夏の灰から

夏の灰から

「夏はシャンデリア、秋は灯籠とうろう」と手にしている本の主人公が言う。

 言いたいことはなんとなく分かる。

 シャンデリアは目に刺さるようにきらめき、灯籠はぼんやりとして柔らかく辺りを照らす。そのイメージを夏と秋に重ねたんだろう。

 耳にタコができるほど貴重だと聞かされた高校時代の夏休み。

 にも関わらず遊びには行かず、家からすら出ない日々を送っている。

 そして、今は扇風機の前で腹を出して寝そべっている。

 そんな僕にとって夏はスポットライト、秋は間接照明だ。

 夏は強烈に輝き、逆に影を色濃く目立たせて、秋はそうして疲弊した僕を淡く見せる。

 この本と似ているようで少し違うのだ。

 しかし、読み逃していた行があった。

「秋は夏の焼け残りさ」

 これは……、その通りだと強く共感する。

「……」

 やっぱり文豪には敵わない。

 本を閉じて、少し休憩しようと一階へ向かった。


 リビングでは母が誰かと電話をしていた。なるべく音を立てないように冷蔵庫の中を物色していたが、どうやら電話が終わったようだ。

「誰と電話してたの?」

「ん、ああ、あんたいたのね。おばあちゃんよ、おばあちゃん。」

「ふーん、そっか」

 特に珍しいことでもなかったので反応が淡泊になってしまう。

「あんた、来週からおばあちゃんのとこ行ってきなさいよ」

「……え?」 

 唐突に放たれた提案に、疑問符を浮かべてしまう。

「どういうこと?」

「あんたが毎日だらだらしてるって話をしたら、『それなら家へ遊びにおいで』って言ってくれたの。どうせ遊びに行く予定とかもないんでしょ?」

「いやまぁ、そうだけど……」

 なんで遊びに行かないことが前提なんだ。

 しばらく渋い顔をしていると、母はまた口を開いた。

「そりゃ強制はしないけど、いつもと違う環境で過ごしてみるのも悪くないと思うわよ」

 確かに環境を変えたら面白いことが起きるかもしれないけど、反対に悪いことが起きるかもしれないわけで……。

「まあ、考えときなさい。母さん今から買い物行ってくるから」

「え、あ、うん」

 色々と考え込んでいたら、出て行ってしまった。

 これは一見こちらに決定権があると思わせて、実質一方的な命令のようなものだ。

 こんな圧力には屈さないぞ、僕はこの自由で気ままな日常をなんとしてでも守ってみせる……!


みのる準備できてるのー? もう出発するわよー」

 階下から大きな声が聞こえてくる。

「わかってるよー」

 こちらも負けじと声を張る。ここだけは負けないでおきたい。

 母は仕事があるため、駅まで車で送ってもらってあとは僕ひとりだ。

「じゃあね、気をつけていってらっしゃい。楽しむのが一番大事だけど、課題も忘れずやるのよ」

 言って、行き方のメモとお弁当を渡された。

「うん、ありがと」

 車が去って行くのを見届けてから、僕は今年の夏を託した祖父母の家へと歩を進めた。


 小さな無人駅を出ると、まず開けた土地と広い空が目に飛び込んできた。建物が低く遠くの方まで見渡せて、青々とした自然が鮮やかで目に刺さる。

 足を踏み入れて初っぱなから、僕の心は掴まれる。

 家で聞くとうるさいセミの声も、今だけはあってよかったと思える。

 夏は、確かにここで光っていた。そしてまた、影を強調している。


 しばらくして、遠くの方から陽炎に揺られながら車が近づいてきた。

「久しぶりやな、元気しとったか?」

 こうして祖父に会うのはお正月以来だ。その時は祖父母の方から僕達の家に来てくれた。

 どことなく、顔が変わったように見える。しかし、もう前期高齢者である祖父の顔がそうそう変わることはないだろうから、変わったのは僕の方なのだろう。

「うん、毎日元気にだらけてる」

「そうかそうか、そらええこっちゃ。今おかんが張り切って料理しとるから、帰ったら覚悟しときやー」

 『おかん』というのは祖母のことだ。

 祖父の方言は未だに耳慣れないけど嫌いではない。

 憶えてないくらい小さなころから聞いているから、実は馴染んでいたりするのだろうか。

「えー、さっきお弁当食べたばっかなのに」

「夜まではまだ時間あるし、大丈夫やろー」

 他愛もないことを話しながらも、車中から見た町並みはところどころ憶えている風景があった。特に、この辺りで一番高い山の中腹にある神社、目に入るまで忘れてはいたものの、見た瞬間に懐古していた。

 あそこは何度か遊ばせてもらった記憶がある。そこまで大きくない神社だから、大々的なお祭りとかはなかったけど、山の中だから木陰が多くて、他のところより少しだけ涼しくて、確か遊具も少しだけあったっけ。

 前にここへ来たのは確か小学生のころだった、ほんの数年前のことなんだろうけど、僕にはもうとても遠い記憶だった。


「わぁー実? 久しぶりやね、また大きなったんちゃう?」

 顔を合わせた矢先に僕の頭を撫でる祖母。この光景は昔にもあった気がする。

「あはは、久しぶり。おばあちゃんも元気そうだね」

「もう元気いっぱいやで。あ、なんか飲む? ご飯はもうちょっと待ってなぁ、今作りよるから」

 お腹がいっぱいの僕にはちょうどいい状況だ。

「ゆ、ゆっくりで大丈夫だよ、ありがとう。じゃあお茶貰うね」

 忙しそうにする祖母に、何か手伝おうかと聞いたら「いいからゆっくりしとき」といわれてしまった。忙しくも楽しそうにしている祖母の様子を見て、遠慮しているのわけではないのだろうと思い、僕は荷ほどきに取りかかることにした。


 一刻ほどで荷ほどきを終えて、コンビニで買っておいたココアを嗜んでいたところに、祖父がやってきた。

「今から吉備きび神社にお詣り行くんやけど、一緒に行くか?」

「吉備神社ってもしかして、山の中腹にあるとこ?」

「そや、昔に何回か行ったことあるやろ」

 そんな名前だったんだ、昔は気にしたこともなかった。

「久々だし、行こうかな」

「せやけど運動がてら歩きやからなー」

「うん、大丈夫だよ」


 この家の玄関から外の景色を見ると思い出す、数年前には虫取りアミとカゴを持っていた。その手には、今はスマホが握られている。

 変わってしまった、なんて未練や落胆はない。

 今も昔も握っているものは同じだ、希望のように輝かしいものであり残酷さも兼ね備えている。


「あそこの駄菓子屋覚えとるか? 何回か連れて行ったったやろ」

 祖父が指さす方に目をやれば、なんとなく見覚えのある木造の建物があった。しかし古くなった引き戸は閉ざされ、人の気配はない。言われなければ駄菓子屋とは分からなかっただろう。

 壁に貼ってあるオロナミンCのホーロー看板で、昔はなにかの商店だったのだろうかと、かろうじて推測できるくらいだ。

「ごめん、よく覚えてないや」

「まぁしゃあないわな。あそこのおばちゃんな、一年ほど前に亡くなってもたんや、最後にもう一回くらい連れて行ったりたかったなあ」

「そっか……」

 だから寂れていたんだ。

 正直いうと顔は思い出せない。だけど、心臓のあたりが少しだけキュッとなる。

「急に悪いな、ちょっと訊いときたかったんや。夕飯までには帰らなあかんし、急ごか」

 僕の心境を察してか、切り替えるように祖父が言った。


 鳥居をくぐると、影が多くなったからなのか少しだけ気温が下がった。といっても暑いのには変わりないけど。

 近くに来ると朧気だった記憶が鮮明になってくる。

 奥にあるブランコに乗ってお菓子を食べたことがあった、確かさっきの駄菓子屋で買ったものだったはずだ。

 よかった、少しは思い出せたよ、駄菓子屋のおばちゃん。

「お賽銭、今日は奮発して百円もいれちゃおっかな」

「お、ほんならじいちゃんは五百円にしよ」

「……やっぱり千円!」

「じゃあ諭吉にしよ」

 意地悪な笑みをしている。

「大人の力やめてよ。というか、こういうのは気持ちが大事なんだから」

 僕を見て笑っている祖父の顔は、やはり以前と違って見えた。


 結局お賽銭は百円ずつにしておあいこ(?)になったけど、負けた方が飲み物を買いに行くジャンケンには負けてしまった僕は、近くの自販機まで来ていた。

 おじいちゃんはお茶って言ってたけど、僕はどうしようかな。

 冷たいカフェラテもいいけど、炭酸をグッと飲むのも清々しくていい。

 決めかねていると、一人僕の後ろに並んだ。

 あまり待たせるといけない。

 茶色く泡立つパッケージのジュースが目に留まったので、味は分からないが冒険してみることにした。商品名を確認出来なかったが、恐らくコーラのようなものだろう。(後に分かったことだが、このジュースは『みたらし炭酸』とかいう恐ろしいものであった)。

 ボタンを押して数秒。自販機に付いているパネルの数字がゾロ目になった。

 どうやらもう一本貰えるようだ、こんなときに。

 おじいちゃんのお茶ももう買ってるし、どうしよう。

 焦りか暑さか、こめかみを汗が落ちていく。

 ……そうだ、後ろの人に譲ろう。

「あの、僕もう欲しいもの買っちゃったんで、よければどうぞ」

 振り返ると、僕より少し年上であろう女性がいた。白いワンピースに麦わら帽子という格好は嘘みたいで、まさに絵に描いたような『夏の少女』だった。

「え、あ、いいんですか?」

「どうぞどうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 言って、戸惑いながらも彼女は手を伸ばした。僕も買った謎のドリンクのボタンへ。

「これ、おいしいですよね」

 その声からは、同志を見つけたという喜びが感じとれた。

 ここで頷けば、さらに笑顔になる彼女が容易に想像できたが、嘘を吐くわけにもいかなかった。

「その、今初めて買ったので……」

「あ、そうだったんだですね。でも、絶対気に入ると思います。おいしいですから」

 なんの根拠もなく、優しい笑顔で断言する。

「あ、そうだ、ちょっと手を出していただけますか?」

「え? は、はい」

 二本の飲み物を片手と腋で抱いて、言われるままに手を差し出した。

 彼女はバッグから小さなポーチを取り出して、数回振った。

 すると、いくつかのアメ玉が転がり落ちてきた。包み紙には『オレンジみるく』と書かれている。

「すみません、これぐらいしかなくて」

 どうやらお礼のようだ。

「いいんですか?」

 なんだか微笑ましくて、思わず表情が和らいでしまう。

「もちろんです」

「ありがとうございます」

「お礼をいうのはこちらの方です」

「確かに」と言おうと思った。しかしその返答はなんだかしっくり来ず口に出すのを躊躇ってしまう。次の言葉がなかなか思い浮かばず、しばしの間沈黙が響いた。

「あ……えと、では、おじいちゃん待たせてるので」

 ぎこちなく会釈して、祖父のもとへと向かう。顔が赤くなっているのが自分でも分かる。

 短い道中、手の中のアメが溶けぬように柔く握っていた。


「なんや時間かかってたなぁ」

「それが……」


 しばらく神社でのんびりして、家に着く頃には日が傾いていた。

 この町全体に響き渡るひぐらしの鳴き声が、夕陽の赤を際立たせている。

「おかえりー、ちょっと運ぶの手伝ってー」

 玄関の音を聞いていたのか、奥の台所から祖母が言う。

 どうやら夕飯は出来上がっているみたいだ。

「とりあえず、これとこれね。お皿重いから気いつけてな」

「はーい」

 少し大きめの皿二つに盛り付けられていたのは、からあげとポテトサラダだった。

 他にもおひたしやお煮しめが見えたが、これはまだ運ばないようだ。

 家の中が夕飯の匂いで満たされていて、食欲もより一層湧いてくる。

 というか、お腹が空いていることに今気づいた。


 久々に祖父母と囲む食卓は、特別な会話こそないが、それが逆に心地良い。

 学校はどうだとか、少しだけ将来のこととかも話して、おいしい手料理を食べる。

 特別でなく、もはや平凡とも言い難いこの時間が、僕の固結びの思考をひととき緩ませてくれた。


 お風呂上がり、火照った身体を冷まそうと川沿いの道を散歩することにした。

 水の流れる場所は他の所より僅かに涼しい。

 なんとなく上流に向かって歩いていると、川は割と近くの山から流れていることが分かった。

 もう少し時期が早ければ、蛍がいたんだろうか。今は薄暗くて、水の流れと微かな虫の声だけが聞こえている。

 もしここに、蛍の光が明滅するという要素が加われば、ロマンチックでノスタルジックな場所へと変わるのだろうか。

 今はただ侘しい光景だ。


 そんな場所にしばらくいると、こっちまで侘しくなってくるものだ。

 ポケットに入れて来たアメ玉を取り出す。

 小さなお菓子一つで気分を変えられるかは分からないが、口に運んでみる。

 少し薄味ではあるが、ミルクとオレンジのバランスが良くて、優しい味がする。

 火照った身体が冷めるまで『オレンジみるく』と書かれた包み紙を見つめていた。


 変な夢だった。

 神社で会ったお姉さんが僕を呼んでいた。

 だけど、いくら走っても走ってもお姉さんのところへはたどり着けない。

 しまいには、後ろから祖父と祖母も僕を呼んで、戻ってこいと言ってくる。

 祖父母の元へ戻りたいのはもちろんだが、僕にはお姉さんに会わなければいけない事情が何かある。それだけは分かっていた。

 板挟みになった僕は身動きが出来なくなってしまって、結局どうすることも出来ないまま目覚めた。

 後味の悪い夢だ。


 まだ頭のもやは晴れないままだが、とりあえず温かいココアを飲んで落ち着かせようとしている。

 外のセミは早朝でも元気よく鳴いていた。


 太陽が真上にやってくる頃、僕は町の集会所に足を運んでいた。

 この町の中では比較的新しくて綺麗な施設は、普段は町内会議などの寄り合いに使用されているが、夏休みの昼間には開放され、子ども達の勉強スペースになっているらしい。

 と今朝方祖父が教えてくれた。

 「課題も忘れずに」と母に釘を刺されたのもあるが、僕はこう見えて夏休みの宿題を最後まで残しておくタイプではないので、こうして課題を進めに来たのだ。

 意外と真面目とかではない、面倒くさがり故の行動だ。

 最終日に課題を一気にやってしまう。なんて話を耳にするが、僕には到底出来ない。時間的にも精神的にも追い込まれながら計算なんて身が入らないだろうし、一息吐く間もなく課題から課題へ、お風呂に入っている時にも、「間に合うだろうか」「上がったら次はあれをやらねば」そういった懸念が頭に居座り続ける。もうその状況を想像しただけで僕からすれば実に面倒くさいのだ。

 勉強スペースに入ると、既に二人の子どもが課題に取り組んでいた。部屋の中はとても静かで空調と鉛筆を走らせる音しか聞こえてこない。集中するには実に良い環境だ。

 僕は二人の子どもからほどほどの距離の机に座った。早速教科書を広げて、課題に取り組もうとした矢先。

「こんにちは」

 気配も無く後ろから声を掛けられたものだから、身体がビクッと跳ねてしまう。

「こ、こんにちは」

 言いながら、少し遅れて顔を見上げる。

「急に話しかけてごめんなさい――って、あなたは……」

 そこにいたのは昨日も見た顔だった。

「あ、『みたらし炭酸』のお姉さん」

 名前も知らないため、咄嗟に口から出てしまう。

「私、あなたの中でそういう印象なんですね……」

「ご、ごめんなさい! つい……」

「そんな、謝る必要なんてないです! とても光栄ですから」

 不本意だったのだろうと謝ったら、喜んでいた。

「あのジュースの魅力は分かっていただけましたか?」

「いや……それがまだ飲めていなくて……なかなか決心出来なくて」

「決心?」

「飲んでみれば案外おいしいかも知れないんですけど、ああいう変わり種って一口目の壁が高いじゃないですか」

「変わり種?」

 僕としては共感してくれるだろうと思っていたのだが、全て疑問で返されてしまった。想定していた会話とかなり違う。

 というか、僕たちはなにか大事な会話をすっ飛ばしている気がする。

「あの、それでお姉さんはなぜここに? 勉強ですか?」

 今頃になって訊いた。

「いえ、私は教師役っていうんでしょうか、課題が上手く出来ない子たちの手助けをする役です。ボランティアみたいなものですね」

「へぇ、教師役ですか」

 今一度、辺りを見回してみる。

 僕たちが、そこそこ騒がしく話をしているにも関わらず二人の子どもたちは、自分のやるべきことに集中している。

「正直私がいる意味あんまりないんですけどね。自主的に勉強しに来るような子は手伝いなんてなくても問題ないみたいなので」

 僕の心を読んだみたいに答えてくれる。

「そういえば、まだ名乗っていませんでしたよね。私、『園田そのだ由那ゆな』って言います」

 自己紹介。それだ、さっきからなにか大事なことが抜けている気がしていた。

佐倉さくらみのるです」

「実くんですね。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

「……というか、敬語やめません? たぶん私たち歳近いでしょう?」

「え、でも僕まだ十五ですよ」

「うん。じゃあ私と一緒だ」

「……ええ!?」

 ここで衝撃の事実にぶち当たる。まさか、いくつも上だと思い込んでいた彼女が同年齢だった。僕の前方に座っている小学生までもガタッと椅子を鳴らした。

 改めて目の前に立っている女性を見るが、どう見ても三つ以上は上に見える。

「そんなに驚く? 結構ショックだな……」

「いやいや、ごめんなさい! 悪意は毛頭なくて、この場合の驚きは大人に見えるという意味なので……」

「あはは、分かってるよ」

「あ、そ、そうでしたか……」

「繰り返しになるけど、私敬語で喋るのも喋られるのも苦手だからさ。もちろん無理にとは言わないんだけど」

「そういうことなら、分かった」

「うん。ごめんね勉強の邪魔して」

「ううん、とんでもない」

 会話に区切りが付いたところで部屋の扉が開かれた。

 中を窺いつつ恐る恐る入ってきたのは、小学生くらいの男の子だ。健康的な日焼けをした肌と少し深めに被っているキャップが印象的だ。

「姉ちゃんが課題の手伝いしてくれるっていうの、……ほんま?」

 当然だがこの地方特有の訛りで、どこか不安そうに訊ねてくる。

「そうだよ、なにか分からないことがあるの?」

 由那さんは子どもの目線まで屈み、優しく問う。

「分からんとかじゃないんやけど、虫の図鑑作りたいから、虫取りを手伝って欲しい……」

 これまた特殊な依頼だな。

「虫図鑑? それが課題なの?」

 僕がほぼ反射的に訊いた。

「うん、自由研究。虫の図鑑作りたいと思って」

「ああ、そういうこと」

 ここで由那さんと目が合う、少し困っているのだろうか。

「ここから離れるのはちょっと、他の子もいるし……」

 言いながら語尾は弱くなっていく。

 まあそうだろう。自由研究も立派な課題だし、この部屋で一緒に机に向かうのだけが手伝いではない。そして肝心の他の子たちも手伝いが必要そうに見えない。

 由那さんも同じことを思ったのだろう、先ほどの言葉は撤回するように少年に訊ねた。

「分かった。とりあえず、何種類くらいの図鑑を作りたいの?」

 確かに手伝うとは言っても、数は把握しておきたい。答えによっては心構えが変わってくる。この段階で僕はもう勝手ではあるが手伝う気でいた。

「数は決めてないけど、できるだけ多い方がええかも。少な過ぎたら先生認めてくれるか分からんし……」

「どれだけ詳細に書くかにもよるけど、二十種類もあれば課題をこなしたとして認めてくれそうだけどね。結構厳しい先生なの?」

「そうでもないけど……。と、友達と勝負しとるから……」

 友達との勝負のために、ここまで足を運んで見ず知らずの人にお願いをしに来たのか、なるほど余程の負けず嫌いらしい。たぶんメインは課題よりその勝負とやらの方なのだろう。

「一応確認だけど、僕たちが手伝って勝っても、君は嬉しい?」

「嬉しい。勝ちは勝ちやし。それに、もうシュンヤには負けたくないし、負けられん」

「よし、分かった。じゃあやろう!」

 ここで由那さんが「えっ」という顔をする。

「え、ほんまにええん? というかそもそも兄ちゃんは、誰?」

「僕はこのお姉さん、由那さんのお手伝いみたいなもの」

 由那さんはまた「えっ」という顔をする。

「お手伝いさんのお手伝いさんってこと?」

「確かにそうなるね」

 由那さんが「?」という顔をする。

 ここまで勝手に進めてしまったが、僕はやっと由那さんの方を向いて口を開いた。

「僕虫取り結構好きなんだよね、小学生のころとか友達とよく森林公園まで行って虫取りしてたし」

「はあ……」

 釈然としないのか反応は薄い。

「僕も手伝っちゃ駄目かな?」

「そんなことはないけど……むしろ助かるし、逆にいいのかなって。課題やる予定じゃなかったの?」

「もちろん課題もやるよ、虫取りはその後」

 今度は少年が「え?」という顔をする。

「君、名前は?」

「え? マコトやけど……」

「じゃあマコトくん、夏休みの宿題って自由研究だけじゃないよね?」

「そりゃあ」

「じゃあまだ終わってないやつをここに持ってきて一緒にやろう、虫取りはそれから」

 勉強が終わってないのが前提なのは、健康的な日焼けに加え、汚れた運動靴や球団のロゴが入ったキャップ、そして膝と肘に貼られた絆創膏からも今は大人しいが、相当なわんぱく少年なんだろうとかいう推測みたいな偏見。

「うげ……」

「そんな嫌がらなくても、なにも夕方までやるわけじゃないんだ。暗くなると虫見つけ辛くなっちゃうし」

 ここで僕の面倒くさがりのくせに、面倒な選択をしてしまう最高に面倒な部分がでてしまう。情動的に行動してしまいそうな時、勢いに任せていいのかを迷って、一度踏みとどまってしまうのだ。良く言えば慎重悪く言えば臆病。世の中勢いでやってしまっても問題ないことは割とあると思うんだけれど、咄嗟の反応を意識して変えるのはなかなか難しい。

 苦虫を噛み潰したような表情のマコトくんだったが、手伝ってもらう手前文句は言えまいと思ったのか「嫌だ」とは言わなかった。


「姉ちゃん、次そっち行った!」

「うん!」

 バサッと音を立て網が草むらに振り下ろされた。

 残念ながら中には何もいなかったみたいだ。

「ん~、やっぱり難しいー」

 マコトくんと由那さんは近くの山へ来てから、かれこれ三十分ぐらいは夢中で虫を追いかけている。

 対する僕ははしゃぎ声を聞きながら、日陰でのんびりと虫を探していた。

 しかし探す場所がいけないのかまだダンゴムシとミミズくらいしか見つけられてない。探す場所がダメなのか探し方がダメなのか……。虫取りが好きだとはいったが得意とはいっていない。

「マコトくんの方行ったよ! 違うっ、横じゃなくて縦に振り下ろさなきゃ!」

 なんであんなに元気なの。というかあの人虫とか平気な人なんだ。

「実くん! どいて!」

 不意に怒号と表現してもいいような声が飛んでくる。だが、僕が振り返る頃には網を振り上げた由那さんがトンボと共に目の前まで迫っていた。

 瞬間胸に体当たりを食らう。その勢いで後ろにある木にぶつかってしまう。

「いたたた……」

 幸い当たり所がお腹の方ではなかったのとぶつかってきたモノがあまりにも柔だったのでそれほどのダメージは無いが、胸で受け止める形になったので思い切り密着してしまっている。

「ご、ごめん、大丈夫!? あっ……」

 由那さんがそのままの体勢で僕を見上げたので、図らずも至近距離で見つめ合う。遅れて、衝突で舞い上がったシャンプーだか柔軟剤だかの香りが鼻腔をくすぐる。

「だ、大丈夫だから! だから少し離れて……!」

「ご、ごめんなさい」

 ここで身体が離れてしまう、少し名残惜しいと思ったのは秘密だ。

「由那さんの方は怪我とかない?」

「うん、おかげでなんとも」

 数秒の空白があり、僕はマコトくんが少し離れたところから唖然とした表情で僕たちを見ているのに気づいた。

「マコトくん……! 別に変なことしてたわけじゃないよ!? 君も見てたよね?」

「分かってる。いや、それより兄ちゃんたち。上、ヤバい」

 言われて僕と由那さんは頭上を見上げた。

 青々とした真夏の葉っぱがざわめいている。その『青』の中に異色があった。茶色い陶磁器の壺のような形をしたモノ、紛れもないハチの巣だった。そして中から住人がわらわらと出てきている最中でもある。木にぶつかった時の揺れで敵襲だと勘違いしたらしい。

 一瞬で血の気が引く。

「ハチ、の巣……?」

「ひぃぃゃぁぁぁ!!」

 先に絶叫したのは由那さんだった、目にも留まらぬ速さで走りだした。僕もその声でハッとして、叫ぶことも忘れてその場から急いで逃げた。


「はぁ……はぁ……」

 久々に命の危機を感じた。

 気づけば中腹まで登っていた山を下山寸前の所まで走っていた。中腹からとはいっても標高が百六十メートルほどなのでさほどでもないのだが、普段はインドア派の僕からすればかなりの運動量だ。

 隣にいる由那さんも同じようで息を切らしている。マコトくんはさすがの体力で、もう虫取りを再開して草むらを物色している。

「危な……、はぁ……かったね」

 汗だくの園田さんが途切れながらも言う。

「うん……死ぬかと思った、ちょっと休もう……」

 息を整えるために呆然と木の葉の間から見える空を眺めていた。


「これは……、ミヤマカミキリっていうみたいだ」

 日が落ちる直前、僕たちは一匹ずつ成果を確認していた。

 写真をたくさん撮って観察し、マコトくんは忙しくメモを取っている。

 今回は飼うことが目的では無いため、『資料』を貰ったあとはリリースするそうだ。

「じゃあ、このカミキリで二十種類は越えたね!」

 由那さんがまるで自分の課題かのように喜んでいる。

 セミ、トンボ、カミキリムシ、カナブンなどなど、同じムシでも種類が違うモノを含めると予定の二十種類は無事に越えられた。

「マコトくん、良かったね」

「うん……、兄ちゃんたちのおかげ、ありがとう」

 そうは言うが、どこか浮かない表情をしている。

「大丈夫? どこか具合でも悪い?」

「まさか、怪我とかした!?」

 由那さんも心配そうに聞いたが、マコトくんは首を横に振る。

「……カブトとかクワガタは、一匹も見つからんかったなって」

 確かにそうだ。そこそこの数を捕まえたが夏の虫の花形、カブトムシやクワガタムシはいなかった。

 だが、そこに関しては元々考えていることがあった。カブトたちは昼間は土の中に潜っているので見つからなくて当然といえば当然なことだ。

「マコトくん、虫用のミツ持ってきてって頼んでたよね?」

「うん。持ってきとる、結局使わんかったけど……」

「違う違う、それはこの後使うんだ」

「へ? そうやったん?」

「そうそう、おじいちゃんちには無いだろうから、持ってきてもらったんだ」

「何に使うん?」

「今夜適当な木に塗って、早朝にでもまた様子を見に行けば多分カブトかクワガタどっちかはいてくれると思うんだ。昔その方法で捕まえたんだよね」

 小学生の時分に一度だけ森林公園でやったことがある。夜中に家を抜け出す手間と、翌日木の様子を見に行くとクワガタがいたが、ハチも一緒にいて捕まえられなかったこともあって一度だけで終わったけど……。

「へぇーそんな方法あるんや! 兄ちゃんすごい!」

「まだ捕まえたわけじゃないからね! 期待大きくし過ぎないでね?」

 あまりの喜び様に少し動揺してしまう。

「そういうことなら、何時に集合する?」

 横で聞いていた由那さんが唐突に言った。

「え?」

「私の仕事だから、当然私も行くよ」

 それはそうだ。というか勝手に手伝っているだけの僕は本来部外者だ。

「かなり遅くなるけど大丈夫?」

「ええ、父さんに着いてきてもらえないか頼んでみる、たぶん二つ返事でオーケーしてくれると思う」

 それならまあ心配ないか。

 かくいう僕も、危ない人すらいなそうな田舎ではあるけど、なんだかんだ大人が一緒にいてくれた方が安心だ。


 その後僕らは、一度解散してまた夜に集まることにした。さすがに小学生を夜中に連れ回すのは気が引けたので、マコトくんは早朝の時だけ一緒に行くことになった。残念そうではあったが了承してくれた。やんちゃに見えてなかなか聞き分けのいい子で本当に助かった。


 太陽が落ち、今度は月がこちらの世界を見下ろす番になった。町には川のせせらぎと虫の合唱が響き渡っている。

「こんばんは、佐倉です」

「はーい、ちょっと待っててね」

 インターホンからは、由那さんの声が聞こえてきた。

 今僕がいるのは園田家の玄関前だ。由那さんに集合場所として指定されたのは、吉備神社の少し外れにある日本家屋の豪邸だった。家が大きいことにはもちろん驚いたけど、なによりお父さんが神主だったことにも驚いた。

 家の中から足音と話し声が近づいてきて、ガラガラと引き戸の玄関が開かれた。

「お待たせー実くん、こんばんは」

 由那さんともう一人、甚平を着た男の人が出てきた。恐らく付き添ってくれる由那さんのお父さんだろう。

「こんばんは、お父さん。初めまして、佐倉実です」

「君が実くんかぁ、昼は由那が世話になったみたいやな~。どうもありがとうな」

「いえいえそんな、お父さんの方こそ、急なのに付き添っていただいてありがとうございます」

 ふと由那さんの方に目をやると、服装は昼間のままで白いワンピースを着ていた。対する僕は完全に部屋着で、かろうじて外に出ても恥ずかしくないくらいだ。まあ見られるほど他に人は出歩いてないんだけども。

「ちょっと待って、その『お父さん』はなんかむず痒いからやめてくれ。たった一日の付き合いでは由那をやるわけにいかん」

 腕を組んで首を横に振っている。

「いやいや! お父さんはお父さんでも、『お義父さん』って意味じゃないですから! って声にすると何言ってるか分からないや……」

 言うと、『お父さん』が口を大きく開けて笑う。

「冗談や冗談。俺の名前は『さとる』やから、そう呼んでくれたらええ」

「……は、はい。分かりました、じゃあ聡さんって呼ばせてもらいます」


 一段落付いた僕たちは歩き出した。

 五カ所ほど目を付けていた場所があったので、そこを目指す。五カ所といっても距離はそんなに無い。小さな山なのでミツを塗って帰るくらいなら一時間もせずに終わった。

 その帰り道。

「由那ぁー、なんかお腹減ったから、帰ったら夜食でも作ってくれへんかぁ」

「あ、私も同じこと思ってた! ラーメンでも食べよっか」

「お! ラーメンええなぁ! ネギたっぷりで頼むわー」

「はいはい。あ、でもスープ飲み干しちゃダメだからね、いつも言ってるけど。身体に悪いから」

「なんでや! 完食完飲せな作ってくれた人に失礼やろ……!」

「作る私がそう思わないから、いいの」

 隣で親子が賑やかに話すのを、僕はただ聞いていた。だけだったのだが。

 ぐうぅぅ。

 僕のお腹は聞くだけではいられなかった……。

「あ」

 二人と目が合う。

「あはは、実くんもお腹空いた?」

「あ、いや……、うん」

 ごまかしようもない。

「実くんがよかったら、うちで食べてから帰る? 帰りの時間が少し遅れるけどまた父さんに送らせるから」

 聡さんの方を見て「いいよね?」的なアイコンタクトを送る。

「おう、食後の運動がてら送ったるから任せとき」

「え、本当にいいんですか? あの、じゃあ、ぜひ……!」

 ここは一度断る方が慎ましいのかもしれないが、この時間のラーメンというワードはちょっと強すぎた。なので厚意に甘えさせてもらうことにした。

「もちろん。あ、でも醤油ラーメンしかできないんだけど、大丈夫?」

「僕が一番好きな味です、何の文句もないです」

 思わず敬語に戻ってしまう。

 その後の道中は世間話をしながらだったが、もうラーメンのことで頭がいっぱいだった。

 僕のもネギ多めだったらいいな……。


 由那さん(と聡さん)の家へ上がると、居間へ通されてしばらく待つように言われた。

 動き回るわけにも行かないので、僕はただ座布団の上で正座をしていた。

 やがてキッチンの方からは、野菜を切るような音と鍋のグツグツ鳴る音が聞こえてくる。その頃聡さんはテーブルの上を片付けてタオルで拭き、三人分の箸を並べて、コップに水を注いでくれていた。一応やれることはやる姿勢のようで、なんとなく安心する。

 そういえば、由那さんのお母さんをまだ見かけてない。もう眠っているのだろうか。

 居間に飾ってある写真を見るに、由那さんと聡さんのツーショットや集合写真はあるが、母親と思しき人はいない。となると、いないのだろうか。もしくはよっぽど仲が悪いか。まあ、どちらにせよ僕には関係のないことだけど、ふと気になった。

「出来たよー、取りに来てー」

 キッチンの方から声が飛んでくる、それを聞いて聡さんと二人でキッチンの方へ向かった。

「ネギは各自で好きな量トッピングしてね」

 勝った。何に勝ったかは分からない。

 タッパーの容器には刻まれたネギがたくさん入っていた。僕は聡さんと張り合うくらいの量のネギを盛り付けた。

「お、自分なかなかやるな」

「これだけは譲れません」

「……あのー、私の分も置いといてね」

 若干呆れた目をしながら、由那さんが自分の分を危惧している。

「大丈夫だよ、ほら、こんなに残ってる」

「ならいいけど、……ってほとんど無いじゃん!」

「由那、許せ。漢の戦いなんや」

「なによそれ、意味わかんない」

 言って、僕と聡さんの丼から山になったネギを少しずつかっ攫っていった。

「ああぁ……」

 二人の漢の情けない声が漏れる。

「さあ、冷めちゃうから早く食べよ」

 静かな圧を感じたので大人しく居間の方へ向かった。


 食べ終えた後、約束通り聡さんが家まで送ってくれることになった。

 もう完全に寝静まった町に、二人の土を踏む音が一定のリズムで鳴る。

「実くん、由那のこと手伝ってくれてありがとうな」

 さっきと打って変わって、神妙な表情をした聡さんが言う。

「そんな、むしろ楽しいことを手伝わせてもらってるので、僕が感謝する方です」

「そうか、それならええんやけどな」

 言って、少しの間があり、

「ほんま、最後にええ思い出になると思うわ」

 聡さんは呟いた。

「……最後?」

 意味がよく分からなかったので聞き返した。

「由那はな、もうすぐ、明日の誕生日に帰ってまうんや」

「帰るって、ここに住んでたわけじゃないんですか……?」

 そうであっても、納得のいくことではある。由那さんにはこの地方特有の訛りがないので、そこは少し疑問ではあった。

「そうや、由那の故郷はここからずっと、果てしなく遠いところや」

「そんなに遠いんですね。もしかして外国とかですか?」

 聡さんがうつむく。

 躊躇っているようにも見える。

「月や」

「……」

 突拍子もない言葉で、なにも返事が出来なかった。

「意味分からんやろうな、でも嘘やない。ちゃんと迎えも来る」

「……月から?」

 聡さんは無言で頷く。

 とても冗談を言っている顔ではない。

「え、えっと、いやいや、それじゃ、由那さんは月が故郷ってことですか」

「そうや、由那は十五年前に月からやって来た。俺はその時に由那の母親から世話を任された。向こうからしたら押しつけた感じやろうけど」

 話が飛躍しすぎて理解が追いついていないが、聡さんは続ける。

「あの子は月で罪を犯した罪人なんや、やから十五年の刑期でこの地球、『下界』に落とされたんやと」

 つまり、明日の誕生日というのは、聡さんが由那さんを迎えた日で、地球に来て十五年目ということなのか。

 まだよく分かっていない中で、由那さんがもうすぐいなくなってしまうことは分かった。

 しかし、なんで聡さんはこんなにも落ち着いていられるんだ。この人の言うことが本当なら、明日には迎えが来て由那さんは月に連れていかれてしまうのだろう。

 十五年間本当の親のように育てた子どもを、無慈悲に連れ去られてしまうのだろう。

 僕はまだいい。いや、そりゃ寂しいけど、まだ出会って一日や二日だ。

 だが、聡さんがなぜそんなに落ち着いていられるのかが、僕には分からなかった。

「でも、そんな……聡さんはそれでいいんですか!? 由那さんを連れて行かれても!」

「……神主がな、神に逆らえるわけないやろ!」

 今まで極めて落ち着いていた口調が、初めて荒くなった。

「ええか、月は神の住む世界や。やからこっちが『下界』いわれて向こうは『天上界』や。神主の俺が刃向かうのは許されんし、……そんな術もないんや」

 そこにはやるせない怒りが含まれているように感じる。

「そんな……」


「声荒げてすまんかった。突然おらんようなったら驚くやろうから、一応伝えとこうと思ったんや」

 

「由那は最後まで普通に過ごしたいと思ってるみたいやから、実くんもそうやって接してくれたら助かる」


 止まっていた歩みを再開してからも、僕は何も言えずにいた。

 辛いのは僕よりも、聡さんのはずなのに。


 次の朝。

 一睡も出来なかった僕は、目の下に隈を抱えていた。

「実、おはよう。えらい顔色悪いけど大丈夫か?」

 早朝ではあるがもう起きていた祖父に、心配そうに聞かれる。

「おはよう、ちょっと眠れなかっただけだから大丈夫、ありがとう」

「虫取り行くんやろ? 気いつけや」

 祖母も気遣いの言葉をかけてくれる。

「うん、ありがとう。じゃあ行ってきます。」


 山には朝の湿った空気が満ち満ちて、深呼吸をすると肺まで冷んやりして気持ち良い。

 今回はマコトくんも合流して、三人は眠い目を擦りながらも、期待で胸を躍らせていた。

「カブトムシとかいるといいねー」

「うん! でも一番狙っとるのはオオクワガタ!」

「ああ~かっこいいよね! 大きい子がいてくれるといいんだけど」

 一睡もしていない疲れもあってか、僕は二人に追いつくのに必死で会話には入れなかった。

 やがて一つ目のポイントが視界に入った。

「あ、なんかおる!」

 マコトくんが急いで走り出す。

「ほんとだ!」

 それを聞いた由那さんも続いて駆け寄って行った。

 確かにミツを塗った木に何かがいるが、遠目では黒い点々にしか見えない。

「兄ちゃーん、コクワガタおったー!」

「何か見たことない変なやつもいるー!」

 一足早く木に着いた二人が嬉しそうに報告してくれる。

「姉ちゃん、それは多分ゴキブリやで」

「うえぇぇ!? そうなの!?」

 こんなにも見え方が変わるなんて。昨日はなんとも思わなかったのに、今は平和な時間が身に染みるようだ。

 僕は由那さんが、『普通』に過ごせるように眠気も疲れも拭って振る舞うことに努めた。

「あはは、由那さんなにやってるの、僕にも見せてー」


 昨夜と同じく五つの木を巡るのには、然程時間が掛からなかった。

 残念ながらオオクワガタは見つからなかったが、大きなノコギリクワガタやカブトムシも見つかり、マコトくんは終始ハイテンションだった。

「兄ちゃん姉ちゃん、ほんまにありがとう! これでやっと、最後にシュンヤに勝てそうや」

「……最後?」

 また出てきたその単語にドキッとしてしまう。

「シュンヤ、もう少ししたら遠くに引っ越してまうから、もう遊べんくなるんや。だから『最後の勝負や』って」

 もちろんもう一生会えないわけではないのだろうが、小学生にとってはほぼ同義だろう。

「そっか、最後なんだね」

 由那さんの表情が一瞬思い詰めたものになるのを僕は見逃さなかった。

 疑ってはいなかったけど、やはりあの話は本当なんだろう。

「そ、それなら僕たちも手伝った甲斐があるってもんだよ。ね? 由那さん」

「うん、そうだね。そんな最後の戦いの力になれて嬉しいよ」

 明らかな作り笑いが僕には分かった。事情を知った今だからこそ気づいたのだろうか。何も知らなければ違和感もなく見逃していたのだろう。


 マコトくんは早速図鑑製作に取りかかるらしく、早々に帰るらしい。

「ありがとう-! 完成したら見てなー!」

 遠くでこちらに大きく手を振りながら叫んでいる。

 僕は、「楽しみにしてるね」と大きな声で返して、由那さんは「頑張ってね」と手を振った。

 それっきり二人はなぜだか言葉を失ってしまった。


 活動し始めた鳥やセミの鳴き声、時折ざわめく木々がいつもよりよく聞こえる。

 由那さんが今何を思っているかを考えると、この空白が痛く感じる。


「由那さん、今夜、花火しようよ」

「え……? ……えっと、今夜は……」

「知ってるよ、聡さんから聞いた」

「……そっか、父さん話したんだね。……驚いたでしょ」

「うん、すっごくね」

「……よかった」

「え?」

「よかった。父さん話してくれて」

 大事な事を話されてしまったというのに、由那さんは安堵していた。

「よかったの……?」

「うん。父さん、私のこと今まで誰にも言わずにいたから。最後だからいいって思ったのか、それとも君には話してもいいと思ったのかな。どちらでも、父さんの肩が少しでも軽くなってれば嬉しいから」

 僕は思う、二人は紛れもない親子だと。

「……あの、一つ聞いてもいいかな」

「なに?」

「君の『母さん』、……聡さんの奥さんはいるの?」

「いた……、みたい。でも、私がこの世界に来る前に病気で亡くしたんだって」

 道理で家に三人での写真が無かったわけだ。

 肺をわしづかみにされたように息苦しくなる。奥さんを亡くした聡さんにとって、由那さんはどれだけ大切な存在になったのだろう、僕には到底計り知れない。

 そして、そんな事情なら、なおのこと別れは辛いはずだ。


「そっか……。花火用意しておくから、また夜に吉備神社で待ってて。よければ、聡さんも一緒に」

「え……」

 僕は返事も聞かずに走りだした。その場にいたら苦しさで死んでしまいそうだったから。


 家に着いた僕は、用意してくれていた朝食にも手を付けず、財布とスマホだけを持ってまた家を出た。

 突発的に花火という提案をしたため、どうにかして用意しなければならなかった。

 しかし、この町に花火を売っているようなところは無いだろう、だから電車で店がある町まで出て行くことにした。この町に来る電車は二時間に一本、幸いしばらく待てば本日二本目の電車が来る時間だったので早々に駅へ向かった。


 夏の陽射しに灼かれた線路は、今にも溶けてしまいそうに見える。誰もいない駅でしばらく待つと、一両だけの小さな電車がやってきた。

 扉の横にある開閉ボタンを押す。プシューと空気の抜けるような音がなってドアが開いた。人がまばらに乗っていたので適当に空いている席に座る。

 一時間ほど揺られると明らかに建物の背が高くなっていって、目的の町が見えてきた。こんなところまで来なくても隣町にあるコンビニにも売っていると思うけど、時期は夏真っ盛りだ、売り切れていたりした時のことを考えて、多少栄えている町までやってきた。

 店はどこでもいい、とにかく持って帰れるだけ花火を買おう。


 近くのショッピングセンターには、選り取り見取り色とりどりの花火が売ってあった。手持ち花火のパックを数個、吹き出し花火が大きなバッグにたくさん入っているものなど、どういう花火が好きか分からないので、とにかくたくさんの種類を買っておくことにした。気づけばもう両手いっぱいになってしまっていた。

 会計を終え、お腹が空いていたので何か食べようかと考えたが、心配性の僕は何かのトラブルで帰れなくなるといけないと思い、寄り道はせずに帰路へついた。


 家に着いた時にはもう昼をとっくに越えていた。

「実、あんた朝ご飯には帰るって言うとったやん」

 おばあちゃんからすれば朝から帰って来ないので心配してくれていたようだ。ひと声くらい掛ければよかったと今になって思う。

「心配かけてごめんね、花火買いに行ってた」

 両手に持った袋を上げて強調する。

「ええ……、また急やな」

「どうしても今日やりたかったから」

「……まあ、ちゃんと帰ってきたからええけど、次から遠くに出かけるならひと言くらいちょうだいよ」

「うん、分かったよ」

 居間に入ると、脳と身体が安心したのか疲れと眠気が一気に押し寄せてきた。昨日から一睡もしていないし、山登りの疲れもある。そろそろ気力だけでは限界なんだろう。夜まではまだ時間があるから少しだけ眠ろう。

 少しずつ薄れてゆく意識に身を任せている間がとても心地よかった。


 また変な夢を見た。

 今度は由那さんがこっちに手を振っている。

 目的は分からない。僕を呼んでいるのか、それとも別れの挨拶なのか。

 やがて僕の後ろから聡さんが現れた。手を伸ばしながら由那さんの方へ走っている。

 手を振っていたのは聡さんに向けてだった。

 二人の手が重なる直前、由那さんの体は浮き上がり、空の彼方にある光へ消えていってしまった。聡さんはその場でへたり込んで項垂れている。

 こんなのまるで……。

 いや、僕の思い込みが、夢として出てきているだけだ。

 もしかしたら違う未来も……。


 意識の遠くで電子音が鳴っている。

 最初はそれが夢の中での音だと思っていたが、段々とそれが現実のスマホのアラームだと認識していった。

 そうだ、こんな時のために電車の中で事前にセットしていたんだった。

 辺りは夕焼けが終わり、もうすぐ完全に暗くなりそうな様子だった。

 ちょうどいい頃合いだ、神社へ向かおう。


 由那さんたちの姿はまだなかったから、先に準備をしておくことにした。

 花火の封を開け、見たこと無いものがあったのでそれぞれ一通り遊び方を確認しておいた。

 一息吐いて、空の星を眺めていたら、やがて由那さんたちがやってきた。

「こんばんは」

「こんばんは、待たせちゃったみたいでごめんね」

「いいんだ、僕もさっき来たばかりだから」

「父さんが急に肩揉んでくれー、とか言い出すから」

 由那さんが横目で聡さんを見る。

「許せ少年、肩が凝ってしょうがなかったんや。それより、ほんまはここは火気厳禁やからなー? ま、今日は特別に見逃したる」

 腕を組んでわざとらしくふんぞり返る。もしかしたら気が滅入ってしまっているかもと心配していたけれど、来てくれてよかった。

「あはは、そうしてくれたらありがたいです。じゃあ、早速やろう! 面白そうなやついっぱい買って来たんだ!」

 まずは手持ち花火からすることになった。

 火薬に火が点くと、勢いよく火花が散る。赤や緑に色が変化したり、パチパチと音が鳴るもの、四方八方に火花が飛ぶスパーク花火。花火をやることが久々だったので、どれも新鮮な気持ちで見られる。

「うわぁ、凄いこれ、めっちゃ長持ちする! ほら実くん見てよー、まだ点いてる!」

「ん? ってうわ! こっち向けたら危ないって!」

「あはは、離れてるから大丈夫だよー」

 いや、火花めっちゃ目の前に落ちてるんですけど。楽しそうだからいいけど……。

「おい、これ赤と緑で二刀流にしたら、かっこええんちゃうか」

 こっちはこっちで何か企んでる。

「ふん! はっ!」

 両手に持った花火を剣のように振り回してみて、「どうや」という顔でこちらを見る。

 なんなんだこの親子。全力で花火楽しんでるじゃん……。推奨される遊び方かは置いておいて。

「まあ、ありですね。でも僕は……」

 花火の持ち手を両手の指の間、親指と人差し指の間以外に合計八本挟んで、火を点けた。

「名付けて、『鉤爪』!」

 その場でぐるりと回ってみる。

「うわぁ、ネーミングそのまんまやなぁ。てか一回で八本は贅沢過ぎるやろ」

 こういうのは勢いでやって、大抵後でちょっと後悔する。

 ちょっと恥ずかしくなっていたころ、由那さんが、

「え……それ、めっちゃ凄いじゃん! 私もやる!」

 言って、僕の真似をしだした。意外と受けていたみたいでよかった。

 そんなことをしていたからか、思いのほか手持ち花火はすぐに無くなった。

 その後はねずみ花火や吹き出し花火と楽しんで、最後に線香花火が残った。

「うわぁ、綺麗」

 小さな火花が由那さんの整った顔をゆらゆらとロウソクの火のように照らしている。「その横顔の方が綺麗」とかいうベタすぎる言葉が浮かんできたが、当然飲み込んでおく。

「静かな花火もなかなかええもんや」

 一本、また一本と残りの線香花火が減っていく。それは僕たちに残された時間のようにも思えて、いつも以上にまだ消えるな、まだ落ちるなと願ってしまう。

「実くん、ありがとね」

 花火を眺めていた由那さんが不意に口を開いた。

「え?」

「花火、用意してくれて。あと、数日だったけど、ほんとに楽しかった」

「そんな、僕の方こそ……楽しかった」

「また会えたら、その時はもっと、遊ぼうね」

「もちろん。次は僕の住む町においでよ、案内するからさ」

「うん、楽しみにしておくね」

 そして、最後の線香花火が落ちた。

 静寂が続いて、段々と目頭が熱くなってくる。


「そこの二人、なんや元気ないなー。ちょっとこっちに寄ってみ」

 言って、僕と由那さんの真ん中に入り込んで、二人の肩を両手で抱き寄せた。右手にはインスタントカメラが握られていた。

「えっ、ちょ……」

 聡さんはカメラをこちらに向けて一枚の写真を撮る。驚きで笑顔を作る暇もなかったのでたぶん僕と由那さんは目を丸くして写っているだろう。

「これでよし」

「ちょっと父さん、いきなり?」

「すまんすまん、二人が暗い顔しとったから思わずな」

「今しんみりした良いシーンだったのに」

「まあまあ、現実はそう上手くいかんっちゅうことや」

「なによそれ……」

 驚きはしたが、少し助けられたのも事実だ。あのままだと僕は確実に涙が溢れていただろうから。

「……もうすぐ、なんだよね」

 由那さんに問う。

「ええ」

 言って月を見つめる。

 僕と聡さんも空を見上げた。

 完全な丸には見えないが、今日もいつもと同じように空に浮かんでいる。

 やがて、

「そろそろ来る」

 由那さんが言った。


 大きな白い光が空から、否、月から降りてくる。

 ふわふわと光のベールを纏い、優雅に空を漂う様はまさに神々しい。

 やがて僕らの元へたどり着くと、段々と人の形へと変わっていった。

「お母様……?」

「久しぶりですね、かぐや」

 かぐや。それが由那さんの本当の名前なんだ。

「あなたは十五年の歳月をもって罪を償いました。よって月に帰ることを許可します。今宵はあなたを迎えに来ました」

 優しく微笑みながら言うその表情には包容力が溢れている。

「そして園田聡。今日までよくかぐやの面倒を見てくれました。ご苦労様です。今宵を持ってその役目からも開放されます」

「……ええ」

 神様からの労いの言葉にも、聡さんの表情は硬い。

「さあ、帰りましょうあなたの故郷へ。下界の質素な暮らしも終えられますよ。これを纏いなさい」

 差し出したのは、向こう側が透き通るくらい薄く表面はシルクのような素材にも見える羽衣だった。

「あの、でもお母様、それを纏ってしまうと……」

「ええ、この下界からあなたに関する記憶が全て消え去ります。美しく、跡を濁さず」

「そんな……!」

「そんな話、聞いてない!」

 僕よりも大きく声を上げたのは聡さんだった。

「どの道あなたの記憶からも無くなるのだから、伝えていても意味がなかったでしょう。さあ、かぐや」

 由那さんに羽衣が掛けられる寸前。


「俺の娘に触るなぁぁ!」


 言った瞬間、聡さんが駆けだした。大声に驚いた二人は聡さんの方を向いたまま固まっていた、そして聡さんは由那さんの手を引き本殿の方へ走り出した。

「ちょ、父さん!?」

「そんなことをしても姑息なだけですよ、まったく、これだから下界の者は」

 神様は特に焦る様子も無くじわじわと、本殿へ近づいていく。

 まずい。このままでは、捕まるのも時間の問題だ。

 何か使えそうな物は……、辺りを見回すが、神相手に通用しそうな物があるわけない。

 が、しかし視界の中に煌めく何かがあった。一瞬ただの水たまりのようにも見えたが、よくよく見ると正体はさっきの羽衣だった。聡さんが由那さんを引っ張った時に地面に落ちたらしい。

 もうこれしかない。

 僕は先のことも考えずに地面を蹴って走り出した。

 そして羽衣を拾い上げ、神様の頭に思い切り被せた。

 瞬間、神の体から発せられていた光がシャボン玉が弾けるように飛び散った。

 辺りは真っ暗になり、静寂に包まれる。


 秒数にして三十ほど、意識を失っていた神様は目を開け、口を開いた。

「ここは……下界? 私はなぜこんな所に……」

 僕はあっけにとられて、黙って見ていることしか出来なかった。

「あなた、なにか知りませんか?」

 明らかに目が合う。

 未だ無言のまま首を横に振った。

「そうですか……、うーん」

 初めて来た場所かのように、辺りを見回している。

「なんだか、この場所に私の大事なものがあったような気がするのですが……」

 無垢な言葉に少しだけ胸が軋む。

 その後もしばらく辺りを物色して、結局何も思い出せずに諦めが付いたのか、静かに月へと昇っていった。その背中は侘しさを背負っていた。


 呆然としていたところ、聡さんの声で我に返った。

「由那、由那! 大丈夫か!」

 僕は急いで本殿の方へ向かった。

 由那さんは意識を失っているようだった。

「由那さん! 大丈夫!? 聞こえる!?」

 二人で呼び続けることしばらく。

「ん……、父さん、実くん……大丈夫だから、少し、休ませ……て……」

 言って、眠るようにまた意識を失った。

 よかった、大事には至らなかったみたいだ。

 同じことを思ったのか、僕と聡さんは同時に一息吐いた。そして、目が合った。

「無茶し過ぎですよ」

「それはお互い様やろ」

 安堵感も相まってか、ここでお互い笑みがこぼれる。

「由那が俺を忘れるだけやったら百歩譲ってまだかまへん。けど、俺が由那を忘れて、そんな姿を由那が見たら、どれだけ辛い思いさせるか、そう思ったら勝手に体動いとったわ」

 笑いながらも感慨深そうに言う。

「あはは。かっこよかったですよ、『俺の娘に触るなぁ!』って」

「勘弁してくれ」

 冗談を言っていると、またもや僕たちを照らす光が現れた。

 それは、この『下界』にとって命とも言えるような光、太陽だった。

 大変なことがあったけど今日も日が登り、由那さんはここにいて、いつものように一日が始まる。当たり前のことが今はとてつもなく嬉しかった。

 僕たち三人は越えられないはずだった日を越えてここにいる。


 後は、由那さんの快復を待つだけだ……。







 電車に揺られて二時間ほど経ったころ、やっと目的の駅が見えてきた。

 小さな無人駅は今日も変わり映えの無い日々を憂うようにひっそり佇んでいる。

 停車すると、僕は扉付近にある開閉ボタンを押した。静かに開く扉と共にすっかり暖かくなった空気が入り込んで来た。

 今年もまた、夏がやってくるんだなぁ。

 まだまばらだけど確かに聞こえるセミの鳴き声が、夏の訪れを予感させている。

「相変わらずなにも無い所だなぁ」

 人っ子一人いない。

 座りっぱなしで固まった身体を伸びでどうにか解す。

「んー。よし、行くかー」

 僕はこの辺りで一番大きい山の中腹にある神社を見据えた。


 所々が木陰になっている階段を登っていく。

 やっぱりこの神社の周りは他の所より気温が低い。

 冬場はちょっと辛かったけど、今ぐらいの季節になるとちょうどいいくらいだ。


 パン、パン、一礼。

(神様、今日は多めに五百円いれときましたんでなにとぞなにとぞ……)。

 神に媚びを売ってから、神社から少し外れた所にある家を目指した。


 インターホンを押して待つ。この間に僕は、今更ながらまばらに鳴くセミの声と遠くに響く風鈴の音に気づいた。

 しばらくして家の中から足音が近づいて来る。

「おお、よう来てくれたな。疲れたやろ、上がり上がり」

 出てきたのは聡さんだ。

「お久しぶりです」

 気丈そうに手招きをしてくれるが、前に会った時より増えている白髪がなんとも痛ましい。

「昨日な、知り合いの農家さんから、ちょっと早いけどってスイカ貰ったんやけど、食べるか?」

 廊下を歩きながらそう問われる。

「いいんですか? ぜひいただきます」

 喉も渇いたしお腹も空いているから、スイカのように水分が多めな食べ物は今ちょうど良かった。

「ほな後から持って行くから先行っといてや、由那の部屋分かるやろ?」

「はい、ありがとうございます」

 もうすっかり憶えてしまったルートで僕は由那さんの部屋へ向かい、扉を開ける。

「久しぶり、由那さん」

 言いながら僕はベッドの側にある椅子に腰を掛けた。

「いやぁ相変わらずこの町ってなんにも変わらないね。それが良いところでもあるんだけどさ、もう少しくらいお店とか、せめてコンビニの一つでも出来てくれるといいんだけどなぁ」

 返事は返って来ない。

「さすがにこの話題もう飽きたよね、来る度に言ってる気がするよ」

 窓にあった風鈴がちりんと一回鳴る。

「そうそう、もう少しで入試があるんだ。結局前に言ってた大学、オープンキャンパス行ってみて結構良かったからさ、受験してみることにしたよ。やっぱり憧れの人が教授だって知っちゃうとさ、入学した時のこと妄想するとワクワクして諦めきらなくてさ」

 受験の動機が単純過ぎて自分でも笑ってしまう。

「そうそう、忘れてた。今日も本持ってきてるんだった、好みじゃなかったらごめんだけど、大丈夫、あの高階(こうかい)先生の作品だからきっと良い詩集のはず」

 言って本を開き、ひとつ目の詩を音読し始める。

 一言も返事を貰えないことにはもう慣れてしまっていた。

 そう、慣れた。けれどそれは悲しさや寂しさが無くなったわけではない。

 ふたつ目を読み上げている最中に部屋の扉が開かれる。

「すまんな邪魔するで。はいこれ、溢さんようになぁ」

 聡さんが、食べやすく切られたスイカをお皿に乗せて持ってきてくれた。

「待ってましたー、ありがとうございます」

 受け取ると、どうやら聡さんの分も持ってきていたみたいでもう一つあった椅子に腰を掛ける。

 シャクシャク、シャクシャク。

 二人とも無言で、咀嚼する音だけが部屋を行き交う。

 不思議と気まずいとは感じない。

「由那さんの容体は変化ありました?」

「相変わらずなーんも異常ないんやて、健康的な人間となんら変わりないって」

 そして吐き捨てるように付け足す。

「……ならなんで、意識だけは戻らへんねん」

 聡さんの拳が徐々に閉じていく。目線の先の由那さんは、小さな寝息を立て極めて安らかに眠っている。

 僕は無言で聡さんが次に言葉を発するのを待った。

「でもな、昨日この部屋の掃除しとったら、一瞬だけ手が動いた気がしてな、急いで手を握ってみたら、握り返してくれたような気がしたねん。いや、あれは気のせいやない……。確かに握り返してくれてた」

 聡さんはまるで自分に言い聞かせるように言った、それは恐らく気のせいだと自分でも分かっているからなのだろう。

 そんな幻に縋るほど聡さんは疲弊していた。

 当然だ。寝ても覚めても季節が巡っても、由那さんは変わらず眠ったまま、手も握れて抱きしめられる距離にいるのに、時間が経てば経つほど遠ざかっていくのだ。

 そんな状況が二年も続けば精神は疲弊してしまう。

 だが、聡さんがまだ諦めていないことも僕は知っている。

 いつ来ても部屋は掃除されていて、季節の飾りがしてあって、ベッドの横のテーブルには、いつも『みたらし炭酸』が置いてあって、来る度に賞味期限が新しくなっている。

 そうするのは、由那さんがいつ目覚めてもいいように、と思っているからなのだろう。

「すまん、詩読んでくれてたんやんな。俺も聴きたいから、続き読んでくれ」

「はい、……じゃあ読みますね」


 一時間ほどして詩集は読み終わった。

 聡さんは僕が読んでいる間、頷いたり思い詰めた表情をしたりと忙しそうだった。

 しばらく他愛もない話をして、

「じゃあ、また受験が落ち着いたら来ますね」

「もう帰るんか? もっとゆっくりしていったらええのに……」

「それが……実は、明日は試験なんです。まあ滑り止めのところですが」

「それは、大丈夫なんか……? もう少し落ち着いてから来たらよかったんちゃうんか」

「いやぁ、本当はもっと先の予定だったんですけど、なんか由那さんと聡さんに会いたいって思ったら我慢できなくて、あはは。馬鹿ですよね……でも、会えたので元気出ました。明日、頑張ってきます!」


 今回もダメだった。

 詩集を聞かせたり、多少話しかけただけで目覚めるなんて、やはりそんな都合のいいことは起こらないのだろうか。

 次来る時は違うアプローチをしてみよう。

 まだまだ、僕だって諦めていない。


 町を出る少し前。

 僕は由那さんと初めて出会った自販機へ寄った。

 相変わらずラインナップは同じだけれど、あの『みたらし炭酸』も残り続けてくれているので、それはそれで助かっている。

 未だにおいしいとは思えないが、癖になってきているのも事実だ。

 ボタンを押すと、当たり付きなのでルーレットが回りだす。

 残念ながらハズレ。

 取り出し口から、みたらし炭酸を取った。


 直後、

「それ、おいしいですよね」

 懐かしい声が聞こえた気がした。


 当然背後には誰もいなかった。


 でも、もしかすると、そう思い急いで園田家へ戻った。

 いきなり動いたので転けてしまったが痛みはなかった、それよりも早く確かめたいという想いが強かった。

 インターホンも鳴らさずに、由那さんの部屋へ直行する。


 扉を開けると、今まさに起き上がったような状態で由那さんが窓の外を眺めていた。

 驚いた由那さんと目が合った。


「誰……?」


 心臓が止まりそうになる。

 まさか、記憶が……。

 だけど、羽衣は纏っていないはずだ。それとも長期間の眠りでなんらかの障害が……。

 由那さんが、無言の僕を訝しげに見つめている。


「……もしかして、実くん……? なんか全然違うから、一瞬誰だか分からなかったよ」


 その言葉を聞いた途端、心の底から安堵する。


「由那……さん……」


 そして、ぽろぽろと涙が勝手にあふれ出てくる。


「……ごめん、私、結構眠っちゃってたかな……?」


「由那……?」

 気づけば、物音を聞きつけた聡さんも僕の後ろに来ていた。


「……父さん? ……ごめんね、私、待たせすぎたよね」


 聡さんは何も言わずに駆け寄って、由那さんを強く抱きしめた。

「由那……! 由那……、よかった、ほんまによかった……よかった、よかった……」

 同じ言葉を、何度も何度も呟いていた。


「ごめん……、ごめんね……長い間待たせて本当にごめんね……」

 由那さんも涙を流しながら、何度も「ごめん」を繰り返した。


 でも、最後は微笑みながらこう言った。

「ただいま」


 もうすぐ夏がやって来る。

 そしたら、次は秋だ。

 まだ見たことない、三人が一緒の秋。


 夏の灰のままでは見られなかった景色が、きっとたくさん広がっているだろう。

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夏の灰から @pearl-sora

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