魔界Quest

鷹山トシキ

第2話 坂東

 数日後、流星は坂東に来ていた。

 今日の朝食はLAWSONでサンドイッチとホットドッグを食べた。ドラクエウォークで中ボスと戦ったがまだダメ。花粉で目が痒い。

 坂東市は、茨城県西部、利根川北岸に位置する。首都圏内で消費するレタス・ネギ(生産量全国トップクラス)、白菜等の農業(近郊農業)が盛んである一方、工業団地も設置されている。


 洪積台地(猿島台地)であることから田畑の間に林野が多く残され、ゴルフ場などとして利用されているほか、開墾以来の面影をそのまま残す地域も存在する(庄右衛門新田、河原新田など)。またその地の利を生かしてさしま茶も生産されている。


 平将門の本拠地があったという伝説が残っているが定かではない。

 平将門の胴塚にやって来た。

 流星は転んで足を怪我した。だが、痛みはなかった。そりゃそうだ、死んでいるんだから。

 杉咲玉って田中裕子に似たバーさんが言っていた。田中裕子は沢田研二の奥さんだ。

『この世界から出ていきたいなら、将門公を倒すことじゃ』

 流星は自分を殺した犯人を見ることなく死んだ。

 祐実に会いたくて仕方がなかった。

 

 平将門は朝廷に対して乱を起こすも、天慶3年(ユリウス暦940年)2月14日、平貞盛・藤原秀郷連合軍との合戦の最中に流れ矢を額に受け、現在の茨城県坂東市岩井付近で38年の生涯を閉じた。


 伝承では、平将門の首は京都まで送られ、京都大路に晒され、後に武蔵国豊嶋郡柴崎村(現在の東京都千代田区)に葬られたとされるが、他に埼玉県幸手市などにも、将門公の首塚とされるものが存在している。


 一方、首と離れた将門の胴を葬った「胴塚」に関しても、以下のように複数の伝承がある。


 下総国猿島郡岩井村(現在の茨城県坂東市)の神田山(かどやま)延命院境内に弟の平将頼らによって密かに葬られたとする伝承。当地は、平安後期に伊勢神宮へ寄進された相馬御厨の神領であったため、塚はあばかれることなく現在に至っているものという。胴塚の西には、元は千代田区大手町の将門の首塚にあった南無阿弥陀仏の石塔婆が、昭和50年(1975年)、東京の将門塚保存会から寄贈され、移設されている。この地が胴塚とされることについては、かなり新しい説のようだとの見解がある。なお、『関宿伝記』には、神田山延命寺に将門の首を納めた塚があるとの伝承に関する記載がある。

群馬県太田市只上町にある只上神社の胴塚の伝承。伝承によると、藤原秀郷に討たれた将門の遺体は、下野国小俣の鶏足寺へ運ばれる途中、上野国山田郡毛里田村只上の地で声を発したことから、藤原秀郷の人足らはこれを怖れて、将門の胴をここに葬り、祠を建てたという。この祠は「胴筒の宮」と呼ばれ、只上神社の前身となったとされる。

「守谷誌」による、下総国北相馬郡山王村大字岡字仏島(現在の取手市岡)にある古墳(仏島山古墳)は、将門の遺体を葬ったものだとする伝承。


 将門戦死の故蹟とされる下総国猿島郡岩井町の国王大明神社にその名をちなむ常陸国真壁郡大国村大字大国玉字公帝に所在する将門塚が、将門の胴を埋めた地であるとの伝承。


 平将門の創建になると伝えられる茨城県守谷市高野の大雄山海禅寺には、将門と影武者7人の墓(供養塔)があり、将門の墓は将門の胴塚であるという伝承。

 

 残念ながら妖怪は現れなかった。

 

 茨城県警捜査一課の本田さくらは、中谷美紀に似ているって周囲からはいわれている。勝地涼に似た男性の死体を見て吐きそうになった。現場は坂井城跡だ。

 逆井城は、下総国猿島郡(現・茨城県坂東市逆井)にあった戦国時代の日本の城(平城)。落城後、後北条氏によって大規模に築城しなおされたため、それ以前の遺構と後北条氏時代の遺構が重なっている。はじめの逆井氏の城を逆井古城、後北条時代の城を飯沼城ともいう。

 北側に西仁連川用水を臨み、西に入江だった蓮沼が存在する台地の先端上に位置している。西仁連川は江戸時代の干拓の際に沼の西側外周部が掘削されたもので、干拓前は飯沼という南北30kmに広がる沼が城の北方に存在していた。この南北に細長い飯沼は逆井城の北で東西に蛇行しており、城はこの沼の歪曲部に位置し沼に囲まれた「後堅固の城」でもあった。


 北崖を飯沼が洗い堅固なため、本丸が最北端に位置している。南側に曲輪が連なり、大軍も収容できるように大規模な構造となっている。


 築城は享徳年間ごろといわれる。小山義政の五男・常宗がこの地を領して逆井氏を名乗り、この城を居城にしたという。しかし常宗の孫・常繁のときの天文5年(1536年)、古河公方方であった逆井氏は後北条氏と対立した。そのため後北条方の大道寺盛昌の攻撃を受け逆井古城は落城、逆井氏は滅亡したと伝わる。ただし落城年がこの地域への後北条氏の進出時期に合わないため落城時期には異論もある。


 後北条氏の勢力下に入った逆井城は、天正5年(1577年)、玉縄城主北条氏繁によって藤沢から技術者が呼ばれ、新たに築城されることとなった。逆井の地は北条氏にとって下野・常陸方面への侵攻の最前線であったためである。後北条氏の最新の技術が投入された飯沼城には氏繁が入り、佐竹氏・多賀谷氏などと対峙した。天正6年(1578年)、氏繁は逆井城で没し、その後を子の氏舜・氏勝兄弟が継いだ。風魔小太郎の子・風魔孫右衛門など忍者集団300人が拠っていたともいう(『関八州古戦録』)。


 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐による後北条氏没落に伴い、廃城となった。


 城址は公園化され、櫓・土塀・櫓門・木橋などが復元されているが、これらは発掘調査に基づいた時代考証を行い復元されたもので、中世城郭の姿をできるだけ忠実に再現している。また復元位置をずらして遺構の保存を行っている。西二ノ曲輪は逆井城以外からの移築建造物・復元建造物が存在する。関宿城の薬医門、復元された古河城書院礎石など。本丸殿社の位置には堀之内大台城の御殿が復元されている。


 また「鐘掘り池」という池もある。池の名の由来は、逆井城落城時に城主逆井常繁の室(娘とも)の智姫が先祖伝来の鐘を被ってこの池に入水したと伝えられたため、この鐘を探すために後に何度も池が掘り返されたことにちなむ。

 

 遺体は池に浮いていた。


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る