第五話「武芸の稽古」

 女奉行所は江戸の治安や行政を司る町奉行や幕府の財政を担当する勘定奉行などと違い、恒常的な業務は存在しない。


 そのため日頃何をしているのかというと、市中の見回りであったり武芸の鍛錬などをしている。


 女奉行所は権限こそ大きいものの、それを実行するためには実力がいる。五十名ほどの勢力でその権限を遺憾なく発揮するためには、一人一人の武力が必要なのである。


 その様な訳で、この日も奉行である千寿を筆頭に、彼女らは鍛錬に励んでいた。


 素振りや型稽古を終え、稽古の締めとしてそれぞれ組を作って立ち合いを実施中である。



 女奉行所でも有数の実力者であるせんは、女奉行所でも数少ない男である赤尾を相手にしている。


「てやー! 参った!」


 正直言って、赤尾では全くせんの相手にはならない。せんが強すぎるのもあるが、赤尾が弱すぎるのだ。


 優に六尺を超える体躯のせんは、それに見合った膂力を備えている。しかも、幼少から磨いた武芸の技は、どこに出しても恥ずかしくない腕前だ。彼女が男であったなら、一流を立てて名声を得ていただろう。


 それに引き換え赤尾は、五尺足らずであり、大して鍛えていないせいか腕も胸周りも細い。よしんば鍛えていたとしても、彼の骨格からするにそれほど筋肉は付かないに違いない。これは生来のものであるため仕方のないことだ。そして、剣術には身を入れた事がないのか、その太刀筋は全く定まっていない。


 これでは巻き藁すら断ち切る事は覚束ないだろう。


 とは言え、せんに向かって臆する事の無い度胸は大したものであるし、その掛け声には気合だけは籠っている。


 軍学を修めているため、何か得体の知れない自信があるのかもしれない。


「赤尾殿、もう少し武芸に身を入れた方が良いのではないか?」


 稽古が終わり、せんと赤尾の勝負を見ていた美湖が助言をした。


 赤尾の軍学に裏付けされた知略や、中町奉行所時代の経験を活かした法令の知識は、確かに有効であり、剣の腕前が悪いからと言って侮る者は女奉行所にはいない。


 だが、一人の武士として、もう少しは武を磨くべきではないかと言う事だ。


「いえいえ、多少剣の技量に差があろうと、実戦においてその差を覆すのが軍略と言うものです。拙者にはこの程度の腕前で十分」


 これは負け惜しみの様に聞こえるが、正しい一面もある。


 例え武芸の達人であろうと、不意を打たれたり、多人数を一度に相手にしたり、疲労している時に斬り合いになれば、あっけなくやられてしまうものだ。そして、相手がどれだけ強かったとしても必勝の態勢、または有利な態勢、それでも難しければ負けない態勢を作り出すのが軍学というものなのだ。


 赤尾の軍学の才能が衆に優れている事は誰もが認めているし、相手がどれだけ強かろうと向かって行く胆力がある。彼が知略の限りを尽くせば、実戦ならば多少の技量の差を覆して敵を仕留める事が可能だろう。


 だが、それにも限度がある。


「しかし、仮に赤尾殿がどれだけ策を講じようと、一人ではせんに勝てないのでは?」


 美湖の反論にも一理ある。


 武芸の達人は、単に剣や槍の技術に優れていると言う訳ではない。真の達人は、軍学を修めた者が注意するような事も当然考慮に入れて行動する。達人の逸話に、不要な危険には近づかなかったり、余計な敵を作らない様に日頃から言動に気を付けるものがあるのは、そのためだ。


 せんはまだ若いため、真の達人の域まで達しているかは疑問であるが、ある程度の心配りは出来ている。赤尾がもっとましな剣の腕前をしているならまだしも、これだけ差があっては軍略をもってしても覆すことは出来ないのではと美湖は言っているのだ。


「いやいや、そうとは限りませぬぞ」


 自信たっぷりに赤尾はそう言った。


「例えば、あと一週間後にせん殿と勝負をすれば、勝つ可能性は高くなります」


「……!」


 赤尾の言葉に、せんは顔を赤くした。


 美湖には赤尾の言っている意味が分からない。


「そして二週間後なら、美湖殿に勝てるかもしれませんな。まあ、美湖殿は症状が重くない様ですが」


「おい!」


 自分の事を引き合いに出され、美湖にも赤尾の言っている事の意味が分かった。


 つまりは、月のもので体調が悪い時期なら勝てる可能性が高くなると言っているのだ。


 赤尾の様子には悪びれる所は無く、何らかの悪意を持っている様子は見えない。純粋に策を立てるとしたらどうするかを語っているのだろう。


 だが、流石に男が女に言うには度が過ぎた内容であるし、同僚の月のものの周期や症状を観察しているというのは、相当に変態的である。


「美湖、せん、この後、町奉行に行って情報交換をして来て下さいね。あら? 何を話しているのかしら」


 絶句している美湖に、千寿が手拭いで汗を拭いながら近づいて来た。


 町奉行所とはかつての事件を切っ掛けに、定期的な情報共有の場が設けられるようになった。奉行同士は評定の場で交流しているし、配下の者達も会う様にしているのだ。


「ああ、お奉行様、私程度の剣腕でも、一か月ごとにせん殿や美湖殿に勝てる機会が周ってくるのではないかという話ですよ。いや、二人どころかお奉行様にも勝てるかもしれませんな」


 赤尾の言葉に、それまで稽古後の熱気で騒がしかった女奉行所の中庭が、しんと静まり返った。


「も、申し訳ありません!」


 美湖とせんは赤尾の頭を掴んで地面にこすりつけ、自分達も土下座をするようにして平伏した。いや、美湖とせんだけではなく、周囲の女達も同じ様に平伏している。


 赤尾は顔面を地面に叩きつけられながら、これは単に身分が高い上役に対して不適切な発言をしたとかその様なものだけではなく、何かもっと重大な何かがあるのではないかと感じとった。


 千寿はいつも配下の者に丁寧な態度で接するし、配下の者達も千寿の事を単なる上司ではなく姉の様に親しく話しかける。それがこの様な態度を取るのであるから、よっぽどの事情があるに違いない。


「別にいいのですよ。私は執務室に戻っていますので、あなた達も遅れない様に頼みますよ」


 千寿の態度はいつもと変わらず丁寧であった。だが、辺りの空気は変わる事がない。千寿がその場を立ち去ってしばらくするまで、その場にいた者達は姿勢を崩す事は無かった。


 美湖とせんは何も言わず、町奉行所との会合に向かうためにその場を立ち去った。


 流石の赤尾でも、この空気の中で事情を聞く事は出来なかったのだった。

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