後始末の春

そうざ

Cleaning up in Spring

 風にさらわれて来た桜の花弁が『彼女』と『女の子』との間を音もなく舞って行く。

 団地の裏手はいつも寂しい。陽射しの傾き始めた今時分ともなると、ひびの入った棟の影が辺り一面を冷たく支配する。先日来の春雨が走り去り、雑木林の梢から滴る雨粒も、もう水溜りを成そうとはしていなかった。

『彼女』の視線の先、十メートルくらい下の冷たいアスファルトに『女の子』が大の字に近い格好で仰向けになっている。

 ほんの数秒前まで『女の子』はこの世にいたが、あっと言う間に向こう側の存在になってしまった。まだ光の欠片かけらを宿しているように見える瞳も、もう焦点を結んでいない。『女の子』を見下ろす『彼女』の姿が微かに映っているだけだった。

 制服が捲くれ、青白い太股が覗いている。『彼女』はそれを直してあげたいと思っていた。しかし、『女の子』の頭から流れ出した液体がゆっくりと地面に模様を描き始めるのを見詰めているほかは、何も出来なかった。

「おっ、オイラが一番乗りかっ。こいつぁ、春から縁起が良いわい」

 いつの間にか『女の子』のかたわらに痩せぎすの中年男が居た。草臥くたびれた背広にノーネクタイ、小脇にセカンドバッグを抱えている。

 男は『女の子』の全身を嘗めるように観察しながら、まだ若いのに不憫ふびんだねぇ、可哀想にねぇ、と鼻歌混じりの独り言を呟き、その制服を脱がしに掛かった。

 焦げ茶色の革靴、紺色のハイソックス、クリーム色のセーター、首元の赤いリボン、そして、チェック柄のスカートへといかつい手が掛けられたところで、『彼女』は思わず眼をそむけた。目の前で無抵抗の『女の子』が裸にされるというのは、何とも気恥ずかしかった。

 男がスカートのホックに梃子摺てこずっていると、ハンチング帽に薄茶のサングラスを掛けた小太りの中年男が何処からともなく現れた。

「よう~、早いやないか。ワシの取り分も残しといてくれや」

「何を言いやがる。こういうもんは早い者勝ちと決まってるだろうが」

 痩せぎすの男はようやくスカートを脱がすと、直ぐにワイシャツのボタンに手を掛けた。たちまち『女の子』は淡いピンク色のパンツとブラジャーだけになってしまった。

 二人の男は、目のやり場に困っている『彼女』には全く気付かず、勝手な会話を続ける。

「ほほっ、可愛らしい下着だ。桜の季節にぴったりだ」

「せめてそれくらいはワシにくれてもえんちゃうか?」

「そうか、こっちはあんなの専門だったな。譲ってやるよ」

 その言葉を聞いた小太りの男は、嬉々としてパンツを脱がし始めた。

『彼女』は更に恥ずかしくなり、この場を立ち去りたい気分になった。

「やややっ、沁みが付いとるがなっ」

「ははっ、残念やったな。まぁ、しょうがないだろ、拾い物なんだから」

「ちゃうちゃう、逆に高値が付くんや」

「はぁ、そういうもんかね」

「そういうもんやでぇ、世の中は」

『女の子』は半身を起こされ、ブラジャーも取られてしまい、遂に丸裸になってしまった。申し訳程度の乳房の膨らみ、寸胴でO脚、全体的に余分な肉が付いている。どこにも良い点のない見苦しい身体だと『彼女』は思った。

「これはこれはお二人さん。相変わらず仕事が速いですね」

 今度は、白衣をまとった銀縁ぎんぶち眼鏡の男が、同じく白衣で統一された一団を引き連れ、どやどやとやって来た。それを見た男達は、にわかに卑屈な愛想笑いを浮かべ、それぞれの収穫を手にそそくさと去って行った。

 一団の一人が、銀縁ぎんぶち眼鏡の男に話し掛けた。

「主任、宜しいんですか? あんなハイエナみたいな連中をいつまでものさばらせておいて」

 主任は、眼鏡のフレームを触りながら言う。

「問題ないでしょう。むしろ我々の手間が省けるというものです。着衣を剥いでくれて、尚且つその始末もしてくれるんですからね」

 一団の軽い笑いで場が包まれた。

「では、連中に負けないよう迅速に作業に当たって下さい。いつものように時間との勝負です」

 主任の一声で全員がてきぱきと動き出した。『女の子』の肌にへばり付いた桜の花弁をピンセットで一枚一枚、除去する者、かたわらにブルーシートを広げる者、そこに持参の大きなトランクケースを置き、中から取り出した幾つもの器具を丁寧に並べて行く者、主任は『女の子』の眼にペンライトの光を当て、しきりに覗き込んでいる。

「誰か眼球を摘出して下さい。私は胸部から腹部に掛けて切開します」

 主任の指示が出るや否や、しかるべき役目を担った部下が惑う事なく対応する。

 やっぱり煙草を吸わない人の肺は良い色だね、胃袋が空っぽだ、ダイエット中だったのかな、処女膜を確認、未使用の美品です――などと会話が交わされる間も『彼女』の周りに出来た血溜まりは不定形な模様を描き続けている。

「採血の方もしっかりお願いします。一滴たりとも無駄にしてはいけません」

 主任の叱咤に一同がはきはきと応える。『女の子』の中から取り出された数々の臓器はただちにクーラーボックスに入れられ、団員の手で次々と何処いずこへと運ばれて行く。

「主任、頭蓋は確保しますか? 損傷が激しいのですが」

「損傷の程度に関わらず骨の欠片かけらまで全て確保して下さい」

「主任、断裂した筋繊維は如何いかが致しましょう」

「確保です。それと皮膚も可能な限り剥がして下さい。使えるものは全て頂戴します」

 最早『女の子』は原型をとどめておらず、元は人間だった物、と呼んでも差し支えない残骸になっていた。

「見て下さい、主任。キューティクルも綺麗な黒髪です。これも採取の方向で宜しいでしょうか?」

「勿論です」

 隅の方で作業をしている団員達が、ひそひそ話をしている。

「掃除屋じゃあるまいし、こんなに何から何まで採取しなくたって」

「主任が研究の名目で採取した物を横流ししてるって噂は……」

「砕けた骨はボタンに加工出来るし、髪の切れ端も筆先に使えるしな」

「そうでなけりゃ、歯だの爪だのまで……」

「迅速にお願いしますよっ」

 主任の一喝に、団員の背筋が一斉に伸びた。

「主任、採取が完了しましたっ」

「ご苦労様。撤収しましょう」

 花嵐のようにやって来た白い一団は、本物の花嵐と共に去って行った。

 アスファルトに描かれたアメーバの如き様相の黒ずみの中に、『女の子』の痕跡が僅かに残っていた。そこに、桜の花弁が止め処なく降り注ぐ。

 間もなく、次の来訪者が現れた。手拭いを被った老婆だった。ぼそぼそと念仏のようなものを唱えながら、血糊に張り付いた髪の毛を慎重に剥がして回り、肩に掛けた頭陀袋ずたぶくろに仕舞う。

 程なく、よれよれのシャツにだぼだぼのズボン、手に紙袋を提げた髭面ひげづらの老人がやって来て、深々と会釈をしながら祈るような口調で老婆に言った。

「おこぼれを頂戴致します……」

 老婆は深々と会釈を返すと、また黙々と髪を拾いを始める。

 老人は四つん這いになると、衣服が汚れるのも気にせず這い回り、わずかな骨や歯の欠片かけらつまみ上げ、紙袋に入れて行く。時折、間違えて桜の花弁をつまんでしまうが、構わず紙袋に入れるのだった。

 互いに互いの存在を肯定も否定もしない。おのれの取り分は確実に確保しつつ、先方の取り分までは手を付けない、といった不文律の振る舞いだった。

 そこへ、泥鰌どじょう髭を生やした赤ら顔の男が割って入って来た。男は二人の老人を鋭く一瞥する。弱い者が更に弱い者に対して虚勢を張る時に見せる痛々しい眼差しだった。男は、波紋にひるむ魚のような老人達に優越の笑みを向けると、脂で薄汚れた屋号入りの前掛けで手を拭い、取り残されたほんの僅かな肉片や脳味噌を無造作に塵取りにき入れた。優越の思いはあっても、決して老人達の取り分までは犯さない。男はもう弱者には目もくれず、さっさと消えてしまった。

 いつしか夕闇が迫り、一帯を支配していた日陰もその領地を夜へと明け渡していた。

 遂に来訪者は絶えてしまった。残っているのは、乾き始めた体液の沁みと、そこに集まる何匹かの蝿と、そして『彼女』だけになってしまった。

『女の子』は幸福だった。偶々たまたま屋上の鍵が開いていた為、思惑通り身を投じて即死出来た。その上、単なる物質に立ち戻り、微塵みじんに解体され、正に血肉としてこの世の一部分として限界まで活用され、遍在し続けられるのだ。

『彼女』は堪らなく寂しくなり、孤独の中にちぢこまった。泣きたくても、もう涙を流す事は出来ない。触れようとした桜の花弁も、素気なく指先を擦り抜けて行ってしまう。

 完全に肉体を失った『彼女』は、自分がもう転用も再利用も廃棄の対象にもならないあくた以下の存在になってしまった事を自覚せざるを得なかった。

『彼女』は、ほんの半時はんとき前まで『女の子』と一心同体だった頃の記憶だけをはなむけ に、天空へと昇華される夢を見続けるのだった。

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