第11話 纏うは礼服 惑うは心 その8
「
胸元が濡れた自分と違い、彼女は頭上から飲み物を浴びてしまっているのだ。
私の声かけに仁恵さんは小さく笑うと首を横に振る。
「ありがとう。
自分のことよりも相手を思いやる優しい言葉に、ふと自分の親友のことがよぎる。
仁恵さんと
「私も平気です。あの人、私の胸に叩きつけん勢いでドリンクを掛けてきましたね。ああいう時って、顔を狙ってくると思っていましたけど」
自分の顔に触れながら話す私に、仁恵さんが「あぁ」と呟く。
「
口に手を当てくすくすと笑いながら、仁恵さんは私を見つめてくる。
「為代さんは終始『自分のパートナーは一人だけ』と言っておられました。並んだあなたがたを見て、とても二人はお似合いだし、それをきちんと言える為代さんはとても素敵な方だと思いましたよ」
彼女からの言葉に、私の顔はどんどん熱くなっていく。
仁恵さんが、私の顔から胸元へと視線を向け、小さくため息をついた。
「胸元を狙ったのはあなたのコサージュが原因でしょうね。私も本物を見るまでは半信半疑でしたけれど」
その言葉に、私は思わず息をのむ。
「え! 仁恵さんはあのコサージュの意味を知っているのですか?」
思わず大きく上げてしまった声に、彼女は驚きながらも答えてくれる。
「あら? 美里さんはご存じなかったのね。とはいえあまり私も詳しくはないの。これは私を連れて来た男性のうけうりなのだけれど」
視線を上に向け、記憶を辿りながら仁恵さんは語っていく。
「このパーティーの主催者に気に入られた女性にはコサージュが贈られるらしいの。しかもそれは一人だけしか選ばれないらしくて」
「それが今回、私だったということですか。主催者ということはつまりこの下着メーカーの社長さんのことでしょうか」
「うーん、そうなのかしら? ごめんなさい。私、社長さんのお名前くらいしか分からなくて」
申し訳なさそうにしている仁恵さんに、自分も同様だと話を合わせていく。
だが実際は、ここに来る前に観測者から渡された資料で社長の名前と顔は記憶している。
たしか三十代半ばのいかにも野心溢れる実業家といった男性だった。
しかしながら私は、パーティー会場内でこの人物と接触した覚えはない。
それなのにいつどこで彼は私を選ぼうと思ったのだろう。
考え込んだ私に仁恵さんは言葉を続けていく。
「選ばれた女性もさることながら、連れて来た男性はとても誇らしい気持ちで過ごせる。だからお前が選ばれるといいなってパートナーからは言われていたの」
「なるほど、仁恵さんのパートナーは恋人ですか? たしかに自分のパートナーが選ばれたのならば、嬉しいでしょうね」
私の言葉に、仁恵さんは困った顔で首を横へと振った。
「いいえ、私はあくまで人数合わせで来ていただけ。このパーティに参加する男性って、社会的地位の高い方達が多いでしょう? 伊地川さんがこのパーティーでそういった方達とお知り合いになりたかったらしくて」
仁恵さんは目を閉じ、再び小さく息をつく。
「最初は参加をお断りしたのよ。けれども女性の条件に該当するお友達が他にいないということで、私にまた声がかかったの。彼女はあの通り、気が強いでしょう? だから再度お断りをしたのだけれど、『なによ! 私にそんなことをしていいとでも!』って怒鳴られて、大変だった、……なぁ」
苦笑いを浮かべ目を開いた仁恵さんは、まばたきを繰り返している。
そんな彼女に笑顔を返しながらも、私も自分の体に違和感を覚えていた。
どうしたことか、まぶたが重いのだ。
水でも飲んで目を覚ましたほうがいい。
そう考えて立ち上がった私の耳に、怒りを含んだ声が部屋の外から聞こえてきた。
その声に仁恵さんがびくりと反応する。
「……これは、伊地川さんの声? でもどうしてここに?」
外から聞こえる彼女の声はただごとではない。
私は仁恵さんにそのまま座っているように声を掛け、扉へと近づき聞き耳を立てる。
「ふざけないで! 私にこんなことをしていいとで……」
言葉が途切れた後に、何か重いものが倒れた音が聞こえた。
更には驚く私の後ろでも同じような音が響く。
振り返れば、仁恵さんが倒れこんでいるではないか。
慌てて抱き起し声をかけるが、彼女からの反応はない。
部屋に電話はないかと見渡すが、どうやら設置はされていないようだ。
先程の廊下の物音は気になるが、彼女をこのまま放っておくわけにもいかない。
助けを呼ぶために、やむなく私は扉を開け廊下へと進み出る。
「あら、美里様。もう少しお部屋で待っていて欲しかったのですが」
掛けられた声の方へと視線を向けた私は、その先の光景に言葉を失う。
見覚えのあるイエローのドレスの女性が床に倒れていたからだ。
「い、伊地川さん。なんで……」
倒れた彼女の前には、平然とした様子の下久良さんが立っている。
「少し予定より早いですが、まぁいいでしょう。美里様、こちらに来ていただけますか?」
下久良さんは笑顔で私にそう呼びかける。
明らかに異常な状況に固まっていた私は、その声で我に返ると彼女に背を向け走り出そうとした。
だが前に出したはずの足はもつれ、その場に倒れ込んでしまう。
「まだそこまで動けたなんて。どうやらあなたは、他の人に比べて薬の効きが悪いようですね」
下久良さんの言葉で、仁恵さんと私に睡魔が襲っていたことをようやく理解する。
おそらくは花の香りにまぎれ、眠りに誘う薬が部屋に充満していたのだ。
だからあの部屋へと案内をした女性スタッフは、自分がまきこまれないようにと、あわただしく部屋を出ていったのだろう。
「でもよかった。こうして私の元から離れないでいてくれたもの。ようこそ、あなたこそが今回の『
声は聞こえるのだ。
それなのに体は、私の逃げようとする行動を放棄してしまっている。
頬に触れる床の冷たさを感じながら、私は意識を失った。
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