第23話 たゆたうは水面の姿だけにあらず その2
この男は、いつも想定外の行動をしてくる。
目の前で起こった出来事に、里希は驚きと呆れが混じった声で彼の名を呼んだ。
「松永さん。あなた、何してんのさ」
水の中で座り込んだまま、松永は里希を見上げてくる。
「どうです? 俺の方が『水も滴るいい男』になったでしょう?」
「知らないよ、そんなこと。僕はその行動の意図を聞きたいだけ」
「意図ですか? そりゃ里希様が、一人で濡れてるのが寂しそうだったからですけど?」
『寂しそう』という松永からの言葉に、里希は眉をひそめる。
その態度に動ずることなく、彼は柔らかな表情で里希を見つめてきた。
「今日、ここにあなたが来た。これは
黙ったまま、里希は彼をにらみつける。
そう、『二人』だ。
目の前の男ともう一人、斉藤の同僚であった
彼もまた、松永と同様に『
五年前の今日、彼らに行ったことを決して忘れぬようにと。
己に刻み付けるために、ここに来た行動を悟られている。
そんな心の揺れを気づかれまいと、「何さ、それ」と淡々と言葉を返していく。
「里希様。あなたは自分のことを、童話のアヒルのように醜い、
松永はゆっくりと立ち上がる。
「アヒルの正体は白鳥。そして最後にその白鳥は、仲間の元にたどり着くんです。そりゃ俺たちは、立派な白鳥とは言い難いでしょうけど」
「……確かにね。偽の名前に偽の姿。あなた達は、とてもお綺麗と言えるものではない」
自分の口から出るのは、彼の言葉を、存在を否定するものばかり。
それでも彼は、その顔に穏やかさを残したまま続けるのだ。
「立派でなくても、お綺麗でなくても。自分たち二人は、あなたに全てを捧げ、あなたのそばにいることを、これからも続けていくでしょう」
目をそらすことなく。
彼は自分へと一歩一歩ちかづき、そう伝えてくるのだ。
後ろめたさから、目をそらしたくなる気持ち。
それを抑え、かろうじて里希は言葉を出す。
「……馬鹿じゃないの。僕は、あなた達の人生を狂わせた人間だっていうのに」
感情のやり場がわからず、普段以上に冷ややかな声が出てしまう。
そんな自分の前で、彼の足は止まった。
「そうですね。馬鹿というか、馬鹿正直ですかねぇ」
困り顔ながらも、口元には笑みを浮かべ彼は言う。
未来を奪った相手を前に、この男はどうしてこんな顔が出来るのだ。
そんな自分の思いなど知らず、松永は里希をまっすぐに見据える。
「だからね、聞いてくれます? 馬鹿正直な男の話を」
「確かに生き方は変わったことでしょう。閉ざした、失った未来もあったでしょう」
あるべきだった未来を否定する言葉。
だがどうしたことか、その声はとても力強い。
「だからこそ、生まれた未来に自分はいます。里希様と、そして浜尾さんと立っているこの今が。私が生きたいと思える世界であり、存在できる場所なのです」
こちらの心の都合を、考えようとせずに放たれた言葉。
それに対し、とっさに声を出すことが出来ない。
いつもこの男は、強く、まっすぐに自分に思いをぶつけてくるのだ。
ごまかすようにフンと鼻を鳴らし、ぷいと横を向いてしまう。
そんな自分を、松永はうれしそうに見つめてくるではないか。
「……やっぱり、あなたはものすごく馬鹿だと思う」
嫌味でしかない言葉にも、彼は動ずることはない。
「それで結構ですよ。俺としてはその馬鹿のおかげで今、とてもいいお顔を見せていただけましたから。いやぁ、満足だ……」
言葉を遮るように、里希は無表情で持っていた松永のスマホと財布を湖へと投げつける。
すぐさまもう一方の手のひらに風の発動を集め、手首をすくい上げるように振りぬいた。
起こした風により、松永の所持品達が湖のかなり遠くの方で着水するのが二人の目に映る。
「……うそーん! 里希様ぁ!」
叫びながら、再び湖へと入っていく松永をしばらく眺め、里希はくるりと背を向けた。
もと来た道へと進んだ先には、体格のいい男が自分を待ち構えるように立っている。
松永と同様に、スーツを身にまとった
「里希様、着替えを準備してあります。どうぞこちらへ」
「ありがと、浜尾さん。随分としっかりとした用意がしてあるんだね」
必死に自分のスマホと財布を探している同僚を見つめながら、浜尾はくすりと笑う。
「松永が、きっと必要になるから準備しておけと」
浜尾の言葉に、少しむっとしながら里希は答える。
「松永さんて、本当に食えない人。ということはどうせ、僕が投げたあのスマホだって偽物なんでしょ」
「……いいえ、あれは本物ですよ。まぁ、さすがにバックアップはとってあるとは思いますが」
笑みを残したまま、浜尾は続ける。
「彼は『偽物なんて使わない。そんなことをしたら、里希様に自分の思いと本気が伝わらない』と言っていましたよ。その気持ちだけでも受け取ってくれたら、私は嬉しく思います」
松永から語られる言葉に、心が再び揺らいでしまう。
だが同時に知るのは、あの男がここまでの行動を全て予測していたということ。
彼の思い通りに動いていたことに、怒りの感情が芽生えてくる。
その松永といえば、目的のものを見つけたようで、こちらへと戻りつつあった。
陸へと上がった彼は、水を含んだ服の重さもあり、立ち上がることすらできないでいる。
両手と膝を地につけ、ぜいぜいと肩で息をしている姿は実にみっともない。
やがて松永は立ち上がると、こちらへと向かってくる。
だが、情けない表情をたたえた上に、歩く様子はよろよろと頼りない。
その姿と、真顔に戻った浜尾からの「あいつはもう少し、鍛えておきます」という声に、ぶつけようとした怒りが次第に消えていくのを感じる。
「そうだね。ぜひ、そうしておいて」
「はい、承りました」
ようやくやってきた松永が、スマホをかざしながら情けない声を出す。
「里希様、これって俺のせいではないですよね? 買い替えの費用は経費から出し……」
「却下」
「でーすーよーね! わかってましたけどー! うぅ、浜尾さん。何とか言ってくださいよ~」
すがるように見つめられた浜尾は、表情を変えることなく淡々と口を開く。
「お前の着替えの手配は聞いていなかった。風邪をひかずに帰れるといいな」
「でーすーよー、……って、えぇっ! 俺、このまんまなの?」
信じられないといった様子で、浜尾を見る松永から視線を外し、里希は空を見上げていく。
青く広がりゆく空には、いくつかのすじ雲が浮かんでいる。
鳥のような姿に見えるその雲たちは、同じ方向を向き、さらなる高みへと飛び立つかのようだ。
一条という場所にいる以上、綺麗ではいられず、正しき道を歩むことは出来ない。
それでも自分はこれからも、進まねばならないのだ。
――だが、悪くはない。
一人ではないのだから。
後ろにいる二人には、決して口に出すことのない思い。
心に留めたそれを静かに胸にしまうと、小さく笑みをたたえ里希は歩き出すのだった。
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