝がた国元に出立したというのである。
家来が他家と諍いを起こした自刃し、妻もまた自決したというのにだ。
無責任極まりない態度である。この事に対し、かねてから葦姫に可愛がられていたせんの怒りが爆発したのである。
「しかし一体何故こんな事に? 深畠様は名君として知られ、葦姫様との仲もすこぶる良好だったではありませんか」
「それが実態は違っていたのです。吉親様がした事になっている施策は、全て葦姫様のなされた事であり、吉親様がなされたものは何も無いというのです」
それが吉親の自尊心を傷つけ、自暴自棄の乱行に繋がったのではないかというのが、深畠家江戸家老の推察であった。
「しかしそれはおかしいのでは? 古今の名高い君主というものは、数々の英雄豪傑や軍師を使いこなすのが常のはず。かの唐土の英雄として名高い漢の高祖や蜀の劉備が、百戦百勝の豪傑であったり、神算鬼謀の士であったなど、聞いた事もありません」
どの様な有能な士であろうと、それを使いこなせなければ宝の持ち腐れである。そして人を使いこなすというのは、自らが活躍するのよりも遥かに難しい事なのである。それ故、古来天下に名高い君主は、自分の有能さよりも家臣を如何に使ったかが知られているのである。
つまり、吉親が数々の政策を自分で考えていなかろうと、その提案された施策を認め、実行させていた以上名君と呼ばれるに相応しいはずなのだ。
何も自暴自棄になる必要など無い。
「赤尾、あなたの言うことは正しい。しかし、一つ重要な要素を忘れています」
「それは?」
「葦姫様は女人です」
「あ……」
赤尾は千寿の指摘で、一番重大な事に思い至った。
内助の功により活躍した者の話は昔から多い。山内一豊とその妻などがその代表格だろう。だが、それはあくまで妻としての範囲を超えていない。自らが君主や宰相の如く活躍する妻の話は、決して美談として語られないのだ。
もしも妻としての分を超えてしまった場合、則天武后の様に悪女として語られる事が多い。神功皇后は例外的な存在であるが、それは半分神話の世界の話だからだろう。
「つまり、吉親様はその治世が女におんぶに抱っこだったのが悔しくて、その様な行いに及んだと?」
「そうだと聞いています」
この事は、美湖や赤尾にとって意表を突く出来事であった。
美湖は若くして大奥という女が権力を握る世界に入ったので、あまり制約を深く考える事はなかった。
また赤尾は、性別関係なく能力を認める性格である。男女の差で能力を見誤るなど、軍師としてあるべき姿でないと肝に銘じている。そもそもその様な考えでないと、武勇に優れた女が集う女奉行所でやっていく事は出来はしない。
「私は井伊家にこの話をしに行かねばなりません。この様な事情で葦姫様が腹を切ったなどと知れば、井伊家の怒りは計り知れません。衝突は避けねば」
「私達はどうすれば?」
「井伊家の説得を終えれば、すぐに追わねばばなりません。馬を準備する様に。あなた達も向かうのです」
千寿の指示が終わると、美湖も赤尾も行動を開始した。
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