黒い傘
翡翠
黒い傘
忘れられたモノたちが並ぶ空間で今、僕だけが息をしている。視界に流れる誰かの思い出が胸をつき、埃のにおいが鼻をさす。こいつらはいつからここにあるのだろう。昨日かもしれないし、先週かもしれない。あるいはもっと前かもしれない。こいつらはいつまでここにあるのだろう。持ち主たちは今、こいつらを捜しているのだろうか。そんなことを考えているうちに、無性に叫びたくなった。あなたの失くしたモノはここにありますよ、ここであなたを待っているモノがあるんですよ。そんな風に叫びたくなった。呼吸を知らないこいつらの代わりに、声を上げてやりたくなった。
「あ、あった」
まぁかく言う僕も、自分の傘を捜しに来ただけなんだけど。なんとなく感傷的になって、ごめんな、なんて呟いてみる。誰がどう見ても、どこにでも売っている傘だ。黒に一本だけ白いラインが入っていて、骨が八本で、柄は木製で。だけど僕にとっては、初めて自分のモノが好きになった、そんな思い出の傘だ。
単純な話だ。僕には三つ上の姉がいる。だから僕の持ち物は、消耗品を除く全てが姉からのお下がりだった。ランドセルは、祖父母が買ってくれた。真っ赤なやつを。その時は別に気にしていなかったから、とにかく新しいランドセルが嬉しかった。年齢が上がるにつれて色が恥ずかしくなってきても、せっかく買ってもらったんだから六年間使いなさい、という母の言葉に従った。中学に上がる時の制服も、当然のようにお下がりだった。文句は言った。喧嘩にまでなったけれど、新しい制服を買ってはもらえなかった。反抗しようにも、ジャージ登校は校則で許されていなかった。部活に入ったら休みが無くなって、私服が要らなくなった。ユニフォームがあるわけでもなかったから、制服とジャージで三年過ごした。身の回りの細かいものは新しいものを買ってくれるようになっていたけれど、母が姉の分と一緒に同じようなものを買ってくるから、ピンクとか黄色とか、そんなのばっかりだった。
高校は意地でも姉と違う所に通ってやろうと思っていた。正直やりたいことなんて無かったけど、無理やり作って親に掛け合った。そこまで言うなら、と首を立てに振ってくれた父の隣で、お姉ちゃんと同じ所に行ってくれたらと思ってたけど仕方ないわね、なんて残念がる母の姿があった。渋々だろうがなんだろうが、許可を取れたことがとにかく嬉しくて、わくわくでいっぱいだった。何がなんでも合格しなきゃと必死に勉強した。この受験に失敗したら、姉と同じ高校に通わされるだろうから。
結果は不合格だった。というより、不戦敗だった。受験日の当日に高熱を出したからだ。案の定インフルエンザだった。この時ほど、「努力は必ず」なんて成功者の言葉を恨んだことはない。自暴自棄になった僕は、食事を持ってきてくれた母に向かってドア越しに全てをぶちまけた。お下がりじゃなくて自分のものが欲しかったこと、違う高校に行きたかったのも本当はやりたいことがあるわけじゃなかったこと、そして──そして、「男になりたかった」こと。
最初はここまで言うつもりじゃなかった。自分のための新しい制服を買ってもらえることになったら、「スラックスの方が格好いい」とでも言うつもりだった。それが叶わなかったら、少なくとも高校卒業までは黙っているつもりでいた。やらかしたと思った時には、バタバタと階段をかけ降りる足音が耳に届いていた。
僕がこの傘を手にしたのは、それから一週間後のことだった。隔離が終わって初めての朝、僕はなかなか部屋を出ることができずにいた。泣き叫びながらのカミングアウト以降、母とは全く顔を合わせてもいないし、父や姉とも会話が無かった。恐らくもう二人も母から全て聞いているのだろうと思ったし、なんならその方が楽だと思った。どうせ隠せないのなら、自分のいないところで伝わっていた方が良い。あれだけの精神的エネルギー量でもう一度、しかも今度は面と向かって話さなきゃいけないなんて、考えただけで泣きそうだった。だけど学校には行かなきゃいけないから、仕方なくコソコソと隠れるようにリビングに降りた。
「……おはよう」
「お、おはようございます……」
スーツ姿で新聞をめくっていた父は、それ以上何も言わなかった。母の姿は無くて、姉は部屋にいるらしかった。沈黙の中で、逃げるようにご飯をかきこんで二階に戻った。洗面所で顔を洗って、歯を磨いて、もうすぐで六年の役目を終える制服に袖を通した。
その時、階下の父から名前を呼ばれた。心臓が跳ねて、あっという間に嫌な汗をかいた。返事をして階段を降りると、狭い玄関の前で父が靴を履いているところだった。
「な、なに……?」
「ん」
「え?」
無言で渡された五百円に戸惑っていると、父は行ってくるとだけ言い残してドアの外に出てしまった。呆然として鍵の閉まる音を聞いていると、姉が二階から降りてきた。
「おはよ、どうしたの? そんな所で突っ立って」
「なんか……お父さんに無言で渡されたんだけど……」
「ふぅん」
僕の手元を覗き込んだ姉は、まるでいたずらっ子のように顔を上げて笑った。
「それでなんか買ってきたら良いじゃん」
「な、なんかって……」
「制服は流石に買えないけど、安い筆箱とかハンカチとかなら買えるでしょ?」
さらっと言うが、僕たち姉妹は今までお小遣いなんて貰ったことがない。そんなものがあるなら、僕はとっくに自分好みのリュックでも手に入れていただろう。
「い、良いのかな、勝手に使って。お母さんに渡しておけって意味だったりとか……」
「無い無い! だったら自分で渡すでしょ。っていうか、お父さんがお母さんに五百円渡すってどんなシチュエーション? 逆でしょ普段」
確かに逆だ。我が家の財布を握っているのは母だから。
「大丈夫だって」
「でも、使って良いなら良いって言わない?」
「そんな事言ったら、渡しといてほしいなら渡しとけって言うでしょ?」
「それは、そうだけど……」
それでも握り締めた硬貨に目を落とし続ける僕に、姉は小さく言った。
「……なんて言ったら良いか分かんなかったんじゃない?」
父がはっきりものを言うタイプでないのはよく知っている。あの人は昔から口下手なのよ、なんて母が懐かしそうに話していたことを思い出す。
「じゃ、私もう出るね。いってきまーす」
「え、あ、うん。いってらっしゃい」
驚くほど普段通りな態度の姉に、この時いくら救われたか分からない。少なくとも姉には拒絶されなかった安堵と同時に、やっぱりこの五百円は使っても大丈夫かもしれないと思った。二階に戻ってリュックを手に取って、母に聞こえるか聞こえないかという大きさで「行ってきます」を言って、そのままいつもより三十分早く家を出た。どんよりとした天気と裏腹に、体が軽くなったような気がしていた。
帰り道、僕は通学路から少し外れた文房具屋に足を伸ばした。目的は筆箱だった。けれど、もうすぐで着くというその時になって急に雨が降り始めた。リュックの中の折り畳み傘を出そうとして手を止めた。体の向きを九十度変えて、近くのスーパーまで走った。紺色無地の傘と悩みに悩んで、二十分かけてこの傘を買った。姉と色違いの水色の傘をリュックに入れたまま、僕は真新しい黒い傘を開いた。タグが付いたままだったけれど、そんなことはどうでもよかった。生まれて初めて、雨が止まなければ良いと思った。
金属製のドアノブに手を掛けて、ゆっくり押し開ける。隅の方で小さくキィと鳴る。
「見つかりました?」
「はい。ありました」
「それは良かった」
見ず知らずの遺失物センターのおじさんが、本当に嬉しそうに目を細めてくれる。彼はいったい、どれだけの「忘れ物」を見てきたのだろう。
「もう忘れないでくださいね」
「は、はい……お手数お掛けしました」
「いえいえ」
「あ、あの」
書類に何かしら記入していたおじさんは、不思議そうな目で顔を上げる。
「はい?」
「……ここにある他のモノも、持ち主に見つけてもらえると良いですね」
ぱちぱちと数回瞬きをして、おじさんはふにゃりと笑う。
「そうですねぇ」
どうかあいつらが忘れ去られませんようにと、祈らずにはいられなかった。
黒い傘 翡翠 @Hisui__
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます