第4話 アネモネ

「ローズの恋人?」


 グレイは静かにティーカップを置いた。


「そう。もう60年以上前かしら。病気で亡くなったの」

「病気で?」


 グレイが目を見開く。


「そう。腫瘍しゅようが体のあちこちに出来てね。脳の腫瘍は取り出すと記憶障害が出るって言うので手術を辞めたの。2人でいた時間を忘れたくないって言って」

「……」


 ローズは遠い目をした。


「彼との日々は短かったけれど、とても楽しかったわ。花の世話を一緒にしていたころが懐かしい……。当時も花の成長に薬剤は使ってなかった。まるで2人の子供を育ててるみたいだったわ」


 グレイはただ黙ってローズの言葉を聞いていた。花壇の花たちに対する慈愛の眼差しにはそういう理由があったのだ。


「あの花壇。時計の形をしているから花時計というのだけれど、2人でよく見にいっていたの。その当時はちゃんと時計の針は動いていたのよ。花時計が無くなるって話を聞いて私、居てもたってもいられなくて。管理者になりますって名乗り上げたのよ。それで今まで、お婆ちゃんになるまでずーっと育てていたの」

「……まさか。あの花壇にそんな思い出があったなんて」


 ローズは優しく微笑んだ。


「誰も花壇に興味ないみたいだけどね。だから私は若返りたいとは思わないの。若返ってもあの人はいないでしょう?それに花と同じ。散るからこそ人は美しく、1日1日を一生懸命に大切に生きようと思えるのよ」


 グレイは黙り込んだままティーカップに手を伸ばす。


「私はあの人との時間を失いたくないの。周りの時間の速さにかき消されてしまいたくないの」


 ローズの緑色の瞳には力強い光が灯った。グレイは思わず魅入みいってしまう。


「ごめんなさいね。つい、私のことばかり。貴方の疑問に上手く答えられたかしら?」

「何となく理解できたような、できなかったような気がします」


 グレイは静かに椅子から立ち上がると丁寧に頭を下げた。


「おもてなし、ありがとうございました」

「いつでもまたいらっしゃい」


 そうして玄関で手を振る。グレイの心はぽかぽかと温かかった。



 ローズと離れてしまえば不思議だ。すぐに慌ただしい時間に飲み込まれてしまう。

 時間が猛スピードで過ぎ去っていくのが普通だった。それが今ではたまらなく寂しく思えた。


(ローズは……ずっとあのままなんだ)


 殺風景な自宅に戻る。机に触れればたちまち複数の画面が目の前に浮かび上がった。

 授業や研究のこと、プライベートの通知、動画、世界各国のニュース……。様々な画像や文、娯楽ごらくの動画がグレイの前に現れては消えていった。

 そういえばいつも完全栄養食で、お皿に乗った食事を取った記憶もない。誰かと冗談を言い合った記憶も。

 ローズのように誰か大切な人がいなかったか思い出そうとしても思い出せない。


 グレイはおびただしくうごめく画面を見て深いため息を吐いた。


(これが僕の生きている世界じかんなんだ)




「あら?また来てくれたの?おチビさん」

「おチビさんじゃない!」


 グレイは時間を見つけてはローズを手伝うようになっていた。いつの間にかローズと過ごす時間に喜びを感じるようになったのだ。

 広場では誰1人、2人の姿と花時計を見て立ち止まる者はいない。

 まるでこの花時計を境に別の世界が広がっているようだった。


「せっかくグレイが手伝ってくれて、こんなに綺麗になったのに。沢山の人が見て欲しいものだわ」


 ローズの怒ったような声のトーンにグレイは小さな笑みを浮かべた。


「いいよ。僕はローズに見てもらえれば」

「あら。ませたこと言って」


 ローズのしわや傷だらけの手で頭を撫でられる。グレイは照れくさく思いながらもローズと過ごす日々を愛おしんだ。

 可愛らしい、八重咲やえざきの赤い花が風に揺れた。


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