第1話 ハンニバル

 歴史上最高の知将はと聞けば、必ずトップに上がるのはハンニバル・バルカスである。

 これは人間の愚かさの証明であると私は考える。


 ハンニバルはカルタゴの将軍で、新興国家カルタゴの軍を率いて当時世界最強であったローマ帝国に戦いを挑み勝利を収めた。これによって世界最高の知将と呼ばれるようになった人物である。

 だが、その内容を知れば世界一の知将というよりは世界一の愚将であるとしか思えない。つまりハンニバルを持ち上げる人間はナニも考えていないのだと私は思う。

 ハンニバルは奇跡とも言える偶然に助けられて勝っただけであり、その行いは褒めるべきところが一つもない実に酷いものなのだ。


 必勝を期したカルタゴ軍を率いたハンニバルはローマ帝国に向かう途中にローマの軍団にぶつかり、パニックになって逃げた。その逃げた先は山岳地帯であった。

 平地でこそ力を発揮するファランクスが山に追い込まれた時点で負けは確定である。ろくな備蓄もなく山岳に籠っても飢え死にが待っているし、何よりもそこは獰猛な山岳民族の縄張りである。そんなところに迷いこんでも長くは生きられないのは明らかだ。


 そこでハンニバルが思いついたのがアルプスを越えてローマ本国を襲うことであった。これがハンニバルのアルプス越えと言われ、彼の天才性を示すものとの論拠とされている。


 何の装備もせずに大山岳地帯を越えるのだ。これはその場の思いつき。兵を率いる者が絶対にやってはいけないこと。


 このアルプス越えにより、カルタゴ軍の秘密兵器であった象兵二十頭の内、生き残ったのは僅かに二頭であった。空気が薄く寒さの厳しい山岳地帯を熱帯性の象が越えるのは元より無理なのである。

 また山岳地帯を住処とする蛮族部族に予め話を通していなかったために、侵入者と見なされて彼らの度重なる襲撃を受け続けることになった。兵員は殺され、食料は盗まれるを繰り返したわけだ。土地勘に優れた山岳民族の一方的な蹂躙であった。

 その結果、アルプスを越えた時点でカルタゴ軍の三割は死にさらに三割は凍傷と飢餓で重病者となっていた。戦えるのはわずかに三割。散々な有様である。

 しかしここで幸運が作用する。ローマ帝国は豊かになって以来、兵員不足に悩まされていた。金持ち喧嘩せずの道理である。そのため本国にはほとんど兵を置いていなかった。

 まさかのアルプス越え。たとえ出来たとしてもそれを行った軍はボロボロになるし、その後が続かない。ローマの都市を襲撃できるだけの余力が残らないのだ。だから誰もこの可能性は考えなかった。

 カルタゴ軍のこの突然の襲来に驚いたローマ本国は、慌てて退役兵、つまり老人と障碍者を集めて軍団を作り上げ、カルタゴ軍と対峙した。

 カルタゴ軍は飢えと凍傷でボロボロ。ローマ軍は急造の老人の軍隊でバラバラである。

 密集陣形ファランクスはローマの伝統的な戦法であるが、十分に規律が取れていない場合、前後移動すらできないという欠点がある。無理に移動すれば陣形は崩れてただの烏合の衆になってしまう。

 結果として両軍は睨みあいのまま動けなくなってしまった。動いた方が崩壊するのである。

 だがここでカルタゴ軍に残されたもう一つの幸運が微笑む。一緒に連れてきていたヌミディア騎兵である。この騎兵たちそもそもが騎馬民族なので恐ろしく強い。急造のローマ騎兵など相手にもならず、身動きできないローマ軍のファランクスを叩き潰してしまったのである。


 こうして敗北したローマ側はローマという都市を使った防衛線に移行した。

 ローマという都市は元々が要塞都市であり、複雑に入り組んだ街路にバリケードを築くと恐るべき死の要塞へと変じるのだ。こうなるといくら最強のヌミディア騎兵といえども突入はできない。迷路の中で上から矢を射かけられたら必ず死ぬからである。

 そしてハンニバルは十年に渡りローマ郊外で突入もできずに機会を待つことになる。

 この時点ですでに連れて来た兵の半数は死んでいるのだ。戦利品一つ持たずにカルタゴに帰るわけにはいかない。死んだのがカルタゴ市民兵である以上は、帰れば遺族に対する莫大な賠償請求が待っている。それを払わなければ二度と市民軍は編成できない。 ローマを手に入れる以外、ハンニバルに未来はないのだ。

 アルプス越えなどという後先を考えない行いのため、ハンニバルはローマに突入もできず、本国に帰ることもできないという抜き差しのならない状況に陥ってしまった。


 十年の間周辺の都市にハンニバルは働きかけた。一緒にローマを攻めようと。

 無駄な行動であった。撃破されたのはわずかな老人兵たちであり、依然として大国ローマは目の前に立ちはだかっていたのである。この状況で周辺国家がハンニバルに力を貸すわけがない。

 カルタゴはこの遠征軍のために莫大な維持費と援軍を払った。そう、国の財政が傾くほどのものを。本国ではいつまで経っても帰ってこない兵士たちの身を案じただろう。そのほとんどが死んでいるとも知らずに。

 その間にローマは新しい軍団を作り、将軍を養成した。そして敵の中でもっとも恐るべきもの、つまりヌミディア騎兵を買収して自分の側につけてしまったのだ。

 恐らく愚かなハンニバルは前回の戦闘での立役者であるヌミディア騎兵の役割を正しく理解していなかったのであろう。ハンニバルは嫉妬からヌミディア騎兵に辛く当たり、冷遇したのではないか。そうでなければカルタゴ近辺の部族国家であるヌミディア騎兵がローマ側につくことなどあり得ないのである。


 十年が経ち両者は再び激突した。

 性懲りもなくハンニバルが揃えたのは象兵であり、これらはまったく役に立たなかった。ハンニバルは知らなかったようだが歴史的に象兵が役に立った戦いは一つもないのである。象は賢すぎて、敵軍と血みどろの戦いをするぐらいなら自分の背中の御者を叩き落して逃げる方を選ぶという楽しい性質がある。

 今回もスピキオ将軍が居並ぶ軍勢に隙間を空けると象はその間を駆け抜けて逃げてしまった。

 アルプス越えといい今回といい、ハンニバルが一度でも実験をしていれば象が役に立たないことにすぐに気が付いただろう。体が大きいから強いだろうという単純な思い込みを、十年経っても修正できなかったのがこの愚か者である。

 こうしてハンニバルは負け、逃亡中に捕まりその生涯を終えた。

 カルタゴの城壁は砕かれ、その土地には呪いの儀式としての塩が撒かれ、そして国は滅んだ。


 彼が世界一の知将だとは私は口が裂けても言わない。

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