第七話「蔭間大名」
せんを連れた千寿は、深畠家上屋敷を訪れていた。
つい先ほど井伊家上屋敷を訪れ、上屋敷を取り仕切る井伊家の江戸家老と面会したばかりだ。
井伊家上屋敷には、情報の通り完全武装の武者達が詰めており、今にでも出陣しそうな気迫が充満していた。武装しているのは若い者が多く、井伊家の家臣団の数からすれば少数派であると予想されるのが幸いだ。もしも彼らが多数派なら既に行動を開始していたかもしれない。
井伊家は三十万石という譜代でも多くの知行を得ている大名だ。しかも、その始祖は徳川四天王とも謳われる井伊直政であり、彼の率いる赤備の伝統はまだ受け継がれている。
つまり武の面を未だ色濃く残す家風があるのだ。
深畠家二万石など、井伊家が本気で攻め寄せたならあっという間に皆殺しの憂き目にあるはずだ。
だが、それを見過ごすわけにはいかない。大名同士の争いは女奉行所の管轄ではないが、もしも戦いになれば大きな被害が出る。その時の犠牲者は男女を問わず増えるだろう。
幸い、千寿はすぐに江戸家老に面会する事が出来た。井伊家の江戸詰めの侍の中には伊吹家の事を良く知る者も多い。上屋敷を訪れた千寿を快く迎い入れてくれたのだ。
そして、江戸家老も千寿の来訪を歓迎してくれた。現在井伊家当主たる井伊掃部頭は参勤交代で国元に戻っている。その様な状況で江戸詰めの者達が他の大名屋敷を襲撃するなど江戸家老としては申し訳が立たない。
配下達の暴発を抑えるため、何か外部の力が加わる事を望んでいたのだ。
幕府の大目付辺りが介入したならば、もちろん襲撃を防ぐ事は可能だろう。だが、それでは表沙汰になってしまい、結局井伊家の失態になってしまう。流石に譜代筆頭とも言える井伊家を潰すのは困難であろうが、それでも減封や国替えは覚悟せねばならない。それだけ将軍のお膝元である江戸で兵を興す事は あってはならぬ事なのだ。
仮にこれが主君井伊掃部頭の命令ならば、家の存亡をかけて戦ったかもしれないが、今はその様な状況ではない。まあ、そんな事を大名が命令したならば、相当の心服を得ていなければ乱心したとか病気だとかの理由をつけてお押込めにするであろうが。
それはともかく、恐らく江戸家老以外にも同じように家の大事を考えた者が一定数上屋敷にいたため、千寿を江戸家老に取り次ごうとしたのだ。
江戸家老は千寿を部屋に招くなり。井伊家と深畠家の間の揉め事について語った。
先日、井伊家と深畠家の家臣同士が口論になり、結局深畠家の侍が腹を切って果ててしまった。
大大名と小大名の家臣同士の争いである。これを聞いた者は、諍いは井伊家に非があり、権勢で勝てぬ井伊家に対して一矢報いるべく小大名の家臣が腹を切って抗議したと思うだろう。
千寿もそう思っていた。
だがそれでは何故井伊家が激昂しているのか意味が不明である。
その真相を聞いた千寿は、あまりに予想外の事態であったため驚愕した。
諍い発端が、井伊家家臣による深畠家家臣への侮辱であった事は予想の範囲内であった。だが、その内容が予想外であった。
文武両道、御政道の改革の陣頭指揮をとる名君であり、側室を持たず正室への愛情を忘れぬ人物であるというのが、大名深畠吉親の世間一般での評価である。千寿もその様に認識していた。
だが実はそれは表向きの事、深畠家の改革は全て井伊家から輿入れした葦姫がやった事だというのだ。吉親の武芸の腕前だけは本当の事なのがせめての救いである。
葦姫は実家の井伊家の繋がりを活用し、有能な学者を招聘した。そして葦姫本人は性質であるため江戸を出る事は出来ず、国元を訪れた事は無い。しかし、江戸勤番の者達に様々な学問を教え込み、国元に帰ったその者達が成果を出したのである。
普通ならこの様な事は差し出がましい事だ。だが、実家の井伊家の力を恐れ、深畠家の者達もそれに口を挟む事は控えていた。そして何年かする内に葦姫による改革の成果が現れ、最早誰もが葦姫を信頼する様になったのだ。
領民たちは葦姫の手柄だとは露知らず、全ては殿様である吉親のおかげだと思っている。もちろん家臣達は皆葦姫の手柄だと思っているのだが、それを触れて回る様な事はしないし、それで領内が上手く回るのであるから満足していた。
葦姫の実家である井伊家は深畠家の実態を知っていたが、もちろんその事に口を出す者はいなかった。
ここまでは良い。
夫婦仲も円満であり吉親と葦姫の間に跡継ぎが生まれ、全てが順風満帆だと誰しも思っていた。
これまで葦姫一筋であった吉親に、変化が生じたのだ。
岡場所に繰り出す様になり、何人もの女郎と関係を持つようになった。最初のうちはある意味大名らしく、幕府公認の色街たる吉原の大見世に通い、花魁とどんちゃん騒ぎをしていた。
ここまではまだよくある話である。
だが、上品な吉原は趣味に合わなかったのか、すぐに非公認の岡場所に繰り出す様になった。
深川の料理屋、少し遠出して街道筋の旅籠屋の飯盛り女、門前町の比丘尼など手当たり次第だ。
吉親の有様は井伊家にも伝わったのであるが、それでも井伊家から口を出すような事は無かった。
真面目だった男がふとしたことで遊びにはまるのはしばしばある事だ。遊び金が財政を傾ける事が無ければ、それに口を出す事もあるまい。それに、もしも井伊家から深畠家に詰問の使者など出せば、葦姫に吉親の惨状を知られかねぬ。
その様な判断からしばし様子見としていたのだが、吉親の遊びは更に酷くなった。
女相手では飽き足らず、蔭間茶屋に通うようになり男を相手にするようになったのだ。戦国の頃なら男同士で関係を持つ衆道は珍しくなかったとは言え、それは主従関係とか朋輩同士の関係とか様々な要因がある。単に性欲を満たすだけで男を相手にするのは、武家といえども珍しい話だ。
しかも、
「吉親様が、蔭間茶屋で客を取っているですって?」
これを聞いた時、驚きの余り千寿は珍しく大きな声で聴き返してしまった。
これは完全にやり過ぎである。幕府に知られた場合大名に相応しくないとしてきついお咎めを受けたとしても何ら不思議ではない。
そしてもしもそうなったとすれば、正室の葦姫は天下の笑い者になるであろう。夫が蔭間茶屋で尻を貸すとは、その女房は一体何をしていたのであろうかと。
その様な事情があったため、鎌倉河岸の料理屋で偶然両家の家臣が遭遇した時、酒が入っていたためかつい侮辱を
してしまったのだ。
「蔭間大名の家臣め」
などとだ。
そしてその事を言われた深畠家の家臣は、何も言い返すことが出来ずにその場で切腹して果ててしまった。
当然騒ぎになったのだが、駆けつけてきた町方同心に大名家同士の揉め事で、内輪で済ませたいと頼み込み、その場は何とか収まった。
だが、これを聞いた井伊家の家臣団はいきり立った。
切腹などして大事にしてしまえば、葦姫の耳に入るだろう。そしてそうなれば吉親の乱行も知る事になるに違いない。
黙って耐えておれば良かったのだと言う事なのだ。
葦姫は嫁ぐ前から家臣の中での評判が高く、深畠家に嫁いだ時は何人もの若侍が涙で枕を濡らすことになった。深畠家での葦姫の活躍や、吉親が側室を持つことなく大事にしていると聞いていたので祝福していたというのに、この様な事態になってしまったのだ。
怒りに燃えるのも無理はない。
少し皮肉を言われたくらいで腹を切るというのなら、その覚悟で吉親に諫言すれば良かったのだ。
そしてこの様な事件の裏事情を知った千寿は、深畠家を訪れて何とか詫びを入れる様に説得するつもりなのである。
吉親は既に正気なのかどうか怪しいものであり、話し合いになるか分かったものではない。だが、江戸家老辺りに話をすれば何とかなるであろう。
そして葦姫に慰めの言葉でもかけねばならぬだろう。千寿もせんも、葦姫の悲しむ顔を見るのは辛いが、これも仕方の無い事である。
深畠家上屋敷の前に到着した時、屋敷の中が騒然としているのを二人は感じ取った。
「何かあったのでしょうか?」
「嫌な予感がしますね。早く行きましょう」
門番に葦姫や江戸家老との面会を取り次ぐ事を渋った。だが、井伊家江戸家老の紹介状を見せると顔色を変え、屋敷の中に入り江戸家老に会う様に言って来た。
だがその時、門番は聞き捨てならない事を言った。「葦姫は昨晩死んだ」「詳細は江戸家老に聞いてくれ」と。
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