第6話 - 2節『白百合とオレンジ』◇part.3

一匹でいる子熊を見ても、近づくな。


これは一般的に、熊が出る場所でのフィールドワークでは、有識者の常識とされている。

なぜなら、一匹でいるように見えても、すぐそばに母熊がいて、

子どもを守るためなら、いくらでも狂暴な行動をとるからだ。



カレンは、子熊がいる可能性を失念していた。

子熊が襲われていると思った母熊は、川からは視界の取りづらい、木々のスキ間を縫うように走り、

ほぼ無音で、森から川への距離を一瞬で駆け抜け、カレンへと詰め寄り。


カレンに飛び掛かりながら、一瞬で爪を振り下ろして――。




「うみみゃあああああああああ!!」



――吹っ飛ばされた。

まるでカレンに川の中に投げ返されたかのような至近距離から、青毛の熊は軽々と、カレンから見た真横の方向へ吹き飛ばされ、水面に当たった瞬間、大きな水しぶきをあげる。


そのどてっ腹は、真っ赤に燃え上がっていたからか、

大きな水の音とともに、水蒸気が白い煙となって、

熊の沈んだ辺り全体を覆ってしまった。


あまりに一瞬すぎる出来事に、

その場にいた全員が、動きを硬直させる。



「何が起きたの……!? あっ!」


おずおずと目を開いたカレンが、目の前の光景に困惑する。

その直後、青熊の反対側にいるに気づいて、思わず閉口する。



炎のようなオレンジの髪。

ふさふさのネコミミと、風に揺れるショートヘア。


黒のタンクトップの上から羽織った、

燃え上がるような赤のパーカー。


上着の赤系とは対極を象徴するかのような、青のホットパンツ。

その後ろから見える、もふもふの薄茶色のしっぽ。


そして……

土やすすで汚れ放題の、裸足。



今も、赤熱が止まらない『平(ひら)』の部分は白い蒸気を立てつつも、

両手で斜めに構えられることをやめない、巨大な頭部をこしらえる、

複雑な文様の入った真っ黒で巨大な、黒曜石のハンマー。


今の一撃はおそらく、

このハンマーで撃たれたものであろう。



「こないだの……ッ!!」


カレンは思わず、声をあげる。

もう会えないと思っていたから、カレン本人が思っていたよりも、大きな声が出てしまった。



「うみゃ!?」


その声にびっくりしたは、思わず振り返った。




▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼



一ヶ月ほど前。

カレンが、魔物除けのポールを建てていた時のこと。



「思ったより、野生の動物がいなくて安心した。

 よし、これでひと段落かな……。

 

 でも、不自然すぎる。

 こんなに色々あるのに、何もいないのは変だよね。

 もしかして、ね。


 いやいや、そんなまさか!

 気のせい気のせい、考えすぎだよね……」



人の声は誰もしない。

小さな滝の音、鳥のさえずりしか聞こえない場所。


川のほとりの草むらに座っているが、

そばには香りのいい草がいっぱい。


日差しもほど良い感じにあたたかく、

ひなたぼっこをするにも、最高のロケーション。



つい前日にここを見つけたばかりで、

その日は、一日中、レーゼ平原を歩き回っていた。


春先の、ぽかぽかあたたかなお日様。

二日連続で、町と片道1時間以上かかる場所を往復していたカレンは、

あまりにも心地の良い空気に飲まれ、眠気を誘われてしまう。



「ダメ、ここは町じゃないんだから。

こんなところで寝ちゃったら……」


フィールドワークだけで、眠くなるようなカレンではなかったが、

そばにあった紫の香草には、快眠をもたらす薬の効果があったようで、

そのまま意識が遠のいていった。


――――――

――――

――



激しい吐息が聞こえる。

寝ぼけながら、カレンは思う。



(あれ? ここってこんなに生暖かかったっけ?

 なんとなく、妙に暗いような……。

 

 あと、香草の香りじゃないし、

 これは……。


 ……あっ)



初めて会った何かと、目が合った。

森のくまさん。


どこかのメルヘンなおとぎ話だったなら、

一人になった女の子を見つけても、大切にエスコートしてくれて、

落とし物だって、丁寧に届けてくれたかもしれない。




しかし、目の前にいるのは。

熊。


しかも野生の熊だ。

すぐ目の前に、吐息が流れてくる。

手をのばせば、暖かそうな赤毛に触れることのできる距離。


あまりに突然の状況に、

冷や汗を通り越して、ただただ、無感情になる。

それでも、頭を回転させることは止めない。



(あっ、これお持ち帰りされるやつだ。

 死んだふりなんてしたら、かじられる。

 今すぐ逃げたい。


 でも、ここで逃げるような動きをしたら、

 爪を振り下ろされるに違いない。


 当たり判定は……。

 いや、逃げきれない。


 体を翻す速度よりも、爪を振り下ろす速度のほうが

 速いに決まっている。


 ライフルがあれば、頭だけをブチ抜いて、ほんの一瞬は作れただろう。

 だが、今の自分は標的とほぼ零距離。

 持っていたのは、二丁拳銃型の自動銃だけ……。


 一撃で敵を射止める武器ではなく、

 数で敵の動きを止めつつ、痛みでダメージを与える武器。


 冒険者用に市販されている銃に比べれば、

 カスタムされていて火力はあるものの、

 ライフルほど、単発の貫通力が優れているわけではない。


 あわよくば、振り上げた前脚に向かって乱射できたとしても、

 乱射しようと前に突き出したその一瞬に、そのまま爪を振り下ろされたら、

 自分もただではすまない。


 町までの距離は一時間以上。

 ここのことを知っている人は、まだ誰もいない。

 こんなところで重傷を負えば、帰れる保証は、全くない)



万事休す。

爪が静かに振り上げられる。


心の中で逡巡してみたものの、確実な回答は見つからない。

自分は獲物と思われたのだろう。



懐の影でわずかに光る黄金銃を取り、

ロックを後ろ手でこっそり外す。


今の状況で使えるのは、一丁だけ。

両方のロックまでは、外す余裕はない。


片目だけを正確に狙えれば、まだ逃げられる可能性は残るけれど。

爪の一撃は、おそらく高確率で当たるだろう。



眼光に向けて

銃を向けるのが先か。


爪が振り下ろされ

無常にも、お花畑で血しぶきの花を咲かせるのが先か。


いやいや、冗談を言っている場合ではない。

生存率は高くないが。

少しでも、上げるしかない。



(カレン、覚悟を決めろ)


走馬燈って何だっただろう。

彼女の脳裏には、何も出てこない。

一寸先は、闇なのに?


一秒が千秒に思われたこの状況で。

黄金銃を眼光に向けて銃撃を発射、爪が振り下ろされ――



「うみみゃあああああああああああああああ!!!」


――なかった。



横から振り殴られた漆黒の何かが、赤く燃えながら、

熊の顔面を真横からしっかりとらえ、吹き飛ばした。


真横から川のほうへ吹き飛ばされた熊は、

そのまま派手な水しぶきをあげ、浅い川へと埋もれて沈んだ。


その一瞬でカレンが感じられたのは、

真夏でもないのに暑くて、太陽のように身体が燃え上がりそうな、熱。


放たれた銃弾は、標的の眼球が大きく吹き飛ばされたことで、

何かに当たることもなく、虚空を駆け抜けていった。


まるで、焼けた石を川にいきなりぶちまけたような。

じゅううう、と何かが焼けるような音が、カレンの耳元をざわめかせた。



「だいじょうぶ?」

「え……、あっ、うん」


あまりに力強い一撃とは裏腹に、

聞こえてきたのは、とてもかわいらしい女の子の声だった。

特徴的な、オレンジ色の髪。



「ごめんね、熊を追いかけてたら、逃がしちゃったよ! 

 危なかったけど、何とかなって良かった!」


突然のことが何度も起きているからか、

何を言ってるんだろう、といった様子のカレンに、

女の子は微笑みかけ、水に沈んだ熊のほうへ駆けつけていく。



「あーあ……水に沈んじゃったなぁ。

 しっかり焼いたら、まだおいしく食べられるかなぁ。

 よいしょっと……」


なぜか、赤熱を発していた漆黒の何かは、

いつの間にか消えていて。


熊を軽々しく持ち上げた少女は、

そのまま走り去ろうとする。



「そんなところで寝てたら、風邪ひいちゃうよ!

 おうちに帰ろうね!」


ここがどこかを忘れるほどに、軽くて快活な声色に、

小さく手を振るしかないカレンは、

彼女の姿を焼きつけるのみだった……。




▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼



「うみゃ?」


本人は、どうしてそんなに驚いているのだろう、といった様子で

真顔のまま振り返る。



「このあたりに住んでるの?」


もっと先にきくべきこともあったはずなのだが、

思わずカレンは、質問してしまった。



「住んでる……のかな?

 よくわかんない。


 でも、おいしいものは

 いっぱい食べられるかも!」



もう何もかもが、意味不明だ。

どうしてこんなところに、人が住んでいるのか。


もふもふのしっぽも生えているから、

獣の耳がついている『獣人族(アニマ)』であることは、

見たまま分かるのだが、


話に聞いていた雰囲気とは

かなり違う気もする。


かわいい。

耳としっぽ、触ってみたい。


カレンはそんな、セツナの誘惑を振り切る。

なるべく冷静に理性を働かせ、彼女のことを分析しようとする。



『先住獣人族(レッサーアニマ)』の存在。

話には聞いていたが、一度も見たことはなかった。


あやしげな儀式を行いながら、一種の文明的な生活を成立させているタイプのアニマとは違い、獣人族の身体能力の高さを生かした、原始的な生活をしているという。


……それにしては、目の前の少女フレアは、

綺麗な身なりをしている気もするけれど。



「いやいやいやいや!」


全力でカレンは否定する。



「待って、夜は一体どうしてるの?」

「はにゃ?」


何を言われているかわからない、という感じの回答に、

本気でわけがわからない、とカレンは狼狽する。



「アンティシア……。

 夜に影の化け物が襲ってくるの、どうしてるのかなって」


「……? 何のこと?」

「え?」


本気でわかっていない様子に、カレンは本気で困惑した。

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