【掌篇集Ⅲ】鏡面を奏でるもの

灰都とおり

あなたたちの失くしたささやきについて

 あの子のことは、ささやきって呼んでた。言葉を交わしたのは二度くらいかな。一度目は髪をかきあげて耳のピアスを見せてくれた。放課後、偶然ふたりになった教室で、文化祭の準備をする生徒たちの声が聞こえてて、あの瞬間私たちは親友みたいだった。インダストリアル。ささやきはそう教えてくれた。軟骨を貫いて耳を横切るサージカルステンレス。これをそう呼ぶのって。まるで工作機械。トレント・レズナーの音楽。痛そうだね、なんて私はいわなかった。そんなふやけた砂糖菓子みたいな言葉であの子を汚したくなかった。

 あなたたちはすっかり忘れてるんだね。ささやきのこと。成績優秀で、おとなしくて、友達のいない変わり者。伊東はコミュ障だなんて笑ってたけど、あれはなにか、不安の裏返しみたいなものだったんだ。あの子はなにか異質だったから。たとえばあのバキバキのピアス。タバコを吸ってる噂もあったね。まあ事実でもあったけど。そもそもあの子の〝成績優秀〟は全国模試の順位で測りきれるものじゃなくてさ、もっと魔的な、致死量ぎりぎりの劇薬みたいなものだった。

 ささやきが、首をかしげて窓を眺める。ささやきが、無人の野を行くように廊下を歩く。そのしぐさが無意識にみんなを引きつけてたと思う。存在感、ていうのかな。鳩の群れにカラスが一羽まじってるみたいな。1年のとき、どういう経緯かあの子はクラス委員をやってたけど、ささやきが進行するホームルームは終始ざわついてるんだよね。あれがさあ。そうそれ。なんて言葉が途切れなくて。ささやきは黒板の前で、5分前に転校してきましたって顔で立ってて、人形みたいに冷えた眼差しをしてて、時計じかけっぽくその瞳が動くと、合わせて教室のざわつきが移動する。無機質な視線がすとんとおりると、そこにいただれかが「発言」する。でもその前から、みんな内容がわかってる、そんな感じ。伝わるかなあ。私たちは、ひとつの群れだった。

 きっかけね。たぶん、あのLINE騒動かな。不登校や家出の生徒が急増してニュースサイトにも載っちゃったしね。ほら、LINEってグループ多くなるし、それごとに通知飛ぶから、私頭のなかで言葉がゴムボールみたいにぽんぽん跳ねてるって思ってたんだけど、そこに質の違うベアリング球みたいなのが飛んでくるんだよね。それがささやきなの。裏アカだけのグループでも、ああこいつはささやきだなって私にはわかった。みんなそうだったんじゃないかな。いいね。やばくね。そういう会話が、ささやきのひとことで加速する。ビリヤードのブレイクショットみたいに。無数のコメントが痙攣しながら画面を流れてって、もうなに考えてたのかもわからなくなる。意識じゃ追ってないんだよねあれ。連鎖する反射。触媒っていうの? 化学の実験でやってたから阪井あたりがいってたね。酸素と水素の混合気体に白金鋼をいれると水ができる。2H2+O2→2H2O。白銀は反応を加速させるだけ。ささやきの言葉が触媒になって私たちはひとつの水になる。流れになる。馴染んじゃった子たちは、そのまま学校にも来ず文字の川になっちゃった。いまのあなたたちみたいに。「気がつくほどの変化なら、それは遅いんだよ」騒ぎのあと、ネットでささやきが呟いてた。なにかに失敗したみたいにさ。うん、あれはやっぱりあの子だったと思う。そういえば触媒反応を発見した化学者は、ギリシャ語の「解体する」から「触媒」を造語したんだってね。ささやきにぴったりじゃない? 人間を解体したんだから。

 それから、「群体」が流行り始めた。例の「共有VTuber」の炎上とか、メタバースの「ひとつになる」コミュニティの報道とかさ。みんなで「推しに成る」って文化も、私には溶けてしまいたい相手なんてなかったからよくわかんなかった。それに、みんなが騒ぐほどささやきは関わってなかったんじゃないかな。当時私は、あの常時接続の音声アプリでささやきの声を聴いてたんだけど、それも思い込みだったかも。はじめ友達だけだったはずが、ぜんぜん知らない声がまじってくるし、ボイチェンも当たり前、ノイズみたいな電子音が鳴ったりして、みんなただ空白を塗りつぶしてるだけだった。だからだれとなに話してたのか憶えてないんだよね。合成音みたいなささやきの声をぼんやり追ってたら、育児放棄された小学生の声だった、なんてこともあった。あのときはスマホの向こうにいきなり群れを見つけてびっくりしたのを憶えてる。ああ、これはその小学生からみた記憶だけど。群れになると、まざっちゃうから。

 結局さ、みんな学校とか仕事とか行きたくなんてなかったんだと思う。社会人とか自己責任とか、飽きちゃったんじゃない? ささやきはきっかけのひとつでさ。だからあれだけたくさんのひとがリモート技術とネットの海に溶けちゃったわけでしょ。いまのあなたたちがどう感じてるのかはわかんないけど。

 あの子と二度目に話したのは校舎の屋上だった。ささやきは水面を見上げる魚みたいにタバコを吸ってた。でも屋上の扉は施錠されてたから、あれは第二校舎の裏だったかも。

「ソクラテスとかお釈迦様のころ、脳が言葉に耐え切れなくなった時代があって、それでしかたなくあたしたちは〝個人〟ってものを切り取ったんだ。溶け合った無数の声から」

 あの子の瞳が正面から私を見つめていて、なにが始まったんだろうって思った。

「それ以来あたしたちは牢獄にいることを知らない。毎日無数の声を殺しながら〝個人〟に閉じこもってる。寂しくて寂しくてたまらないのにね。だからそれを、やめるんだ」

 ささやきは笑ってた。ディストピアからの脱出をそそのかすヒロインみたいに。

「話に書くとするなら、こんな感じかな」

 あの子は知ってたんだね。私がこうして、相変わらず〝個人〟として生きながら、ささやきのことを書く日がくるんだってさ。


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