宿根の星 幾たび 煌輝を知らんや

@HAKUJYA

宿根の星 幾たび 煌輝を知らんや

領国との均衡が崩れる。

君主の崩御を表ざたにするには時期が悪すぎた。

渤国の君主である量王の心そのまま、外海を境に眼前の渤国は微かな霧にけぶりその姿を現さない。


いま、天領の地でさえ渤国の間者が入り込んでいる。

御社の瑠墺でさえ、血生臭い匂いをかぎ、君主の元に参じてきていたが、間者の横行は目に余る。

一説に君主の崩御の裏にも間者の企てがあったともいう。

齢五十五。死に急ぐ年齢ではない。毒を盛られたともいう。急逝すぎたせいもあるが、瑠墺の天文敦煌の知識によれば、天運星の語る通りであり、君主の宿星も衰退を表していた。国が滅びる。この運命を読んだ瑠墺の胸中やいかばかりであったか?

君主の崩御の原因が病気であれ、暗殺であれ、どの形にせよ、亡国への軋みが始まる。

国が滅びると判っておりながら、この国に留まるか?小手先だけの崩御の揉み消しがどうなろう?亡国を少しばかり遅らせたところで、いずれは、渤国量王の腕(かいな)の中。

瑠墺の身の上もそうか?

瑠墺は重臣孝道の檄におじける小姓に近寄っていった。

「柩は宮中の中庭。えんじゅの木の根方に・・・」

孝道が瑠墺に気が付くと、瑠墺は軽く頭を下げた。

「聴こえたろう?とにかく内密に・・」

小姓はまだ乾かぬ頬のまま、孝道に礼をかえすと、君主の臥する部屋に歩みだした。

小姓が歩み去るを見届けると孝道は瑠墺をふりかえった。

「この時期にとんだ事になってしまった。量王はこの国を侵食するきでおる」

血気あふるる若き量王は、この三年の間に自国の領土を武力による圧政で増やしていた。

外海の向こうの大陸に、四つの国があったのはすでに三年前のことになっていた。

だが、血気だけで、武力だけで大国を統合し支配下におけるかというと疑問である。

隣国を乱し、崩壊させた挙句僅か三年で一国のものに統治する。

「手腕と人望・・・類まれな運気。天は量王に加担するしかなかったのでしょう」

暗にこの国の滅亡をにおわしてみるが孝道は気が付かぬ顔で瑠墺に頷く。

素知らぬ顔で相手の技量を認めるところを見ると、孝道の腹は決まっているのだろう。

死に場所を定めた男は抜けるように明るい。

「いずれにせよ。おめおめ引き下がっては、いずれ遇わす顔がない」

一矢も報いなからば、いずれ君主のおわすいそはらに登るさえかなうまいと、孝道は笑う。

「共に滅ぶか?」

瑠墺の問いは己の進退を量りかねてのことでもある。

「ほろばぬわ」

孝道は苦い顔をした。

「そうか・・」

国が滅ぶ前に孝道は死ぬつもりでいるとみえた。


「巨星・・落つ・・なれど・・」

瑠璃波の言葉が量王の腕の中で途切れると量王は先を尋ねる。

「いらぬ・・男がひとり・・」

「どう・・いらぬ?」

「私にはよめませぬ・・」

瑠璃波の思念でもよめぬ?

「わからぬからか?」

瑠璃波が要らぬ男とその存在を疎むのはなぜなのか?

「味方に引き入れたところで役に立たぬ。敵に廻したら・・」

又、瑠璃波の言葉が途切れるのは星の運気をよんでいるせいであろう。

「天下を取る男でもない。だが・・」

言い渋る瑠璃波の身体をよせつけると

「おまえは・・」

言葉を選んだ。「量王が四国を治める男になる」と瑠璃波は近寄ってきた。

瑠璃波は星を読む。この特殊な才能で量王を見極め、己の地位を確保した。

瑠璃波は策士であり、量王の女である。

愛情というものとは、程遠いが量王にはどちらの瑠璃波も必要であった。

「そやつが天下を取る男なら・・・わしをすてるか?」

瑠璃波はかすかに首を振って見せたが、結句、瑠璃波がここにいる理由はそれでしかない。

女のくせに、天下国家を掌握したいか?

男なら量王に取って代わる所であろうが女である瑠璃波は己の手の中に天下を掌握した男を捕らえてみせる。

その才能と女である事を武器に量王を手中に納めている。

「こやつは・・・」

また、黙る。

「よ・・めぬ・・」

読めぬから怖しいだけであろう?

深い海で泳ぐ人間が海の深さを意識したら泳げぬようになる。

「よんでみたとて・・なにもありはせぬ・・」

「そうであろうか?」

瑠璃波よりいくらか念が強い。それだけのことであろう?

「だが・・・。この不安はなんだという?」

量王にすがりつきだした瑠璃波はか弱い女になる。

量王の後ろで天下を政ろうかというほどの女が見せる、意外なか弱さが量王の心を曳き、瑠璃波を牛耳る男が生じる。

「喪に服されもせず・・帝は中庭に隠されるかな?」

「ご推察の通り・・・」

あとは小さな瑠璃波の喘ぎに変わり、量王の褥は文字通り夢中になる。


代を継ぐ皇子は父の棺の前をかたぐ。

柔らかな土をすくい棺にかける頃に、皇子の執着はきれてゆく。

「とにかくは、間者をこれ以上・・・」

やっと取るべき執政の一つを口に出すと瑠墺を自室に同道させた。

「どう・・おもう?」

唐突に尋ねられた意味を察しながら瑠墺は尋ね返した。

「なにがでしょうか?」

皇子が迷うのは当然量王の侵略のことである。

皇子は皇位も継がぬまま亡国の末代として流刑の民になる。

せめてもそれが量王の差し延べる救いである。

星も流離の色を見せているが、口に出す事は瑠墺には辛い。

「生きておれるのは・・・あと、どのくらいだろう?」

「そのお覚悟であるのならば」

瑠墺はやっと重たい口を開いた。

「それまで、無駄としりつつ間者を絶つのも、無益か?」

亡国の時は近い。無益に人の命を絶ち、争いを起こし、民を苦しめるなら、あっさりと量王に座を譲り、国を譲るか?

皇子の問いに瑠墺は答えなかった。

「父君の崩御が暗殺だと噂されている事をごぞんじですか?」

「な・・なんと?」

噂でしかないがこの噂に載る者が大きすぎる。皇子よりも臣民の信を得ている孝道が犬死と知っていながら量王への決起に動き出せば共に動き出す者が幾多といる。

「事実かどうかもわからないことではないか?」

暗殺の証拠は何もない。皇子も急逝とはおもってはいるが病だと考えていた。

「彼らは共に生きた父君と共に死ねる場所を探しているだけです」

だから、でまであるかどうかなぞは再考する必要はない。

むしろ、暗殺であるとしなければ死に急いでまで供をする理由がなくなる。

「ばかな・・・」

「父君と同じ時代を生き抜いた痛みを知る者の情に踊らされる人間が五万とでてきます」

「争いはさけられぬというか?」

争いではない。彼らにとってもっともらしい理由のある死に場所を作るためでしかない。

自らの墓穴を掘るために争いという形を取る。

「彼らを宥める大きな理由が作れますか?」

亡国を覚悟した君臣に国の存続のために決起をとどめよといって通じるわけがない。

「わしはじぶんがなさけない」

皇子の呟きをそのままに瑠墺は量王の諮りを口にしだした。

「国が崩れるのは外からでは有りません。量王は間者を放ち執政の弱い所を乱しただけにすぎない」

平和な世が長すぎた。覇気のだしようも忘れはて、安泰の世をのうのうと過ごした県政者は己の欲と進退の安定しか顧みなくなっていた。国の長が誰に成り代わろうと己の身柄さえ安泰であれば構わない。量王の進撃に県政者は君主を手の平を返すようにうちすてた。是が三国の滅亡だった。

だが、この国への進撃に量王が時期を待ったのは孝道のような君臣がいたからである。

ところが護るべき君主の衰退が見えた。君主の崩御により君臣の心は割れ始める。

早まった心が量王への決起をおこす。でなければ纏まらぬ心のままでは内乱がおきかねない。内乱を回避するため争いが起きる。統一されぬ心で行われるほどもろい事はない。

「量王の懐に星読みがおります。既に父君の崩御はよまれていることでありましょう」

皇子は顔を上げて瑠墺をみなおした。

「ならば、隠しても無駄ということではないか?」

「量王にかくしているのではありません」

崩御を公然のものとすれば決起が早まる。

瑠墺はもろい決起のままに犬死する孝道を思った。

そして、改めて君主の死が暗殺だったのかどうかを考え始めていた。

量王は君主の衰退を星読みにしらされたことだろう。

時期が来た事を知った量王は間者を放った。

だが、放っておいても死ぬ男をわざわざ暗殺させるだろうか?

必要なのは君臣の決起心でしかない。

暗殺の噂をながさせるか?

あるいは、勝手に間者が量王の企てを見越してうごいたか?

いずれにせよ間者ごとき者にさえ量王の心がしきわたっていることになる。

事実、間者の横行にはすさまじい覚悟がある。

死を覚悟し、間者である事にいっさい口割らぬ。

捉えた間者は渤国のものであるという確たる証拠もみせぬまま、牢獄の中で舌を噛み切る。

間者ごときが量王の使命に命をかける。

こんな男に統治された国と戦かってに勝てるわけがない。

量王は国を統治しているだけでない。人の心をも統治していた。


漁記の宿に集まる男たちは、明るく唄う。

手水鉢の水をたたきに撒きながら絹はためいきをついた。

君主の崩御さえ知らぬ獅子は国を揺るがす間者の追撃に躍起になっている。

「今朝もやられた・・」

血生臭い話をしながら酒を酌み交わす。

命を天に任せた男は何故もこうも明るいかと絹には不思議である。

男たちの話は続く。庭先の絹の存在を歯牙にもかけていないから話は筒抜けに絹に届く。

「間者は皆細工物をみにつけている」

「細工物?」

「印のようなものなのだが、何で作られたかわからぬ・・」

「柘植か?石蝋?鹿の角?」

「しいて言えば・・鹿の角ににておるのだが・・・」

言葉をとぎらせて、杯を煽る。

「剣牙往来と刻印されておるらしい・・」

もくもくと酒を飲んでいるだけだった象二郎が

「木邑。すると・・・。これか?」

象二郎が懐に手を突っ込むと果たして、その手のひらには小さな印があった。

「と、いうことは・・又、間者を始末してきたという事ではあるの」

笑いながら木邑は象二郎の手から印を受取った。

確かに「剣牙往来」と、よめる。

「皆がもっておるのだろうか?」

一番とし若い桧田が木邑に尋ねた。

「たぶん」

木邑の言葉をたしなえたのは、象二郎である。

「血判状のようなものであろう」

「こんなものをわざわざつくって?」

桧田は木邑から渡された印をじくりと眺めている。

「これは? 牙ですか?」

海獣の牙のようである。硬い角質を細工するのも容易ではなかろう。四角い形に整えられて白く滑らかな光沢を保っている。台に当る部分の文字は昔のこの国の文字使いである。

「と、いうことは渤国の文字ですか?」

桧田は間者の在所の確証になると考えているようであった。

「それはの・・」

象二郎の言おうとする事は桧田の着目した事実を立件するよりももっと重大だった。

「象牙だ・・・」

「え?」

桧田のいくらか察しの鈍い頭でも判る。

象の牙の細工が出来るという事は渤国が大洋の向こうの国と交易があるという事である。

「すると・・・」

太洋の向こうの国ドーランと何らかの協定を結んでいるという事になる。

「まさか?」

ドーランの船戦の手腕は海賊のごとくである。

「ろくな協定はむすんでおるまい」

桧田の察した不安を口に乗せると象二郎は

「おそらく・・・。間者を仕掛け、わが国を渤国にむかわせる。この隙に手狭になった大洋側から軍勢を投入せよ。それが量王の諮りだろう」

木邑が頷く。桧田は唇をかんだ。

「つまり・・・。決起を起こしてはならぬ。我らはただ、ただ、間者のしまつをするだけだということですか?」

木邑は無念そうに首を振った。

「いずれ、時がうごく。渤国との決戦はさけられまい」

「で・・も」

桧田は『そのときにはドーランがやってくる』と、いう言葉を飲み込んだ。

眼前の渤国だけを相手にしているのなら、まだしも。

戦になれば桧田は渤国に潜り込んで量王の寝首をかいてやろうと腹積もりをしていた。

『量めが、汚い手をつかいおってから・・・』

間者を送り込み人心を不安に落とし込み、執政を戦へと煽る。

その裏でドーランと徒党を組んで置く。

「どちらがさきか、わかるまい?」

木邑の顔色に悲しい色が見える。

この国は小さな国である。ドーランが渤国を敵に廻してみた所で、どちらかの国の先鋒隊として捨石にされる。ドーランはドーランで急激に大国になった渤国を敵に廻すよりも、捨石を渤国の玄関飾りに認めてやった方が先々の国交に支障がないと判断したのであろう。

「どちらにも・・すてられたというか?」

「馬鹿にしおって、なめおって」

桧田の口から知らずに呟きが漏れていた。

「いや。渤国は拾ってやるつもりでおろう。ドーランはお供えのつもりぐらいだろうの」

「供えられるが、先か? 拾われるが先か?どちらのいいぶんがさきにしろ、わが国はいずれ渤国の属国か?」

座がしずまった。

国が滅びる。

暗黙の運命を享受せよと桧田の手の中で印が唸ったきがした。


絹は庭を出ると玄関先にも打ち水を撒き始めた。

絹はそっと辻の向こうを見渡した。座の中に数馬がいなかった。

数馬はおそらく有馬兵頭の旅篭に立寄っているのであろう。

絹がもう、おっつけやってくるだろう数馬を意識するにはわけがある。

数馬は仲間内でも手練れの士である。

有馬だけならともかくも、数馬まで相手では才蔵も本来の目的を遂行できまい。

「姐さん」

絹が外に出てくるのを待っていたのだろう、ひょいと才蔵が絹の傍らにやってきた。

「ちっと、手をあらわせておくんなせえまし」

才蔵は絹の手桶の前に手を差し出した。

杓で水をすくい絹は才蔵の手に流し込んでやる。

こうしておれば通りがかりの労務者が絹の水を借りただけにしか見えなかった。

「有馬は瑞樹の宿におります。数馬が側を離れれば今日は有馬一人・・」

座に集まった男たちの顔ぶれを絹は思い浮かべていた。

「わかった・・」

才蔵は頷くと絹の傍らをはなれようとした。

「抜かりなきように・・・」

絹は懐から銭を取り出し才蔵の手に握らせた。

「今はこれだけしか・・」

辻を回ってきた人の気配に才蔵はきがつくと、

「なあ・・ちっとばっかし・・へるもんじゃあるまいし・・」

行きずりの女をからかう男を装い始めた。

ずいとよってくる才蔵の思惑にきずくと絹も調子をあわせた。

「とっとと、いっちまえ」

ひしゃくの水を才蔵の足元にはたきつけると、才蔵はそれを合図に絹の側を離れた。

「やれ、やれ、絹殿自らの出迎えかと急いできてみれば・・・」

数馬は飛び散った水をふみわけ絹の側に立った。

「歩きにくいほどに、水をまいてどうした?」

通りを曲がる男の姿をちらりとみると、

「また、くどかれたといかっておるか?」

苦笑する。見目麗しい女子であらば男は黙っておきはすまい。

「すこしは、男の精一杯の褒めをみとめたらどうだ?」

「いちいち。それぐらいで喜んでたら、身体がいくつあってもたりません」

生娘らしからぬ受け答えで牽制して見せるのは数馬の日頃の絹への猛攻のせいである。

「ふん。口だけは達者だが、本には、男が怖いのであろう?」

「ええ。こわうござんすよ。特に数馬様のような男は・・・」

絹が憎まれ口を返していたが

「ひやっ」

と、声をあげた。

「おお。ほんにこわい。こわい」

絹のおいどをさすりあげた数馬が声を上げて笑い出した。

き、と、つりあげた眉のまま、

「数馬様は里にお鈴さまがいらせられましょうに」

絹は数馬を睨み返した。

「あほうをいうておれ。わしが心底ほれておるは絹殿だけであるに」

「はい。はい。聞き飽きました。お鈴さまには、本意でいうておらるると信じておきます」

「絹。わしも男じゃから女子の一人や二人はおる。だが、それは全部絹のせいじゃ」

「はあ?」

「わからぬか?」

「訊くだけ、あほらしい事をいう御口と判っておりますれば、十分です」

数馬のわけなぞ聞いてみたくもない。

が、絹の断りなぞ数馬の耳に留まっていない。

「絹・・」

数馬は絹の側にもっと詰め寄ると囁いた。

「お前がなさせてくれぬからであろうが?」

「何で・・私が!」

なんで、お前なぞに抱かれねばならぬ。

小憎たらしい男の口をひねり上げてやりたい絹であったが、この宿の常連にむげに逆らえはしない。

ましてや間者としての使命がある。男と女になりたいなぞと言われるのは心外であるが数馬のほうから絹に心安いのは絹には都合のよいことなのである。

「わしは本にお前がすきじゃあ。その口のたつ所もよい。男勝りの性も意気がいい」

「そ。そんな女子を・・・」

男のような性分がよいのなら、絹に女をもとむるはおかしいといいたいのである。

数馬は絹の言いたい事を察している。

だから、さらにこう付け加えた

「そのような女子のほうが良い「女」になる」

数馬の言葉に絹は皮肉を込めた。

「と、いうことは既によい「女」を知ってらっしゃる。「女」がいらされるわけですのにまだ、絹などが必要ですか?」

「おお。おお。ああいえばこういう。絹。いうたであろう。わしが心底ほれておるのはおまえだけだと」

「ああ。こわい。こわい。数馬様のいうとおり絹は男が怖い。上手い口で女をたぶらかそうという心根の男が一等怖い」

「絹・・・。まだ・・しんじてくれぬか?」

数馬の口説きはいつもこの調子である。

いつまでも口説かれていても埒が明かない。

「数馬様。皆様がおまちかねですよ」

「うーーん」

わしには絹をくどく方が人生の重要問題なのだがと顔をくぐもらせたが、二者択一を絹の口からせまられると、

「考えておいてくれ。わしは本気じゃ」

と、この場を絹に預けた。

「はい。はい。かんがえておけばよろしいのですね」

考えるぐらいなら考えて見ましょうと結論の見えている返事を返されると数馬もやはり立ち去りがたい。

「絹。客を座敷にまであないしたらどうだ」

横に並んだ男と女では絹を牛耳れない。

とたんに、客と女中の上下関係にすりかわった。

「どうぞ」

いつもの座敷である。

絹は数馬を案内して廊下のどん詰まりの部屋のふすまの前に座って数馬の到着を知らせようとした。

軽くかがみ込む絹を数馬は抱きすくめた。

絹の顔色は恐れに青ざめてゆく。座敷の中の連中は数馬の絹へのざれを見聞きしてよく承知している。数馬が堪えきれず絹を辱めたとしても、誰も数馬を止めに来る者はない。

そ知らぬふりならまだしも、絹に向かい「思いをはたさせてやれ」と、数馬を擁護しかねない。

「いや!」

抗った声もむなしい。

中に聞こえたはずの声に座敷からは

「おお。数馬がきたか」

と、笑うばかりである。どうせ、また絹にちょっかいを出していると皆見当がついている。そのとおりではあるが、

「ひ・・」

声を失い始めた絹の顔を数馬はまじまじと覗き込んだ。

「本に・・・わしがこと・・いやか?」

つと、絹を離すと数馬は自分で襖を開け座敷に身体を入れると後ろ手で、ぴしゃと締め切った。

「なに、しておった?」

入ってきた数馬に向けた木邑の声にこたえず、数馬が一同をねめつけまわした。

「どこの阿呆が絹に里の女子の事をはなした」

吹き出しそうな顔は皆同じである。

「おまけにご丁寧に名前までおしえおってから・・・」

それで、ますます絹を口説き落とせなくなったかと木邑が苦笑する。

「よいではないか。お前に女子がいても構わない。それでも好いとるといわれた方がよかろう」

こちらからも声がかかる。

「絹もお前を好くにも、お前の女好きをようよう覚悟しておかねばかわいそうじゃろう?」

「あほうをいうておれ。わしが絹一本に・・・」

後は黙った。

どうやら数馬の恋は本人の言うとおり心底かららしい。

絹にいったとおりであるらしい。絹がなさせてくれぬから他の女子で紛らわせているだけに過ぎない。絹一本になったら他の女子なぞ必要がない。自分でも情けないほどに絹が恋しいに、今もたったふすま一枚向こうで見せられた絹の拒絶。むげなことはできぬ。

欲しいのは絹の心底である。

だが、絹にもいうた。男である以上女子はほしい。

絹が我が物にならぬからいけないのであり絹一本にしたいのは数馬こそ山々なのである。

情けなく本音を吐露しかけた数馬であったが、流石にとどめた。

数馬の耳の奥底に絹の小さなひっという声が残り、美味くない酒になりそうだった。

「やはり、象牙か・・・」

桧田の口惜しそうな顔を見ながら数馬はさして、驚きもしなかった。

量王の目論見を推量する時に数馬はいつも、この国の外的位置を意識していた。

量王がドーランにはむかうがごとくこの国を傍若無人に属国に仕立て上げれば、ドーランの反感を底に植える。

かといって、この国をドーランの属国に譲るマネをすれば渤国の威信が地に落ちる。

量王は策を弄する。表面上はドーランの肯定を獲る。ドーランが承認せざるを得ない事態を作る。先に交易を盛んにしドーランに渤国の国力をみせつけておいて、和国を攻める協定を結ぶ。眼と鼻の先の和国の統治は渤国に託すしかない。

ドーランは大国ゆえに和国のような小国を布石に欲しいとはいえないし、何のための布石といたい腹をかき回される面倒を起こしたくはない。

両国の対戦は互いに損害を与え、国の復興に幾多の人民の労苦が伴い執政も国もこれほどのものはないというほどにがたつく。

危険なリスクを犯して勝てる相手ならまだしも、ドーランでさえ今の渤国と争うはたらされた綱に首を通すに等しい。

こういう外的情勢を踏まえていた数馬であれば象牙の印に今更驚く事もない。

「間者だと・・・どこでわかりますか?」

桧田は象二郎に尋ねている。象二郎はどこでどう見分けるのか、間者をかぎ分ける。

時に人々に紛れ昔ながらの住人のように暮らしている間者さえいる。

それであるのに象二郎は探り当てる。

「かんたんよの」

象二郎の感に寄れば簡単である。だが、「感」で得心できるわけはない。

「どこで簡単にわかります?」

眼の色が違うわけでもない。言葉も和国の言葉を流暢にあやつる。外見的にはどこにも間者と見極める事はできない。

「長い事漁師をしておるとな・・・。外海の魚と内海の魚がわかるそうな・・・」

象二郎のたとえはつまり、やはり感でしかないという。

木邑は継ぎかけた酒が足らぬと絹を呼ばわり始めている。

「よいわ・・」

帳場に言ってくると数馬が立ち上がると

桧田の相手をしていた象二郎が共に立ち上がった。

「厠か?」

そうだと頷いて象二郎は数馬の先に座敷を出た。

象二郎の背中が庭先に見えるのを横目で掠めながら数馬は帳場にあゆんだ。

絹が帳場の向こうの賄場から徳利を盆に並べて、持ってきている。

「絹。わしらのところか?」

徳利のいく場所を訪ねると

「おまちかねでしょ?」

と、先のことなぞ忘れたように明るい。

数馬は絹の手から盆をとる。

「これは、わしが持っていってやるに、絹に頼みがある。使いを一つ、頼まれてくれぬか?」

「よござんすけど・・・」

何か、うろんげな事を言い出されぬかと絹の言葉尻は歯切れが悪い。

「この先の有馬殿の宿に何か見繕って酒と一緒に届けてくれぬか?」

「は?・・え、ええ」

「どうした?」

快諾できようはずの使いにすんなり快い返事がもらえぬとなれば数馬もいぶかしい。

「いえ。有馬さまがこられておらぬのは、どこぞに出かけてらっしゃるのかとおもっておりましたので」

慌てて口裏を還すと

「ああ。そういうことか」

絹にはどこかにでかけおらぬと思った有馬が実は一人で宿にいるという事が不思議だったのだろう。

「じつはの・・・」

数馬は絹の顔を窺いながら

「絹だから話すが、有馬殿の周りに最近不穏な者がうろついておるのだ」

「だから、だいじをとって、一人でいらせられるのですか?そのほうがあぶないのでは?」

間者にすれば結構なことである。

「そうしておいて、ここしばらくでねずみをおびきよせようとな・・」

「そうですか。わかりました」

酒の肴は冷たい豆腐がよかろう。ここの小えびの甘露煮も有馬は好きだ、と。数馬は付け足した。

「はい」

返事を返しながら絹はおもう。

酒を持っていったところで、今頃は才蔵の手にかかった有馬を知るだけである。

才蔵の首尾を早くも自分が確かめに行くことになる。

その運命の手際よさに絹は微かにほくそえんだ。

「では」

絹は賄いに戻り数馬の注文をこなすことにした。

すると、背を向けた絹に数馬がいった。

「ああ。そうじゃ。有馬殿は今日よりやどをかえておる・・・」

「え?」

すると・・・才蔵の首尾はどうなる?

「どうも、むこうもせいておるようでな。ほれ、さっき、絹に手水を借りに来ていた男がおったろう?・・・・あれも、間者じゃ」

「え?」

数馬はしっていた?

「何、女子供を狙ってはこぬ。だが、絹。気を付けおれ。我らの情報を得たいがため、お前にちかよってくるともかぎらぬ」

絹の内心はおだやかでない。

才蔵の正体を知っている数馬が絹の事はいつ何時疑いだすかわからない。が、とにかくは今は絹の事は露一つ感づいてもいない。

そこだけ安心すると才蔵の事が気になりだした。有馬のいない宿にもぐりこんだ才蔵が有馬の不在を知って遁走しておればよいがまだ、有馬の隙を窺って宿にはりついているのかもしれない。とにかくは才臓に有馬の宿を教えなおし網をかけ始めている事を告げなければいけない。と、なると、絹が外に使いに出れる事も好都合であった。

「のう。絹。本にきをつけおれよ」

絹をいとう数馬の言葉は心からやさしい。

「わしとまだ、成しておらぬうちに絹になにかあっては、わしもくやみきれん」

又も、不埒な言葉に代わるのは数馬の照れなのである。

が、そんな男心に明るい絹でない。

「成した後でなら、絹がどうなってもようございますか?それだけのお心がよう、本意だと・・。その口ねじまがってしまえばよい!」

途端に、数馬はおおきなこえでわらいだした。

「絹は本に、まだ、男をしらぬな・・」

誰の手にも落ちていない絹にホッとするかのように数馬が呟き、絹の腰を叩くと促した。

「まあ、いってくれ。有馬もおまえをあいたいといっておった・・・」

「わたしに?・・」

生真面目な男で無口な部類になる。およそ、女なぞに興味はない。

その有馬が絹にあいたいなぞというかと疑問であるが、それを又、何故か数馬がくちにだすか?

「いってみれば、わかろう・・・」

腑に落ちない言葉が残ったが、とにかく才蔵が気になる。

絹は再び賄いに足を向けた。

絹の後ろから数馬がひとくさり大きな声でいいはなった。

「絹。わしが絹と一度成せば後はともにいきてゆくしかのうなる」

廊下の向こうから絹の嘲りが聞こえた。

「ご冗談を。貴方となぞなしたれば絹はその場で舌を噛みます」

「そうか」

小さくこたえて数馬は座敷にもどった。

数馬の盆はたたみに置かれ徳利の酒にてをのばすとじかに口をつける。

「どうも・・・かなわぬか?」

ついでに帳場の絹を口説いてみたものの思わしくない数馬をからかう木邑に数馬は真顔になるとぐっと手を合わせた。

「有馬が御社の瑠墺にあうまでは泳がせておく。それまでに絹がこと・・・」

「頼む・・・」

絹の正体を知らぬ木邑ではない。

「お前も馬鹿な相手にほれたものだの・・・」

「あれは・・・」

「絹のことはいいわ。我らはお前の酔狂ぶりにめをつむっている。それだけだ。絹が間者の取りもちをしている間は我らもつごうがよいが、絹自らが動いたら。命の保障は出来ぬ」

「・・・・」

大きな男は泣くのではないかと思うほど、顔をゆがませた。

「わしは・・・あきらめられん」

「天下が揺るぐというのに、色恋がだいじか?」

「わしが生きておらねば、天下が揺るごうと判らぬ事であろう?」

「数馬。わしはお前と禅問答なぞするきはない。絹がこちらにつく事がなければ、約束どおりあきらめてもらおうし、いずれにしろ絹には、一役かってもらわねばなるまい?」

女として口説けというのでない。

間者をこちらに寝返らせるのは桧田の考えのように敵陣に乗り込むための布石である。


岡持ちを携えて絹は小走りである。

有馬の元居た宿屋によって、はりついているだろう才蔵に数馬に告げられた本当に有馬のいる宿屋を教えねば成らない。

才蔵の正体が既に見破られているとなると絹のそばに来るのもよほど気をつけねばならない。それだけでない、やつらは才蔵を殺すきでいる。

「慎重に。そう、これでもかってほど慎重にやんなきゃ・・・」

絹も考えている。

有馬の宿と反対に走っている事がもしも、数馬の耳に入ったら。

「あ。つい」と、いう。

「定宿が長すぎて、身体が勝手に走っていっちまったんです」と、でもいおう。頭の一つでもこ付いて舌を出して「あたしもばかですよね。宿の前まで着てからそうだったなんておもいかえしてみちまったんですから」と、屈託無くおっちょこちょいを露呈してみせる。

疑われていない事が幸いで、絹の弁解はきっと、大笑いされてみすごされる。


絹は目指す宿屋の前に出るために辻を回る。

山紫水明を象った庭の椿の囲い込みを廻ると宿の前につく。

有馬がどの部屋にいるか判らない才蔵は庭の植え込みの中に身をかくして機会を窺っているだろう。

合図に印をうちならしてみよう。

いなければ才蔵も様子がおかしいときがついて、一端は撤退と決めたのかもしれない。

で、あれば、今度、又、絹の元に来るだろう。

住み込みの女中なんてお職は動きにくくて仕方が無い。でも、この国に来て寝る所さえないんだから贅沢は言ってられない。そう宥めているうちに「漁記」がただの宿屋で無いと判った。

絹の身の置き所として口利きで入ったと思っていた宿屋には、いくつかの集団を作り志士と呼ばれる男たちの棟梁格があつまっていた。

集めた情報の交換と天下国家の情勢判断。渤海への策を練り合わせていた。

そこに絹を送り込んだのである。

ここまで、念の入った仕入れが出来ていながら志士にま直に近づく材がおらず、絹のようなうら若い女子に白羽の矢が当るという事が可笑しかったが、才蔵は「男というものは女子に甘い」と、いった。

「それも、絹のように若く見目麗しいとなおさら・・・」とも、いった。

さらに「いざとなったら女子である事もわするるな」と、つけくわえた。

絹は才蔵の言葉を「身を護れ」と、いわれたと考えていたが、事実は違う。

女子の色香も情報を集めるためには十分に役に立つという事を覚悟しておけといったのである。

十八の小娘が見知らぬ異国の見知らぬ男に脅えるだろうという当り前の図式より、量王への宣誓が絹の使命を燃え立たせていることのほうを才蔵は信じていた。

その才蔵の命と首尾にかかわることである。

絹は辻を曲がる前に合図の印をうとうとした手を止めた。

なにやら向こうに人のざわついた気配がする。

人に見咎められると困る行き違いの使いの場所であるが、絹はいやな予感に引きずられ人だかりの側に近寄っていった。

庭の向こうを覗き込むような人だかりが一様にいやな目つきをしている。

固まった人の背を掻き分け絹も皆が見たいやなものの正体を確かめようとした。

「おい。おい。姐さん、女子供が見るもんじゃねえぜ」

絹に背を押された男は女の物見高さに呆れるかおをしてみせる。

「綺麗なべべを売ってるわけでも観音様のご開帳でもねえよ」

つまり男でも女でも凡そ、見たい、欲しいの代物ではないというと、

「ほとけさんだよ」

「え?」

絹が驚くをそれ見たことかとみよがしに冷たい一瞥をくれたが、

「隣国の者だっていうじゃねえか」

量王は和国を乱れさせるための布石を内からも外からも敷く。

手当たるをやたらと切りつける辻きりのような強者の出没は人心の帝への信頼を揺るがし始める。

手成れの狂い者の横行を狩るものたちが生ずるを先に読んだか、警備の兵を狩ることを専する間者がいる。これで、渤国の名が知識のあるものに浮かばぬはずがない。

満を持しつつなかなか動かぬ帝の招集をまつより、むしろ、帝の決断を促そうかとばかりに帝都に志士が集まり始めた。

が、帝は動こうとしない。

いらつく憤懣をとにかくは間者を切ることで抑えていた志士たちもこの小さな国を揺るがすためだけに送られてくる間者の後の経たない事に驚かされる。

力では勝てない。量王。言いえて然り。材の量からすべからく、違いすぎる。

柔よく剛を制すというが、この場合渤国の剛を制す柔は「知恵」しかないと思える頃、誰からとも無く「御社の瑠墺」の名が口に上がりはじめていた。

「隣国?」

絹は空とぼけて判らぬ小娘を装ってみたが、胸の鼓動が口から漏れるのではないかと思うほど大きく響いていた。

「あっちこっちで人を殺してたんだ。ばちがあたったんだ。ざまーみろって」

石の一つでも、罵詈の一つでも投げ与えようとこのひとだかりなのか?

絹は自分の身の上の先にふりえるかもしれない己の正体への人々の憎悪と怨みを生々しく感じられた。

「見ろ。聞いただけで、あおくなっちまうやつが・・・」

絹の顔色がただ事でないのは己の身の上の恐ろしさと仏が才蔵ではないのかという不安のせいであるが、行きがかりの小娘の生半可な好奇心があわれだったのだろう。岡持ちをだかえている絹を追い立て、しなければならぬ事を言い立て、絹の気分を現実に引き戻してやるようだった。

「あ?あんた。使いの途中じゃねえのかい?こんなとこで油売ってねえで、さっさよようじをすませちいな」

男の言葉にやっと絹は仏が才像かどうかを確かめる糸口を掴んだ。

「いえ。この宿の人にとどけものがあったのですが・・・」

絹の口篭る訳をさっしたのだろう。

「だーれもやられちゃいねえよ。あんたの届け先の人も無事だろうよ」

「・・?誰が・・やっつけて下さったんでしょうかねえ」

あくまでも絹も悪い奴を憎むこの国の人間を演じる。

「さあなー。この宿のもんじゃねえよ。だいいち、小僧が南天の葉を飾りにとってこいといいわれて庭に毟りに来たら、蹲の陰に人の手が見えるってんで大騒ぎになったんだとよ」

「じゃあ?そのときにもうしんでいたってことですか?・・」

「だろうな」

「じゃあ?」

「なんだってんだよ?」

女のめざす相手が無事ならそれでいいではないかと男はうるさげな返事を返した。

絹はこれ以上詮索する事は難しいと踏むと男に聴こえるような独り言に変えた。

「何で、死んだ人間が隣国の人間だってわかったんだろう?」

案の定男は聞きとがめた。

「なんでもな。隣国の奴しか持ってない妙な細工物をもってたらしいぜ」

「へえーー」

物見高さに人心地つきましたと得心顔を作ると絹はあっと声を上げた。

「それじゃあ。向こうの屋敷の縁にもお客さんがいるんですよね?」

「ああ。いたことあ、いたよ」

大工箱を踏み台にしていた男に順を譲ってもらってちょいとのぞいてみたにすぎない。

もれてくる役人の声を聞きながら死体を裏木戸から引き出すのをひとめみてみようとここで待っているのだ。

「その中に・・。背の高い三十過ぎの・・」

絹が口からでまかせを続けると、男は少しばかり伸び上がってみたが手に持ったものを踏み台にするものたちやらで庭のむこうまでは到底見えはしない。

「それがおとどけさきってことか?」

と、男は絹にたしかめた。

「いますか?」

「いや、俺にもみえねえんだ」

「ああ。ああ。じれったいねえ」

やにわに絹は岡持ちをもう傍らにいた男に持たせると、

「あんた、ちょいと、肩車でもしておくれよ」

「馬鹿いえ。子供じゃあるまいし・・」

だったら、ちょんの間でいい。ひょいと持ち上げておくれと言うと男はいやな顔をしたが

「そこに無事にいると判りゃ、私もこんな騒ぎでしたからって店に帰れるんだけどねえ?」

女の言うとおりだろう。役人が出張って宿の中からは人を出そうとしてないし、こんな騒ぎの中お届け物を持ってはいりゃ女もでてこれなくなる。

「ち。しかたねえな」

行きががりの駄賃だとばかりに男は絹を捕まえるとひょいと腰をだかえもちあげてみせた。

「あ。いたよ。ぶじだよ」

絹の眼に飛び込んできたむくろは死んだばかりの才蔵だった。

「ありがとう」

男に渡した岡持ちを奪うように取ると絹は本来の用事に走り出した。

「何でだ?なんでだ?だれが?だれが?」

才蔵のむくろが絹に教える事は叶わない。胸の中で才蔵に渡した金を数えなおしている。

だが、馬鹿な。物取りなぞのわけも無い。才蔵の腕を持ってしても切られている。

かなり腕が立つ相手。で、無ければ庭先の打ち合いに宿の者がきずく。誰にもきずかれる声も上げさせず、むくろに成り果ててみつけられる。小僧が南天の葉を取りに来ていなければまだそこに転がったまま?絹もきずかずにいたかもしれない。

「だれが?」

才蔵が有馬を狙っていると知っていたのは数馬だ。

だが、数馬は絹に用事を頼んで、それからここに駆けとおして才蔵を死体にして帰ってこれるだろうか?

無理だ。有馬自身?有馬が逆に才像をまっていた?

いけば・・わかる。才像をきった後ならば有馬にいくらかの変化があろう?血の匂い。刀の地糊を拭き取ったらしきもの。そのまえに湯をあみているかもしれない。それならば、尚、有馬だろう。

だが、有馬の腕は「立たない」を通り越して「へぼ」だと数馬がいったことがある。が、それはおもてむきのことか?

どこまで本当の事を言う男か判らない数馬である。

「こんにちは」

『漁記』の使いだと告げ、有馬の名前を出すが女将はいささかふしぎな顔をしていた。

あやしんでいる。ここまで名を語り有馬を狙うという者がいると伝えられているのか?

「『漁記』のどちらさんどす?」

「絹といいます」

「ああ。きいてます」

どうやら絹を使い立たせる約束は先になされていたようである。


「数馬?」

木邑はゆらりとたち上がった数馬をみとがめて、こえをかけた。

「厠じゃに・・いちいちうるさいわ」

数馬は振り向かず木邑に答える。

「そうか・・・」

絹の運命を思い量って泣く男の挙動は気にかかる。

「国がなからば好いた女子と行きこす土地がのうなるわ」

ゆらり、ゆらりと身体を動かすと一馬はそう答えた。

「そうだの」

木邑は数馬の背に頷いて見せる。絹が為にこそ、志士として生きて絹と共に生きる活路を開く。数馬の胸のうちが一言で語られていたが、肝心の絹の心は数馬に程遠い。

「かえてみせるわ」

呟く数馬の決心が覚悟という字に見える。

絹を生かす術は数馬しか切り開けない。

迷いと焦燥を振り切った数馬が見えると木邑は笑った。

「鈴に詫び状をださねばならぬの」

「そうだの」

あっさりと肯定した数馬の言葉に絹と共に渤海にもぐりこもうという男が見えた。

絹に己の生死を預ける。それが、絹に見せられる誠意と、腹を決めた男はともにしぬる事もある先行きのみちゆき女を絹ときめた。

「それでよいのだな?」

「絹となら・・」

絹の死は又数馬の死である。どうにもならぬ運命の足かせが絹を絡めとり絹に死を与えるのなら数馬こそが共に死を掴み取ってみせる。それが数馬に許される最大限の絹への心の傾け方であるなら殉ずるのみである。

「わかったから。漏らさぬうちに厠に行け」

前を押さえる数馬に失笑をこらえながら、この男は絹の心を掴むだろうと木邑は思った。


庭先にある厠に降り立つために縁から足を伸ばし踏み石に置かれたせったをはむとまだ、ゆらりと揺れながら数馬は厠にあゆみよってゆく。

「絹・・」

呟く数馬の声に

「きになるか?」

と、象二郎の声がかさなった。

数馬は厠の朝顔に小便を落とし込みながら、声をかけてきた主が象二郎とわかる。

「それもある」

「そうか・・」

幾分寂しげな象二郎の答え声である。

その声ではっきりと絹の運命を見せ付けてゆく一殺が滞りなく済み果てた事を数馬は知る。

絹が間者の男を導いた途端、間者は死を迎える。

真綿で首を絞めるように絹の足元をすくってゆく。

間者として絹はこちらの囮に落ちたと知らされてゆけば絹の進退は窮まる。

その第一歩が始まったのだ。

「そうだの」

数馬は頷く。象二郎が語らずとも事態は自分こそが引き込んだことである。

絹の元に歩み寄った間者を見かけた後数馬は象二郎に呟いてみせた。

「ねずみが一匹・・うごきだした」

象二郎は黙って座を去った。

そして帰ってきた。ねずみを一匹始末して。

「先にはいるぞ・・」

象二郎は数馬に声をかけた。黙って行けばよい物をさらに

「お前の小便は、女子を抱くように長い・・」

憎まれ口を返してみせるが、象二郎はわかっている。

いつ死ぬか判らぬ男はついつい目先の肉欲に己を没頭させる。

「絹がなさせてくれぬからの・・なおさらじゃ・・」

「ふん」

鼻先でいなして見せるが、それも判る。

『お前は阿呆じゃ』

渤国の間者なぞにおだをあげよるからだ。

「わしは・・いつも・・絹をおもうてしておったわ」

床のことが長引くのも絹のせいでしかない。数馬の言い訳は厠の外の象二郎の耳にきこえてはいなかった。

座敷に帰る象二郎に

「何かいったか?」

と、尋ね返されたが、独り言になった絹への恋情をかたることまでもが、まるで絹を相手にしている時と同じなのが可笑しくて数馬は

「今度は絹相手にながびいてみせるわ」

と、負け惜しみをつぶやいていた。


胸の鼓動が不規則に騒ぐ。

騒ぐ胸に構わず絹ははしりつづけた。

そして、いま、有馬の目の前に座っている絹である。

「絹さん?ですね?」

いったい有馬に絹はどうつたえられているのだろうか?

「はい」

有馬が語りだす言葉を待つしかない。

「ああ。数馬がいうたとおりの人だ」

絹は用心深い。

「数馬さまが?なんと・・」

絹の探る言葉に有馬はかすかに微笑んだ。

「私がいってしまってよいものでしょうか?」

有馬は湯浴みした様子もなければ、血の臭いのひとつもない。

少なくとも才蔵をやった相手ではない。

それだけは確かだった。

が、うっかり信じてはいけない。

影でどう動いているか、絹には依然として正体の掴めない男であり、かつ多くの志士の信奉を集めている。

が、不思議に穏やかな人柄が絹を魅了してゆく。

「どういうことでしょう?」

「貴方の事は、数馬から幾たびとなくきかされております」

「一体なんと?」

数馬への興味からではない。

有馬と云う男が数馬を認め擁護しようとする何かを感じ、

一体有馬が何を感じたのか。

それが気になった。

『確かに惹かれる』

有馬は、絹が数間と対峙した時のものとは違う物を見ている。

それが何なのか無性に気になる。

気にさせる人柄を持っている。

常人とは違う、視野を持っているとおもわせてしまう。

「数馬は貴方に命をかけるきでおります」

数馬本人がそういったら、絹は一笑にふす。

だが、有馬に言われると考えさせられる。

だが、

「ならば・・里のお鈴さまはどうなります?」

「嫉妬ですか?」

類推の類ではない。絹の心だけを尋ねている。

「いいえ。でも、あれやこれやとあちこちに女子がいて、絹が事に命をかけているといわれても:::」

有馬はふうと溜息をついた。

「男は弱いものです。ほんに惚れた女を国の礎という道具にしたくはないものです」

有馬はなんといった?

絹はもう一度尋ねずにおけない。

「国の礎?ど・・どういうことです?」

「出来るなら数馬は只の男と女として絹さんに相、対したかった。けれど、それが出来ない。迷う数馬は他の女子で絹さんを忘れようとしたことでしょう。だけど、其の結果は裏目に出る。数馬は一層、絹さんへ思いをみせつけられることになる」

有馬の言う事は数馬の心情である。

だが、わざと絹の答えをはぐらかしていると判らぬ絹は恐れを抱きつつ有馬に尋ね返した。

「礎というは・・・どういう?」

有馬の瞳が哀し気だ。

「わざわざ、ききたださねばなりませんか?」

絹が逆に問い直された。

「それは・・」

それはつまり、絹が渤国の間者としっているということか?

絹との恋は両国にまたがる虹のようにはかなく、それを現実のものにするためには、和国の存亡をかけなければならない。

結局、和国の存命のため絹はころされるしかない。

絹への恋は、数馬が志士であるからこそ、絹を追い詰める。

こう考えて里の女子で気を紛らわすしかなかったというのは判る。

だが、有馬の言う数馬は命をかけているという言葉がむじゅんする。

「ならぬ恋は重々承知の上。それでも、数馬は絹さんとの活路を切り開こうと・・」

「私が・・」

何者なのかしっていらっしゃるのですね?

当て推量でしかないかも知れぬのにわざわざ自分から正体を露呈させてどうなる。

周到な計画かもしれない。

事実を言った途端絹の命は才蔵よろしく見事に事切れ

有馬達はまた、ひとり間者を始末しただけに過ぎなくなるかもしれない。

「絹さん。それをいっちゃあいけない」

有馬はどう察したか。

絹の飲み込んだ言葉を飲み込んだままにしておけといったが、

「絹さんが命を守れる男は数馬しかいない。わたしは::」

有馬はぐっと拳を握った。

「私が絹さんにいえることは、数馬にすがるしか絹さんの活路はないということです」

間者だと気が付いているとするなら、有馬の言う事はあるいはおどしのようなものである。

数馬が和国を救うため絹を礎に利用する。

だから、絹は間者でありながら才蔵のように殺されずにすんでいる。

「数馬は自分の気持ちを汚されたくなかった。絹さんと暮らし、只の男と女の一生をゆめみたかった」

そうなのかもしれない。

そうなのだ。

確かに絹の正体はばれている。

数馬の仲間は絹をも切ろうときめたことだろう。

だが、数馬がそれをおさえた。

その交換条件は絹を渤国より寝返らせ、和国の僕にさせることだったろう。

そして、其の交換条件を真のものとして成りたたせてゆくものが、絹が数馬の女になることだったのかもしれない。

だが、いくら絹が数馬に言われても本気にも取れず、ましてやその気にもなれなかった。

もっと、早いうちに数馬に本気になれて間者の使命も忘れてしまえたなら、その昔、絹は間者だったと笑って話せたことなのかもしれない。

だが、間者の横行が繰返され渤国の譲らざる魂胆が見えたとき、

絹は間者の使命を忘れてただの女になる道も閉ざされ数馬の苦しみが始まりだした。

「どんなにか、絹さんの事は逢わなかった人と諦めようとしたか」

が、絹の進退が見え始めた時、数馬は絹の死が読めた。

そして、数馬の決心が固まった。

絹を殺すしかないなら、数馬が殺す。

だが、何か法がある。抜け道がある。

絹を生かす法。

間者ゆえに殺されるなら間者ゆえに生きられるのではないか?

こう考え付いた数馬の身体にはその時おびただしい汗が噴出していた。一言で言えば恐ろしい。

生きるにしろ殺すにしろ絹を我が物にするに、国を天秤にせねばならぬ。それは数馬の国と絹の国。心のうちでも国があらそう。

心の中で国があらそう。

現実に起こっている事がそのままふたりの心でおきる。

数馬に国が捨てられないのと同じに絹もおなじだろう。

捨てれるものならきっと、とうに絹は数馬の手の中で只の女をさかせていただろう。

「貴方の話してはいけない事はいっとう最初に数馬にこそ話して、数馬にすがるしかない::それが今のあなたを護る唯一の法です」

有馬が絹を間者としりつつ、きろうとしない。

言葉の後ろにある抜き身の刃がちかりと光をきらめかせている。

「わかりました」

そういうしかない。

言わなければすなわち絹は既にしんでいるといってもよい。

数馬は絹が間者であることを利用しようとしている。

ここに気が付くと絹は判った口の下で臍を固めていた。

絹が寝返ったと信じ込ませて利用されるふりをして志士の動向に乗る。是が上手く行けばこの事が切欠で和国をあっさり量王の手にささげる事につながるかもしれない。

あくまでも絹は間者以外の何者でもない。

若い娘が和国の言葉を覚え、一人で敵地にもぐりんだのである。

自分の命と引き換えに国を、量王を売る気なぞ更々ない。

そして、やっと絹は才蔵の言葉を知る。

才蔵は「男というものは女子に甘い」と、いった。

「それも、絹のように若く見目麗しいとなおさら・・・」とも、いった。さらに「いざとなったら女子である事もわするるな」と、つけくわえた。

絹は才蔵の言葉を「身を護れ」と、いわれたと考えていたが、事実は違う。女子の色香も情報を集めるためには十分に役に立つという事を覚悟しておけといったのである。

十八の小娘が見知らぬ異国の見知らぬ男に脅えるだろうという当り前の図式より、量王への宣誓が絹の使命を燃え立たせていることのほうを才蔵は信じていた。

才蔵が信じる絹が生じたとも知らず、有馬は絹の覚悟は和国の男に委ねられた考えているようだった。

「数馬は絹さんのためなら、なんでもします」

けして絹の決断を後悔させる男ではない。

有馬が胸を張って数馬を絹に押すのが不思議だった。

さらに、有馬は絹に

「数馬を宜しくたのみます」

と、頭までさげた。

絹が間者であると知っている有馬である。

捉えた渤国の間者が口を割る事を拒み死を持って黙秘に替えるも見聞きしておる筈である。

絹の了承をまがい物と知りつつ和国を救うため利用しようとしている。どちらの頭の切れが流れをとらえるか?

水面下でのしのぎあいになる。

是が判らぬ有馬とは思えない。

が、数馬を思う有馬の心に芥ひとつなく、絹と結ばれる数馬の行く末を絹に託したいとあまりに純粋すぎる。

『貴方は、そうやって人の事を想うのですか?』

是が有馬の元に人が集まる由縁かもしれない。

『量王?貴方は、とんでもない男を敵にまわしているのかもしれない』

ならば、なおさら、この機会をのがしてはいけない。

窮鳥、懐に飛び込むばいずくんぞせむ。

とて、己の懐の広さを信じる馬鹿な男を伝に絹の間者としての使命は拡大する。

「絹の命をあずけます」

大きな嘘がしゃあしゃあと口をつく。

が、あながちうそでもない。

絹の搾取が不成功に終ったと知られたとき絹は一刀の元にこの世に別れをつげさせられるだろう。

命をかけあう駆け引きを陰謀とよぶものかもしれぬが、絹の陰謀は決意と云う色に染められ、うたかたの恋を演じるをよぎなくされた。


漁記の宿にたどり着くと、絹はまず数馬の座敷にかおをだし、有馬への言付け物を届けたことをしらせる。

「ごくろうだったな」

木邑の目が笑って数馬をみる。

「絹がおらぬとおもしろくないようだ」

数馬に酌でもしてやってくれとばかりに徳利を絹につきだした。

「はい。よござんすよ」

木邑の手から徳利を受取ると絹は数馬ににじりよった。

「おお。絹か。絹のご帰参か。恋しい、恋しい、絹殿が御自ら酌か?」

いささか、酩酊を見せている。

「もう、ずいぶんよってらっしゃるようですね?」

「そうでもないさ」

「なら、よござんすけど」

「そうさ」

絹の顔を真正面から見詰める。

「で?」

数馬が尋ねたい事は有馬に言われた事をどうするかと云う絹の答えでしかない。

それと察するのか一座が急に静まり返り、皆の目は絹にそそがれている。

「なんですよう?しんとなっちまって、へんじゃないですか?」

絹は居たたまれぬ空気を断ち割るために、大きく笑った。

『数馬のおんなになります』

こういうのさえ、衆目の中に晒されなければならない。

間者と云う己の立場を皆がしっていたということでもある。

「数馬様にはあとで・・はなします」

この場の宣誓をやり過ごし、絹は振り返り、座敷の者に徳利をすすめだした。

「絹。やめないか?」

途端に数馬の荒い声が絹を制した。

「はい?」

空とぼけた返事を返したが絹の顔色が蒼白になるのが自分でも判る。

絹は酌をするふりをして一座の中に才蔵をきった男がいぬか、をかぎだそうとしていた。

数馬は絹の挙動の下の目論見をみやぶっていた。

だが、それは数馬にとってどういうことになるか?

絹の心底は渤国のものでしかないと露呈している。

それは、後で返事をするといった絹の答えそのものになるのか?

数馬を上手く牛耳る筈の絹にとって、想わぬ失策を呈した事になる。

だが、数馬が絹の挙動の下の目論見に気が付くという事を、裏返せばこの中に才蔵を切った者がいる。と、いうことでもある。

誰かが、そう、おそらく、あの時数馬こそが才蔵を始末せよといいえた。数馬の言葉をうけて、誰かが座を抜け出て才蔵を始末している。

この事実があるからこそ、才蔵が始末されている事を絹が見聞きしていると確信している。

わざわざ、有馬の宿に向かわせる算段を取った裏に絹が才蔵に新たなる有馬の宿をつたえにゆくともよんでいる。

と、なれば、当然絹は才蔵の死をしっている。

才蔵に死を与えた男を嗅ぎ取ろうとする絹と判る数馬である。

「絹。先の事さそくに答えをきかせてもらうことにしたいの」

間違いなく何もかも数馬の手の中でしくまれたことでしかない。

やにわに立ち上がった数馬が絹の手を引きたたせると、座敷の外に絹をひく。

「ど・・どこへ」

「きまっておろう」

座敷を出た奥の離れには、男と女の逢瀬を手引きする小部屋がある。

そこで、ときおり一介の男と女がもつれあう。

判っている事ではある。宿の女中の絹には周知過ぎる場所である。

だが、この宿の女中の絹が自ら其の場所にむかわされる?

「お前の答えをきいておらぬうちから、むたいはせぬわ」

人を遠ざけて話せる場所はそこしかないと数馬はいう。

だが、絹の答え次第では数馬の手中に落ちる。

それは数馬の言うとおり確かに無体でなくなる。

足を踏み入れた離れは焚き染めた白檀の香がきつい。

「まるで・・寺のなかだの」

呟くと数馬はそのまま、その場にどかりと腰を落した。

「まあ。絹も座るがよい」

黙って絹も座った。

数馬の前に真っ直ぐ座った。

「絹のこたえをきこう」

促された絹であるが

「・・・」

黙ったままである。

「おまえのことだ。これも間者の使命と腹をくくるきだろう?」

そのものずばりと突きつけられれば絹もいいたいことはいくらでもある。

「あたしだって、いつだってしぬきでいるんだ」

「そうだろうの」

数馬の答えは間者の絹のとうからの覚悟を読み取っており、あっさりとうなづく。

「だから、有馬の所であたしの正体が知られていると判った時は

是で終わりだっておもったよ」

「それが、どうして、自害もせずここに舞い戻ってきたか」

「そ、そうだよ」

確かに数馬は絹の先先の考えまで読んでいる。

「で、逆にわしが事を受けるふりをして、量王に忠義を尽くそうと考えた」

はすっぱな女が取り繕った初心を見破られ、声高に開き直るに似ている。

「で、なけりゃあ。なんで、あんたになんか」

絹の叫びを聞く数馬はふふとわらいをもらした。

「量王のため死を供えるも恐ろしくないお前が女になるが如きに悲壮な覚悟だの」

「え?」

「量王より、お前は自分の女をなくす事の方が一大事だろうが?お前なんかというが、それは、絹の覚悟は決っておるという事だの?」

数馬の手が絹をつかんだ。

「それでよいというんですね?」

絹の手の内は晒した。座敷での失態が進退を極めさせた。

間者としての使命はけしてなくし得ない。それが駄目なら絹は死をあがなうだけである。だが、数馬はそれでも絹の生ごと絹を求める。

ならば、絹は間者としての使命をまっとうするしかない。

『あたしが間者だって判っていて、それでも、仲間にひきいれるんだ。あんたとあたしの知恵比べに。あんたは間向こうからうけてたつっていうんだね?』

この男を殺すかもしれない。

この男に殺されるかもしれない。

だが、其の前に絹は数馬の制裁をうける。

心を与えぬ結びは陵辱でしかない。

心をくれぬ女に与える結びは陵辱になる。

数馬の心を捨て去る罰が、絹の身体を切り裂くような痛みで貫いてゆく。

「絹。覚えて置け・・」

数馬の言葉が絹の身体に楔をうちこむ。

「女子はけして、男を牛耳る事は出来ない。女子はこの時から男のものになる。女のさがにはさからえない」

絹を穿つ動きを大きくして数馬は絹に教える。

「今のお前は心より先に身体を許したにすぎない。だが、いずれ、その身体が心を教える。この時からもう、お前は俺の物だったということをだ」

痛みを堪える絹の耳は数馬の言葉を更に堪えるしかない。

『お前の物になぞ・・ならぬ』

だが、絹の心には数馬の言う通りだと思う姉瑠璃波の姿がうかんできていた。

天下を牛耳る男を手中に納めるといった姉は星を読む。

読んだ男を我が手に納める為に瑠璃波は量王と云う男の腕に女として落ちた。

量王を手中に納めたはずの瑠璃波であるのに、

いつの間にか量王の手のひらに乗せられている。

少なくとも絹にはそうみえた。

なぜなら、瑠璃波は自分に向けられる量王の心を欲し始めていた。

に、比べ量王はたやすく手に入れた女の天性の資質と甘やかな肢体を舐め尽しているにすぎなかった。

瑠璃波に星読みと云う才分がなければ、おそらく見向きもしなかった量王である。

その量王と褥を重ねるうちに瑠璃波の立つ位置が変わり始めている。

情がからみだした星読みが読む深さをはかりそこねている。

大まかに言えば瑠璃波の読んだとおりになる。

だが、わずかながら、誤差がある。

慎重になった瑠璃波は確定事項しか、いわなくなった。

だから、絹が気が付いた。

「絹・・おぼえておけ」

耳を塞ぎたくなるのは瑠璃波があわれだからだ。

男を追う女に成り下がった瑠璃波があわれだからだ。

けして、数馬の言うとおりの絹にはならない。

呪文のように心に言い聞かせる絹の耳に数馬の言葉が流れ込んできたのは数馬の言葉が意外すぎたせいかもしれない。

「絹。俺はお前の物だ」

絹の女を牛耳ろうとしている数馬が吐くはずもない言葉過ぎる。

「え?」

思わずききかえした。

「俺は絹に心底ほれておる」

閨の睦言になったせいか?

何度となく言われた言葉に何度剣突を返した。

じじつ、心底、冗談じゃないと疎ましく思った。

なのに。

数馬は本当に本気なのだと絹はわかった。

知ったのではない。頭ではない。言葉ではない。

絹を抱かずをえない男のさがを見せ付ける今のこの姿態のせいでもない。以心伝心にも似た得心がわき、自然と絹はわかったとしかいいようがなかった。

『あんた・・なんで、あたしなんかを・・』

不思議な得心は絹自身をふりかえさせる。

こんなおんなのどこがよくって?

自分の女を観察したくなる。

「絹・・・絹・・」

絹を呼ぶ男の高みを知ると命をとられるかもしれない女に惚れてるという男の馬鹿さ加減が妙にあわれになってきた。

『そんなに。あたしなんかが・・いいって?あんた、ばかだよう・・・』

確かに、数馬にほだされ始めている絹である。

それが、男と女の稜線をこえたせいだと解り、絹の中に芽生えた物が大きく芽吹くのはもう少し後になる。

                       


宿根の星 

幾たび 煌輝を知らんや

               憂 生


形だけは数馬の女になったとはいえ、絹の元に、数馬が尋ねるは、数馬にすれば当たり前の事である。

くるのが、当り前の顔で絹ににじり寄るが今日の数馬は絹の前に正座した。

「なんですよ?」

いつもの軽口から始まる男と女の戯事の要求ではない。

漁記の離れの奥座敷でみせた数馬の慇懃無礼ににてもいる。

「絹は量王に忠誠を尽くすつもりで、俺の物になっているのだろうから・・」

漁記の離れでの一件以来、絹は何度か数馬に抱かれていたが、当然数馬も絹の間者としての目論見を承知している。

承知している事をわざわざ、正座していいだすには、わけがあろう。

「実は・・・」

中々、言い出さない所がいつもの数馬らしくなくて、絹は笑いだしていた。

「なにをそんなにいいしぶるんです?」

いつの間にか数馬の性質をにくからず思う自分に気がついて

若い、娘らしい項がそっと色を染めた。

「いや・・つまり・・」

数馬が言い渋るわけは実に単純である。

今日の夕刻のことだった。

連名の志士達と策を練ると称しながら連帯を深める遊行に興じているだけで、日がたって行く事にいささか疑問を感じ始めていた数馬に一つの決断をせまられた。

―有馬が御社の瑠墺にあう。数馬は絹を同道せよー

是を絹に云えば、絹のことだ。間者の絹だ。喜んでついてくることだろう。

だが、是を絹に伝える事はいよいよ、絹を利用する数馬でしかないということである。

絹は渤国の間者である。出来れば絹をこちら側に寝返らせたかった数馬であるが、まだ絹の感情を突き崩す所までの男と女にはなりきれて居ない。

絹は密命に奉じるため、数馬の「女」になったにすぎない。

が、是も覚悟の上。いつかは、絹を替えて見せると腹を括ってみたものの、現実、絹を動かす餌をまくのが自分であるとなると、絹への純情が数馬の胸を締め付け、一緒に来いという、簡単な一言さえ口に出せない有様である。

それが、モソモソと顎をなでさすっていると、切り出す機会を見計らう数馬にみえる。

「なんですよ?」

この人はついつい、真剣なのだと絹は思う。

本当に言いたい事の中身はなかなか伝わらないから、絹が気がつかなかっただけでいつも「絹には心底、惚れている」と本気で云っていたのだと思う。

顎をさすっていた数馬が意を決したかと思うと口から出てきた言葉が

「俺は本当に絹に心底だ」

だったので、絹はきょとんと数馬をみつめるだけになった。

「はい?」

「だから、俺は、できれば、お前を連れてどこかににげてしまいたい」

何かと思えば逐電の相談なのか?

絹は首をかしげながら数馬の言葉を待った。

「だが、そうはいかない。俺は・・」

数馬がまた黙る。じりじりする思いを抑えながら絹は待った。

「お前が俺にくらいついていてくれるわけをなくしたら、

お前は俺からはなれてゆく」

数馬は有馬兵頭に近しい人間である。

近しいのは、数馬が「志士」だからだ。

志士を放棄した数馬など、絹には何の用もない。

「だから。有馬が御社の瑠墺にあう。お前も俺と一緒にこい」

一気にいいはなつと、数馬は絹を引き寄せた。

「わかるか?」

間者としての使命なぞでついてきて欲しいわけじゃない。

だが、ふたりの結びつきも、絹の命も絹が間者であることでなりたっている。

数馬は成り立たせる事を選ぶしかない。

辛い選択でしかないのは初めから。

だから、せめて、今、絹が「数馬の女」である事だけに没頭したかった。

数馬の言葉に絹は不思議に、素直に頷いた。

そして、少しだけ数馬に惹かれ始めている自分を牽制してみたかった。

「あんたの負けだよ」

数馬は鸚鵡返しに答えるだけだった。

「ああ。お前の勝ちだ」

数馬の手が絹を弄る頃には、絹は本当にこの男を操っていけるのだろうかと、考え直す事さえ忘れさせられている。

すでに数馬と云う男に組み敷かれた女が、意識さえ抗う事も置き去り、甘事に酔う女になりはじめていた。


有馬兵頭の宿に出向いた男は桧田藤吾。朽木象二郎。そして、工藤数馬の三人だけだった。

志士連隊まで引き連れる事は当然、衆目の目を諮れば、おのおのが別行動でということになったが、有馬兵頭の剣の腕はすこぶる悪いときいている。

本人が語るにも今まで生きこしてこれたのが不思議なほど「へぼ」なのだそうだが、若いころには剣術指南所に通っており、一応は免許皆伝とあいなったという噂ももれきいている。

是が本当なのか本人が言う「へぼ」が事実なのかをしろうにも、どういう運命の強靭さなのか、いまだかって、有馬が刺客に狙われながら、刀を構えるどころか、抜刀さえせずに事無きをえている。

いくら、天が味方するかと思うほど運の強い有馬だとしても、有馬一人で御社の瑠墺の元にいかせた道中で、刺客の狂刃に露と散った後に、『有馬のへぼ』は本当だったと知るは愚かである。

有馬の道中を警護する人数も目立たぬようにと3人に絞った。

腕が立つ人間を選ぶのは造作もないことであるが、今回は是に加え絹という間者を同道させる。と、なれば、まずは、数馬を人選するのは当然である。

帝都までの道に明るい桧田藤吾。そして、間者をかぎ分ける嗅覚に優れている朽木象二郎。素知らぬ顔で絹からの情報を得ようと通りすがりの旅商人をよそおってでも接触してくる間者も居るかもしれない。なれなれしく近寄ってきた、旅の人間をうたぐったあげく、うっかり、和国の同胞をきるわけにはいかない。朽木象二郎の鼻は多いに当てになるとふんだ。

女一人を含む道中五人は、いかによそおっても、不可思議な塊であろうが、

有馬の物柔らかな外見は見ようによっては大家の旦那衆にみえなくもない。

あっさり、商人装束に身を固め御付に警護されての物見遊山をきどってもいいかもしれない。

桧田の案に有馬は

「では、そうしましょう」

と、こだわり一つもみせない。

とは、云うものの形を繕うとなれば有馬の腰のふたふりをどうするかと考え

あぐねることになる。いくら、なんでも、まさかの時を考えれば、やはり商人装束は危険でしかない。どうせ、小手先を替えてみた所で有馬の命を狙う間者には通じない事である。

「まあ、しかし、人心が不安の只中。妙な一行が帝都を目差すというだけでも、まかり間違えればこちらが間者とおもわれかねない」

有馬はにこりと笑うたまま、絹をみた。

「良く、いらっしゃって下さった。絹さんには早速で申し訳ないが御付のお女中という役をかっていただきたい」

相変わらずしっとりとした優しい笑顔を見せる有馬はさらにつづけた。

「それで、まあ釣竿を二つ、絹さんがもってくださればいいと思うのですが」

有馬の言い分に慌てたのは桧田である。

「ま、待って下さい。有馬さん。貴方、この女が何者か判っておいででしょう?」

釣竿に見せかけるはよしとして、それを間者である女に持たせるとは、豪を過ぎる。たわけた行動である。

「大丈夫ですよ。ねえ?絹さん」

有馬はこともなげに絹に同意を求める。

そして、黙って腕を組んで成り行きを見守っていた数馬をふりむくと、

「だいの男が命をかけて惚れた女です。大丈夫ですよね?」

どうして、有馬は此処まで人を信じれるのか不思議な気がするが、信じるとは惚れるに似たようなものだといわれているように思えて数馬は

「大丈夫です」

と、答えたくなった。

「ほら、ごらん。だいじょうぶですよ」

何の根拠も無いのに、「ほら、ごらん」という有馬にあきれ、言葉を詰らせた桧田の喉の奥が

「ぐう」

と、唸ると、有馬はこれも

「ほら、そうだといってる」

と、安易な選択を肯定してしまった。

こうなったら桧田も仕方が無い。

桧田藤吾は絹をにらみつけていう。

「馬鹿なことをしたら、お前の命がないぞ」

命なぞいらない間者に命をとるぞと脅す事なぞなんの役にたたないのであるが、有馬の決定を覆すより、絹を脅した方が早いらしい。

こんな調子で言い出したら聞かない子供のような無邪気さで、有馬は「この国を護りましょう」といったに違いない。

良いと決めたら信じたとおりにやってしまうこの無邪気な行動力に魅せられた男達は、それゆえに有馬が言い出したことに逆らえないのだろう。

有馬の持つ不思議な魅力は、有馬があまりにも純粋すぎる子供を胸にだかえたまま、大人になったせいなのかもしれない。

そして、絹は実際、有馬の刀を渡されると、「うらぎれない」とおもうことになるのであるが、もうひとつ、

自らの命を護る道具を間者に預けてまで、会いに行こうとする御社の瑠墺という男がただものでないと思わされた。

「あの、御社の瑠墺というのは?」

どうせ、何を探りたいのだと撥ね付けられるだろうと思いながら絹は尋ねてみたが、有馬はそれを答えるのさえ臆せず、あっさりと

「天文敦煌に秀でた男です」

と、返してきた。

と、いうことは、

「星読み・・・と、いうことですか?」

絹の姉、瑠璃波と同じ宿生である。

「そうとも云いましょうが、どうも、ただ星をよむだけではないらしい・・」

絹の姉は星読みの宿生を武器に量王にとりいった。

だが、姉と違い御社の瑠墺と云う男は星をよむだけではないらしいという。

「どういうことでしょう?」

絹が首を傾げると、有馬はとつとつと喋り始めた。


御社の瑠墺が星を読む。

この時、例えば在る場所において、天変地異、地震が起きると知るとする。

通常、星読みならこの自然の起す天啓に逆らうことはしない。

黙って自然のなすがままの選択に任せる。

天の思惑に人間風情が抗う事が間違いであるとしっているからである。

天により何らかの淘汰を受けなければならない人間の宿命を変えた時、その

歪みがどんな形で起きるかわからない。

例えば、地震で命をなくすはずの人間を救い出してみても、天が彼らを狩ると決めている以上別の手立てがこうじられる。

実際、多くの人を救い出してみたものの、その中から疫病がおこり、狩るべき人間を擁護した罰を課せられたのか本来無関係な人間までも巻き込んで、大きな被害を生じさせた例がある。

天の思惑に逆らう事の畏敬を知る星読みは、宿命を読んでみるだけである。

読んだ宿命を知る事により、新たな手段を講じられるのは事実であるが、衰退に歯止めをかける事は具の骨頂になるだけである。

つまり、自らの負の運命をしっても、是を変転できるのは星に煌輝を持つ人間に限られる。

少々の芥や塵謎を燃やし尽くす灼熱をもたない星は堕ちるしかないのである。

ところが、大きすぎる光を持った星の事は天の帰結に従うしかないのであるが、小さな星ひとつの存続は先の徹底に反して、御社の瑠墺の思いや、願いを天が聞き入れるときがある。

実際、余命いくばくもないと医者に見離された幼い少女が、御社の瑠墺の延命祈願を受けると病の痕跡すら残さぬ健康な体に立ち返っている。

むろん、天とて、御社の瑠墺の言う事なら何でも聴きとどけるわけではない。

いくら、願っても祈っても、宿命の星の色が変わらない事の方が多いのだが御社の瑠墺の思いは天と疎であるが通じている事は間違いが無いのである。


「星読みだけでない・・」

絹は有馬に聞かされた事を繰り返しつぶやいた。

この「御社の瑠墺」という男の事を姉、瑠璃波が「読めない」と恐れを抱いたことなぞ知る由もない絹である。

が、姉妹の血が成せる技か遠く地を隔て、姉妹は同じ男に只者でないと思うのである。

姉、瑠璃波に和国に行ってくれと頼まれたときの事を絹は思い出している。

「量王の運気は盛栄を現しているが、その星の後ろに居る穏星が、量王の星に影をさす。よもやと思うが・・」

誰にも告げられない事実は、妹だからこそもらすことができた。

「その影が何者であるかをみとどけてほしい」

それだけであった。

その影がなんであるか、誰のものであるかは瑠璃波にも判らない。

判らないから不安で仕方が無い。

量王を愛し始めた姉の「よもや」を恐れる女心が痛くて、

絹はうなづいた。

表向きは和国のへ間者としてでむくとして「剣牙」の修養をうけ、和国にきたが、その影がなんであるのか、みつけられないまま、今に到ったのである。

その影が、この御社の瑠墺の存在が落す物であるか、どうかも、判らない。

だが、探る価値があると絹は思った。

思ったからこそ、御社の瑠墺をこの目で見てみるまでは、有馬の命をねらうのはやめるしかなかった。

志士連名の頭角の男が星読みに逢う。

すなわち、決起が集束する。やがて、渤国との戦が始まる。

この点でも姉の言う、量王の星に影をさす大きな要因になる男とおもえた。


動きだした妹、絹の星がいっそう輝きをまし、穏星にまばゆい光を差し込みだしている。

絹は量王の星の影にさす者に近づき始めている。

今は影を作らす事の出来ないまばゆさで穏星をも照らしているだけだが、絹の星の輝きがませば灼熱の光で一瞬で穏星をやきつくすかもしれない。

瑠璃波は絹の星のまたたきが穏星を照らし始めていくのを、ぞっとした思いで眺めていた。

量王を護る宿命の強さが絹を支配している。

穏星を焼き尽くす事が叶えば、邪魔者もなく量王の星を輝かせる。

そして、この事は、瑠璃波もまた、量王の星の煌輝を損なう存在でしかない

として、絹の宿命に滅ぼされる自分である事を教えられていた。

「どこにおいやっても・・あのこは自分の宿根のままに生きるだけなのか」

三年前、瑠璃波は天空に突如現われ輝く量王の星をみつけた。

蒼碧に光る星に瑠璃波の魂まで吸い寄せる魅惑があるを知った瑠璃波は量王を我が物にするときめた。

だが、量王の星の瞬きをいずれ際立たせる朱色の星が量王の星の遥か後ろにある。

年が経てば、量王の重鎮になる腹心のものか、あるいは伴侶になるものか。

瑠璃波は「腹心」の星であることを祈りながら、量王の遠く後ろで瞬く宿命星の持ち主を読んでみた。

「なに?」

あのときの衝撃は今も瑠璃波の胸をうつ。

朱色の星は量王の伴侶であった。

だが、それだけなら、瑠璃波は笑って済ませた。

伴侶がいくらおろうと、その伴侶が量王の輝きを増す力を与えるなら、これも量王の運気を盛るにありがたい。

量王の身も心も瑠璃波のものであれば、形だけの伴侶は飾にすぎないのであるが、この飾が量王の運気を増すとなれば、いよいよ、心強い。

ところが、この飾の名前が絹波とはんじられた。

まさか?

と、思いながら天空に妹絹波の星を探した。

量王の星の出現により天空の星の位置はずれこみ、いくつか新しい星が強くまたたきだしていた。

いつもの場所に絹波の星は無く、

薄赤だったほの暗いまたたきが

今、量王の後ろに位置すると朱色に閃光をかえた。

「絹・・絹波だというの?あの星が?あの星が?」

まだ十五。子供でしかない絹の肢体と、

幼さを残しながら徐々に女らしくなってきた端整な顔立ちを

思い浮かべると瑠璃波は

この先、量王の触手が絹に伸びてもおかしくないと思えた。

「いやだ・・」

どこの誰とも判らない女を飾りとして踏みつけるのはいっこうに構わない。

だが、妹、絹波をふみつけにしたくはない。

と、いったら、瑠璃波の嘘になる。

絹波は美しく、頭も良い。

その上、瑠璃波のように形にこそ出なかったが「星読み」の血を受け継いでも居る。是が表にでたら、量王が、瑠璃波を必要とするわけがない。

絹波相手であれば、自分がかざりになる。

自分が踏みつけにされる。

それだけではない。

自分こそが量王に絹波をめぐり合わせる糸口をつくるのだ。

妹の事も両親の事もどこで生まれた人間かもいっさい語らない事だと決めると、瑠璃波は家をとびだした。

そして、思惑通り量王に謁見できれば星読みの才を披露してやすやすと量王の気をひき、量王のかいなに落ちるを望む女である事も量王の恣意に叶った。

そして、量王の女と懐刀になりえた瑠璃波は万が一にでも絹波が量王と出会う事なぞ出来ない策略を練った。

遠く和国に絹をおいやったのに、それでも絹の宿根星は量王を求める。

絹波の宿命だけが量王を望み、量王という男を知りもしない絹波はそれに引きずられているだけでしかない。

現実、量王と褥を重ねる女の心がそんな宿命如きに引下れる訳がない。

殺される前に絹を殺すしかない。

星を読める女であればこそ、こんな決心もむりなかろうことであるが、

妹に永遠の別れを与えるのは絹の宿命どおり、穏星を潰えてから、量王の安泰が確実になってからのことだと瑠璃波は考えていた。


「どうした?」

空をみあげたまま、唇をきつく結んだ瑠璃波を人目もはばからず、量王はだきよせ膝に乗せた。

園庭の合歓の木の下に作らせた宴台に冷酒を置き、量王は瑠璃波の星読みを見守っていたが、星明かりの下でも瑠璃波の表情は哀しげに見えた。

「俺の星もおちそうか?」

そうなったらそうなったまでの事。

どこまで、運命が自分に何をさせたいのか、量王と云う名前の男の生き様を演じてみてみたい。

どこかで、自分が時の流れの中で、偶然、表面に浮かび上がっただけでしかないとしっていた。

「欲がないのですね」

渤国を手中に納め、大陸も統治した。

海の向こうの大国ドーランでさえも今では、迂闊に手を出せない渤国にのしあがった。

「急いては事をしそんじるともいう」

「何を御考えですか?」

瑠璃波は手を伸ばし量王の杯をつかもうとするが、量王は瑠璃波の手をよけると自らの口に冷酒を含み、瑠璃波の口によせた。

量王の口からじかに注がれた冷酒を飲み込んだ瑠璃波を確めると

「部屋にもどるか?」

と、瑠璃波の耳元に量王の誘いが熱い。

返事を返す代わりに量王の胸に顔を埋めた瑠璃波を軽々と抱きかかえると

量王は手に持った杯を宴台において、部屋に向かう歩を進めた。

部屋に入れば、量王はすぐさま寝台に瑠璃波の身体を横たえ、瑠璃波をのぞきこんだ。

「どうして、寂しい顔をする?」

瑠璃波は答えず量王の首にうでをからませた。

瑠璃波の腕によせつけられるまま、量王は瑠璃波の心に乗った。

しばし、量王の物と瑠璃波の物が一つに融合してゆく甘やかな陶酔に溺れ、瑠璃波は量王を失う恐れから解放たれていた。

やがて一つの快楽を享受し、分け与えた男は快い睡魔に身を任せ始めた。

身体の芯に残る火照りは、量王がくれる愛しさのせいである。

量王の胸に縋りつかずにおけない瑠璃波を量王は夢現のままだきよせてゆく。

眠りについたあとにまで、見せる量王の優しさはどこまでも瑠璃波の心を捕らえて離さない。

「だからこそ・・なくしたくない」

呟いた瑠璃波はいっそうかなしい。

いっそ絹波を殺してでも、量王の寵愛を手中に納めておきたいと願う瑠璃波とて、絹波の宿根星の煌輝をみれば、無駄な足掻きでしかないことを重に承知していた。

そして、量王が瑠璃波は受け入れた本当のわけもみえていた。

国の君主となった量王であれば、富も名声も手に入れているのは当り前であるように、褥を共にする女がすでに幾人かいるとおもっていた。

ところが、量王には、そういう類の特別な女がいなかった。

今までどうしていたのですか?

と、問えば「戦に明け暮れていただけだ」と快活に答えた。

女人はおきらいでしたか?

と、問えば、「お前が現われるのを待っていたのだ」と笑った。

量王のその言葉どおりだろう。

違っているのは、『お前』が、瑠璃波でなく絹波であるべきだったという事である。

やはり、量王は絹波に巡り会ったその時から、絹波への恋におちていたに違いないと瑠璃波は思う。

そうでなければ、量王は瑠璃波に惹かれなかった。

姉妹と云う血。よく似た顔立ち。似て非なるものでありながら、量王の魂はは瑠璃波に真に巡り会うべき片割れの匂いを嗅ぎ取ったにすぎなかった。

だからこそ、なにがあっても絹波を量王にちかづけてはいけない。

遠き地でも量王の護りの宿命をはたせうる絹波なら、いっそ、和国との混沌がつづけばいい。

絹波はずっと、間者として和国に留まり、その宿命だけをはたす。

瑠璃波をこんなにも悲しくもあざとい祈りをこめるしかない哀れな女に変えた愛しい量王こそをなくしたくない。

瑠璃波はそっと身体を起し量王の漆黒の髪をなであげると、その寝顔をみつめ、僅かな灯りを漏らしていた灯心の火を切った。

油が軽くくすぶり、薫煙は鼻についた。

量王の静かな眠りを妨げぬ様に手をひらめかせ、部屋に入り込んだ月明かりの照り返しに揺らめき踊る白い油煙をおいやると再び量王の側に潜り込んだ。


旅支度もすっかり整うと有馬は極楽蜻蛉の安気な金持ちの態を装う事にやっきである。

道中でも、道楽者なら、「こういうのだろう」を口に出してみる。

「そこの茶店の団子を買い占めてきてくれま・・いや・買占めてこいですね」

付け焼刃の大店の旦那はやけに丁寧に命令するものだから、

桧田は笑い転げながら、旦那のわがままを宥める。

「そんなにいっぱい、たべきれませんよ」

数馬は有馬が思いつく旦那の豪放ぶりが、「茶店の団子買占め」くらいでしかないのがおかしくて、

「団子ですか?」

と、いったきり、止まらぬ笑いに痛み出した腹をおさえてもまだ笑っている。象二郎も同じく寡黙な男らしくふっと吹きだすと口中で笑いをかみ殺すのに必死になっていた。

絹は、といえば、有馬のき真面目ゆえに、なんでもない一言が大の男をこんなにも朗楽に笑わせるのだと、思うと有馬と云う人間の底知れない純粋さが今までと違って身近に感じられ、

一言で言えば、有馬と云う人間が『可愛い人なのだ』と、おもえた。

当の有馬は四人の笑いをいっこうに気にする様子もなく、

「茶店の団子くらいでは、大店の主人らしくないですね」

と、気がつくと、歩をそのままに腕を組んで暫くかんがえこんでいた。

と。

「ぁ。あれをもってかえりましょう。うちの庭にちょうどいい」

ありもしない庭は広い庭らしく、有馬の指差した持って帰る物は、二抱かえにあまる立派な松で、見上げても十尋のたかさはある。

団子よりは豪勢になったと苦笑しながら数馬は有馬の芝居に乗った。

「旦那さま。一本といわず・・」

道の脇は先から松並木である。

ずらりと並んだこの松を持って帰っても植えれるくらい広い庭の持ち主ということになるのだ。

数馬の乗った芝居に合わせ、有馬もふんふんとうなづくと有馬の次の科白を吐いてみた。

「では、もう一本もってかえろうか」

とうとう一行の歩が止まる事になる。

道の真中で腹を押さえて笑い出した四人が静まるまで、有馬は何がおかしいのだときょとんとした顔でつったっている。

是がまた、おかしくてわらえてくる。

随分、長い間、待たされてやっと、笑いが収まっても、有馬は飄々としたもので、懲りず

「ああ。絹さんには、都に着いたら・・」

少し考えていった。

「かんざしをたくさんかってあげましょう」

四人が頭に何本ものかんざしを差し込んだ絹の姿を思い浮かべて、またもわらいだしたのはいうまでもない。

これ以上荒唐無稽な有馬の「豪放な金持ち」に、つきあっていては一歩も歩がすすまない。

「有馬さんには…け」

けちん坊の金持ちの方がいいのではないですか?といいかけて数馬は言葉を止めた。有馬にかかったら、けちん坊の実態がどうなるか、空恐ろしく思え、けちん坊に替わる言葉をえらびなおした。

「有馬さんは、お金を大切にするつつましい金持ちの方がにあっています」

数馬の進言に有馬は

「そうなのか?」

と、残念そうだったが、自分でも納得すると見えて

「それではそうしよう」

と、以後は妙な芝居もどきは演じなくなった。

どこまで本気でどこまで冗談で皆を笑わせた有馬だったのか判らないが、とにかく思ったら一生懸命になるのは、絹に数馬をよろしく頼むといった時と同じで、この人はいつでも真剣なのだと絹は思った。

真剣な人だから、数馬の真剣さを真っ先に見抜けたのかもしれない。

絹はいつの間にか数馬の絹への恋情を本物だと確信している。

ふと、数馬を見詰めた絹の胸に昨日の数馬の甘事がよみがえっていた。

絹の視線を感じたか数馬がひょいっと絹をみた。

数馬の瞳が絹の視線と絡むと絹は思わぬ胸の高鳴りを覚え数馬の瞳から目を逸らしてみたが、胸の鼓動はすでに絹の頬をそめさせていた。

ふたりの様子を目で追っていた有馬がすこぶる上機嫌になった。

二人の間で芽生えたものが有馬を喜ばせているとも知らず数馬は有馬の機嫌の良さをからかってみた。

「やっぱり、慎ましい金持ちの方が有馬さんには自然ですよ。楽しそうです」

「そうですねえ。自然のままがいいですね」

暗にふたりの仲が自然に成り始めているのだと答えて、有馬は歩みだした。


大店の主人を三人がかりで警護する旅道中も渤国の間者が横行する今ならさして奇異にはうつらないだろうとは思うものの、やはりぞろぞろと固まり歩く一行は人目につく。

が、そのお陰で繁華な町に入った夕刻には、宿に困らぬ引き合いの声がかかった。

物騒な世の中はめっきり、旅客を減らし、宿の主人自らが街道に立ってめぼしい客を物色している。この主人が五人もの人数の旅人を逃すわけがなく、有馬達にもみでで近寄ってくると

「お宿はおきまりですか?次の町まではまだ半刻も歩かねばなりませんよ。観れば女子の方もいらっしゃる。大事をとって夜道になる前にこちらで逗留なさってはいかがでしょうか」

流暢に一気にまくし立てる。

渡りに船の申し出であれば、有馬も

「そうですね」

と、頷くと数馬らに「そうしましょうか?」と同意を求める。

有馬を御社の瑠墺にあわせるがための旅である。旅の主軸である有馬に多くの権限が在るのだから、有馬が決めればよさそうである。なのに、まるで気弱そうに決定をこちらにゆだねるのである。

おかしなものだと絹は思った。

こんなことぐらいにあやふやで決断力の無い有馬であるのに志士の信奉を集めるが不思議に思えた。

だが、こんな絹の見方を変えたのは数馬だった。

数馬は小さく「有馬さんらしい」と呟くと

「意は同じです」と、符丁のような答えを返した。

「わかりました」

と、頷いた有馬を見詰めた絹は数馬のいう『有馬らしい』と、『意は同じ』の裏に流れる物をじっと考えていた。

絹が考え込む様子にすぐさま気がつくのは絹を恋する数馬ゆえのさとさであるが、何を考え込んだかまで見通せるのは絹だけのせいではない。

「気の優しい、あんな男がなんでいいのか、わからないんだろ?」

気弱そうに見える有馬の性格は、絹に不可思議だと思わせるに充分だと数馬は見通してもいた。

「ええ」

絹は小さくうなづいた。

「人の思いを大切にしているからだ」

「ああ」

絹は数馬のいう意味を理解した。

そして、志士の意志もまた、自ずからわくものであり、是が『意は同じ』であり、有馬はけして、強要や説得で志士の志を作り上げたのでなく、今の宿決めと同じように、私の意志に添う貴方ですか?と、尋ねただけなのだろう。

思い如何こそを問われた志士は「同じ意でおります」と、答え、有馬の心に己の心をむすんでいった。

思いをこそ掬い、取りまとめることが、どんなに強い結束を生むか。

量王とは、違う形で人の心を纏める有馬は、やはり量王を阻む存在になる。

いずれ、刺し違えても・・。

この時、絹は自分のやるべき事をはっきりと見定めた。

宿に着けばいっさきに上り框で足をすすぎ、板の廊下を素足で踏みながら有馬は宿屋の主人をよぶ。

何を言うか知らないが、今度は有馬が一人で采配を振るっているのは確かで

有馬の言葉にふんふんと頷きながら宿の之主人は確かめるように数馬と絹を見返ると「わかりました」の声だけが急に大きくなった。

 宿屋の主人の様子からもよほど馬鹿でもない限り、有馬が宿の主に何を言ったか判る。

案の定、宿の主は数馬と絹に此処でお待ちくださいと言い置くと有馬達三人

をおくの部屋に案内していった。

「どうも、お前と俺は夫婦者ということらしいな」

歴然の事実になっている絹との結びつきである。

是を妙に絹だけに別の部屋をあつらえても、数馬の事だ。どうせ、夜中に絹の元にしのんでゆくだろう。こそこそと妙な隠密行動を取らさせるより、あっさり、夫婦者とした方が早いと考えたに違いない。

「ふん」

絹が鼻でせせら笑って見せた。

「貴方にゃ、よございましょうけどね::」

「ああ。俺はうれしい」

絹の精一杯の皮肉を数馬はものともせず、絹ににじりより、間をつめた。

「絹もいやでなかろう」

今宵の男と女の事を匂わせられた絹が、数馬に間向こうから覗き込まれては返せる返事もなくうつむくしかなくなった。

絹の語るに落ちた態度は数馬を大いにまんぞくさせ、絹のための言い逃れを

つくる気のくばりまでみせる。

「おまえにすれば、有馬の寝首をかけなくて無念だろうが、象二郎は俺にお前をまかせられてたかいびきをかけるだろうさ」

有馬が絹を恐れて、数馬に絹をみはらせるためとは思えなかったが、

「念のいったことで・・」

と、憎まれ口を返すことはできた。

ぼんやり廊下に立ち尽くしている二人の間に妙な雰囲気が漂い始め、やけに気詰りを覚えるがいっそう何かを口に出す事が気まずさを取り繕いたがっているようで絹は黙ったまま真正面の壁をみつめていた。

数馬も絹の綺麗な横顔を黙って見詰めていたが、堪えきれないと観念した。

「綺麗だ」

と、数馬にいわれて

「なにがですか?」

空とぼけてみた絹だったが、絹の神経はひりりと逆立って数馬の視線ひとつさえもが針のように絹に食い込んでくるほど鋭敏に数馬の存在を全身で意識していた。

もう少し遅く宿の主の『お待たせしました』と云う声が聞こえていたら、こんな場所で数馬の胸に抱きすくめられる事をもいとわぬ絹になってしまった事を数馬の抱擁が絹に教えていたであろう。

「ご新婚さんだそうで・・」

宿の主は絹と数馬に御目出度いといわんばかりに頭を下げると、今度は絹にだけそっといった。

「道理で・・・。おしあわせそうにおみうけしたのですよ」

どうふれこんだかしらぬが、有馬のせいで絹は自分から符丁あわせをしなければならなくなった。

「あ。はい」

慌てて答えた絹に主人は

「お食事は皆様一緒の方がよろしゅうございましょう?」

一ところで食事を済まして新婚は部屋に戻る方が良いといった。

夕餉の膳と呼ぶに足りる馳走も客が少ない今を乗り切る主人の苦肉とみえる。

思いの他趣向を凝らした馳走につい、「酒」の声が上がるとちびりと飲み始めた有馬は、今更に唐突に絹の歳をたずねた。

「じき、十九に成ります」

「この国にきたのは?」

「1年半もたちましょうか」

ふうむと有馬は唸った。

「見も知らぬ異国に来て、さぞや、不安だったでしょう?」

「いえ」

と、答えた絹だったが有馬の言う事は当時の絹の不安そのものだった。

「そうですか。でも、もう・・・」

有馬は鮎を毟り食う数馬にとくりをふってみせるという。

「こころづよきことでしょう?」

今は絹を真摯に思う男が居る。これほど心強い事は無かろうと絹の強がりな答えと見ぬいていう。

「あ?はい。ええ・・・」

確かに数馬が居る。どこで朽ち果ててもいいと覚悟して量王に命を投げ出したはずの女を思う数馬がいる。

突然、有馬はいいだした。

「絹さん。死んじゃいけませんよ」

「え?」

何よりも絹を惜しむ男は量王が為に死をも選ぶ絹であってはいけないという。

「なにがあっても、死んじゃいけない。いいですね?」

量王より、国より、何より、絹こそが大事。

有馬の単純な言葉に、はからずも、涙が零れて来るのは、一人異国での不安を乗り越えた絹の量王への忠誠を見返られる事もない一抹の孤独を慰めたせいか。

有馬はもう一度言葉を重ねた。

「何よりも絹さんが大事。量王への忠誠も絹さんがいきておればこそ。こんな事などにのつぎなのですよ」

何よりも絹こそが大事とかさねていった有馬は数馬をじっとみた。

有馬の瞳は、その「絹こそが大事」をわが事に思うこの世でたった一人の本物の男が数馬なのだと言っていた。

『自分を第一義に考える?・・・』

こんな事を平気でいう。世の安泰は君主による。国の安泰があって初めて民がいきてゆける。

だが、有馬の言う事はむしけらほどの存在でない民がわが名を絹だといえという。そして、この虫けらに・・命をかけるおとこがいるという。

「絹さん。いきてこそです・・・」

にこりと微笑んだ有馬は赤子を胸に抱くしぐさをみせた。

量王のために命を散らせるか

新しい命をはぐくんでゆく平凡な女としていきてゆくか。

絹の選択の道はいくつもある。

「自分のためにいきるべきです」

有馬は少し淋しく付け加えた。

「それが量王の忠誠であっても、それはそれでいいのです」

うんと頷くと数馬を見た。

絹にとって、量王への忠誠を捨て去って掴み取るだけの価値がある男だと数馬を信じた有馬はもういちど、うんうんとうなづくと絹をみた。

「あれは、信じた物を疑わぬ馬鹿者ですから、貴方よりやっかいなんですよ」

絹が尽くす量王への信より、数馬の絹への思いの方がよほど深すぎると笑う。

「あれに、ほだされましたから・・」

有馬に何を言った数馬か判らない。

だが、数馬の絹への思いを諦めさせる事は、絹の量王への忠誠を棄てさせるより難しいと解ったと有馬は言う。

「まあ。ようは単純な子供です。でも、困った事に無邪気すぎる子供は裏切れなくなるものです」

数馬の事を言ったつもりの有馬の言葉が有馬の身のうちの無邪気な子供の事を客観的に語っているとは気がつかぬ事が面白くて、絹はほほえんだ。

そして、絹は有馬のように数馬を見詰めてはじめている自分にまだ気がついていなかった。

「それでも、うらやましいかぎりです」

恋と国への思いを一挙に胸のうちに掴んだ数馬はしあわせものである。

「数馬は今、死んでもいいくらいしあわせなのでしょう」

有馬は何気なくいいはなったが、いけないと思った。絹はいけないと思った。

数馬が死んではいけないと思った。

それは、同時に数馬を愛し始めている自分だときがつかせた。

姉、瑠璃波の思いを理解する時がとうとうやってきたのかと、絹は量王を想い涙ぐんだ姉が綺麗だったことを思い出していた。


軽く酒を煽った数馬だったが、やがて、絹を促すと二人の部屋に戻った。

「絹」

絹の名をよんだまま数馬は黙った。


宿根の星 幾たび 煌輝を知らんや

               憂 生


部屋に戻った数馬はもう一度絹を綺麗だといった。

絹はうつむいたまま、数馬にたずねた。

「御社の瑠墺と云う、男はなにものなのですか」

数馬に尋ねなくとも、もう直ぐ有馬は御社の瑠墺にあうことになる。

「俺もはっきりとはわかっていない」

和国天領の自社仏閣の総帥の位置にまでのし上がった男が、人の定めを読むときく。それが御社の瑠墺とよばれているということしかしらない。

「その男に逢って、何がわかるというのですか?」

「さあ・・・」

人の定めを読んでみたとて、何の益になるか。

例えば、和国と共に滅ぶと教えられたとて、何のてだてがうてよう。

仮に渤国との戦いに勝利するといわれないからとて、戦をやめてどうなろう。

是と同じように先の運命がわかってみたとて、今更渤海に潜り込む事をやめるわけもない。

「ただ・・・」

数馬は自分の考えが荒唐無稽すぎて、口にするをためらった。

「なんですか?」

いつかもこんな事があった。

数馬は黙り込むと中々、口を切らない男なのだ。

絹はゆっくりと数馬を待った。

「うん・・・」

自分の考えを頭の中でなぞり返してやはりそうなのだと数馬は喋りだした。

「星が人の宿命を語るというが・・・俺は人の思い如何で星もかわるとおもうのだ」

絹は首をかしげた。

「つまり、もっと言えば御社の瑠墺と云う男はどうすれば星を変えれるかをしっているのではないかとおもう」

絹の瞳が大きくみひらかれて得心の色を表す。

「どう思えば星、つまり運命を変えてゆかれるか。是を知らずして、人の命を救う事などできはしないだろう?有馬さんは御社の瑠墺が女子をすくったといっていたが、これもそうだと思う。何らかの思いを変える事で星をかえることができたんだとおもう」

胸にしんと数馬の言葉が沁みる。

今の今まで運命を変える事なぞ考えだににしなかった。

だから、心の底で、量王の愛人にしかなれない姉を憐れだと思っていた。

いつか、量王は正妃をえる。

姉こそこの運命を知りながら、己の先行きを知りながら、量王に近づいていった。女に見合わぬ県政欲ゆえなら、愛人の立場も覚悟の上と黙った。

だが、憐れに姉瑠璃波は初めの思いを逸脱していた。

絹が姉にいわれるまま、この和国に来たのは量王を愛し始めた姉を見るのが辛くなったせいでもある。

絹は自分が量王の正妃を担う星の宿命を抱いている事なぞ知る由もない。

姉の立場が少しでも量王の寵愛を受けるに役に立つ為だけに絹は和国に来た。

「か・・かえられるというのですか?」

心持絹の声がうわずる。

「どうした?なにが・・きにかかるという?」

数馬が絹の心の中にある何かを見逃すはずも無い。

「いえ・・」

何も晒さず黙る絹に数馬はしゃべりだした。

「こんなことを思ったのも、お前だからだ」

数馬の言葉の意味がつかめず絹は数馬をただ、みつめた。

数馬には絹がどういう事かと問いかけたいのがわかる。

「お前の宿命が量王の間者で朽ち果てるしかない物だとしても、俺と云う一石でお前の宿命をかえたいと思ったにすぎない」

数馬に言われた事は有馬の言葉に通じる。

「何よりも絹さんが大事。量王への忠誠も絹さんがいきておればこそ。こんな事などにのつぎなのですよ」

そして、有馬が重ねた次の言葉が、「絹さん。いきてこそです:::」だったが、にこりと微笑んだ有馬が赤子を胸に抱くしぐさをみせた。

それは量王の為に命を散らせるか、新しい命を育んで行く平凡な女としていきてゆくか。絹の選択の道はいくつもある。と、いわれた気がした絹だった。

それでも、宿命をかえることが出来ない絹を、数馬はかえてみせようとしている。

『あ・・あなたにとって、絹はそんなに、そんなにだいじなのですか?』

量王の道具になるだけの命に、敵である筈の男が道具に出来ないと苦悩する。

「あ・・・」

何を言おうとしたか、絹は忘れた。

伸びてきた数馬の手に引きよせられ、しゃにむに絹を求めだす数馬を受け止める絹は、数馬に与えられる心に「生きている」自分を見出し始めていた。


翌朝早く宿をでると一行はこの先の行程を確認しあった。

「まず、神津山をこえる。この先道は二本に分かれるが北道をえらぶ」

北の道はけわしい。

だが、都への最短距離をもつ。

海路を選べば、安全は保障されるであろうが、日数は着いた港からの迂回をふくめると、北路の三倍はかかる。やむを得ず陸路を選んだ有馬達はさらに大湖の南を周遊する平坦な道と都に一直線に伸びる山路とのどちらを選ぶかを考えた。大きすぎる湖を廻る道とて山路のゆうに倍の日数を要する。

「女子の足には、つらいかもしれない・・」

が、有馬の胸に沸く不安は一刻も早く御社の瑠墺にあえと囁いていた。

この不安に素直に従う事で有馬は間者の襲撃を何度ものがれて生き長らえている。

今までの通り越しで自分の感を信じるだけの裏打ちが出来上がった男は、是に従いたい。

不安の実体がなんであるか、判らないが、仮に間者の襲撃だとしても確かに是に備えるための人員が有馬の側にある。

が、それで何の難もないなら、こんな不安も起きるはずも無い。

人二人が並んで通るに精一杯で、馬や荷車を交わすにも履行する場所を選べず山肌によじ登ってかわすしかない。

こんな山路は間者の襲撃もかわしやすい。

「それでも、命だいじですから・・」

生きて御社の瑠墺に合う。

一刻も早く逢わねば成らぬと急激に思わされるのは、山路を選ばせるだけのためのものでしかないかもしれないが、有馬は時間の短縮と多少の安全の確保という両得になる山路に自分の運命をゆだねたといって過言でなかった。

「だいじょうぶです」

絹は有馬に心を使わせる「女」であるという自分の性を、不思議に思った。

才蔵はこの性を武器にしろといった。

数馬はこの性に男として対峙する。

有馬は絹が女である事だけで既に絹をきづかう。

絹が女であるだけで労わられる。

女でしかないのに、女である事を大切に思われるとは、絹も思ってもいなかった。

歩き出しながら絹は有馬が御社の瑠墺にあいにいく大事な用であるのに、数馬に自分をつれてゆかせるのを許したのか聞きたくなった。

女の足ではと云うくらいだから、絹が同道するだけで、足手まといになろうと思える。

「有馬さんは・・」

急に突然、いまさら、こんな事を尋ねるのもおかしい。

絹はどうきりだしてよいか、まよった。

「なんですか?」

絹を振り返った有馬の瞳は優しい。

「あの・・」

「はい?なんでしょう?」

あまりに穏やかな有馬の様子に絹はどっちでもよくなった。

絹を連れ行く事を許した中に有馬のなんらかの謀もあるのかもしれない。

御社の瑠墺へ絹と云う間者を手土産にするにしても、絹なんぞ、草の草でしかない。

単に数馬に一緒にゆくと頼まれたのをあの調子で応諾しただけかもしれない。

なんにせよ、是もその内みえてくる。

「いえ。私が足手まといに成っているのだと思うと」

絹が有馬にたずねたいことをべつのことでつくろった。

「え?」

とんでもない。思ってもみなかったと有馬が頓狂な顔になるのを見て絹はやっぱり、聞かなくてよかったと思った。

少なくとも有馬は腹に何かすえておける人間ではないと、此処暫くで感じ取った絹は、有馬の顔をみて、やはり、他意はないと信じた。

人を信じさせるに図抜けた叡智がこれを可能にさせることがあるが、有馬はむしろ、まぬけている。

間抜けすぎてこの人間は底が抜けていると思う。

底の抜けた人間は知恵で人を信じさせることはできない。

しいて言えばぬくみがある。底の抜けた器は物を溜める事が無いから、器の中はいつもかっらぽで、どんな事でもうけいれてゆく。

有馬の中を通り抜けたものは有馬のぬくみを知り是に魅了させられるのであるが、底の無い人間は腹に悪意や謀さえもっていられないとみえた。


「御社の」

孝道はときに瑠墺をそう呼ぶ。

宮中の中庭。

えんじゅの木の根方に静かに眠る菩提に手を合わせた孝道は

御社の瑠墺もまた、孝道と同じに手を合わせ終わるのを待った。

「崩御もひたかくしで弔廟に祭る事もかなわぬ。我らは公に悼むことさえできず、いつまでえんじゅの根方を薫王の褥にしておくつもりでいるのか?」

腹の底に薫王に殉ずる決意を忍ばせた男は静かにではあるが、引きを許さぬ

口調で御社の瑠墺に問いかける。

「もう、しばし」

崩御をあからさまにすれば、孝道は共に渤国にせめいる同士を集結し始める。

孝道と居並ぶ重臣の名の下一糸報いなからばと志を同じにする者があっという間に集まり、和国は戦火に飲まれる。

結果亡国をはやめるだけである。

だが、亡国の兆しが和国に大きな皹を入れ始めている事を知っている

孝道はわが命を消滅させるなぞ、既に惜しむきもない。

「どう・・しばしだという」

この先じりじりと決起を伸ばしてみた所で何がかわるという?

孝道の皮肉な問いかけに御社の瑠墺は不意に空を見上げた。

中庭は御社の瑠墺の頭上に抜けるような青空を四角くきりとっている。

「・・・・」

御社の瑠墺の行動は何を言いたいのか。

天意をみはからっているという謎賭けなのだろうか。

「今はみえませんが、星の様相があの時と随分かわっております」

あの時と云うのは君主、薫王の崩御の時をさす。

「大きな星が落ちた後、天空は新しい星が代頭しようとせめぎあいをくりかえすものです」

今まで巨星の影で目立たぬ光を輝かせていただけの星が急に光りだす。

「それで?」

孝道はせせら笑いを隠す。

「量王の星を追い落とす新星があらわれたとでもいうか?だとしても

結句和国の運命はかわりはすまい?」

大国ドーランと渤国にはさまれた和国に、たとえどんな星がうまれようと

いずれはどちらかの国に飲まれる。

海洋術が発展した今大洋の護りはあてになるものでなくなり、今までのように和国は自国だけの政の上に胡坐をかいていられなくなった。

たとえ今、和国が存続出来ても、いずれのち、早いうちに和国は消滅する。

是を知っている孝道は御社の瑠墺の読みを笑いたくなる。

「そんなことよりも・・・」

孝道は己の死に場所を探したいだけだった。

和国の運命の終焉を己の命の終焉の中に囲みとりたかった。

「おもしろいことがおきております」

御社の瑠墺は孝道の思いにきがつかぬふりで、孝道の機先をせいした。

「おもしろいこと?」

はからずも孝道は御社の瑠墺の足掻きを聴いてやるつもりになった。

「ええ。是を観てから死んでもおそくなかりましょう」

「ほう?」

生き長らえて見る価値があることとはいかなることであろう。

孝道は自分を引き止めようとする御社の瑠墺の口述を死に土産にするくらいの気で耳を傾けだした。

「各地に間者を狩ろうと自ら結社しだした志士集団があるのはご存知ですか?」

孝道も聴いた事がある。応とうなづくと

「外地の者が、拠点にするのが港南の都です」

名前の通り大きな港がある、入り江が深く、水深も深い。大きな船が寄港できる和国唯一屈指の貿易港である。

「この間者が降り立つ前線とも言える港南に特に多くの志士蓮があつまっているのですが・・・」

孝道は首をかしげた。

そんな事を知ってどうなる今だと思ったが、一先ず御社の瑠墺の話を最後まで聞いてみようと思った。

「この志士蓮の中枢になる男が有馬兵頭と云うのですが、この男がもう直ぐ此処にやってきます」

それらをも仲間に引き入れて開戦せよとでもいいたいか?

「ふん?」

と、孝道はあざけ笑った。

突如現われた志士なぞを当てにする気はない。

ましてや志士蓮は和国の活路を切り開こうという輩である。

孝道が死に場所を求める決起とはもともとの質が違う。

孝道が志士蓮と共謀する事は志士蓮には犬死をかせるにひとしい。

だが、御社の瑠墺は孝道の笑いを聞きとがめもせず、

「この有馬が渤国の間者をつれてきております」

捕虜、虜囚というところだろうか。

だが渤国の間者の口が堅いのも孝道とて熟知の事である。

無理矢理口をわらそうとすれば死もいとわず量王への忠誠に殉じる間者の生きざまこそが孝道に渤国にはむかってみても勝ち目がないと悟らせてもいた。

「この間者は女子です」

女子供まで量王に命を託す。ますます、和国では勝てない結束を思い知らされる孝道はついとその場を去ろうとした。

「この女子は量王の正妃になる宿命を持ってうまれてきているのですが・・・」

御社の瑠墺の言葉に孝道は立ち上がろうと力を込めた膝をゆるめた。

「正妃になる女子が間者につかわれるというか?」

孝道が立ち上がるのを止め耳を傾けだす姿に御社の瑠墺はにこりと微笑んだ。

「私もおかしなことだと思いました」

ゆえに、瑠墺は改めて星をみつめなおすことになったという。

「量王の横には星読みがはべっているのですが、どうやら、これがおなごなのです」

「なるほど」

量王の星読みは己の座を護るために正妃の宿命を持つ女子を間者にしたてあげ、和国においやったということであろう。

星読みが自分の領分を弁えず、量王の寵愛を独占したくなったとしても、これも女子のもろさであり、量王がいかに、うかつに星読みに女を求めたかということである。

「女には脆い男でしかないということか」

破竹の勢いで四国を掌握していった量王にも弱点があるとみえる。

孝道は愉快そうな含み笑いでいくばくか独り言めかしながら瑠墺にたずねた。

「傾国の美女となるか?」

御社の瑠墺は孝道に答えず、逆にたずねかえした。

「孝道さまはどう、おもわれます?」

「その間者とやらをみてみたいものだな」

宿命と云う物が、星読みひとつの謀反で簡単に覆されるものだとは思えない。

間者の運命がどうかわってゆくのか。大河の中に咲き得る華か?

量王の正妃になるべく女子を見て見るも一興ではあったが、孝道はいそはらへの道を歩むときめている。

どんな華かみてみるだけだなと孝道は思った。

「私には、宿命を変える事はできませぬが、個人の運命は本人の思い如何でかわりえるものだとおもっております」

「ふ?すると、量王の星読みこそが渤国をほろぼすこともあるというか?」

「ええ。のぞまぬことで、あるでしょうが」

孝道は唸った。

「つまり・・・」

「ええ。有馬が連れてくる間者は、渤国と和国の明暗を覆しうるかもしれない存在ということです」

孝道は言いかけた言葉を飲み込んだが御社の瑠墺の言う事への理解と肯定を指し示すために口にしだした。

「いっそ、それならその間者を始末してしまえと思ったが、それでは、星読みの思う壺であり、宿命が潰えた時その星読みこそが正妃の宿命をつかさどるともかぎらぬわけだな?」

「そのとおりです。量王の正妃と云う宿命を抱えた女子がいてこそ、星読みは量王の運命を己が手で揺るがせる存在にもなりえるのです」

「ふむ」

「事実、空の上では量王の星に蔭星がしのびよっております」

「ふむ?」

星の事になると孝道もうなづくばかりである。

「本来、正妃が座す場所に蔭星が近寄れたのも、星読みが量王から正妃をとおざけたせい・・・」

おし黙った御社の瑠墺に孝道もまた、くちをつぐんだ。

『その蔭星が、誰であるかわからぬ瑠墺ではあるまい』

量王の命を狙う男は他にもいるだろうと思いながら、我が手でこそ、量王を始末したいと考える孝道は御社の瑠墺が明かさぬ蔭星の主の名こそが我が名と思った。

「おききにならないのですか・・?」

御社の瑠墺も孝道が蔭星の主をきいてくるものとおもっていた。

「だれにせよ。量王を軋ませる存在があるというなら、決起の時期を待とう。すべては、御社の、お前にまかせよう」

今度こそ立ち上がった孝道に御社の瑠墺は深く礼を返し孝道が園庭を去るを見送った。

中庭に降り立つ階に足を乗せたとき孝道は瑠墺を振り返った

「その間者とやらが着いたら、しらせてくれ」

と、わらい、

「このむさい年寄りでさえも、一国の妃、量王の正妃なるものがいかほどのものか。男として、きにかかる」

まだ、まだ、生きる事に執着があるようだなと自分に頷いた孝道は

長らく欲を漱いでおらぬわと一人つぶやいた。


孝道を見送った瑠墺は、再び空を仰いだ。

夜に姿を見せる星は、人の人生の知らざる部分を語る。

孝道に語らなかった蔭星の持ち主が瑠墺を尋ねてくる中の誰かである事はわかっている。

量王の星に影を落とす事が出来る存在は量王の正妃をえるべくして現われたに過ぎない。

ところが、これが、量王の星に影を落す。

と、ならば、考えうる事は量王の光芒も今が限度ということである。

あとは、この正妃が持つ元々の宿命に量王の星がてらされてゆく事で盛華をきわめてゆくと読める。

つまり、渤国の栄華は正妃の宿命に支えられる物であり、真の渤国の王は正妃であるといって過言でない。

その正妃を掠め取ろうという星は量王の星に立ちはだかるしかない。

是が蔭星である。

この蔭星を量王の星の前に登場させたのは孝道にも言ったとおり量王の星読みであり、いまや星読みは己が作った大きな誤算を抱かえもがきくるしんでいるというところだろう。

だが、量王ほどの運気の強い男がかくもあっさりと自分を護る正妃の存在を

遠ざけさせられることになったのか、星読みが正妃の実の姉であることまでは、嗅ぎ取れぬまま、男と女の情縁が運気まで左右する事に御社の瑠墺は白眉をひねった。

そして、蔭星を持つ男がいまや男と女の情理で正妃の宿命を変えている事も

御社の瑠墺には不思議に思えた。

男と女の宿命が、身体一つの結びでかくも変転をきざせるものかと思うほどに妻をもたぬ男は執着の闇をも知らず、闇からぬけでる光明をもとむるにも無縁すぎた。

結句、命の始まりが男と女の情理がうみだす技なれば、この世の全てのいきとしいけるものの法則は男と女の情理に帰結する。

『在るがままの自然の情を求めているだけに過ぎないのかもしれない』

その横に煩わしい宿命が就いて廻る。正妃にすれば、国の存亡などより壱個の女として愛され生きてゆきたいだけなのかもしれない。

「あたら、星なぞ、読めるばかりに人の感情にうとくなるか:」

口の中で笑うと御社の瑠墺はやってくる有馬達を迎える支度を整えるためにも自宅にもどることにした。

孝道と同じ。確かに御社の瑠墺も量王の正妃の宿命を持つ女子を見てみたかった。

そして、その宿命ごと量王から女子を奪う蔭星の主にはもっと惹かれる物があった。

「あと、ふつか」

御社の瑠墺は有馬達がやってくる日に検討をつけていた。


大きな湖は望月のかけた格好である。

垂線には湖のきわで聳え立つ孤高の山々が連なり大きな屏風をつくっている。

膨らんだ弧は平坦な平野と喫水しており、湖からの疎水が畑に肥沃な実りを与えていた。

確かに弧を廻る道はなだらかであるが湖が抱いた弧はおおきすぎた。

湖を迂回して一端北上してから帝都に入る道は賑わい、道端には旅人を癒す宿も充分に完備されており、なおかついくほども歩かぬうちに、次の町がみえてくる。

それがどんなに旅人をささえるか判っていたが、桧田に尋ねて得た、最も帝都に早く着く道を選び歩いた有馬達は、湖の屏風板の後ろにそびえる山を登りつめ、山路の行程はくだりにかわっていた。

「勝手に足があるきよるわ」

急な坂が足を運ばせる。小走りに駆け下りる道は、もう少し大きな曲がりくねる道の曲がり鼻で、上下、ほぼ一直線に山肌を縫う近道である。

絹が足を滑らさぬようにと、数馬は絹の前をあるいては、絹を振り返る。

「俺が歩いた所をふんでゆけ」

歩幅が違う絹の足にあわせて数馬は足を下す場所を諮る繊細さをみせている。

ともすると、滑りそうな土の渇きがある場所は数馬が絹の伸びてきた足と取り替えては歩を進める。

この山路を歩く絹は数馬に掛けられた声にある暗示を覚えていた。

―数馬・・?の人生の歩をもふんでゆけばいいー

言葉や理屈では、判らない。

擁護される女と擁護する男の行動が絹の心に頭でない理解を生じさせる。

登りは登りで絹の後ろで絹の足取りを見守り、片時も離れず絹を護る男は、絹に「護られるべき女」でしかない絹を教え込む。

やがて道はなだらかな裾野にかわり、山の上からみえた帝都の姿を平原の遥か向こうに隠し尽くしたが、帝都はもう直ぐだった。

『天然の要塞なのだ』

大きな湖と険しい剣の山に抱かれた平野の地を遷都した王が護ろうとした物が、崩れ去る日が近い。

その時、数馬はなくだろう。

絹はそっと、溜息を付いた。

和国を量王の手にささげるため動く女は数馬を傷める。

『でも、その時はあんたを痛めつけた女も・・』

生きていないだろうと思った絹の胸に有馬の言葉がうかびあがり、ずきと痛みをあたえた。

『そんな風に死んじゃいけないって、いってくれるんだよね・・でも』

量王への忠誠は姉の幸せをのぞむせいなのか、

単に姉があわれだったせいなのか、いまの絹にはさだかでないが、有馬が見せた赤子を抱く仕草は姉こそが掴むべきものだと絹はおもいなおしていた。


帝都を囲む壁は高さが裕に九尺はあろうか。

壁に伸びる道の前に大きな扉がみえ、門兵が長い警邏棒を身体の脇に並べて二人つったっていた。

扉の向こう側にも、同じ姿の門兵がいることだろう。

門兵は近寄ってくる五人を、起立したまま、みつめていた。

「港南からやってきました」

とわれるまま、どこからきたか、帝都に何の用事があるかを有馬は門兵にこたえていたが、御社の瑠墺の名前がでると、

「有馬兵頭様ですか?」

と、門兵の方が既に御社の瑠墺の通達をうけていた。

「そのとおりです」

有馬が門兵に頷くと、門兵は一行が有馬たちである事に直ぐに気がつかなかった非礼を詫びた。

「こちらからいらっしゃるとおもっておりませんでした」

一行の中に女子がひとりいると、聞かされた門兵はよもや、山路を突破して帝都にはいらぬと勝手におもっていた。

門の閂が外されると、帝都への訪問者を刻念に調べ上げようとばかりに開け放たれ扉の前で、中の門兵はお互いの警邏棒を十字にくんで、有馬達の侵入をさまたげようとしていた。

「有馬兵頭さまです」

有馬の後ろで門兵が大きく叫び

「瑠墺様のお達しの通りにすぐに」

と、付加えられると、中の門兵は顔をみあわせていたが、警邏棒を手から離し地に置くと有馬の前にひざをついた。

「瑠墺様の御社にご案内いたしたくおもいます」

ありがたい申し出である。

「まだ、玖宇羅の地まで半日はかかります。今日の所はまず、この地で疲れを癒していただき、明朝、私どもが改めてご案内させていただきます」

瑠墺の屋敷がある在郷は玖宇羅の地と呼ばれているらしい。

桧田らの同意を目で確認すると、やっと、有馬は門兵の申し出に頷いた。

「では、まずは、宿に」

門兵はたちあがると、有馬達の前をゆっくりと歩き出した。

「どうぞ、ついてきてください」

と、言われるまでも無く、夕飯の準備を始める辻店からの匂いは空腹を一層意識させ、一行のすきっ腹は夕餉にありつける宿に向かう足取りを軽くさせていた。


『天文敦煌』なるものは、瑠璃波の星読みとさして質がかわらないものである。だが御社の瑠墺は是に古神道の修行を加味させている。

世に言う霊媒師や霊能者とも違う。しいて言えば巫女と云う宣託者に近くある。古神道の奥儀を納めた男は時折であるが、ひょいと遠隔の地に居る見知らぬ人間をも実像で結ぶ事がある。

御社の瑠墺がまなこの裏で実像を見ようといくら、思念をいつにし願を掛けてもひとかけらも像をむすばない。

くせに、天意なるか神意なるかは瑠墺の意識できうることでないが、正に天啓とでも、いうか、突然、御社の瑠墺の脳裏に実像がむすばれることがある。

いまの是が、そうであるのだろう。

哀しい顔はゆえに一層秀麗である。年のころは二十に足す事四つ、五つだろうか。長い髪は神秘の力を高める巫女のようにさんばらと肩をなでおろしている。と、なれば是が量王の星読みにまちがいがない。

正妃を量王の足下から追いやった女にしては、どこにそんな謀反を思いつくかと思うはかなげな面差しが一層、星読みの運気の弱さをものがたっており、

御社の瑠墺は思い描いた星読みの姿と程遠い女に、あわれさえかんじていた。

もの寂しい顔は量王の寵愛を掠め取った己の業の深さになくせいか。

結ばれるべき正妃をしらずのうちに失う量王への懺心のせいか。

それとも、偽の寵愛でしかない事を知る女の悲しみのせいか。

ふと、くぐもった顔がぐいと空をあおぐと、多分是が星を読む時の顔だろう。

眼差しに鋭い光がさし、瞳に蒼色の輝きを移しこんだ女は酷くなまめかしく

妖艶にみえた。

量王を望む女と量王に向かう女の様変わりが見えた瞬間、瑠墺の中の実像はとぎれた。


星読みの哀しい横顔がまだ瞳の中にのこっているのかと瑠墺は思った。

有馬たちが伴ってきた女間者は量王の懐刀である星読みに良く似ていた。

なるほどと瑠墺は思う。

星読みの哀しい顔がなぜだったか、見て取れた。

星読みと女間者には血のつながりがある。

それも、かなり濃い・・・。

姉妹と考えて間違いないだろう。


そして、

瑠墺が読み取ったように

女間者が量王の正妃であるはずだった。

どうやら、実の姉である、星読みが

女間者と量王の出会いを阻止したと見える。

おそらく、その頃には、まだ、女間者の運命星は小さなまたたきしかなかったのだろう。

量王の存在に気がついた星読みが妹より先に量王に近づいた。

だが、それも、運命星のなせる業。

量王は星読みを介し、正妃となる星読みの妹との邂逅を果たすはずであった。

だが、星読みは自分の力故に妹の存在の意味を解したのだろう。

わが妹を和国へ追いやった。


だが・・。

正妃たるものは、やはり、渤海、国自らが選択する。

つまり、女間者は国自らが正妃に選んだ存在ということになる。


これは、どういうことになるのか・・。


量王は己の運勢によって、王にのし上がった。

だが、渤海、国自らは量王を統治者として、選んでいない。

天心、地心、人心。

量王の才の開花は人心の段階でしかない。

言い換えれば、

量王をして、渤海の主ならんとするを阻むものが正妃なのだ。

おそらく・・・。

正妃と量王が結ばれれば、渤海は地球全土を掌握するほどの権勢を手に入れることが出来たのであろう。


小ざかしい星読みの欲が量王を滅亡においやる糸口をひとつ作るとは知らず

星読みはわが妹を和国に追いやり

安泰を得たと思ったのだろう。


だが、星読みは星読み。

己のしでかした顛末がいかなる事態をひきおこしたか、すでに判っている。

量王を得たのはまちがいないことだが、

渤海の運命まで握れない。

それどころか、我が仕業で量王をおいつめる。


星読みは、どう決意するだろうか?

量王とともに自滅するか。

そこの・・女間者を正妃にたてようとするか?


女間者が渤海に行かなければ

量王は破滅するだろうか?

いや、そうはいくまい。

渤海国は正妃をむかえるまで、量王に仮の政権をゆだねるに違いない。

和国の滅亡を礎にしてまでも、渤海は正妃を待つ。


だが、女間者が渤海にいったところで、

正妃に納まるとは思えない。

和国にとって、量王と女間者が結びも、滅亡のもうひとつのルートになる。

だが、やはり、そのルートは通らない。

なぜならば・・。


女間者の横。

ひょうひょうとした、面構えで端座する男。

あれが、間違いなく影星。

女間者の赤く光る運命星。

その赤光の照射の方向を変えた影星がその男。

おそらく・・すでに夫婦。

もちろん、それは、外側ばかりを言うのでない。

運命とも、

魂とも、呼ぶものを指す。


「宮代の・・」

同席した孝道に呼ばれ瑠墺は我に返った。

まずは、有馬兵頭の話を聴くべきであろう。


じっと黙った男が何を考えているのか数馬にも、絹にも有馬にも判らない。

壮年絡みの男が瑠墺を「御社の・・」と呼ぶと、初めて男が口を開いた。


「渤海に入り込む気ですね?」

判っているのなら話は早い。

「なにかしら、状況をつかみたくやってまいりました」

有馬の声はやはり明るく、よく通る。

「なるほど・・」

答えたまま瑠墺は黙らざるを得ない。

今、確信した事実をどう考えていけばよいのか?

単純にいえば、女間者いや、正妃を今、渤海へ行かせてよいか、どうか・・。

そして、この事実を有馬たちはむろん、女間者に伝えてよいか、どうか。


沈黙が長すぎる。

数馬のいらだちが堰を切りそうになると

瑠墺はもう一度、なるほどと頷いた。

「なにが、なるほどなのでしょうか」

数馬に口を開かせぬために象二郎が機先を制して、柔らかな口で瑠墺にたずねた。そうせねば数馬の苛立ちがきっさきだってしまう。

「あなたの思ってらっしゃるように、

そちらの方は事を急ぐ。

でも、今回はそれが、功を奏している」

象二郎が数馬を押さえるために、有馬をさしおいて、口を開いたと見抜いている瑠墺であると、察すると

有馬の持ち前の性分である。

へたに探るよりも、ざっくりと腹の内を明かすことにした。

「それでは、お尋ねします。

事を急ぐが功を奏したとは、いかなることでしょう?」

有馬の内をみぬくと、瑠墺は

孝道に

女間者とともに席をはずすように告げた。

「え?」

絹にとっては、不服であるが

承諾せねば話が進まぬとわかった。

「孝道。庭を案内してさしあげると良い」

孝道の顔にも惑いが浮かんでいる。

孝道は同席赦されぬものですか?

言い募りそうになる孝道にかけた瑠墺の言葉に一同が大きな驚きの声を上げた。


「孝道。その女性は量王の星読みの妹御であらせられる」

絹が「あっ」と声をあげた。

誰にも明かしていないことを

この男は見抜き、それを一同にさらしてしまった。

数馬は数馬でぐっと喉をならし驚きを隠す呈である。

「なるほど」

孝道は何おかを悟ったようで、絹の椅子をひくと、庭へと絹を促した。


有馬も象二郎も数馬も、

おおよその思いは似通っている。


量王の懐刀である星読みの存在は和国の御社の瑠墺のようにあることだとおぼろげに察していた。

その存在が明らかになったうえに

その星読みの妹が絹であるという。

絹が何故和国に来たか?

絹はそれを喋らなかったが、

その裏に何か重大な使命、

あるいは、鍵を握っていると取れる。

瑠墺が絹を遠ざけて有馬たちに話そうとするのは、その事だと思えた。


孝道が絹を庭へ連れ出すのを見届けると

瑠墺は絹のことを話し出した。

「まず・・あの女性は星読みの命によって、和国にきているのですが・・・」

瑠墺はちらりと数馬を伺い見る。

女間者の宿星が渤海の真の統治者を照らし、支えるものであると伝えてよいものか、どうか。

此処だけを言えば、

絹を渤海へ・・

いや、量王に合わせてはならないとなってくる。


だが、その男・・・。

数馬であるが、

もしも、女間者が照らし出そうとしている者が数馬だとするのなら、

数馬が量王の位置にとり変わるということになるのか?

はたまた、

量王を滅ぼし、女間者を自ら統治者の椅子に座らせ、和国の存続を願い出るか?


めまぐるしく廻りこんでくる想定に瑠墺は小さな溜め息をつく。

一同はその瑠墺を固唾も呑まず見つめている。


瑠墺は迷いを心の端におき、流れのままに有馬の問いに答えることにした。

話の成り行きで女間者の運命をつげるしかなくなるだろう。

「急いてよかったと、言うのは・・・」

瑠墺の出した言葉が卓の上におかれたか宝珠のように、見つめられ、静けさに拭きあげられていく。

「そのままで行けば、渤海の正妃になられるお方だった」

有馬以下、皆、声一つたてようとしないのは、瑠墺の言う意味合いが俄かに飲み込めないからだ。


口火を切ったのは数馬である。

「それでは、絹は量王の妃になるということなのか?」

瑠墺の予想通り、数馬の反駁が上がってきた。

「だから、急いてよかったといっているのです。

絹さんというのですね?

絹さんは渤海の正妃になる定めを背負っているだけで

量王の妃になるとは、かぎりません」

急いてよかったという言葉がなにを指すか数馬の単純な頭でもそれはわかった。

『そうだ、わしが絹をもろうてしもうた』

事実である。

だが、絹の星はまだ、数馬をてらしてはいない。

だから、数馬の星は暗い影の星でしかない。

「それでは、ここにいる数馬が絹さんと一緒になれる可能性もあるということですね」

有馬がたずねた。


有馬が言うことは暗に

数馬が渤海に統治者になりえるかを含む。

「絹さんが・・望めば・・」

絹さんが望めばいやでも、男の宿星を照らすだろう。

単純に考えれば

数馬が渤海の首座に座れば、

和国も救われるし

数馬の恋も成就する。


だが・・・。


量王を撃破できるかどうか。

そして、それは、絹にとって姉である星読みの運命を狂わす事態でもある。

星読みが絹を和国においやってまで、

量王から絹を遠ざけた、その裏側を思うと、星読みがどんな考えを持つか。

絹を殺してでも量王をつないで置こうとするかもしれない。


「少なくとも、貴方の存在により

絹さんが量王の妃になることは

一時的ではあるかもしれませんが

避けられたと考えられます。

絹さんの定めに選択肢が生じたと考えて良いと思います」

すくなくとも、としかいえないが

絹が量王の妃にならずにすむ岐路が生じていると瑠墺は思った。


絹が量王の正妃になれば、間違いなく和国は滅ぼされる。

その運命にも選択肢が生じつつあると

考えてよいと思えた。


「おそらく、私の所によらず、絹さんを渤海にとものうていたら・・・」

量王は絹の姉である星読みをひとつの伝にして、絹に出会うはずだった。

だからこそ、量王は星読みの女子に惹かれた。

似て非なるものと知らぬ量王は知らずのうちに星読みに正妃の姿をまさぐったに過ぎない。

それが、実際、絹にあったらどうなるだろう?

量王の中になにかしら思うところがあるのだろう。

で、なければ、星読みを正妃に迎えるはずである。

量王は星読みをして、正妃に迎えるべく本物でないと感じ取っている。

その量王の元に絹を運ぶ。

量王はすぐに絹を見定めるに違いない。

星読みに惹かれた元がここにあったと量王がすぐにきがつくに違いない。


今頃、一行はどうなっていたか。

少人数で渤海にもぐりこむ奥の手は

間者である絹を囮にしてこそ成り立つ。

ところが、絹は囮になるどころではない。

量王にとって、渤海の統治を確約する存在でしかない。

絹をとりあげられ、一行は哀れな虜囚におちる。

敵に塩を送るどころではない。

和国の滅亡に拍車をかけるだけに終わっていた。


だが・・・。

量王のために星読みは絹を捧げるだろうか?

・・・捧げる?


ふと流れ込んできたのは、星読みの思念だろうか?


「瑠璃波?」

日中であるというのに、瑠璃波は何を思うか杯をあおっている。

量王の傍らから姿をくらますと、酩酊するほど、酒瓶をころがしている。

「何を・・?いったい、どうしたという?」

瑠璃波は一点をみつめたままである。

「わしの定めが落ちるか?

それで・・・この杯か?」

瑠璃波は首を振るしかない。

「事実を知ったとて、わしはかまいはせぬ。

ここまで、のしあがったのだ。

十分、思うように生きた。

それに、ひとはいつまでも同じところにおれるものではない。

頂上を極めれば・・いずれ、降りるしかない。

ましてや・・・」

量王は口をつぐんだ。

正妃をむかえ、後継者を得る。

どこの王でもそうするだろうに、

量王は正妃を迎えようともしなければ

後継者を得ることもできずにいた。

子を成せない身体は量王なのか、

はたまた瑠璃波なのかはわからないが、

量王は瑠璃波を正妃に迎えようとしない。

子でもできれば、それでも、瑠璃波を正妃にすえるしかないだろうが、

それも、ならない。

かといって、他の女子・・。

それにも、量王は一抹の不安を感じる。

瑠璃波がそうであったように

量王の地位と権力と勢力にひかれくるだけ。

そんな女の相手は瑠璃波だけで十分だった。

地位と名誉と権力がほしいだけの女子を利用して子を成して、なんの幸せがあろう。

量王の心底は寂しく、悲しい思いに充たされていた。

「それに・・どうせ、子供を孕めない女。そんな女のために、量王。あなたは一代で終わってよいとお考えなのですか?」

瑠璃波の酩酊が口をつかせる言葉でしかなかったが、量王の心を言い当てていた。

女の口さがない言葉に怒る気にもならないのは、量王の優しさのせいかもしれない。

「そうだといったら、どうする?

お前の星読みで渤海の後継者を生じさせるものを、探し出して、虜にすればよかろう。

そう、言えばよいか?」

瑠璃波の心が砕けそうになっていく。

量王の褥になりとても

量王に覇気ある生き様をもたらすことのできない瑠璃波でしかない。

そして、量王の言葉、瑠璃波の諮りを責めるかのごとく聞こえる。

量王から渤海の後継者を生じさせるものをつみとろうとしたのは、他ならぬ瑠璃波である。

渤海の後継者を望むきにさせるのが、正妃だろう。

正妃を得れば、量王は変わると思えた。


苦渋の決断をすべき時が満ちてきている。

瑠璃波は小さな嗚咽を喉の奥でこらえた。

「瑠璃波には、絹波という妹がおります」

突然、話が変わって

いきなり知らされた存在がどういうことであるのか?

なにがいいたいのか、計りかね

量王は黙った。

「妹は和国へ間者として遣わしています。その妹が和国のものをとものうて、

この国へ戻ってきます」

「それが、どうしたという?」

量王にとって初めて明かされた存在は瑠璃波の妹とて、遠いものでしかない。

それが和国の人間を伴い戻ってくる?

捕虜になったか?

和国に寝返ったか?

和国と渤海の調停役にでもなる気か?

いずれにせよ、渤海は和国を占領する。

だから、妹なるものが、何をしようが、

量王の預かり知らぬ所である。

それとも・・・。

命乞いか?

瑠璃波の妹・・・むげなことはしない。

そう言ってやればよかったのか?

量王は瑠璃波の憂いに満ちた横顔を見つめるしかなかった。


妹、絹波こそが量王の正妃たる存在です。

あきらかにしてしまいたい事実を瑠璃波は堪えた。

絹波により、量王はすくわれるかもしれないが、瑠璃波は量王に打ちすてられる。

たとえ、そうでなく、星読みとして、量王に仕え、絹波と量王の並ぶ姿を見ていられるわけが無い。

そして、瑠璃波が絹波の未来を読んで

和国へ追いやったと量王に悟られたくなかった。

正妃をにぎりつぶしてまで、この量王を我が物にしていただと?

量王の悲しみが瑠璃波にしみてくるのはいうまでもなく、

量王ににくまれたくもなく、

あいそをつかされたくもなかった。


瑠璃波の覚悟は涙がつけさせる。

瑠璃波は声をもらさぬまま、

頬をぬらす涙を拭いもしなかった。

「何を泣く?」

かぶりをふる瑠璃波に手を伸ばし量王は瑠璃波をかき抱く。

どこまでも女に甘く、優しい男でしかない。

だからこそ、瑠璃波は量王への恋の繁茂におちた。

「なくしたくない・・」

いっそう、量王恋しさが心に染み入ってくる。

それでも・・・。

「妹にあえば・・わかります」

そう告げるしかなかった。

量王が寂しい心のまま、生きるよりは良い。

絹波なら、量王に生きるめどうを与えてくれる。

瑠璃波ではあがなえない充足感を絹波ならやすやすと福々と量王に与えつくすだろう。

あの娘はそう。いつでも人を惹きよせる。

にくいはずの妹を迎え入れる決心をこの瑠璃波にさせてしまうほど、あの娘は人を惹き寄せる。

それが、判っていたから、ひとめとて、量王に合わせたくなくて、和国にまで、遠ざけた。

でも、それも無駄だった。

きっと、自分に星読みという受けうる性分が備わったように

あの娘には与える性分が備わったのだろう。

いくら、遠ざけても勝てるわけが無い。

量王のもの寂しさが「与うる者」をもとめてしまうのだから。

瑠璃波は・・量王の悲しい心をうけるだけの存在だったのだろう。

でも、量王の物寂しいを瑠璃波では、埋めてやれない・・・。


御社の瑠墺は流れ込んでくる星読みの思念を振り払った。


「星読みは、どうやら、量王を絹さんに託す気ですね」

と、なると、今、絹を渤海につれいくは

絹を量王に渡しにいくにしかないとなる。

だが・・・、と象二郎はうなった。

「少人数でも量王の懐に飛び込めるということでもある」

「その通りです」

事実だけを言えば象二郎の言うとおりである。

量王に近づく手段さえなかったものが、

星読みの采配により、たやすく量王に近づけるかもしれない。

「われわれが渤海にいこうとしている事は、もう星読みによまれているということですね?」

有馬の考えはこうだ。

絹を量王に合わせるまで、星読みが有馬たちの行動を制さぬように采配を振るうだろう。

だが、絹が量王にあったら・・・。

今度は我々が虜囚になる。

なにか、交換条件がないと虜囚をのがれることはおろか、量王に近づくことさえ出来ない。


有馬の憂慮を察するか、瑠墺は小さく嗤って見せた。

「絹さんの心は量王を求めていないでしょう?」

絹の切り札は数馬ということになる。

量王が絹に会えば

量王は絹を正妃に迎え入れたがるだろう。

だが、絹の心が一馬にあるならば、

量王の正妃になったとしても、

絹の宿星は数馬を照らし出す。

それも・・・、

渤海の統治者の正妃の座を得てから

数馬を照らし出す。


渤海という地心が真の統治者をつかみなおす。


自然と量王は滅ぶ。

病かもしれない。

謀反かもしれない。

だが、・・・

絹の心が数馬にあるならば

絹を正妃にした時点から量王は滅びの道へ一歩踏み出すことになる。


「馬鹿なことを!

馬鹿なことを言うな!

わしは絹を生贄になどしとうないわ!!」

突然の怒声は数馬である。


数馬を見やる瑠墺に安堵の色が浮かぶ。

数馬が絹を思う心が誠であると判る。

さもありなんとは思っていた。

渤国の間者でありながら、絹の心は数馬に寄り添い始めている。

絹にあるのは、量王への忠誠心だろう。

それが、量王を照らしているから、まだ、量王の星は赤く輝いている。

だが、それも、いずれ、変わる。


なれど、絹が量王に反する思いを持つとは思えない。

ましてや、量王は星読みの想い人である。量王の失墜は星読みをもろともに奈落へ落とす。

絹はそんなマネはしたくないだろう。


絹に全てを託すか、と、考えそうになるが、今一度、数馬の言葉が胸を叩く。


女子を犠牲にして・・。

つまりは、女子に助けられて、と、いうことだ。

女子に助けられなければ

和国の存続がままならないのなら、

今を乗り切っても、この先・・。

和国の先々どうなろう?


数馬の言葉に潜んだ和国への不安が、

瑠墺の心をきりきりと刺してくる。

再び瑠墺は沈黙を結ぶ。


庭を歩く孝道は絹の視線の先を捉えている。

「それは・・侘助です」

絹が頷く。

「椿の一種です。和国では、華の散り様が潔いとたたえております」

孝道の言うように、花びらひとつ残さず、落さず、華はがくから、離れ

地べたに落ちる。

だが、落ちた華を見る限り、枯れて萎んだものではない。

華真っ盛り。

そのさなかに、惜しむことなく、引き際よく、華がくから、ぽとりと地面に落ちる。

自らの意思で落ち際をえらんでいるとしか思えないほど、見事にかつ淡々と地に逝く。

「私もこの華のような、散り際をさがしているのですが・・」

孝道は自分でも意外なほど、

この女性に自分の心底を話していた。


「それは、渤国との戦を覚悟されているということでしょうか?」

絹は思い浮かぶままに孝道にたずね返した。

絹の問いに本心を言うも言わぬも孝道の自由であり、

孝道がそうだと答えたとしても

絹はそれをとめる言葉を吐ける立場でもない。

「若き量王に戦いを挑んでも、無駄なことは判っているのですが、

納得のいく死に場所が他に見つからず

やむなく、そう考えております」

やむないはちょっと、嘘だなと思いながら孝道は絹を見た。

不思議な娘だと思った。

間者だというのに、敵だと思わされない。

いや、それより、以前に

間者だとも思えない。

それどころか、

どこか自分の心の隅にいる自分に

語りかけるような、妙な安心感を覚える。

肩肘も張らず、警戒する気にもなれず

さらりと本心をさらけ出してもかまわない気にさせられる。

「死に場所を探すというお気持ちになられるということは・・・。

やはり、君主様は亡くなられているという噂は本当のことなのですね」

孝道がそこまで言えば、こう聡るのが普通なのかもしれないが

孝道には、絹が酷く聡い女子に見えた。

まだ、18、19程の娘が齢五十を過ぎる孝道の心を解きほぐしていく。


今さら、君主の崩御を隠してみてもせんない。

渤国の間者に知れたところで

これも、瑠墺の言うとおり

量王はすでに、星読みによりて

和国の君主の死を知っている。

へたに隠す必要もないと踏んだ心が

いっそう、孝道の心の垣を取り払っていた。

「御社のが・・、私のように、死に急ぐものが、増えてはいかぬと、まだ、領民には伏せていますので、私も死に装束を羽織っているだけです」

はやる決起が生み出す結果は良くない。

それは、才蔵の横死をまのあたりに見て

よくわかっている絹である。

「時をせいて、死を早めるは、あとに残されたものが無念です」

絹にすれば己の心情を語ったに過ぎない。

だが、孝道が決起を暴挙に変えない裏側には、絹の言う思いを慮るものがある。

えんじゅの根方に眠る君主からみても、

流言におどろされての決起では、君主も

いそはらに孝道をつれいってくれぬまいと思えた。


あまりに孝道のつり鐘を揺らす言葉が返ってくるので

孝道はふとたずねたくなった。

「姉上様が星読みとのことですが、

あなたも星を読めるのですか」

「いえ、私は読めません。

元々、一族の主家の長女が

代々、星読みになる血筋・・」

血筋というべくか、因縁というべきか、

絹は言葉をにごらせた。

「ふ~む」

孝道の中に得心がわく。

間者は代々といった。

と、いう事は渤国の首座の脇に

つどつど現れた存在ではなかったのだろうか?

皇帝ともいえる渤国の統治者に仕えた身分だとすれば、何かしら、高貴なものが漂うのも頷ける。


さらに、孝道に邪推とも思える推量が湧き上がってきていた。

あるいは、何代か前の世において、

星読みと皇帝の間に男と女の血を交える儀式がありえたのかもしれない。

儀式によりて、生まれ出た子供が星読みの家系の中にあるのかもしれない。

だからこそ、星読みが渤国、量王の血をうける定めに誘発されてしまうのかもしれない。

そして、この女間者の高貴さも、皇帝に仕えたものの品でなく、血筋に織り込まれた品なのかも知れない。


孝道にわいた推量は外れてはいない。

ただ、それは、星読みに対してでなく、

女間者が渤国の統治者の正妃になる宿星を宿した、そも、基であるという意味においてであり、

星読みは最初に孝道が思ったように、

代々、皇帝の脇に現れる。それを宿星としていた。


「あなたは・・」

たずねかけて、孝道は言葉をとめた。

何故、女間者が有馬たちに同道しているのか?

捕虜という囚われ人でもないのは、すぐに見て取れた。

間者らしく瑠墺の正体を探りにきたか?

はたまた、和国に翻ったか?

ありえまい。

星読みの妹なら、量王じきじきの使命を帯びていると考えられる。

何故、和国に来たか?

何故、有馬たちと一緒なのか?

聞いても答えない問いだろうとも、

話すに複雑ないきさつがありそうにも思え、なおさら、答えない問いに思えた。

だから、孝道は黙った。

だが、絹の聡さである。

絹は孝道がとめた問いをつないでいった。


「私は姉の命をうけて和国へ参りました。姉が量王に仕えて、まもなく、間者としての行をつみ、ついこの間、和国にやってきたところです」

なぜ、この男に自分のことを話す気になるのか、自分でもわからない。

ただ、男のまなざしに有馬に似たものを感じ取った。

欲がない。

憎しみも持たない。

しいて言えば、我が娘にさしむけるに似た暖かさがあった。

孝道に欲がないのは当然である。

孝道はもはや、死に場所を定め、刻限を待つだけ。

いささかの執心はなかった。

「私が使わされた先の小さな旅籠に志士たちが集まってきていたのです。

仲間の才蔵が有馬を付けねらっていたのですが、有馬の宿に忍び込んだ所を一殺されました。

私は才蔵をやった人間を知りたいと思いました」

孝道は少なからず驚愕を感じている。

有馬を狙う間者がいる。

孝道にすれば、有馬の存在は瑠墺によて、初めて知らされたものでしかない。

だが、間者たちの判断でしかないのかもしれないが

いずれにしろ、有馬が重要視されている。

警邏隊のごとく、志士たちが間者を叩ききっているのは知っていたが、

間者にとって、有馬が一番やっかいな存在ということになる。

「私は自分が患者であることを知られているとも知らず。才蔵を手引きしてしまったのです。

結局、才蔵を殺してしまったのは私なのです。

志士たちの信奉を集める人間の警護が甘いと思っていた私も浅はかでしたが

逆に、志士たちがそこまで守る、有馬という人間。

そして、有馬が合おうとしている御社の瑠墺。

私がその二人をこの目で確かめることができたら、

才蔵の無念を少しでもはらせると」かんがえました」


ところが、その瑠墺が、有ったこともない女間者を星読みの妹だと見破ってしまう。

「私はあなたにお答えしたとおり、星読みの才のかけらもありません。

そして、あの方。

御社の瑠墺・・。

あの方によって、私は逆に渤国や姉や量王にふりになることまで、見透かされるのではないかと考えました。

私が何かしたいと考えれば

それが、瑠墺にも姉にもみすかされてしまう。

うかつに動けない。

うかつに動けば、どうなるか、判らないなら、成り行きに任せて、ひとつの歯車になるしかないと思い始めています」


『それは・・つまり・・・』

孝道が初めに思ったことへの答えといってよいだろう。

本当に星読みでないとしても、

些少、人の心に敏感と見える。

和国に寝返ったわけでもなく、

有馬を暗殺する気でもないらしい。

歯車。

言い換えれば、治水の生贄のごとくに

扱われても、それを定めとする。と、いう。

「あなたは・・・」

またも孝道は黙る。

和国の存続をねがっているのか?

だが、

おそらく量王の意志をとりはらってしまえば、どの間者とて、国と国が争い

虐げられたり、虐げたり、などは

一個人が望む所ではない。

だから、愚問でしかないと思え、口を閉じた。


孝道の思いが有馬に似ていると絹が思ったのはその部分かもしれない。

間者とて、暖かな部屋で家族とともにすごすのが、一番のしあわせであろう。

有馬が絹に赤子を抱く姿をまねしてみせたように、なにを一番大事にするかは、孝道も有馬も同じだった。


瑠墺は自分の知る所をかたっていこうと決めた。

語っていくことによって、何らかの違う観点を見定めることもできると考えた。

「星読みは私の存在に気がついて、何度か、私をよみくだそうとしたようです。

ですが、私はいつも、「無」であるようにつとめていますから・・・。

おそらく、読み取ることが出来なかったと思います。

星読みが読んでいるのは、絹から伝わってくるもの。

それを読んで絹さんが私にあうように、

星読みが念じたのでしょう。

あるいは、意識したものではなかったかもしれません。

『どうにか、あの男を読めぬか』

その念が、絹さんをここに連れてくる結果を生じさせているのです」

なにおかをつかんだか、瑠墺はにこやかである。

「そして」

と、数馬を深く見つめた。

「数馬さんが絹さんと出会えたのも

いわば、星読みの思念。

正妃の存在を和国へ追いやっただけでは、不安。

絹が誰かのものになればよい。

量王が願っても、絹の心が動かぬ相手が現れたらよい。

この思念のおかげでしょう。


と、いうことは、星読みの思念が具象化してきているわけです。

と、いうことは、

今度は星読みが絹さんを量王に合わせる覚悟をしましたから、

これが、また、うごいていくでしょう。


これは、もう、致し方ないことなのです。

それが、嫌だというのなら一馬さんが絹さんに出会えたことも

嫌にするしかないのですよ。

数馬さんに不安があるのはわかりますが

実際の所、絹さんが量王の妃に納まる。

これが、星読みの本心でしょうか?

本心は別の所にありますから、

これが、星の動き、軌道をかえさせてくれるでしょう」

象二郎の眉間に癇が走ったかと見えた。

語気もいささか、荒い。

「それでは、星読みは星を動かせるということか?」

そんな人智を超えた部分で自分勝手がまかりとおるなど、理不尽すぎると、象二郎は憤怒半分に憔悴を隠していた。


「空の星というのは、人の心のままを映しています。

星の定めは人の心を差配しますが、

星の動きは人の心に左右されます。

絹さんで言えば、正妃になるという定めはかわらないのですが、

たとえば、星読みのせいで、量王の妃になるという「星の動き」は変わってきつつあります。

ほんの些細な針の先ほどのぶれが、何年もたつと大きなずれを生じさせます」


象二郎の問いに答えたとはいいきれない

瑠墺の物言いを咎めだてそうな象二郎の口をさえぎるかのように有馬が瑠墺にたずねた。


「それは、すなわち、量王の破滅があるということでしょうか?」

星読みが星を動かすかどうかを詮議するよりも、星を動かした結果、量王が破滅に導かれるなら、むしろよくぞ、動かしてくれたと考えうるではないかと、有馬は暗黙の中で象二郎に語りかけると

象二郎も一理あると納得したか

ぐうと椅子に背をよせつけ、深く座りなおした。


「判りません。

宿命を背負うた者同士がどのように軌道をかえていくかは、私にはわからないことです。

ましてや、絹さんは量王への忠誠と

星読みである姉への情と

そして、絹さん個人としての幸せ、この三つ巴の葛藤の中にいます。

そして・・・」

瑠墺は泣くのではないかと思うほど顔をゆがめた。

「この三つ巴の土台が大きすぎます。

絹さんが背負う宿星が大きすぎる」

わずか、18の絹の思い一つに一国の衰亡がかかっている。

絹にそれを知らせたら、

まず、初めに絹は自分の幸せから手放すことだろう。

「たった、18・・そんな娘に課せられた運命は・・過酷すぎます」

星読みの些細な思いひとつで、国の運命も変わる。

歴史という大きな流れの中でたってみたとき、はたして、一個人が流れを変える一石を投じてよいものか。

瑠墺とて、思いまとまらぬ象二郎の問いかけであった。


やがて・・・。

「私には、正しい選択を見出すことは出来ません。

流れのまま、

なるがまま、

自然という大きな川に身を任すしかない気がします」

瑠墺が結んだ言葉にすかさず数馬が異を唱えだす。

「だから、絹を量王に合わせてみろというのか?

なるにまかせてしまえというのか?」

瑠墺は数馬を見つめる。

どういえばこの男に得心を与えられるか。その思いにたって、沸いてくる感情を口に乗せていくしかなかった。

「数馬さん。貴方という一人の人間の駄々っ子な感情だけでは、絹さんが打帰る葛藤を解決できない、と、申し上げているのです。

ですが、私は貴方というに人間をして

絹さんの宿星に一石投じさせるために

天が出会いを仕組んだとも思えるのです。

そうでなければ、とっくに、量王の正妃に納まっていたはずでしょう」


有馬は瑠墺の言葉を咀嚼している。

かみ締めなおした瑠墺の解釈は

有馬に別の解釈を生じさせていた。

星読みのせいで、量王の妃への軌道が狂ったのではなく

むしろ、

量王の妃になるが、狂った軌道でしかなく、

軌道を修正するがため、星読みの行動も天がしつらえたと解釈できる。


と、なると・・?


数馬こそが渤国の統治者になる定めをおうていると取れなくもない。


「さすれば、たずねます」

有馬が率直なのはもとよりである。

「数馬の宿星はいかに?」

瑠墺は首を振るしかなかった。

「数馬さんの星はまだ、陰星なのです」

「陰星?それはどういうことでしょうか?」

有馬が陰星の意味を知るはずもない。

「星を読み取るのは、その星々の位置、配置もさることながら、大きさ、形、そして、光度と色が、宿命を教えてくれるのです。

ところが、数馬さんの星はまだ、色と光度がないのです。

色も光度もないということは、内なる熱がまだ外に放出されていないということで、いかなるエネルギーを蓄積しているか、計り知れない星でもあるのです。

この蓄積されたエネルギーが放出されるきっかけが来なければ静星として、滅星になります。

つまり、そこに存在するだけの惑星のように穏やかな星として終わるのですが

きっかけと蓄積の頂点がうまくかみ合えば、陽星として動き始めます。

私はその陽星を判じるだけなのです。

おそらく、渤国の星読みもおなじ。

そして、星を読むくらいですから、

人の心も読めると思います。

が、

我欲、我執により、心の目はくらみ

心の耳はふさがれます」

我欲・・・。

我執・・・。

星読みの我執は量王への恋慕に始まる。

分をわきまえず、星読みという政権の補佐役を逸脱した。

これが、星読みの我執なら

また、数馬の絹への恋慕も我執であるのかもしれない。


「きっかけと、おっしゃられたが

たとえば、どんなことがきっかけになりえますか?」

有馬はただただ、絹と数馬の結びを願っているに過ぎない。

そこまで、人の幸いに必死になる人間だからこそ、人望を得るのだと、瑠墺は心の中で有馬をたたえていた。

「おそらく・・・。

絹さんの宿星の照射。

絹さんが数馬さんを心底認めて

つかんでいこうとすれば、変わるでしょう」

小さく瑠墺が笑ったように見えた。

「星の軌道を変えるのはたやすいものです。

ですが、人の心を変えるのはむつかしい」

瑠墺は己の思念の中に自在に入り込む。

自分で自分に語りかけ、

自分で自分に答えを導く。

『どうすれば、絹さんの心が一馬さんを照らすようになるか。

そのきっかけをどう作るか。

どうすれば、絹さんが一馬への恋慕を認め、その想いに殉じていくきにさせられるか・・?

少なくとも、ここで、じっとしていても、何も始まらない気がする。

どうあがいても絹さんの宿星は正妃をさししめす。

絹さんを和国に縛り付けておけば、

その想いにより、またも星が軌道をかえる。

宿星は絹を渤国に連れ戻すために

量王を差し向けるかもしれない。

量王が和国に来るということは

それは、戦を意味する。

そして、量王は絹をみつけ、渤国へ連れ帰る。

和国の滅亡と量王の反映と量王の妃になる絹・・・。


このまま、絹さんが和国にとどまったら・・・どうなるか、

その想定を瑠墺は皆に告げた。


「宿星というのは厄介なものです。

宿星の持つ運命・・使命を阻むことは出来ないのです。絹さんを渤国へつれていかぬとなれば、

渤国のほうが、絹さんを連れ戻しに来る。

渤国が和国に乗り込んでくるということはどういうことかわかりますね?」


「なんという・・厄介な・・・」

瑠墺の言葉そのままでしか言い表せない思いが象二郎にも、重かった。


瑠墺は思念を深くする。

他に手立てはないか・・・。

数馬がどうすれば絹に認められるか。

いっさいの答えは浮かばず、

ただ、星読みの声だけが響いた。

「妹は和国の者をとものうて、

渤国へ帰ってまいります」

それは、絹の心をよんだか?

宿星を読んだか?

絹への念じか?

だが・・・。

宿星の軌道を変えるが

星読みの役目であるのなら、

これは、その言葉にのるが、得策と思えた。


甘やかな時がすぎると、量王は衣をかつぐ。

なにおか、決意するか、

ひきつまった顔で瑠璃波は

身支度を整えていた。


あまりにきりつまった顔の瑠璃波に

量王はかける言葉をみつけられずにいた。

闇の中、庭へ歩み出ると

瑠璃波はいつものように空を見上げた。

「星・・?」

小さな星がひとつ、瞬いている。

蒼白く、凍てつく冴えをみせ、まばゆい。

これが、有馬か?

はたまた、瑠墺か?

絹波の星は相変わらず灼熱の赤。

これが、量王を照らし、量王の地位を存続させている。

だが・・・。

絹波が量王を拒んだら・・・。

・・・・。

拒むのが当たり前かもしれない。

ひとつに

あのこの中に誰かが住み始めている。

もうひとつ。

このおろかな姉を思い、量王の寵愛を受けようとはすまい。

こんなことになるのなら、はじめから、絹波の定めに任せればよかった。

量王の衰退は瑠璃波の予感なのか、

不安なのか、わからない。

どちらにしろ、不安の根は刈り取り予感は、食い止めねばならない。

どうすれば、絹波が量王を照らすか。

命じても、頼んでも、泣いても、願っても無理。

この姉の心が量王にある限り、

あのこは、量王を受入れない。

量王に心・・ある限り・・?


思いつめた女は時に奇策を案じる。

「私の心が量王にあるから・・・」

瑠璃波が量王を見限れば

姉に見捨てられた量王の傷心に

絹の心が傾くかもしれない。


一世一代の大芝居。

心を裏切り

量王を裏切る。

宿星が指し示すことを覆そうとしたおろかな星読みが迎える似合いの終焉かもしれない。


「いっそ、星など読めなかったら・・」

初めて瑠璃波は自分の運命をのろった。


有馬は坦々と瑠墺に頷く。

「判りました」

何らかの策を案じたのか、有馬はあっさりと言い放った。

「渤国へいきましょう」

有馬の決定に数馬さえ異論を唱えようとしない。

むしろ、有馬が決めたならと私心を伏せこむようである。

瑠墺はたずねたくなった。

「何か期するものがおありですか?」

有馬はあまりにもにこやかである。

「正妃であるまえに絹さんは女子です。

女子の幸せは愛し愛される伴侶を得てこそ。

一人の女子が幸せを掴もうとするを、

天が阻むとは思えません」

あっけらかんとしたものであるが、

それが、真実であり、

真実にすべきである。

だからこそ、有馬は天を信じられる。

信じる亜子に情を尽くす親のように

また、天も有馬の思いに答える。

確かにそうだと思えてくる。

瑠墺をして、そんな気にさせる有馬だからこそ

有馬ならば亡国のきしみをつくろえると

志士たちは思うのだろう。


「不思議なお方だ」

有馬なら星の宿根まで変えてしまうかもしれない。

数馬の星が何色に変わるか、変わらないか。

どういう光度を持つか、持たないか。

いっさい、謎であるが、

うがってみれば、どの色にも

どの光度にも変わりうるということでもある。

赤・・。

覇王、覇者の色で、これは、絹も量王もそうである。

一国を統治する首座に上り詰めるほど

光度と大きさをまし、

今は量王の星が空で一番に輝いている。

が、

絹の星が依然と比べ光度を増し、

かつ、量王の星に近づいている。

星が並ぶか。

照らしあうか。

はたまた、水が低きに流れるがごとく

光度の薄い星を照らし側にかたむくか・・。

星読みの星・・・。

捜し求めて瑠墺はうなり声をあげた。

「何を?」

暗黒の中碧に輝く星は導者の星である。

それが、星読みの星。

量王の横に変わらずたたずんではいたが・・・。

あざとく、気まぐれな変転をにおわす黄色い星にさまを変えている。

何を思いついたか。

星読みは新たなる覇王を探そうとしているのか?

量王自身から何かを読み取ったか?

量王の星はあいも変わらず、輝いている。

星読みの心の様を一時的に移しこんだだけなのだろうか?


数馬の星もまだ、暗い。

有馬・・?

瑠墺は瞳を凝らしてみる。

見当たらない?

ありえない?

有馬の気配を念でおいながら

さらに瑠墺は目をこらした。

「あ?」

星の爆発で生じたかけらが、新たな星を作ることがある。

これが、地球に近寄ってくると

箒星といわれ、忌嫌われるのであるが

有馬の星は大きな公道周期をもつ、箒星のようである。

ありえないと思いながら、

ひょいと思いを切り替えるそのすばやさと

混乱の中、突然のように現れた有馬の宿星が箒星であってもおかしくないように思えた。


「達者で」

孝道のはなむけは一言でおえたが、

誰よりも絹の心に響いた。

渤国へ行くと数馬に告げられた絹は

孝道に打ち明けたように

成り行きに従っていた。

「絹」

数馬が絹を呼ぶ。

数馬の指が震えているのはなぜだろう。

絹が渤国へいけば、

絹は渤国の者

数馬は和国の者

絹が渤国へ行くは、

国を分かたれたものの定めがごとく

別れを意味する。

数馬との別れ・・・。

それでよいのだろうか?

絹は心の軋みを振り払った。

それも、成り行きならば従うしかない。


渤国への舟は瑠墺が手配してくれた。

交易の舟に乗り込み、渤国へ入る。

とり調べはたやすくあるまいが、

絹が剣牙の印を持っている。

いくつか、間者から取り上げた印もある。

それを見せれば・・・

数馬の策に

「言葉はどうする」

と、象二郎が笑った。


私が、と、絹が申し出た。

量王の懐刀である、星読み、瑠璃波を渤国で、知らぬものは無い。

まずは、検印で、瑠璃波との通信を取る。

だが、それより先に瑠璃波が絹の帰国を読んで、先手を打っているかもしれない。


絹が見越したとおり

瑠璃波の命は国中に敷き詰められていた。

絹が瑠璃波の名前を出しただけで

量王の座である首都へ丁重に案内された。


量王に絹波の保護を願い出ると

瑠璃波は、量王に暇乞いを願い出た。

「何ゆえ?」

瑠璃波の挙動が不可思議なのも周知のことである。

瑠璃波の転心がありえるとは、思っていた量王であるが

理由もわからず、星読みから見放されるは民心を乱す元になりかねない。

「おまえがわしを捨てるは、それはそれでかまわない。

人の心は移ろいやすいものだ。

だが、わしにはわしの立場がある。

一国の首が抱えた星読みに逃げられる。

これは、人心に不安と不信を呼び込む。

それでも、わしを捨てなければならないのなら、それは、すなわち、おまえの星読みにわしの衰退か滅亡が映しだされているということか?

そうであるのなら、致し方ないことだ」

量王の言葉に瑠璃波は返事を窮した。

量王に衰退の影一つさえない。

それどころか、絹波を娶れば、間違いなく地球全土をも掌握できる。

だが・・・。

量王のためと成そうとしたことが

逆に量王の足をすくう。

そんなことさえ、先読みできぬ盲執に囚われる瑠璃波になっていた。


ここは一端引くしかないと瑠璃波は思った。

絹波にあえば量王は変わる。

自分が置かれた位置と余波ひとつ、見えなくなった星読みは、もういらない。

確実な安泰をあがなう絹波に勝る存在はない。

「解かりました。

先行きも

量王の立場も

周りの心も

考えられぬようなくすぶりを抱かえ、

つい、足手まといになるばかりと

身を引こうと考えてしまいましたが

それが、かえって量王の不利をよぶ。

あさはかでした」

量おうがここまでのし上がるに、

人の心に疎かったらなりえなかったことである。

「瑠璃波。なぜ、くすぶりがあるか?

この量王に話して貰えぬものなのか?」

あっと瑠璃波は口を押さえた。

かくも、うかつで、ありすぎる。

はからずも、一番触れてはならぬ部分に

矛先を向かせる言葉を選んでいたのである。

「それは・・・」

妹、絹波がどういう宿星の人間か。

その宿星を知った上で量王から、絹波を遠ざけた。

その行動が量王を追い詰めるとわかってから、初めて絹波を差し出そうとしている。

これだけで、量王に対し、我田引水を行っているか。

かてて言えば、絹波が他の男に嬲られたのも、瑠璃波のせいである。

その口をぬぐって、絹波を差し出そうとしているのも

量王を侮り、こけにしたと、同義である。

瑠璃波から、事実を話せるわけがない。

「量王には、話せぬか?

瑠璃波にとって、量王はそれだけの男か?」

違う。

ほとばしりそうになる声を抑えて

瑠璃波は取り繕う言葉を捜す。

「今は・・・。

絹波が無事に帰ってくるまでは、

私は落ちついて、話すことができませぬ。

もう、しばらく猶予をください」

嘘の言いぬけは些細な孔をつくろえぬものである。

それだけの男ではないらしいと、

量王は、いくばくか男としての尊厳を取り戻していたが、

瑠璃波に更なる疑問を感じていた。

『かほど、妹のことで心落ち着かぬものが、なぜに、自ら妹を和国へ差し向けることができたのだろう?』

瑠璃波の言葉が嘘でくるめられているのか、

あるいは、なにか、得体の知れぬものを読んでいるのか?

量王にわかるはずもないからこそ

瑠璃波に聞くしかない。

その瑠璃波が猶予をくれというのなら、

聞き分けてやるしかないと量王は思った。


「ここが?」

高い塀がどこまで続くか。

量王の居所は平城であるが、堅固な要塞を呈している。

同道した役人は門前の警護兵に何か告げると有馬たちを招き入れる者をしばらく、一緒に待ち受けていた。

警護塀が量王に取り次いだか、

見るからに重職と思われる高官が現れ

有馬たちを塀の中に招じいれた。


いきなり通された部屋は晩餐の用意がすでに整っている。

大きな長い大理石の卓がしつらえてあり、隙間もないほどに豪華な食事が並んでいた。

まずは、お食事をなされるように

絹が高官のの伝言を有馬たちに伝えた。

「客というわけか・・」

つぶやく象二郎は余念なくあたりを見回す。

「食事を先に召し上がってください。

後から、量王がやってきます」

それも、伝言のようだった。


贅を尽くした食卓の料理は

量王の権勢を見せ付ける。

「茶店の団子を買い占めるどころではないですね」

たかが、食い物でしかない。

で、あるのに、そんなものに気おされそうな心がある。

それも、有馬のたった一言になでられ、

笑いがこぼれだしてくる。

「せっかくだから、いただきましょう」

手振りで給仕が食べろとうながしているのだから、かまわないとも言えば

食べないとあの人がしかられるかもしれない、とも、言い添える。

どこまでも、余裕がある有馬であるが

なんの気負いもなく、子供心そのままでしかない。

子供であれば、ご馳走を早く食したい。

ご馳走の背中に有る量王の気配を読み取るのは、大人という邪気がありすぎるせいかもしれない。

「ですね」

量王が来るのを待つは、いかにも、平身低頭しているようで、それが気に入らぬと数馬が手を伸ばそうとしたより先に

有馬が汁物をすすりあげ、感嘆の声を上げていた。

「いや!これは、旨い!!」

喰うは喰うで楽しめばよい。

心の自由を持てぬはすでに虜囚でしかない。

少なくとも、これを見る限り

有馬は極上の自由人である。


やがて、量王が現れる。

立ち上がる有馬たちをそのまま、座って食事をしぐさで伝えて見せると

量王のしぐさが伝わっていく端座を眺めていた。

その瞳が一点に絞られていった。

「瑠璃波の妹御だな」

たずねなくてもその顔を見れば解かる。

瑠璃波によく似ている。

似ているだけではない。

なにか、ひどく、懐かしい。

その「懐かしさ」がどこから沸いてくるものなのか、量王は絹の顔立ちを食い入るように見つめていた。

ちかり、と、量王にひらめくものがある。

瑠璃波に似ているだけ?

いや・・違う。

瑠璃波を始めてみたときに感じたものに良く似ている。

はじめて、瑠璃波を見たとき・・・。

ひどく、心がはやり、瑠璃波に惹かれた。

その感情によく似ている。

だから、懐かしいと思うのだ。

そして・・。

その後・・・。

瑠璃波をいかにしても、手中に収めたいと思った。

あの戦のさなか、女などにうつつを抜かしている場合でもなく、

そんな余裕さえなかったはずであるのに、

いつのまにか、瑠璃波に熱中していた。

そのときと同じ。

いや・・それ以上かもしれない。

量王に流れ込んだ絹波への秋波は

量王を包み込み

絹に向けた瞳は絹に奪われたままになっていた。


その量王が我にかえったのは、

己の失態に気が付いたからでもなく

有馬たちという和国の人間を前にした国王の姿ではないと思ったからでもない。

刺すように、鋭い視線のきつさに痛みを感じた。

誰か?と量王はその視線を手繰った。

食事の手をとめ、絹を見つめる量王を刺すきつい目の男と行き当たった。

『なるほど。この男。瑠璃波の妹に惚れておるな』

さっしの良い男は先々を考える。

『和国の者が渤国の者に惚れてどうなるものか』

『そんな男より、この量王が・・』

湧き上がった思いを量王自らが問い直していた。

『今・・なんと、思った?』

今しがた、会ったばかりだというのに、瑠璃波の時よりはっきりと、

量王の男がもたげてくる。

『これなのか?

瑠璃波が言う・・

妹、絹波にあえば解かるという事は

これなのか?

故に?

故に瑠璃波は暇乞いを口にしたのか?

量王がこうなると、読み下して

落ち着かぬ思いになっていたということか?』

哀れである。

星読みは先を、人の心まで、読みすかすばかりに、哀れである。

量王は一目で惹かれた絹波への思いを遂行する気になっている事にも、

故に瑠璃波をただ、哀れとしか思えなくなったことにもまだ、気が付いてなかった。

量王たるものが、一目みただけの女子に心奪われると認めないだけだった。


「瑠璃波の妹御だな」

と、声をかけた量王をまじまじと見つめながら絹は

「絹波と申します」

と、渤国での名前を名乗った。

量王は姉、瑠璃波の想い人である。

正式に婚姻をかわしていないが、

兄といっても良いかもしれない。

だが、絹が量王を見つめる瞳の中に非難がある。

瑠璃波を正后に迎えず

星読みの才を利用し

瑠璃波の女をむさぼる。

姉の恋心を考えると量王ばかりを

責めるわけには行かない。

量王が悪いのではない。

瑠璃波がかなわぬ身代に上り詰めようと

する欲と情にほだされた量王のふがいなさでしかない。

数馬が絹をかえたのかもしれない。

量王という統治者への忠誠はあったものの、男としての量王の在り様を以前の絹は憎んでいた。

だが、数馬の一言が絹をうがった。

ー男というものは弱いものだ。

絹がなさせてくれぬから、他の女で紛らわすー

数馬はぬけぬけといいぬけたが、

量王もそうなのかもしれない。

本当に愛するものとめぐり合っていない量王だからこそ、正后の席はあけたままにしてある。

数馬の言うように「他の女」である、瑠璃波が量王になさせてくれるならば、

「男は弱いものだから」瑠璃波で紛らわすしかなかったのかもしれない。

で、あるのなら、瑠璃波も覚悟の上。

故に充たされぬ恋に身をやつす姉がいっそう憐れであった。

「そうか。いくつになる」

有馬たち、和国のものを伴うてきているというのに、いっさい、意にせず、

絹波の歳を聞く量王をいぶかしく思うはいなめないが、

それよりも、絹の目の端に飛び込んできた数馬の形相が尋常でない。

「十八になりました」

答えながら数馬を振り向く絹の視線を量王が追った。

すさまじい形相の数馬であるのはいたし方がない。

瑠墺から、絹の宿星を聞かされているのだから、それが真実であるとばかりに

量王が絹に目をつけるさまをまのあたりにして、数馬が平静を装えるはずがない。


「その男は絹波に執心のようだが、

絹波もにくからず思っているのか?」

男と女のことである。

かつ、私事である。

それを、和国のものを伴うてきた訳も聴かず

和国のものに話かけもせず

絹をからかっているとしか、思えない。

だが、絹波と親しげに、知己のように、呼ばれると絹の中に波立つものがある。

心の垣根の中に入り込まれたような、妙にほだされた感覚を味わいながら

絹は、それが量王のかけた「かま」だとは、気が付かずに

量王のからかいの言葉に答えた。

「いえ、まさか」

「そうか。ならば、和国のものは無事に

絹波を・・」

姉の元へとはいわず

「量王の元へ送り届けてくれたということだな。その礼として、無事に和国へお送りしよう」

暗に虜囚にすることは、おろか、命を取り上げることもできると、におわせ、

かつ、和国のものと話し合う余地はないと示した。

「え?」

自分の吐いた言葉を逆手にとられ、あっさりと数馬との別れをこんなに早く、突きつけられるとは、予想だにしなかった絹である。

何一つ、和国の者と言葉を交わさないも、無礼であり、有馬たちにも、なにかしら、無念があろう。

だが、それはそれで、捕虜にもせぬ、命もとらぬというのなら、ありがたい目こぼしである。

量王にすれば、和国のものを自国、ましてや、量王の居城にうろつかせてやっただけでも、めこぼし以上の譲歩である。

本来なら、渤国の地を踏むがかなうとしたら屍としてどこかの土の下においてである。

「明朝、出立させるがよい。船の手配を・・」

従事に言いつけると、量王はやっと、箸を取った。

「絹波のことをなぜ、瑠璃波が話そうとしなかったか、やっと、私にもわかった」

肉を取り分けてやりながら量王は絹波に告げた。

数馬の眼がいっそう、険しくなる。

二人が何をしゃべっているのか、さっぱりわからない数馬であるが、

一国の王が手ずから、小娘に肉をとりわけ、給仕の役を見せる。

これが、どういうことか男ならわかる。

そして、量王は数馬たちをみむきもしないし、言葉をかけない。

「遅ればせながら、礼をいわねばなるまいの」

絹波に注いでしまう眼差しの意味を自覚しだした量王は心から絹波をここにつれてきた和国のものに感謝の念を持った。

絹が量王の言葉を伝えた。

それが量王から和国の者に賜れたたった、ひとつの言葉になった。


そして、翌朝。

有馬たちは出立を余儀なくされることになる。


有馬がひょいと立ち上がると絹に声をかけた。

歓待の礼にもなりませぬが、和国の踊りにてひとつ、返礼をとお伝え下さい。

そして、数馬と象二郎を促す。

「馬鹿になりきりましょう」

歓待の宴に興じるお調子ものになると有馬が言う。

はあ、と、頷いたものの踊りなぞ、知ったものではない。

「どじょう掬いでよいです」

とにかく、宴に酔う。

これに徹するだけでよいという。

それにしても、

「どじょう掬いですか?」

「簡単でしょう?

どじょうがそこにいて、捕まえようとすれば、踊りになるのですから」

そして、3人は一礼をすると、

量王にむけて、どじょう掬いを踊って見せた。

有馬がどこで、どう覚えたか。

天性のものなのか。

流暢を通り越し、量王の笑いを誘い出していた。


食事が終わると3人は寝所に案内された。

絹波どうやら、姉の星読みに会いに行くようである。

「やはり、星読みは着ませんでしたね」

「そうだろうの。量王が絹に会うをまのあたりにはできまいて・・・」

「ですが、絹に事実を告げなくてよかったのしょうか?」

何度もその機はあった。

だが、「なるに任せる」

瑠墺の言葉が3人を制した。


知ったうえでのことは誠にならぬ。

仮に数馬が絹を貰い受けてしまったことでも

それが、絹の宿星に岐路を作るとわかってやったことだとしたら

おそらく、岐路は生じない。

数馬の思いの裏に「和国のため」が働く。

その思いの不純さゆえに、絹を利用したと、天が見定める。

当然、岐路が生じない。

成るに任すはそれと同じ理屈である。


ゆっくりとつもる話を聞かせてくれと

量王は言い置くと

絹を瑠璃波の待つ部屋に連れて行った。


晩餐の宴の部屋とわずかしか離れていない部屋の中で瑠璃波は量王の心を全て読んでいたに違いない。

絹が訪れると瑠璃波の開口一番は

「良い所に帰ってきてくれた」だった。

良い所とは、どういうことだろう?

絹に疑問を抱かせるために言葉を仕組んだ瑠璃波であるのは間違いない。

案の定。

「良い所に・・って?姉さんなにがあったの」

絹の顔を見つめ、少し迷いを見せ、そして、思い切って口に出す。

念のいった芝居にたやすく騙される程に姉を思う絹である。

「実は・・姉さん。他に好きな男ができてしまって・・・」

ありえないと驚き半分の絹の顔の中に

量王の女に甘んじていた姉への歯がゆい思いが見える。

その思いが絹をして、瑠璃波に尋ねさせる。

「その人となら・・幸せになれるの?」

いくら、天下人の量王の傍らであるといっても、愛人という影の女でしかない瑠璃波を、幸せだとは、思っていない絹である。

絹の思うとおりであろう。

その思いがまた、絹を正妃に導くみおつくしになる。

「もちろんよ。しがない小作人だけど、

そりゃあ、優しい人よ。

まじめだし、暖かいし、何よりも姉さんを大切におもってくれる。

量王の星読みだから、一緒になれないって泣いてくれる人よ。

だから、姉さんも思い切って、量王に暇乞いを願い出たの。

だけど、星読みに逃げられたら、人心に害を及ぼすって。

それで、姉さんもいっそう、量王がいやになってしまったのよ。

少しでも愛してるとでも、いってくれれば・・・せめてもね・・。ね?判るでしょ」

判るような、判らないような話である。

姉がどうやって、小作人などとしりあえたのか?

それよりも、なぜ、絹が帰ってきたことが良い所・・なのだろう?

「おまえが、量王の補佐に回ってくれれば良い。

星読みの血筋は継承される」

継承?補佐?

絹に投げかけられる言葉はすべて、脈絡が無い。

絹の戸惑いをさっすると、瑠璃波はいっそう、懇願する。

「別の星読みさえいれば、量王は私を手放してくれる。そうすれば、あの人のもとへいける」


そうなのかと、やっと絹も理解が出来た。

唐突すぎる姉の願いだったが、姉が幸せになれるなら、それで良いと思えた。


口からでまかせを言い、絹の了承を取り立てると瑠璃波は星を読みに行くという。


「私があの人のところへいけるようになれたか、確かめにいってくる」


だが、庭へ出た瑠璃並みが見るものは違う。


量王の星と絹波の星が重なりだすか、それを見たかった。


空を見上げ星を一心に見つめ続けていくと、


目指す星が目の中に入ってくる。


輪郭が広がるにつれ、周りの星の存在も映りだす。


だが・・・・。


「え?」


陰星の色が浅くなっている。


エネルギーが飽和しつつある。


内部からの熱で、暗い星がぼうっと白濁して、浮き上がっている。


覇者の星と見まがう大きさ。


これが、誰なのか、瑠璃波にはわからない。


絹の星の傍にもう一歩近寄っているということは

絹に同道した和国の誰か?

絹と身体を結んだ男のものに違いない。

そして、瑠璃波の驚きはそれだけで終わらなかった。

遠くに光る青白い星。

これが、一段と近寄ってきている。

その近づく速度だけでも、大方のさっしがつけられるが、

瑠璃波の目に鮮やか光の緒が見えた。

「箒星?」

天変地異や、大きな変革が起きる時に姿を現すという箒星である。

「不吉な・・」

嫌な予感がする。


有馬もそうだが、象二郎も数馬も寝付けずにいる。

庭に人影が映るとそれが空を見上げている。

星読みであろう。

と、いう事は


「絹さんはひとりですね」

有馬がつぶやくと象二郎が付け加えた。

「星読みに近づいているものがいる」

その背格好からみても、

「量王ですね」

瑠璃波が絹に何をはなしたか、それが一番気に架かる。


「きいてきましょう」

数馬を制し有馬が行くという。

「貴方はいま、嫉妬と不安で、冷静ではありません。

冷静でない男はすぐに、

女子を自分のものだと確認したがる。

でも、そんな流暢に確認をなさってる時間は無いのです」


およそ、女に疎そうな有馬だからこそ、見えるものがあるのだろう。

あるいは、こういう我執を嫌うからこそ、

有馬は自分を女に疎くしているのかもしれない。


「絹さん・・絹さん・・」

絹の部屋の近くで印が小さく打ち鳴らされ、

絹を呼ぶ声が有馬だとわかると

絹は部屋から抜け出してきた。


数馬のあの険しい顔を見ている絹である。

有馬でなく、数馬が此処に来ていたら、絹は部屋を出てこなかっただろう。

「姉上から、何か聞きましたか」

相変わらず有馬は爛漫の態である。

有馬はのっけから、絹が話してくれるものだと信じきっている。

「それは、御社の瑠墺がすでに予測なされて、

皆様にはなされているのではないのですか?」

瑠墺が絹を遠ざけて話した内容について、

絹にいっさい話さずにいたことへのあてつけもある。

「いえ・・あ・・ああ」

有馬の口がにごるのも仕方が無い。

絹が自分から話してくれないなら、有馬からたずねるまでである。

「姉上は量王から離れるといっておりませなんだか?」

ずばりである。

「確かにそれらしいことを・・」

どうにも、嘘をつきとおすも、しらを切りとおすも

有馬を前にすると、出来ない。

「そして、貴方に、姉上に変わり量王に仕えるようにと?」

「あ?はい・・」

ここまで、瑠墺は読んでいるということなのだ。

「ふ~~~む」

有馬は惑った。どこまで話せばよいものか。

「姉上はなぜ量王から離れると?」

絹が了承する瑠璃波の口実がなんであったのか・・・。


ー他に男が出来たーは、さすがに絹も伝えがたく

かといって、他に適当な口実を思いつかない。

黙り込んでしまった絹を待っている時間が惜しい。

「では、絹さん。こちらの話だけ聞いてください」

この期に及んでも事実を打ち明けるわけにいかない。

「瑠墺の読みでは、絹さんが量王の補佐に回ると、

量王の運気が上がると判じられたのです。

姉上も星読み、同じ事を読んだと思われます。

ですから、姉上は自分が身を引いて

貴方が量王に仕えることを薦めたと思います。

いかがですか?」

有馬の言うとおりではある。

が、身を引いたは違う。姉は量王よりも・・

絹が心の中で反駁していると、有馬の言葉が続いた。


「姉上が貴方にどう言ったかは知りません。

でも、本心を偽っているのは確かです」

いっそ、絹の定めを告げてしまえれば

絹も有馬の言葉を信じられるのだろう。

「本心・・ですか?」

姉に他に好きな男が出来たということが本心ならば

身をひくという言い方は成り立たない。

瑠墺の読みが本当なのか?

姉、瑠璃波の言うことが本当なのか?

「姉上は、量王を心底思っております。

ですから、貴方が量王の補佐に回り・・・」

まだるっこしいと有馬は思う。

絹だって、それならば、絹と瑠璃波、二人で補佐をすればよいと絹も思うだろう。

「姉は・・・」

絹も奥歯に物を挟み、言い方が遠まわしすぎて、まどろっこしさを感じている。


成るがままに任せたはず。

ここで、有馬が聞いてくるも成るがままなら

それに答えるとも、答えぬとも、成るがまま。

わずかの間にほぞを固めると絹はあっさり言い切った。

「姉は他に好きな男が出来たといっておりました。

丁度良いところに帰ってきたとも。

星読みを継承させるから、量王の補佐をしてくれとも・・・」

有馬にやっと、絹を説き伏せた瑠璃波の策が見えた。

いささかの疑問を持たせず、絹が量王に仕えるしかないようにする。

罠でしかない。

有馬は怒りを押さえ込むためにこぶしをぐうと握った。

そうしなければ、怒りがほとばしってきそうだった。

だが、絹に瑠璃波への怒りをぶつけてしまったら、

絹は姉をかばい、有馬の言い分を受け付けなくなる。

有馬は穏やかに諭すようにやわらかく絹に語りかける。

「絹さん・・都合が良すぎると思わないのですか?」

「あ・・」

有馬の一言に絹があっと、声を漏らしたのは

絹なりにわざと目を伏せ、耳を伏せ、気にとめないようにしていたのだろう。

だが、事実である。

量王のためにと絹を和国へ遣わせた。

その任務も才蔵に言われたように

わが身をなげうっても果たさねば成らないことである。

たった17、18の妹を和国へ行かせ、

女としての幸せさえ踏みつけにする覚悟がいる。

それぐらいなら、まだ良い。

命とて危ういのだから。

こんな慰めをしなければならない任務を我が妹にかぶせる姉がどこにいる。

そして、絹がやっと和国から帰ってきたら、今度は量王の傍を離れたいから

替わりになれ?

「あなたは優しすぎる。お人よし過ぎます。

勝手な言い分をなぜ鵜呑みにしてしまうのですか?

その話はお断りすべきでしょう。

ましてや、姉上の心は量王にある。

他の男などという存在があったならとっくに瑠墺が見抜いています。

そんな男の存在など一言も言ってなかったのですよ」


絹の瞳からぽろぽろとしずくが落ちた。

絹のことであるのに、道具のように扱われていると憤り

絹がそう有ってはいけないとしかりつけてくれる有馬がありがたい。

絹を尊く思ってくれるその気持ちがありがたかった。


有馬の言うとおりかもしれない。

他に好きな男が出来た。

量王の補佐に回れ。

他に好きな男が出来たのなら

量王がどうなってもかまわないのではないか?

だとすれば、瑠墺の言うように、

絹が量王の運気をあげるからと絹を量王の補佐にという考えはわかる。

だが、なぜ、量王に心があるというのなら

なぜ、身を引く必要がある?

姉も一緒に今までどおり補佐すればよい。

絹が思いあったったことは、絹の背中にじとりと冷や汗をかかせていた。

量王の補佐というのは・・星読みだけでなく・・

なにもかも、瑠璃波の替わり?

だから?

そこまで?

姉が絹を道具にする?

愕然となる思いを首を振って振り払う絹に有馬がたずねた。

「それに、絹さん。此処が一番大事です。

絹さんは量王の補佐をしたいのですか?」

えっと絹は耳を疑った。

自分がどうしたいか、

そんな事を考えてみたことも無かった。

有馬の言い方を聞いていると

絹が絹の意志で生きても良いとも

生きるべきだとも聞こえる。


「姉上に仮に他の好きな方がおられて、

その人を選ぶという生き方をする。

あなたはどうですか?

自分の意志で決めているのなら、

逆に姉上が心を偽っておられようが、関係ないでしょうが

貴方の意志でないのなら、

姉上の心を偽らせる片棒を担ぐことになるのですよ」


いつのまにか、量王の忠誠という考えに

洗脳されていたのかもしれない。

量王のため‘この言葉をして

愛国心に酔っていたのかもしれない。

「いずれにしろ、姉上のことを本当におかんがえになるのならば

まず、絹さんが自分の心を偽らないことです。

絹さんの意志で決めていかねば

右に左に振り回され

呈よく利用されるだけですよ。

いいえ、利用されるのでなく、

利用させているのは、ほかならぬ絹さん自身なのですよ。

もっと、自分を大切になさらねば・・」

言いおくと、有馬の気配が消えた。


星読みの想念のさなかに、混ざりこむ声は量王のものだ。

「量王さま」

瑠璃波が選んだ言葉は僕としての瑠璃波を表明していた。

「少しばかり、おまえの言うた事がわかってきた」

―絹波にあえば判る―その意味である。

「おまえが、暇乞いをしたくなる気持ちも察する。

すまないと思う」

絹波を一目みて、運命の相手だと悟ったという。

「はい」

瑠璃波もとうに覚悟はついている。

遅かれ、早かれ、告げられる決別に逆らう術はない。

「おまえにすれば、わが妹が正后に招じ入れられるをみるは、つらかろう」

すでに、量王の意志も固まっていると告げられた。

「暇乞いをお許しねがえますか?」

瑠璃波が答える言葉はこれ以外に何があろう。

量王は返事を渋る。

星読みの才はこの先の政道に必要だと思えた。

「私はもう、まともに星を読める女子ではありませぬ。

それに、絹波の星の運命。

絹波が正后におさまれば、量王さまに繁栄をもたらすもの。

私が居なくても、未来は確約されています。

そして、それを明かすがごとくの量王様のお心。

絹波をむかえ、暖かな家庭をつくり、後継者もえたい・・・。

量王様の心が活気を取り戻した証。

瑠璃波はよろこばしく、おもっております」

決別を受入れた瑠璃波の中に残った真実である。

「絹波には、私の心がわりと、いいのけております。

ですから、量王様の補佐に回るようにと、私のほうからも・・・」

量王の瞳に怒気がさした。

「瑠璃波、さしでがましくも、またも、量王を牛耳るきか?」

「あっ」

量王を我が物のように、瑠璃波の手の上で転がす。

その行為は瑠璃波の超越でしかない。

瑠璃波のものであった量王なればこそ、今まで、それを赦して来たに過ぎない。

だが、量王はすでに、瑠璃波への想いも、しがらみも切っていた。

瑠璃波の妹を娶る。

そう決めたとき、しがらみをもすでに吹っ切った。

絹波を量王に下げ渡してやるとも聞こえる瑠璃波の物言いも量王の癇にさわった。

瑠璃波を捨てる、捨てぬも量王の裁量、量王の自由である。

いいかえれば、瑠璃波を打ち捨てた量王ではないと、絹波に言いました、は

恩着せがましくさえある。


ひとたび心はなれたものがかほど、遠くへ飛び退り

今まで見た事のない冷たさを知らせる。

胸の中で隠し続け、積もらせたものをも、振り捨てるかのように、

瑠璃波に投げ返されてくる。

『それでも・・・お慕いしております』

瑠璃波は胸の内で量王に告げた。

量王はもう、人心が乱れるとは言わなかった。

量王自ら、星読みを捨てたのであれば

人の見方も違う。

『確かに、今、瑠璃波は量王様に捨てられた』

哀しい結末よりも、瑠璃波は箒星の軌跡が気になった。

―量王の愛をなくすより、量王の命が救われるほうが良い―

ふと、浮かんでくる、不安は、やはり、あの星のせい?

あれは・・有馬?なのか?

有馬の星がなにか、他の星に・・影響を与える?

箒星の行方が、気になったとき

絹波を一人部屋においてきたことが気になった。

絹の思念の中に

有馬が混ざりこんでいる。

箒星は有馬に間違いない。

絹波に、なにを告げたか?

だが、そんな有馬の言葉ひとつで

絹波の宿星はかわりはしない・・が。

量王・・。

絹波に選ばれければ・・・。


こんなとき、星を読むのは空恐ろしい。


絹波の待つ部屋に戻ると、量王に告げると

瑠璃波は量王に深々と頭を下げた。瑠璃波と量王の決別が牽かれた。

翌朝になると、有馬たちは量王の居城からおいたてられた。

「さて・・・こまったものですね」

有馬は同伴する役人3人をみつめ、つぶやいた。

門兵は黙って突っ立て居る。

門兵と役人。

―どう、くらますか―

有馬は突然、象二郎と数馬に声をかける。

「私のように」

深々と門兵と役人に頭をさげると、

有馬は昨晩の泥鰌掬いをおどりはじめた。

「通じなくて良いのです。

歓待の礼に踊りを披露していると

それだけ、判ってもらえばよいのです」

有馬にはなにか、考えがある。

疑うことなく象二郎も数馬も有馬を倣い

深々と頭を下げると、有馬の踊りに加わった。

妙な腰つきで踊る和人の礼を察したか

役人も門兵も遠慮なく笑い声をあげ、

踊りを見つめ続けていた。


物見遊山の旅心しかないと思わせるための

一芝居であったが、これが功を奏した。


門を離れ街路にはいると、役人は気をよくしたのか

土産をあつらえてやるとの風で一軒の店先に入っていった。

昨夜の泥鰌すくいが効いたのか、量王も役人を3人しかつけていない。

役人も有馬たちがすんなり、かえるものと思い込んでいる。

だからこそ、土産、泥染めの反物で、この地方の特産物であるようだ。

そんなものまであつらえてよこす。

―期をのがしてはいけない。

あまり、離れてもいけない―

昼飯に立ち寄った飯店で有馬は酒を役人にも振舞った。

あくまでも、物見遊山を気取る有馬を徹するに余念が無い。

「ちょいと、象二郎さん。

拳呑みをやりませんか」

有馬が拳呑みをはじめる。

じゃんけんで、負けたら、杯をあおる。

昼間から酒かという顔で、役目もあると、しずしずと

杯を口にはこんでいた役人だが、

有馬と象二郎の拳呑みに興を惹かれたらしい。

しぶしぶといいう呈でありながら、酒をことわらぬところからも

酒は嫌いではないらしい。

やがて、数馬も加わり拳呑みに笑いがさざめく。

見ていてもおもしろいのだろう。

にやにやと笑った顔が瞬時に破笑に移る。

有馬が杯をもち、役人に近づいていく。

「いん、じゃん、いん、じゃん、ほお!」

杯を目の前において、拳を振る。

「急ぐ旅でもなし、楽しみましょう」

通じぬ言葉をかける有馬の誘いにのらぬと、見て取ると

象二郎は有馬を引っ張った。

そんなものたちを相手せず呑みましょうと、

象二郎が有馬の前に杯を置きなおした。


その時、たまりかねたかのように、役人のひとりが、

近づいてくると拳をふりながら、混ざりこんできた。

象二郎の態度が役人たちの警戒を解いたのである。


ひょろっこく、小柄な有馬の何処を見ても酒豪には程遠い。

が、実は、有馬もいわんや、象二郎も数馬も酒は強い。

られられと酩酊の舌をもつらせさせて、酔ったふりをよそおいながら、

残りの役人に酒をすすめる。

「いん、じゃん、いん、じゃん、ほお!」

目の前にどっかりと座り込んだ数馬と拳呑みを興じ始めたのも

むこうの隅で有馬と拳呑みをしていた仲間が寄ってきたからである。

みれば、有馬は酔いに負けたか、ふんのびて・・高いびきである。

これは、此処で一泊するしかないだろうと、見極めた役人は

腰をすえて飲むことにした。

「和人は酒好きじゃな」

拳呑みに興じるまま、酒をあおり、

酔いが回りだしたか相方に声をかけてみたが、返事が無い。

こちらも和人同様、しっかり寝入ってしまったようである。

仕方が無い。

酒が好きは和人だけではないかと笑いをかみ殺し

もう一人の相方に声をかけようと、振り向いた。

それを待っていたのが、象二郎であり、数馬であり、有馬である。

「こっちもこっちで、ふんのびて、くたばっていやがる」

文字通り、本当、くたばっているとは知らぬ男は

相方をおこそうと数馬と象二郎に背を向けた。

運のつきである。

他の二人の息の根を止めた細い針が

わがぼんのくぼに突き通されたとも気がつかず男は息絶えることになる。


やれやれと旅人、いや、和国の服を着せこんだ死体を背負い込むと

金を払い、一行は店をでた。


「さて・・どうしたものでしょう」

死体をいつまでも負ぶっていくわけにも行かない。

酔いつぶれたていたらくとみた、店のものは、

服の中身がかわっていることなど、頓着なしで

金をもらえばそれでいいか?

あるいは、物騒なことにはかかわりたくない・・?

そんな考えが染み渡っている?

有馬のかんがえついたことは、

象二郎も思いついたと見える。

「いちかばちか・・」

象二郎は懐から印をとりだして、有馬に見せた。


和国で言う寺のごとき建物を見つけると

僧頭に印を見せた。

にらんだとおりである。

僧頭は黙って、ついてこいとばかりに前を歩くと

有馬たちを墓所に案内した。

死体を背から下ろすのを待ちかねていたように

僧頭が手をにゅっと差し出した。

いくばくかの金とひきかえに死体を葬る気らしい。

黙って金をつかませ、立ち去っても

疑問を持たぬか、追ってもやってこない。

「良くあることのようですね」

聞きなれない言葉が往来に漏れてもいけない。

象二郎はこくりとうなづくと

指で金を作って見せた。

地獄の沙汰も金次第である。

どこにいっても、この定説はまかり通るようである。

が、

言い換えれば、剣牙の印をもつものが、

いかに、まかり通っているかということである。

「間者がはいりこんでいるということですね」

有馬もそう読んだ。

そして、ポツリと付け加えた。

「それも、ドーランの間者ですね」


近いうちにドーランが兵を挙げる。

剣牙の印の威光はその不安に裏打ちされているとも思えた。

成るに任せる。成るに任せる。と、言いながら

有馬たちの行動は成るに任すといいがたい。

だが、流されると成るに任すは違う。

自分の信のままをやりぬいて、その結果を成ったことと見なすしかない。


なんとか、夕刻までに絹の元へ。

数馬の焦りが手に取るように判る。

絹にほれた男であればこそ、

絹に惹かれた量王の心が読める。

有無を言わせず、量王は絹を済し崩す。

元々の絹の宿星が呼応して絹を正后に収める。

その第一歩が始まる。

なんとしても、食い止めたいのは和国のためではない。

絹に焦がれた男のやむえぬ心情でしかなく

絹なくして、生きてはおらぬ。は、

数馬の本心である。


有馬たちが和国に帰っていく姿を見届けると

絹は考えなおしを促す独りの部屋に入った。

浮かんでくるのは昨夜の有馬との最後の邂逅である。

有馬は瑠璃波の嘘だといった。

自分の心を偽っては成らぬといった。

瑠璃波が己の心を偽っているように

絹も己の心を偽ってはならぬといった。

何をいつわっているのか、

それさえ、まださなかでなかった絹の中から、

沸いた涙が絹に偽りがあることだけを微かに知らせていた。


宵闇が迫り来る頃、量王自ら夕食の席に絹を招きに来た。

瑠璃波は庭に出て星を見つめている。

瑠璃波からは量王に暇乞いが叶ったと告げられた。

絹への継承の儀式と星読みの座を降りる宣誓を終えたら

此処を出るともいった。

どこか、晴れ晴れした顔に見えるのは

量王への思いを絹波に託すと覚悟しきったせいであるが、

絹には、-あの人―の元へ行くことができる幸せが瑠璃波を輝かせているとみえた。

有馬がいうことは違うのだと思う。

いずれにしろ、姉が幸せになれるなら、それでよいと思う。


仮に数馬を追い求めてみても

どの道、和国の人間。

叶う恋でもなければ

姉の窮地を見捨てて、自分が幸せになれるとも思えない。

絹はこの先、懺悔と後悔を抱きながら生きていく自信はなかった。


姉は・・姉は呼ばないのですか?

と、たずねかけて絹は黙った。

量王にとっても姉の心変わりは寝耳に水。

たとえ、姉を影の女としてあつかわなかったにしても、

姉の心変わりは量王の心に痛手であろう。

『大事にしないから・・・』

結局、見限られる。

姉の心変わりも量王の所産でしかない。


量王の招きを断るわけにも行かず絹は量王に従った。

卓を囲む量王はすこぶる機嫌がよい。

いくらか、姉の転心に打ち塞ぐ様子を見せてもよさそうであるのに。

―人心を乱すから・・・。愛してると一言でもいうならば・・・-

判るでしょうと瑠璃波に問われた言葉がよみがえってくる。

量王は天下を取るだけが目的。

姉の才を利用しただけ。

星読みがいなくなって、困るから、

姉を引き止めていただけ。

そして、次はこの私が星読みになれば・・・。

もう、姉を引き止める理由も無い。


有馬の言葉が絹の心を揺さぶる。

―自分勝手な心に絹さんを利用させてよいのですか―

―もっと、自分の幸せに手を伸ばしてもかまわないんじゃないですか―

絹を思う心にあふれている有馬の言葉が絹の中に小さな灯をともす。

『有馬さん。絹をそのように考えていただけだけで絹は十分幸せです』

やむたても得ず絹を欲した数馬も、今となっては

懐かしい恋になってしまったと思う。

だけど・・・。

絹は少し不思議にも思う。

あるいは、絹の心が寂しくなったからかもしれない。

あれほど、本気だと言った数馬が別れ際に涙ひとつ見せなかった。

和国に帰って、数馬はどうするつもりでいるのだろう。

決起?戦を覚悟?

そんな気がする。

はれて一緒になれぬ仲ならば、敵として相打ち果てる

和国と渤国の縮図に従う。

いつか・・・・。

近いうち・・・。

渤国に乗り込んでくる和国の武将の中に

数馬を探す日が来るのだろう。

それも定めと絹は思った。


「絹波は和国でどうやって暮らしておった」

量王の問いに絹は我に帰った。

「小さなはたごのした働きを」

6畳ほどの女中部屋に3人の女子衆と一緒に寝起きしていた。

「和国にはひとりでいったのか?」

「もちろんです。仲間連れではすぐに危ぶまれます」

思わず渤国の言葉でやり取りをしてしまったり

お互いのことを聞かれたときに、ちぐはぐな部分も出てきかねない。

独りのほうが何かと都合は良い。

「あやつらとは?」

有馬たちのことをさす。

「才蔵という間者を殺されました。

有馬は和国の志士たちの信奉を集めていた人間でしたので

さぐりをいれ、命を狙っていたのですが

有馬ではない誰かに殺されました。

私が間者であること知った志士たちが渤国の情報を得ようと

渤国へ乗り込む手立てに私を使おうとしたのですが・・・」

有馬という男がさほどのものに見えないのは

量王もまた、威光を持つ男のせいであろう。

「と、いうことは、奴らは目的を果たしたというわけだな」

量王は愉快そうに笑う。

一度や二度着ただけで渤国の何がわかる。

判ったとして、和国のものが乗り込んできた所

ほろぶのはむこうでしかない。

大国の優勢とは兵力の完備に他ならない。

和国の決起など蚊のひとさしにもならない。

「だが、絹波を見る眼が違う男がおった。

絹波は奴らを欺くため、わが身をなげうったか」

量王がいくばくか苦しそうに見える。

「量王への忠誠のためとはいえ

わが命を護るためとはいえ、

辛い重いをさせてしまった」

絹はあっと声を上げそうになった。

量王は人を慮る。

一言で言えば優しい。

絹が報われる言葉を出せるのはよほど、人を思うせいである。

有馬とは違う質で人の心に染み入ってくる。

姉が量王に焦がれたわけが少しわかる気がした。

泣きそうになる絹を量王は引き寄せた。

「絹波は量王をうらんでおろう」

絹をそんな眼にあわせたのは、量王でしかないと、

絹に詫びているかのようである。

絹はあわててかぶりをふった。

絹のかぶりを胸の中で受け止めると

量王は続けた。

「いや。瑠璃波を正后に迎えず、暇乞いを願い出るほどに

瑠璃波を追い詰めたのは、この量王だ。

瑠璃波のこともある。

絹波は量王を赦せまい」

ずばりと絹の心をつかみ出してしまう。

量王は何もかもわかっている。

けして、自分の落ち度に気がつかない男ではなかった。

自分のしでかした事に罪と痛みを感じている。

量王には量王の傷心があったのだと絹は思った。

「いえ・・もう良いのです」

量王の口から瑠璃波への悔恨が出てくるのならば

もう、それだけで良いと思えた。

量王の腕の中からすり抜けようと動いた絹は

その行動ゆえにひとつのことに気がつかされていた。

数馬への心がいまだにある自分であること。

だからこそ、量王の優しさに甘んじたくない絹がいた。

だが、量王は絹をとらえなおすとその口をすすった。

そののち、量王は絹に告げた。

「絹波を正后にむかえたい」

絹はわが耳と量王の正気を疑った。

昨日会ったばかりである。

瑠璃波と別れたばかりである。

どの口がさけたか?

哀しさのあまり正気をうしなったか?

「絹波は信じられないだろうが・・私は・・」

量王は自分を量王と呼ばず、寂しく笑った。

「瑠璃波は私を権威としてしか、見ていなかった。

私はついこの間まで、心を結び合える伴侶などこの世にはいない。

いないのだから現れない。

そう、思っていた。

だから、跡継ぎも生まれ出ないだろうし

そのためだけの正后を迎えるもうとましかった。

正后の椅子は私にとって心を結び合える真の正后だけが座す場だから、

たとえ、そこに座るものが現れないとしても

その場所を、まやかしや子を得るためだけのものに与える気にはなれなかった」

量王の心は痛い。

瑠璃波の欲は量王への情へ変転していっただろうに、

独りの男として愛されなかった悲しみが量王にはびこっていた。

量王の優しさが瑠璃波の欲を情にかえて言ったともいえるが

それはすでに量王が瑠璃波の政権欲をも、包み赦していた果てといえる。

量王を孤独にしたのは瑠璃波本人でしかない。

瑠璃波は結局、わが身可愛さで量王を利用した。

ゆえに量王も瑠璃波を愛し切れなかった。

瑠璃波にすれば誠に愛される幸せを得られなかったとなる。

だが、それも因果応報の姿でしかない。

「量王さま・・?」

量王はいまや何もかもわが手中に収められる位置に立っている。

それで、ありながら、たったひとつ。

量王を誠を愛するものを手に入れることが出来ない。

寂しかろう・・・。

量王の心をその体ごと包んでやりたくなる。

絹がその一瞬の情にながされなかったのは、

やはり、有馬の声だった。

―自分勝手な思いに絹さんが、自分を殺すまねをしちゃいけない。

貴方は優しすぎる。お人よしすぎる―

自分のそこから沸いてくる思いをつかんでいかなければ

見せ掛けの思いに流されるだけ。

それは、ひいてはまたも量王を寂しさに突き落とす結果を生む。

また、量王も寂しさ、悲しさが深すぎて、もがいてるだけかもしれない。

寂しさに耐えかね、絹で埋め合わせられると思い込んでるに過ぎない。

おぼれるものはわらをもすがる。

そんな量王であるのならば、

量王は、いつか、つかんだものがわらであることに気がつき

わらをもつかんだ己の無様に泣く。

お互いの気持ちが本物でないのなら

結局は量王と瑠璃波のくりかえし・・・。

だが、小さな拒絶と、迷いを見せる絹の心を量王はまたも掴み取る。

「判っている。

私の心が本心なのか迷っておろう?

そして、絹波も私に対し誠であろうとしてくれている

私にはそれがわかるから、私は絹波に惹かれる。

だが、私も瑠璃波との失敗を繰り返したくない。

絹波の心をゆっくりとそして、確実に掴み取っていきたい」

星読みが量王を変えた。

以前の量王なら、こんなことは考えもしなかっただろう。

そして、この量王の考えが、

絹の操を護る、運命の采配になるとは、

絹も量王も、量王を変えた星読みも知ることはない。


絹が量王の元から瑠璃波の部屋に戻ってくると

瑠璃波は部屋に運ばれた食事を取っていた。

食事をとってはいたが、

瑠璃波はほとんど食事を口に運んだ様子が無い。

「姉さん」

絹の瞳をまともに見つめ返さない姉がいた。

―姉さん?本当に?-

量王のことはもういいの?

本当に好きな男がいるの?

まともに食事もとらず

絹の瞳を避ける姉に問い詰めたくなる。

だが言い出したら退かない姉を知っている。

それに、たとえ、姉の本心が量王にあろうとも

量王と決別したほうが良いと思える。

量王の傷心を思うと修復の可能性は無い。

覆水、盆に帰らずとも言うが

量王にとって、瑠璃波は毀れ行った水でしかなく

瑠璃波にとっても量王は覆した盆でしかない。

「もう、どちらでも良いことだわ」

妹の思いを読んだか、瑠璃波はそう口にのせた。


姉の言うとおりかもしれない。

けれど、今でさえ姉は絹の心を読むというのに、

絹には姉の心ひとつわからない。

そんな絹が星読みを継承できるとは思えない。

「でも、私に星など読めるわけが無い」

それを、気にするのは、

絹の心に、量王の補佐、ひいては正后の座を選ぶに

値する自分でないという不安があるからか?

つまるところ、絹に正后になる意志があると考えられる。

「大丈夫よ」

瑠璃波は星読みは簡単なことでしかないとでも言うかのようにあっさり、笑った。

そして、くっと、息をのむ。

それは

話がある。話しても大丈夫か?

瑠璃波が自然に絹に聞く体制を作らせてしまう瑠璃波自身への問いの姿である。

絹も姉の口から言葉が漏れてくるのを待ちはじめた。

「瑠墺はあなたに本当のことをはなさなかったようね」

絹を通して、瑠墺が話さなかったことを読んだのか?

瑠墺が有馬たちと長い間、話をしていたが、

有馬たちは瑠墺との間にどんな話があったかは、話そうとしなかった。

瑠璃波にすれば、たんに、絹が自分が正后になる宿星を有していると

判ってないから、瑠墺が話していないと判るに過ぎない。

「本当のこと・・・?」

いまさら、それを聞いてどうなるというのだろうか?

あるいは、それを聞けば、数馬が涙ひとつ浮かべなかったわけが判るのだろうか?

そして、量王の求婚、これだってどうすれば・・。

それとも、これ?

これを瑠墺が読んだ?

だから・・絹を送り届けるためだけに渤国にきた?

だったら、絹だけ送り届ければよい。なのに、3人で乗り込んできた。

いや、量王に求婚される存在だとわかっていたのなら、

そこをなんらかの方法で利用する?

絹の中に漠然と沸いてきた不安がある。

量王にやすやすと近づける存在になった絹である。

有馬たちは量王には近づけなくても、絹には近づける。

絹を利用するか?

有馬たちは渤国に潜伏し量王と相打ち果てる・・つもりでいる?

はじめから、そのつもり?

「あなたは、元々、渤国の正后になるさだめを負っている」

何もかも覚悟し、量王を失った今、瑠璃波はもうこれ以上

自分を護る必要がなくなっていた。

「え?どういうこと?」

姉に告げられた事実と量王の求婚の事実が絹の中を交錯する。

「貴方を量王に合わせたら、貴方が量王の正后になる・・」

己の罪をさらけ出す言葉を吐くために

瑠璃波は大きく息をついた。

「だから、私は貴方を和国にとおざけた」

絹の瞳が大きく見開かれるのが自分でもわかる。

―嘘?

量王を得るために・・私が邪魔だった?-

量王のため。

ひいては、姉のため。

かさねて、渤国のため。

そう思って、和国へ行った。

だのに、そうでなく・・・。

私を追い出すため?

「そして、量王の星読みとして量王の重鎮であるとともに、

量王の正后の座に座る。

私は国と量王、ともに得るにふさわしい才を兼ね備えていた。はずだった」

で、あるのに、瑠璃波に子がとまることが無かった。

うえに

「だのに、あなたはやはり、定めの全うするかのように

渤国に戻ってくる。

私はこの4年、量王と何度、褥をかわしたか。

それなのに、正后でないことをあかすかのように、子を宿すこともなく、

量王の愛を勝ち取ることも出来なかった。

それどころか、量王の心はすさみ、この先への希望ももってなかった。

子も愛も心も・・、私では充たせなかった」

淡々とした口調がいっそう、瑠璃波がいかに打ちのめされたかを語っていた。

「ねえ、絹波。

負けたものが敗戦を語るのが、どんなに辛いか、あなた、わかる?」

わかるわけなどない。

少なくとも絹波はみじめに負けたことが無い。

だけど・・。

負け。

それも、自分が引き出した結果であろう。

「量王が私に惹かれたのは‘あなた‘を私に見たせい。

私はそれがわかっていたから、‘あなた‘を量王に合わせたくなかった。

量王があなたを一目見たら、気がつく。

それだけなら、まだ、良かったと今は思う。

貴方を遠ざけ、今、量王が貴方をみて気がつくことは、もっと惨い。

貴方を和国に遠ざけたことも、量王にすれば『欺かれた』ことになる。

運命を読める人間が、量王の人生を操るばかりでなく、我が物にしようと画策する。

これら、いっさいを、量王は悟ってしまった。

でも、量王はそのことには、一切触れず、私の暇乞いを赦した。

私もこれ以上、量王のそばにいることはできない」

「姉さん?」

絹波の不安を見抜き、瑠璃波が笑った。

「大丈夫。死にゃしない。

それに、我執からとき離れた今、私にはいっそう、人の心も

星の動きもよく判る。

こんな姉が言えることじゃないけど

星読みとして言っておくね。

絹波・・自分の情に流されちゃいけないよ

この女が、自分の情にまけて、

とりかえしのつかない失態と傷をおった。

絹波は情に負けたり、流されてはいけない」

絹にとって何を含んだか判らない姉の言葉が

いずれ、絹の心に礎石になる。


絹は空耳かと思った。

昨日の夜のあの印がなっている。

その叩き方はあの碑の有馬と同じ。

三つならして、ひとつ。三つならして、ひとつ。

まさかと思いながら絹は懐の印を鳴らし返した。

まちがいなく、呼応する。

三つならして、ひとつ。三つならして、ひとつ。

有馬に違いない。

数馬が象二郎が有馬が戻ってきている。

だけど、ここ。敵地の真っ只中。

姉さん・・・・。

絹波のすがる眼に瑠璃波がうなづいた。

「判ってる」

有馬が箒星。

輝きだした陰星が絹の心を捉えている、あの男。

どうしても読めなかった瑠墺の思いが今、流れ込んでくる。

多分、ずっと前から瑠墺は瑠璃波に語りかけていたに違いない。


『量王の元から絹さんを逃がし、和国のものと

いったん、和国へ帰参させられたし』

さらに瑠墺からの語りが続く。

『孝道を首に決起がおきるます。

ドーランが指をくわえてみているわけがありません。

ここが機とばかりにドーランも参戦してくるでしょう。

量王は命運がそこで、途切れる。

貴方は絹さんを逃した後、再び量王に仕えることになります。

量王の命運が途切れたのちは、貴方が事実上、

渤国を掌握することになるでしょう』

瑠璃波は瑠墺の先の言葉を理解した

『そして・・・。

この私が渤国を絹波に譲る。でも・・

少なくとも、私が絹に返すのは量王でなく

渤国の首座でしかない』

ドーランは和国を掌握するよりも

和国と渤国の動乱に乗じて、

渤国をつぶしたほうがはやいと考えるのだろう。

だが、渤国をつぶすこと、

いや、量王をつぶすことにより、

渤国と和国の和平を結ぶことが可能になると

ドーランは思いもしない。

量王亡き後、渤国と和国が力を合わせ

ドーランを逆につぶす。

それが、絹の持つ宿星の強さ。

いいかえれば、渤国、国そのものが強い運気を持っている。


さあ、絹にどう話すか、

瑠璃波が絹をみつめた。

絹波?

絹の胸の下、腹の中に小さな命の息吹が光っている。

絹波・・?

このこ・・まだ気がついていない。

「絹波・・あなた・・わかっているの?

あなたは、私を「おばさん」にしてしまったのよ」

キョトンとした顔で瑠璃波の言葉を考えてる絹に瑠璃波は笑い出してしまった。

「あなたは、量王の正后になれないってことよ。

ちゃんと、別の人の妻ですって、貴方のおなかの中の子供が怒っているわ」

「え?え?・・子供・・?」

数馬の子供。それ以外の何者でもない。

絹の眼の中にいつかの有馬の赤子を抱くしぐさがよみがえってきていた。

「大丈夫。今度こそ、貴方の婚姻をかなえて見せる」

絹に約束をすると、瑠璃波は有馬たちをかくまう場所へ案内するために

城外へと抜け出していった。


量王の申し出をうまく切り交わしながら

絹は時をまった。

継承と称し絹波のそばに仕え

御社の瑠墺に船の手配を頼む使いを送った。

やがて、その日が来ると

瑠璃波は絹を城の外に連れ出し

有馬たちともども、船に送届けた。


何もかも、この瑠璃波が量王の運命を狂わせてしまった。

引き戻すことの出来ない軌跡を見つめていても仕方が無い。

瑠璃波は遠くかすんでいく船に別れを告げると

空を見上げた。

白日の陽の中。

それでも、眼に鮮やかに

絹の星が陰星を陽星に変える照射を与えていた。

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宿根の星 幾たび 煌輝を知らんや @HAKUJYA

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