第9話 逃がしたくないし、逃げられもしない。
次の日、マノンは教室にいなかった。
念の為にと教室内を見渡し……ノエルの姿を見かけた瞬間、背筋にゾクリと悪寒が走る。
彼女は(彼は?)人を簡単に殺せる人間で、それを悪びれもしないのだと、わたしは知ってしまった。
脳裏に、首を絞めた感触が蘇る。……人を殺すのは怖いことで、理性があれば歯止めがきくはずの行為。そのはずなのに……。
「浮かない顔してるわね」
こんな時に限って、ノエルは話しかけてきた。
「最近、元気がなさそうよ。大丈夫? 相談にならいつでも乗ったげるわ」
面倒見の良さそうな笑顔の裏で、何を考えているのだろう。わたしには、想像すらできない。
「……カミーユと、仲が良いの?」
何も話したくなかったはずなのに、わたしの口からは、勝手に言葉が溢れ出た。
「ええ、友人よ。去年の展覧会で出会ったの」
それならわたしが出会うよりずっと前から、彼らは友人だったことになる。
もやもやと、胸の中に黒い感情が広がっていく。
「ああ、そういえば、今年もやるらしいわね。見に行くの?」
展覧会。そう、きっと、わたしを無視して描き続けたあの絵が飾られるのね。
カミーユ。あなた、わたしより大切なモノをいくつ持っているの?
わたしは、あなたの中で……どれだけの順位なの?
「……ねぇ、どうなの? 黙ってちゃわかんないわ」
ノエルの声で、はっと顔を上げた。
彼女には関わりたくない。そう思っていたはずなのに……
「何かあった? 話ぐらいなら聞いたげるわよっ」
その気前の良さが、演技だとわかっている。
作り上げた優しさが罠だってことぐらい、わたしには分かる。
でも、指摘すれば餌食になるのはわたしだ。
「カミーユと、距離を置きたいの。……伝えてくれる?」
ああ、これじゃ、その言葉じゃ、ただのずるい女じゃない。
相手に直接切り出せないまま、その友達に頼って……しかも、別れでなく「距離を置きたい」なんて曖昧な言葉。
わたし、こんなに卑怯な恋をする女だった?
グレーの瞳がじっとわたしを見つめている。紅を引いた唇が、断ることをどこかで望んだ。
「良いわよ」
ノエルはあっさりと承諾し、
「カミーユも同じこと言ってたわ」
そう、答えた。
***
空虚な時間が流れた。
新たに恋をすることもできず、彼の面影を振り払うこともできず、ただただ季節だけが過ぎていく。
マノンはいつの間にか、また教室に来るようになった。
「ノエルさんのおかげで助かった。私、あの人のこと誤解してたのかも」
その笑顔を不気味には思ったけど、彼女が元気になったことは確かだった。
きっと、よっぽど殺したい相手だったのだろうし、詳しく知る度胸はない。
このまま炎が消えてしまうのを待っていれば、時間が解決してくれる。
そう、思っていたのに。
「……おや、久しぶりだね。芸術家は懲りたと思ったんだけど……って、おーい?」
ポールの声かけには応えず、雑然とした作業部屋を進む。
展覧会には結局行かなかったし、ノエルも卒業した。彼と私の接点は次々と失われていったのに、それでも、忘れられなかった。
炎は消えるどころか、彼に会わないことでさらに燃え上がっていく。……どうしようもなく、求めてしまう。
亜麻色の髪を見つけた途端、心臓が跳ねた。
もう一度、あの瞳にわたしが映る瞬間を……彼の腕に抱かれ、口付けを交わす時間を、夢に見ていた。
「カミーユ」
わたしの声が聞こえないのか、それともわたしのことなんか忘れてしまったのか、彼は振り向かない。
キャンバスには珍しく、人物画の下書きがあった。女が描かれているけれど、それが誰かは分からない。
彼は大きくため息を着くと、おもむろに鉛筆を取り出し、引き裂かんばかりの勢いで絵を殴りつけた。
「違う!!!!」
聞いたことのない大声が響く。周りは一瞬こちらを見たが、「また?」「今日はあいつか」「ぼくもこの前ああなった」と作業に戻る。
肩で息をする彼に釘付けになったのは、その場でわたしだけだった。
やがて彼はフラフラと立ち上がり、カバンを手に取る。
「帰る」
「慣れない題材なら仕方ないよ。テキトーにやればいいのに」
「……ポール。僕さ、君のそういうとこが嫌い。自分に才能あると思うなら、ふざけないで真剣にやりなよ」
「うーん……手厳しい」
わたしに気付かないまま、カミーユは教室の扉に手をかける。
「カミーユ!」
思わず、声を張り上げる。
そこで初めて、彼はわたしを見た。
「…………え?」
蒼い瞳が見開かれる。
「会いたかった……!」
胸に飛び込むと、彼は情けなく倒れ込んだ。
「……は、ははは……もう、参ったなあ……」
力なく笑う彼を抱き締める。……もう、逃がしたくない。いいえ、逃がさない。
「君のせいだよ」
震える声がわたしを責める。
「君がいなくなったせいで、描けなくなった」
細い腕が、わたしの背中に回る。
そう、それでいいの。わたしから離れないで。わたしだけを見て。
他のすべてはどうでもいい。あなたがわたしを求めてくれるならどうだっていい。
わたしは、あなたとは違う。トクベツな「何か」を持たないありきたりな女。……それでも……あなたを愛してる。あなた以外いらない。
この恋だけは、ホンモノなんだから。
破滅に向かっていると知りながら、互いを壊す恋だと知りながら、それでも頼りない背中にすがりつく。
……後戻りなんて、とっくに出来なくなっていた。
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