ボクのマリ

染谷市太郎

ボクのマリ 前編

 両頬に触れてみる。肉球型のくぼみと、その上にある5つのささやかな爪痕。

 マリがボクを起こすために行った、ささやかな抗議の痕だ。顔に体重をかけ、切りそろえた爪を食い込ませる。とてもかわいい。

 ボクが朝起きないから、マリはボクを起こしてくれた。とてもうれしい。

「んなぁん」

 頬の痕を楽しんでいるボクに、マリは抗議の声を上げる。その声もいとしい。

 あまりにやにやとしていると、マリの抗議は過激になる。ボクは謝りながらご飯の用意をした。

 シラスとマグロの缶詰。それと動物病院に勧められたカリカリ。マリ専用の皿に入れていく。

 定位置で待っているマリに出す。遅いことに抗議するように尻尾で、しゃがんでいるボクの太ももを叩きながらご飯を食べてくれた。今日のご飯は気に入ってくれているようでよかった。

 マリがご飯の間に、自動給水機の掃除をする。夜中、マリが飲んだ跡がびたびたと残っている。

 雑巾で拭いていると、ご飯を終えたマリが背中に乗ってきた。マリはそのまま丸くなってくれた。マリの体重を感じながらボクは給水機をきれいにした。

 ボクの作業が終わると、マリは背中から降りてしまった。

 残念だったので、ボクは顔を洗ったり、朝ご飯を食べたりと自分の世話をする。

 狩衣に着替えて、ボクは外に出た。

 ボクは神社に住んでいる。まつられている神がどんなものなのかはよく知らない。聞かれたときは、適当にそれらしく答えているから、いつも地域の人が訂正に来る。神社では、マリと一緒にいられるから、神主の公募で就いた。

 竹ぼうきで、庭の清掃をする。きれいにしておけば、雇い主の地方自治体には文句は言われない。

 庭の枯葉を集める。集められた枯葉を、マリがばらばらにする。また集める。たいていこれを小一時間するとマリは飽きてしまう。とても残念だ。

 だから次はご神体の掃除をする。気配をかぎつけたマリが足音を忍ばせてやってくる。

 床をふいていると、マリがご神体の台に乗っていた。手元には榊の花瓶がある。

 マリを見上げるボクを確認して、マリのきれいな前足が動いた。

 あっ、とボクは飛び出す。床に着地する前に、榊の花瓶を手で受け止めた。

 ふぅ、と安心していると、もう一個の花瓶がボクの頭上に落ちてきた。ごつ、と音がして花瓶が床に転がる。幸い花瓶は壊れていなかった。よかった、花瓶を新調すると、マリにかけられるお金が少なくなってしまうから。

 今度マリに新品のベッドを買ってあげる予定だ。そうすれば、今よりも温かく眠れる。

 いそいそと花瓶を戻していると、マリは本殿の外にたかたかと出て行ってしまった。追いかけようとすると、マリの甘い声がする。

 ボクはひょいと、少しだけ恨めし気に本殿から覗く。

 そこには大柄の男と、すりすりと甘えているマリがいた。

 男は服に毛が着くのを避けるため、手でマリを避けている。せっかくマリが甘えているのに。

「おはようございます」

 男のはきはきとした挨拶に、ボクは適当に返す。

 男は学校で教師というものをやっているらしい。毎日出勤の途中でマリに挨拶に来る。

 決して近道ではないここに寄るのは、やはりマリが気になるのだろう。男はマリの命の恩人だからだ。

 マリは子猫のころ、男が住んでいたアパートの火事に巻き込まれた。

 ボクもそのアパートを借りる住人だった。詳細は覚えていないが、火元はボクだったらしい。

 火事の時、男はマリの小さな泣き声を聞きつけて助けに行ったらしい。

 マリはそれを覚えているようだ。マリは賢いから、自分を助けてくれた人を忘れない。

 マリは火事のあと、賠償に腐っていたボクのもとにやってきた。

 出会ったばかりのマリは、煙でいぶされひげもちぢれていた。片手にちょこんと乗るほどの小ささで、みゃあみゃあと弱弱しく泣いていた姿をよく覚えている。

 小さなマリにボクは、ボクが守らなければ、と思った。

 マリと暮らすためなら、仕事を探すこともできた。よく知らない賠償金を払うこともできた。

 マリがいなかったら、ボクは適当なところで首をくくってたと思う。マリがいたから、ボクはこうしてマリのそばにいる。

 ボクはマリが大好きだ。

 だから、マリを助けてくれたあの男は、マリに好かれていて嫌いだが邪険には扱わない。

 でも歓迎もしない。

 放置していると、男はマリの甘えたをすり抜けて職場に向かった。

 マリは男を追いかけるが、神社の入り口で止まる。そこから、みゃんみゃんと男を呼ぶ泣き声を響かせる。

 いつかその声を、ボクに向けてくれたらいいな。

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