第十三話「灰となれお墨付き」

 国友泰治は、一気に後ろに飛びすさると、壁に賭けてあった手槍を手に取った。そして、すぐに千寿に向かって投げつける。


 侍の間では、槍を投げつける事は「犬槍」などと呼ばれ、誉とは遠い行為とされている。だが、国友泰治にはその様な考えは無い。


 投擲された槍は、完全に彼方の間合いの外から対象に向かって襲い掛かる。その速度は生半可な者が手に持って突くよりも速く、武器を手放してしまうという不利点はあるが、強力な戦闘方法である事に間違いなない。


 また、普通の武士が犬槍をしないと言う事は、相手にとって槍を投げられる事態は予想外と言う事でもある。普通の者ならこの一撃で体を貫かれてしまうだろう。


 だが、千寿は生半可な武芸者ではない。体を少し捻って槍の穂先を躱してしまう。


 その瞬間、国友泰治は弾かれた様に走り出す。槍は囮で、千寿の足元に置かれたお墨付きの箱を回収するのが本命だったのだ。お墨付きさえ手に戻れば、最早何者にも手出しは不能だ。


 手に戻れば、であるが。


「甘い!」


 国友泰治の目論見は、千寿にはお見通しだった。対峙している時、国友泰治の視線は常に箱に向いていたため、相手が千寿様な達人で無かったとしても推測出来ただろう。


 千寿は足で箱を蹴り飛ばし、その箱は部屋の外に飛んで行く。


 その先には、いつの間にか駆けつけてきた美湖がおり、箱を拾った。


「美湖、持っていきなさい!」


「はい!」


 千寿に命令された美湖は、箱を片手に走り出した。


「ま、待て!」


「さて、お墨付きを取り戻すのに失敗したようですし……切るか?」


 脇差を手に、千寿がゆっくりと国友泰治に向かって歩みを進める。武芸では千寿に敵わないのは分かり切っている。今、国友泰治が助かるにはお墨付きを取り戻すしかないのだ。


 国友泰治は美湖の後を追う。


 広い国友屋敷の中を走り、ついには縁側から外に出て、草履も履かぬまま走り出る。


 美湖を追って辿り着いたのは、国友屋敷の土蔵の前であった。そこには、女奉行所の者達や、縄から解放された女達が待ち構えている。


「くそっ、待ちやがれ!」


「おっと、これはいかん。せん、受け取れっ」


 やっと美湖に追いつきそうになったのだが、その瞬間美湖はせんに向かって箱を放った。


 箱に向かって出した国友泰治の手は空を切る。


「なかさん、どうぞ!」


「ふじさん、受け取って」


 国友泰治は標的を箱を受け取ったせんに向けるが、せんは仲間のなかに、なかは国友屋敷で女郎として働かされていたふじにと次々と投げ渡していく。


 ふじより先も、仲間達で箱を渡していくため、国友泰治はその都度箱に向かって走り寄って行くのだが、追いつけるものではない。ついには走り疲れてふらついてしまう。


「おけい! あっちに投げろ!」


「うん!」


 まだ幼いおけいが箱を受け取った時、美湖がおけいに指示を出した。おけいは美湖に言われた通りの方向に力一杯放り投げた。


 その方向に人はいない。


「馬鹿め、取り落としおったな!」


 国友泰治は好機と見て、投げ出された箱に向かって駆け寄った。


 美湖達はそれを邪魔したりしない。


 国友泰治は、ついに先祖伝来のお墨付きが入った箱を取り戻したのだった。


「今だ! 閉めろ!」


 箱に頬ずりする国友泰治の後ろで、がたんと何かが音をした。


 箱が投げ入れられたのは土蔵であり、国友泰治を閉じ込めてしまったのだ。


「これは?」


「ご苦労様です。美湖、それに皆の者。よくぞこの痴れ者を閉じ込めました」


 国友泰治が困惑する中、現れたのは千寿であった。千寿は配下を労い、土蔵の窓の近くまで歩いて来た。


「あらあら美湖さん、何だか油臭いですね」


「真にその通り、まるで油を撒いたようですな」


 素知らぬふりでその様な会話をする千寿と美湖だが、彼女らは国友泰治の手下が土蔵に女達を閉じ込めて火を付けようとした事を知っている。


「何やらぱちぱちと音が聞こえませんか?」


「そうですね。まるで、土蔵に火がついているようですね」


「何だと⁉」


 土蔵に閉じ込められた国友泰治は、何か焦げ臭いが立ち込めている事に気付いた。そして、土蔵の奥の方で小さな炎が揺らめいている事にもだ。


 国友泰治は慌てて火を消そうと足で踏むが、一向に消える気配が無い。国友泰治の手下の善三が油を撒いていたため、最早はたいたくらいでは消えないのだ。


 国友泰治は、窓に走り寄って外に顔を出した。


「おい! 開けろ! ここから出せ!」


「何をおっしゃいます。先程自分から土蔵に入ったじゃないですか。それもあんなに急いで。よっぽど土蔵に入りたかったんですね。そこで死ねたら本望なのでは?」


「馬鹿を申すな。大体、俺はお墨付きを取り戻したんだぞ。この俺を殺したら、幕府が黙っていないんだぞ!」


 この期に及んで偉そうな態度であるが、一理はある。徳川幕府は武力で天下を支配しているのであるが、単にそれだけによるものではない。権威も重要な要素であり、その権威が失われては徳川の世がひっくり返る原因となりかねない。


 天下を統一し、幕府の礎を築いた神君家康の出したお墨付きで守られた者を、幕府の一機関が抹殺すると言う事は大問題なのだ。


「お墨付きですか? 取り戻したというのは真ですか?」


「何を……ここにこうして……まさか!」


 千寿の言葉で何かを察した国友泰治は、取り戻した箱を慌てて開封した。


 中には何も入っていない。


「そんなっ!」


「私は箱を返しに来たと言っただけで、中身に関しては一言も言ってませんよ」


 絶望した国友泰治は、絶望に包まれた。女奉行所の連中は、最初からこうして自分を謀殺するつもりだったのだと悟ったのである。


「助けてくれ! 火が回って来た!」


「そんなに助かりたければ、その窓から出れば良いではないか」


 助けを求める国友泰治は、美湖の言葉にはっとなって窓に頭を突っ込む。


 土蔵の窓は木の格子が嵌められているのだが、どういう訳かこの窓だけ頭が通るくらいの穴が空いている。


 国友泰治は知る由も無いのだが、配下の善三が女奉行所のせんに剛力で引きずりこまれた事によって出来た穴なのだ。


 とは言え、頭が通っても、体が通る訳ではない。善三も頭が嵌って動けないまま、釘を打ち付けられ、苦しみながら死んでいったのだ。


「残念ながら、通り抜けるのは無理なようだな。まあ外に顔を出したおかげで、呼吸は出来る様だが……それが良かったのかどうか……」


 そんな事をしている内に、土蔵の中に火が回って来た。土蔵の中には煙が充満し、中では呼吸も出来ない程だろう。


 火事と喧嘩は江戸の華と言うが、江戸の町は火事が多いため、火事場では焼け死ぬより前に息が出来ずに死んでしまう事はよく知られている。


 まだ土蔵の中は焼け死ぬほどの火の手では無い様だが、狭い土蔵の中はもう呼吸が出来ぬほどだろう。もしも国友泰治が窓から顔を出していなければ、既に気絶しているはずだ。


「あつい! あつい! 誰か助けろ!」


 煙で死ぬことが無くとも、当然火は回って来る。火事に強い作りの土蔵であるから、普通なら少しでも生き延びれば助かったかもしれない。だが、この土蔵には油が満遍なく撒かれている。それは土蔵を焼き尽くすには十分な量で、国友泰治の死は免れないだろう。


 油を撒く様に指示したのは国友泰治であり、全ては彼の自業自得である。


 そして、彼を助けようとする者はだれ一人としていなかった。


 誰かが助けようと言い出せば、千寿も美湖もそれを止めるつもりは無かった。


 じわじわと焼かれるという地獄を味わっているのだ。これ程の惨状を見せられたら、仏心を起こす者が一人くらいいてもおかしくは無い。


 だが、誰も止めはしない。それも全て、国友泰治のして来た悪行が跳ね返って来たのだ。


 全ては因果応報である。


 国友泰治はずっと苦痛に悲鳴を上げていたが、段々弱弱しくなっていき、しまいには何も喋らなくなった。顔はまだ無事なのだが、土蔵の中の下半身は既に焼け焦げている事だろう。


「地獄でも、鬼達に焼かれ続けるがいい」


 美湖は刀の鞘で国友泰治の顔を突き、土蔵の中に押し込んだ。


 土蔵の中は、既に焦熱地獄である。跡形もなく国友泰治の体を焼き尽くすだろう。


「そう言えば、こっちは渡すのを忘れてましたね。うっかりしてました」


 千寿は懐から一枚の紙を取り出した。


 国友家に伝わっていたお墨付きである。千寿は箱だけを国友泰治に返し、中身は抜き出していたのである。


 千寿は、お墨付きを窓から土蔵の中に差し入れた。お墨付きは国友泰治の体の上にふわりと落ち、たちまち灰になっていった。


「あのような物、この世に無い方が良いのです」


 千寿は静かにそう言うと、後始末の指示を下して国友屋敷を後にしたのであった。

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