ある冬の夜

翡翠

ある冬の夜

 やけに記憶に残っている曲のワンフレーズが、不意に頭の中でぐるぐるとリピートされることがある。好きな曲や思い出深い曲ならまだ分かるが、ただ一度聴いただけの曲となると話は別だ。よほど印象的なら覚えていても無理はないが、それにしたって脳内で反芻するほどのものだろうか。それとも自覚がないだけで、意外と気に入っていたりするのか。

 そんなことを考えるのは、今まさに俺の頭の中で、ある人の言葉がリピートされているからだ。

『ありがとう。本当に』

 そう言って微笑んだ彼の穏やかな声が、俺の脳内に流れている。確かに衝撃的な出来事ではあったが、無意識のうちに再生されるのはいつもここだけ。壊れたラジオみたいに、この言葉だけが響いている。



 彼と出会ったのは四年前、生まれて初めて雪の降る街で過ごした冬のことだった。会社からの帰り道、駅を出たところで足を滑らせて転び、尾てい骨を強かに打った。冷えきった風と視線に滅多刺しにされた俺に向かって、手を差し出してくれたのが彼だった。控えめに笑われているのがなんとなく悔しくて、どうせならもっと笑ってくださいよ、なんて口を尖らせて、俺は彼の冷えきった手を取った。礼を言ってその場を離れた時は、彼とはそれっきりだろうと思っていた。ところが、だ。

「あれ、もしかしてこの前の……」

「ん? ……あぁ! 先日助けて下さった方!」

 三日後に同じ場所で再会した。前は焦っていたせいもあってあまり相手の顔をよく見ていなかったが、言われてみればこの人だったなと思う。

 助けてもらった身であることは重々承知しているが、正直に言って「普通の人」というのが第一印象だった。暗いグレーのコートに紺のマフラー。黒いスラックス、黒い冬靴。黒縁メガネに、無難に整えられた黒髪。年の頃は二十代後半から三十代といったところか。

「お一人ですか?」

「えぇ、見ての通りです」

「僕もです」

 俺は一体何を訊かれているのだろうか。そう心の中で首をかしげていると、言いにくそうな表情で彼が言葉を続けた。

「あの……良かったら、ここで少し話していきませんか?」

「ここで、ですか?」

 ほとんど初対面も同然の俺に、突然何を言い出すのか。驚きはしたが、別に抵抗はなかった。悪い人ではなさそうだし、話すこと自体は問題ない。ただ、俺はまだこの人間に挑戦するかのような寒さに慣れていない。だからできれば、一刻も早く屋内に行きたい。

「折角ならどっか食べに行きましょうよ。ここ寒いですし」

 そう返すと、彼は申し訳なさそうに眉を下げて、今にも泣きそうな目で、それでも笑って言った。

「あ、いや、えっと……そうですよね。すみません、忘れてください」

 そんなに知らない男と食事をするのが嫌なのだろうか。そのわりに話そうと提案してくるあたり、よく分からない人だ。そんな俺の心を読むかのように、彼は慌てて付け加えた。

「あ、嫌とかじゃないんですよ。むしろ嬉しいくらいです。ただ……どうしても、ここから動くわけにいかないんです」

 すみません、無かったことにしてくださいと繰り返す彼が不憫に思えてきて、俺は首を縦に振ることにした。なぜ動くわけにいかないのかまでは訊かなかった。

「分かりました、お付き合いします」

「え、いやそんな……悪いですよ、寒いの我慢してまで付き合わせちゃ」

「平気ですよ、いま良いこと思い付いたんで。ちょっとだけ待っててもらって良いですか?」

「それは構いませんが……」

「じゃ、すぐ戻りますね」

「え、あ、」

 すぐ近くに建つコンビニに向かって、俺は彼の返事を待たずに歩きだした。暖かいコーヒーとココア、肉まんを二つ購入して戻る。

「お待たせしました」

「すみません、本当に。僕が変なこと言ったばっかりに……」

「良いんですって。折角ですから気持ちよく喋りましょうよ。これ、良かったらお好きな方どうぞ。俺どっちでも良いんで」

 ココアとコーヒーを袋から取り出して見せるが、彼の表情は暗いままだ。

「……すみません、僕、牛乳が駄目でして。貰っても飲めないの勿体ないので……」

「あ、そうか。牛乳ってアレルギーあるし、苦手な人も多いですもんね。すみません、無神経でした」

「あ、いえ。こちらこそ買ってきていただいたのにすみません。お気持ちだけでも、ありがとうございます」

 立ちっぱなしもなんだからと、近くのベンチに二人並んで腰掛けた。彼の名前は尾根優多というそうだ。二十八歳らしいが、なんとこれは俺と同い年だ。親近感を持ってもらえたのか、少しずつ俺の話に笑ってくれるようになった。敬語が取れるのも打ち解けるのも、早い方だったと思う。

「へぇ、優多プログラミングしてたんだ!」

「うん。前は、ね」

「今は? 何してるの?」

「今……は、何もしてない、かな」

「あれ、意外。仕事帰りかと思った」

「ははは。まぁ……スーツ着てたらそう見えるよね」

 なんてことのない普通の会話だが、彼の纏う柔らかい雰囲気のおかげか、ものすごく平穏な時間が流れているような気がして楽しかった。ただなぜか、周囲からの視線がやけに痛いのが気になった。ベンチでスーツ姿の男が二人駄弁っているのが、そんなにおかしいか? 確かにこの寒空の下でずっと座っているのだから、珍しくはあるだろうが……

「涼はどんな仕事してるの?」

「んー、某食品メーカーの商品開発」

「え、すごい!」

「もしかしたら優多が晩飯に食べようとしてるやつかもな~」

 途端、彼がはっとしたような顔をした。何か変なことでも言っただろうか。

「……優多?」

「え……あ、いや……今日の夕飯、考えてなかったな~って」

「なんだそういうことか。おどかすなよな、俺なんか変なこと言っちゃったのかと思ったわ」

「ごめんごめん」

 笑う俺につられるように彼も笑う。でもなんとなく、今のは嘘だろうと思った。さっきだってそうだ。現在の仕事を訊いたときの歯切れの悪さ、あれはきっと何か言いにくいことがあるのだろう。とはいえ初対面の俺がそこまで踏み入るのもどうかと思う。だから、気付かないふりをした。

 学生時代にハマっていたゲームとか、流行っていた音楽の話で盛り上がっているうち、あっという間に時間は過ぎた。気付けば寒さもそこまで感じなくなっている。話して笑って体が暖まったのか、それとも冷えきったのか。

 不意に優多の顔から笑顔が消える。目元が僅かに光る。

「ねぇ、涼」

「ん?」

「ありがとね、突拍子もない誘いに付き合ってくれて」

「なんだまたか。良いって、俺もめちゃくちゃ楽しんでるし」

 努めて明るい声を絞り出す。少し震えてしまったのは、やっぱり体が冷えきったのかな、なんて。

「もっと早く会えてればな……」

 ドキっとした。嫌な動悸だ。なんて返すのが正解なのか俺には分からなくて、咄嗟には言葉が出なかった。だけど、どうしても放っておくべきじゃないと思った。なんとなくだが、聞かなきゃいけないような気がした。

「なぁ、優多──」

 お前は何を隠しているんだ。何を背負ってきたんだ。そう訊きたかった。だけど、優多の方が早かった。

「ありがとう。本当に」

 それは泣きそうな、だけど救われたような笑顔だった。どこか悔しそうで、それでも嬉しそうな笑顔だった。絶対に悲しい顔をさせると分かっている質問を、今あえてぶつけるのも躊躇われて、俺は再び言葉に詰まった。その時だった。

「ねぇおにいさん」

「ん?」

「こら、ミツヤ!」

 幼稚園児か、あるいは小学校低学年くらいの少年がパタパタと駆けてきた。慌てて止めに入る母親の、妙にひきつった顔を見なかったことにした。

「あぁ、大丈夫ですよ。どうしたボク?」

 笑顔で少年と目を合わせる。子どもと話すのは嫌いじゃない。優多がどうかは分からないが、別に少しくらい相手しても構わないだろうと思った。今思えば、聞かなければ良かった、のかもしれない。

 次の瞬間、少年は怪訝そうな目でこう言い放ったのだ。

「おにいさん、だれとおはなししてるの?」

「……は?」

 何を言っているんだ、この子は。

「誰って、この──」

 優多の方を指さして、隣に目をやる。そこには驚くような、困ったような優多の顔が──あるはずだった。

「な、んで…………」

 喉が狭くなったのが自分でも分かった。なんで、しか出てこなくて、浅い呼吸が苦しくて。母親が何か言って、少年を連れて足早に遠ざかる。だけどそんなことを気にする余裕なんてありはしなかった。目の前に広がる光景の処理が追い付かない。なんで……


 なんで、誰もいないんだ。


 慌てて手袋を取り、ベンチに手を当てる。伝わってくるのは、木材の無機質な冷たさだけ。足元に目をやる。俺の冬靴の左側に見えるのは、猫か何かの足跡だけ……



 あの日どうやって家に帰ったのかは記憶にない。近くに住む友人に電話を掛けた所までは覚えている。彼の車に乗ったような気がするから、わざわざ駅まで来てくれたのかもしれない。

 俺が今知っているのは、優多と初めて会った後その日のうちに、その駅で人がホームに落ちて亡くなっていたことと、それが二十代の男性だったらしいということだ。

『ありがとう。本当に』

 そして俺が分かっているのは、彼もあの時間を共に楽しんでくれていたはずだということ。それだけだ。

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