「おはよう、兄弟」
冬月
「おはよう、兄弟」
「やぁ、起きているかな?」 兄は寝ている弟の元に近寄って独り言を呟いた。 「君は少し寝る時間が長いからね、僕はいつまでも待ち続けるよ」
数日、彼は弟の側に居続けた。病気で目覚めない弟の側に、彼は一睡もせず付き添い続けた。 兄弟は、弟が病気で目覚めなくなるまで至って平凡なただの家族だった。 「弟の病状は"眠り猫症候群"なんだ、何をしても、目は覚めないし反応もない。でも生きてる」 そう兄は言った。
ある医者は、必死で弟を助けようと努力した。 無駄だった。 ある医者は、治療を根気良く続けた。 諦めてしまった。 兄弟に父は居らず、母だけの生活だった。 父は、幼い頃に戦争で亡くなってしまった。 母は、それから一生懸命努力を続けていた。 無理が祟って、母は"不死症"に掛かってしまった。 何があっても死ねない、愚かで惨めな自分を、見せたくないと母は兄弟に言い、母は部屋に引きこもるようになった。 消失症、そして眠り猫症候群。この世界には、病気が溢れている。
「僕達以外の国の人が見たら、きっと、"奇病"だと言うかもしれない。」と、兄は言い、そっと寝ている弟の頬を撫でた。 「この国は、奇病しか無いんだ。
他の国で見られるどんな病気も、この国には当てはまらないし、治療法もこの国独自のものじゃないと症状を和らげることすら出来ない。」そう言って、兄は笑った。
諦めたような、安らかな笑いだった。
兄弟は皆優秀だった。
兄は、周囲の人間が羨む秀才で、大学にも進学出来るんじゃないかと言われた程に頭が良かった。将来は医者になると言い、必死に勉強を続けていた。
弟の方は、兄に教わった機械弄りと計算が得意で、しかもまだ13歳なのに蒸気機関の仕組みを理解してみせた。
2人とも、村の人に必要とされていた。
だからこそ、弟の"眠り猫症候群"の発症は村の人達に少なからず衝撃を与えてしまった。
村人たちは必死に完治する方法を探したが、この国のどこにも、それは見つからなかった。
"完治しない病"これを、一番大切に思っていた弟の側に居続け、宣告を聞いた兄は、何を思ったのだろうか。
「僕は、最初弟が目覚めなくて変に思ったんだ。でもちゃんと呼吸はしてたし、弟は普段より長く昼寝する癖があったからさ」
「でもまさか本当に弟が罹るとは思わなかったし、僕も最初のうちは認めたくなかった。でも、長い間目覚めない弟を見て"現実なんだ"って思って、次第に慣れていっちゃった」
「人間ってね、今まで見ていたものが急に変わっても、すぐに元の生活に適応していけるんだって、そう本に書いてあったんだよ。だから僕のも多分それじゃないかな」
兄は真剣そうな顔をしてこう言った
「僕は、医者になったら弟の病気を何が何でも治してあげたい。それが僕に出来る最大限の恩返しだから」
眠り猫症候群、それは…"ただ眠り続けること"しか判明していない未知の奇病。国内の症例は僅か2例であり、発見から15年経った今でも何も解明されていない。
名だたる医者がこの症例の改善、そして解明に当たったが、全てが無意味に終わってしまった。
ただ、最近になってやっと言えることは「脳への血流の遮断」で起きる可能性が高いと考えられている。
「おはよう、兄弟」
今日も、兄は目覚めぬ弟のそばに座り、弟の手を握り呟いた。
あれから数年が経ち、兄は今では少年ではなく、立派な青年へと成長していた。
「今日も昏睡したままだ、俺が医者になってから数ヶ月が経ったのに何一つ成し遂げてない…」
兄は歯軋りをして、こっそり呟いた。
「消失症に関しては俺も病状を解明したんだ、でも眠り猫の方は、脳への血流の遮断と、病原菌が関係しているとしか分からなかった。」
「悔しいよ、凄く悔しい、だって俺の弟はまだ眠りという毒、これに蝕まれてしまっているんだから」
あれから数十年が経ち、兄は経験豊富な医者となった。彼はその確かな技術を以ってして、確かで安全な治療を確立し、その名は国全土に知れ渡った。そして、季節は移ろい、この国は冬になった。建物の外に吹き荒ぶ吹雪をその目に映しながら、兄はこう言った。
「弟が眠ってから数十年が経ったが、俺は眠り猫症候群は治ると思うし、そう信じ続ける。例え何年掛かろうが、弟のためなら俺は何だってやってやる…そのために大学に行って、必死に勉強して医者になった。こんな所で現実に失望なんてしてられない」と。
他の医者は彼の事を「現実を直視できない頭のいかれたヤツだ」と称し、彼の研究や治療に協力さえしなかった。挙句の果てに、兄が発明した治療法の成果を盗み、勝手に自分の研究として発表する有様だった。
彼は「あのような、偉大で、功績もある方々が、俺の要請を無視して、自己の利益のみを追い求めているとはね。この国も、この国の医療も、随分と落ちぶれたものだ。」と現状を嘆いた。しかし、心は決して折らなかった。
彼は来る日も来る日も、研究に明け暮れた。体調不良を薬で誤魔化し、ひたすらに治験と思考を繰り返した。
あらゆる苦労も、兄弟を想う兄の前には無意味だった。
兄…いや、彼にとっては、国や世間に見放されるよりも自分の弟が永遠に世界と、成長した己の兄をその目に映すことなく、死んでいくということが耐えられなかった。
彼にとって、弟が目覚めぬままと言うのは、拷問よりも過酷な事だった。
周囲の人間から見放された後、彼の研究への没入は、周囲の人間がやや異常で、いささか恐怖を覚えるほどに「深く、深淵に迫りつつあった。」
研究に没頭している間、彼は周囲の人間の病状には全くもって何の関心も示さなかった。だが、治療記録は定期的に更新し、それを怠ることはなかった。
国内に於ける「病」において、最早彼と同じ段階に立つものが居ないと知らされた時であっても、彼は「あぁ、良かった」と、薄い反応のみだった。
兄は「俺は研究を続ける。例え何年、何十年、何百年掛ろうとも、俺はこの研究を完遂させなければならない」と自らを律し続け、彼はただがむしゃらに探求と、立証と、発表、そして研究を続けた。
しかし天は彼の熱中ぶりに心底不満を覚えたらしく、彼の研究は、体調不良によって一時的に中断された。
だが幸いなことに、彼の病状は極めて軽いもので、彼は軽度の頭痛と、不定期の目眩のみで済んだのだった。
彼は病に悩まされつつも、未だ覚めぬ弟の元に絶えず通った。数十年変わらず通い続けた彼にとっては、弟の手を握り、日々の報告をするのは最早、呼吸のようなものだった。
国中の建物を吹雪が叩きつける中でも、灼熱の大気が国を覆った時も、動物が目覚め始める時でも、農作物が実る季節であっても、彼は変わらず弟の元へと駆けつけ、自分の成果を弟へと伝えた。
兄の情熱の火は数十年が経過した今でも消え失せる事なく燃え続け、天如きではその炎の勢いを和らげることさえできなかった。
「ただいま、兄弟。俺は元気だよ」そう告げる兄の心は、最早如何なる存在、そして病であろうとも打ち砕くのは困難な程に強くなった。彼は、今となってもなお、幼い頃と変わらない純粋な意志と行動で、自らの研究を発展させていける心の持ち主だったのだ。
そして数十年が経過した。季節は春となり、柔らかい風が国中を駆け抜けた。そして兄は、この国の病の研究の第一人者となった。彼は、眠り猫症候群の原因となる「エジュネ」なる細菌を特定し、仕事という自分に課せられた社会的な役目を果たしつつ、抗体を抽出し、治験を経て、人々にこの良い知らせを伝えた。
そして幸いなことに、彼の弟にも、彼が生み出した薬は効いた。彼の数十年にわたる戦いは、今やっと、人々の目の前で、完結した。
彼は弟に向けて言った「おはよう、兄弟。体調はどうかな?」と。
彼の弟は、愛しい兄の顔をその目に映したまま、こう答えた「おはよう、兄さん。俺は元気だよ」と。
兄の苦痛は、今この時を以って、完全に取り除かれた。今後兄弟を阻む病が出てこようとも、彼らはそれを打ち破り、国に良い知らせを伝えてくれるだろう。
「眠り猫症候群は、この国において初めて完全に根絶された「病」である」
病に人類が立ち向かう、その第一歩となった快挙は、彼らが亡くなった数百年経とうと、様々な本に載り、今も尚その道のりと苦労を伝えてくれる。
「おはよう、兄弟」 冬月 @raikeru4132
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