母の顔

 洗面台の前に立って歯を磨いていると、母も同じようにして隣に並んだ。鏡越しに自分の顔を見ると、血の気に満ちていて、満ちすぎた挙げ句に左のこめかみのニキビが赤く腫れていた。

 ふと母の方を見ると、それはもう、皺が多くって、染みも多くって、頬の肉は垂れていて、皮膚の黄色い顔があった。私の大好きな顔だった。私は泡になった歯磨き粉を流しへ吐き出した。

「お母さん、歳とったね」

「まあでも、還暦するにしては皺少なくない?」

「そうだね。でもつるつるの顔より今のほうが断然好き」

私は泣きそうになった。母の死を考えた。

「お父さんが死ぬのは高校くらいの時から考えてたから泣かないだろうけど、お母さんが死んじゃうのは考えたことないなあ。多分、泣くな」

鏡の向こうの母の顔を見られなかった。母はふっと笑い、口をゆすいだ。

「あと20年は生きないだろうから、心の準備しておいてね」

そう言って私の肩をぽんと叩くと寝室へ向かっていった。私はさっき見た母の顔を脳裏に映しながら口を濯いだ。じんと涙が滲んでくるような感じがした。


 お父さんの死はおそらく、それほど悲しくはない。なぜなら、私は父の半身だから。父が受け継いだものを、次は私が受け継ぐ。それは名前であり、使命であり、ずっと前の代から行われてきた。父は父としての使命を全うし、私は私の使命を全うする。その上で悲しいことなど、どこにもないのだ。

 しかし母はどうだろう。母はそれを知らないし、きっとわからない。母は母として生まれ、今まで生きてきて、そして死ぬことになる。父と私は、家だとか使命だとかいろんなもので結ばれているが、母と私を結ぶのは、血だけなのだ。それがすごく寂しくて、しかしだからこそ、私は母を誰よりも愛したいし、愛している。私は父の半身である以前に、母のお腹から生まれてきた、母の子なのだ。私は今この限りある尊い時間を、胸に抱きしめていかなきゃいけない。棺桶で安らかに眠る母の顔はまだ見たくない。

 私は寝室に顔だけを入れ、「おやすみ」と言った。母も私に「おやすみ」と同じように返した。

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