心理学概論 期末試験(持込不可)

夜々予肆

服、刺青、車、異世界人、アンドロイド、ヤギ。

 うだるような暑さが続く7月29日の午前11時、仙台市にある仙泉せんせん大学の301講義室では「心理学概論」の期末試験が行われようとしていた。


「それでは、試験開始ぁ!!」


 担当教員で試験監督である犬木村優香いぬきむらゆうか講師の威勢のいい声が講義室に響く。その瞬間、紙を捲る音やシャーペンで文字を書き込む音が一斉に聞こえ出す。


 早速最前列の学生が手元にある大量の資料や書籍とにらめっこを始めた。犬木村はもっと内容を頭に入れておきなさいよとその学生を見て笑いを堪えるのに必死だった。もう二度と去年のように持込可にして大惨事を引き起こさないために、今年の期末試験はこのように持込不可にしてやった。難易度は別に優しくしている訳ではないので落第者が続出してしまうかもしれないが知った事ではない。もしかしたらまた学務課から適切な授業を行っているのか何やらと説教を受けてしまうかもしれないがそんな事はどうでもいい!! ハッハハハ!! 苦しめもがけ泣きわめけ! 犬木村は去年より酒を飲む量が増えていた。


 いけないいけない。今は自分がやるべき事をやらないと。犬木村はそう思い直し、名簿と座席表を手に講義室を歩き始めた。まずやらなければならないのは学生の照合だ。


 そうして犬木村が学生を1人ずつ確認しながら歩いていると「エビングハウスの忘却曲線」「知覚の恒常性」「ガルシア効果」「アフォーダンス」「フリーライダー効果」「リーダーシップの幻想論」などという見慣れた単語が主に前方や袖にびっしりと書かれているワンピースを着た女子学生が目に飛び込んできた。


「鳥屋敷さん。何なの、その服は……」


 犬木村は座席表を見ながら、鳥屋敷とりやしき麻里子まりこというらしい長めの髪を明るい茶色に染めている女子学生に声を掛けた。授業では見たこと――あるかどうかはちょっとよくわからない。犬木村は最近女子学生の見分けがつかなくなってきていた。鳥屋敷は目の前に立っている犬木村を見ると、小さく口を開いた。


「自分で作りました。私、高校時代は手芸部だったんですよ」

「そう……。ねぇ、試験でこんな服着てもいいって本気で思ってるの?」

「え? 別にいいんじゃないですか? だって服装の指定は無かったじゃないですか」

「確かに、そうだけども……これは不正よ」

「それはちょっとズルくないですか? 試験前には何も言ってこなかったのに、試験本番になったらそういう事言うって。おかしいですよ」

「いやいや。もう大学生なんだしこういう事はダメだろうなって分別つけようよ」

「もう大学生って……今時そういう括り方よくないですよ。大学生って一概に言っても人それぞれですよね? それに私、この服を作るためにわざわざ2日徹夜してるんですよ? それなのに不正だと言うんですか?」

「あなたもそういう事言うのね……。ていうかそんな事やるくらいならその労力を試験勉強に注ぎなさいよ」

「試験勉強なんてやりたくないに決まってるじゃないですか。あの……もういいですよね?」

「よくない。今すぐ脱ぎなさい。でなければ直ちに出て行きなさい」

「い、今のって! セクハラとアカハラですよね! 学務課に訴えます!」

「え、あ、いや、あの……すみませんでした……」


 学務課なんてもうどうでもいいと思っていたが、いざこういう事を言われるとそんな覚悟は出来ていなかったと犬木村は思ったので退散した。だが犬木村は気を取り直して照合を続けた。すると「ジョハリの窓」「衡平理論」「ブーメラン効果」「アンダーマイニング効果」「確証バイアス」などというまたもや見覚えのある単語が大量に目に入ってきた。しかし犬木村はその単語が書かれている場所を見て目を疑った。


「えっと、馬神林くん……?」


 馬神林うまかみばやし三太さんたという名前であるらしい前髪で目が隠れかけている学生に犬木村は声を掛けた。馬神林は犬木村に、単語が書かれている場所――自身の両腕を見せながら口を開いた。


「ああこれ? 彫ったんです」

「え?」

「だから、今日の試験のために心理学の単語の刺青入れたんです。痛いっちゃ痛かったですけど、イメージしてた程では無かったですね」

「あ、いや、え?」

「持込不可でしょ? だったら自分の身体にこうやって刻むしか無いじゃないですか」

「え、あ、あ、うん……? あの、えっと、この試験のために、こんな刺青入れちゃったの?」

「だって、単位落とす訳にはいかないでしょ。落とさないためにはこうでもしないと」


 1億歩ほど譲って持込不可であるのなら自分の身体にどうこうすればいいというのは理解できる。だがなぜこんな試験のためにここまでするのか犬木村は理解できなかった。


「いやーでも、ここまでびっしりだと消すのも大変かもですねー。就活のときとかどうしよう」

「あ、うん……なんか、ごめんね……」

「え? なんで先生が謝るんですか?」


 犬木村は何も見なかったと思うことにして立ち去った。そうでなければとんでもなく罪悪感を感じてしまいそうだからだ。犬木村はただひたすらに、座席表に目を向けた。


「えっと、あなたは……?」


 そうしていると、空席に座っている人を見つけたので犬木村は声を掛けた。派手な黄緑色の髪をしており、まるでゲームのキャラクターのような装飾が多い服を着ている幼い少女だった。その少女は犬木村を見て天真爛漫な笑みを浮かべながら口を開いた。


「ベルはね、怜雄の友達のベルナマドベルレット=サニーミストマジック! あ! こことは違う異世界から来たの!」

「出る生でドベるベッド?」

「ベルナマドベルレット!」

「照山のヘルヘイム?」

「全然ちがーう!」

「ご、ごめんね。あの、無小林くん?」

「何だ」

「今年は持込不可だよ?」


 犬木村は隣に座っている無小林むこばやし怜雄れおという男子学生に声を掛けた。彼は去年もこの授業を履修しており、試験には異世界人を持ち込んでいたが、追試であえなく単位を落としたため今年も再履修していた。


「今年が持込不可な事くらい俺も知っているさ。今年は何も持ち込んでいない」

「いや、でも、この子は……」

「俺はベルを持ち込んだんじゃない。

「え?」

「これだから相変わらず無知な人間は困るんだ。彼女は今、異世界からこの世界のこの場所に転移してきたんだ」

「うん! ベルね、こっちの世界とあっちの世界をね、自由に行き来出来るの!」


 ベルナマドベルレットはそういうと元気よく指を鳴らした。すると目の前の空間が円形に歪み出し、やがて穴のようなものが出現した。


「ここから世界を行き来できるよ!」

「お前も一度行ってみるか? が出来るぞ?」

「え、遠慮します……」


 犬木村は撤退した。もう彼らとこれ以上関わってはいけない。理屈ではない、


 照合はまだ終わっていないがとりあえず一旦黒板の前まで戻って深呼吸した。そうして落ち着いてから、それぞれの席に座っている学生たちを眺めてみたが、他に怪しい挙動をしている学生は見当たらなかった。


 ふぅ。これで一安心――かと思ったその矢先だった。


『イエーーーーーーーーーーーーーイ! ウェイウェイウェーーーーイ!』


 外からエンジン音と陽気なダンスミュージックがブォンブォンドゥンドゥンドゥンと重低音を激しく主張してきた。今は試験中なのに一体何だ。もしかして他の学生の嫌がらせか? と思ったそのときだった。


『イェイイェイイェイイェイ! フラストレーション――攻撃仮説! 攻撃の強さはフラストレーションの強さに比例! 攻撃の抑制は予想される罰とか失敗に関連!』

「な、何これは!」

『スキーマっていうのは! 抽象的で一般的な知識のまとまり!』


 明らかに心理学用語を解説している歌詞であった。犬木村は広い301講義室にもはっきりと聞こえるそれを聞きながらそれに負けじと叫んだ。

 

「この歌を流しているのは一体誰ですか!」


 しかし虚しく反応する者は誰もいなかった。誰もが薄く笑みを浮かべながらペンを解答用紙に走らせていた。


「あなたですか!」


 犬木村は声を荒げたまま、最前列に座っている狼太田郁郎おおかみおおたいくろうという男子学生に詰め寄った。狼太田は明らかに固い動きで犬木村と目を合わせた。これは怪しいと犬木村は思った。


「ああ、私じゃない」


 声もまるで電子音声か何かのように抑揚が無く棒読みだ。間違いない。


「何か知ってるのね!」

「そして、あなたは知らない」

「私は知らないからあなたに聞いてるの!」

「なんてことだ。すごい」

「すごくない!」


 動揺しているにしても、明らかにおかしい。犬木村はそう思い、狼太田を真っすぐに見つめた。すると、彼の瞳になにか違和感を感じた。形がおかしすぎる。そう、まるでこれはカメラのようだ。流れ続ける騒がしい曲の中でも何とか耳に意識を集中させてみると、モーターの駆動音のようなものもかすかに聞こえてきた。


「あなた、一体何なの!?」

「この試験のために血肉を捨てた」

「え?」

「だからこの試験を突破するために、私は自分の体を機械に変えた」

「ええ!?」

「人間でなくなっても、人としての心を失っても、自分の手柄にならなければならない」

「いやいやいや! ダメでしょ! 心理学部が人の心失っちゃ!」

「それは本当かもしれない。しかし、そうではないかもしれない」

「明らかにそうだよ!」

「しかし、私はこう言います。私じゃない」

「どういう事!?」

「この曲を弾けとは言ってない」

「そ、そっか……ごめんね」

「とにかく、犬木村先生、この状況を何とかしなくてはいけませんか」

「い、いけませんね! 私、ちょっと行ってくる!」

「おお。これは私に任せて。あらゆる角度から人間を見ることができる」

「うん、任せた!」


 犬木村は講義室を飛び出し、外で心理学ミュージックを流している車の方へと一目散に向かった。


「ちょっと!」

「うわ、やっべ! やっべ!」

「バレちゃっぱ。ぴゃー」


 犬木村は爆音を奏でている派手な赤色のSUVに耳を痛くしながら叫んだ。すると一瞬で音楽が鳴り止んだ。


「何なの一体これは!」

「あ、えっと。これは、これはぁ……」


 運転席に座っている金髪でサングラスの学生らしき男性が言葉に詰まりながら、ぽりぽりと頬を掻いていた。助手席にはニット帽で丸い眼鏡を掛けた学生らしき男性が座っている。


「許してくだぴぃ。何でもしますぴ」


 ニット帽の学生が両手を合わせながらそう言ってきた。だが変な語尾のため全く誠意が感じられなかった。


「何でもするってのはマズくねえか? マズくねえ?」

「そうぴね。何でもする訳じゃないぴ」

「という訳っすよ先生、先生。何でもしないけど許して下さい。俺らはただ、可愛い後輩に頼まれただけなんだよ」

「ぴー達の魂込めたピュージックでピーパイ達を救いたかっただけだぴ」

「これは明らかにやり過ぎよ!」

「そ、そうすね。すんません。マジすんません」

「何でもする訳じゃないけど何もしない訳じゃないぴ。だから見逃してぴ」


 犬木村はその言葉を聞いて悩んだ。彼らをこのまま突き出すか、それとも――


「わかった。なら、私を連れてって」


 逡巡の末、犬木村は彼らにそう言った。


               🚙


「先生、着いたっすけど、何でこんな場所に? 牧場に?」

「ぴ?」

「ちょっと待ってて!」


               🐐


 試験終了まで残り5分を切ろうかとした時、犬木村は301講義室へと戻ってきた。1匹の、ヤギを連れて。


「行けぇメトロ! ここにある紙は全部あなたのエサだああ!」

「メェェェェェェェェェェェェェ!」


 犬木村は黒板前で勢いよく叫ぶと、メトロという名前のヤギがメェーと応え、手当たり次第に紙を貪り始める。実はこんな事もあとうかと今年は全て自然由来の素材で問題用紙と解答用紙を作成していたのだ!


「や、やめてええええ!」

「ああ……せっかく彫ったのに……」

「なんてことだ……なんてことだ……ああああああああああ……」

「れおー! しっかりしてー!」

「機械がヤギに負けるなんて。おい。食べ過ぎ。いい友達になるよ」


 301講義室はたった1匹の育ち盛りのヤギにより阿鼻叫喚に包まれた。


 その後全員が追試対象となった。追試は持込不可であるのは当然として、衣服や身体に何かを書き込んだりしたりするなどの行為が禁止になり、試験途中で何かを呼び出したり召喚したりする事も禁止になった。


 犬木村優香は学務課と教授会で怒られた。少し泣いた。


 メトロは伝説のヤギとして、東北地方に語り継がれた。

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