2
暗闇に目が慣れてきた頃だった。
流れてきたのは、音だった。やや高い、鳥の鳴き声のような、澄んだ音。それが響いていた。小川のせせらぎのように。時に滝のように。
ウッドは足に力を込め、床を蹴った。走った。
――ネモが居る。
その実感が、彼に力を
暗闇の中、方角も分からないまま、ウッドは走った。その音が導いてくれる。途中で何度か転んだが構わない。
この先にネモが居る。彼女が待っている。それを思えばどんな傷だって痛みなど無かった。
やがて光が見えた。
「ネモ」
けれどそこに居たのはフロスだけだった。彼女は小さいから見えないのだ。きっとそうに違いない。
ウッドはそう思い込もうとした。しかしフロス以外の気配は感じられない。
「待ちくたびれたぞ」
フロスは口に当てていた小さな白っぽい粘土で出来た器物を離し、穏やかに微笑んだ。どうやら音はその白い器物から出ていたらしい。人が作ったものなのだろうか。
ユウゾウが言った塔の根元という場所は、何とも奇妙なところだった。
突き当たりは空洞が何かで固めて
その卵のような塊からは蜘蛛の巣のように何か太い糸の束のようなものが沢山伸びていて、それらは全て壁に繋がっている。その卵の上で座っていたフロスは立ち上がり、軽快な動作でそこから飛び降りた。
「これは太陽エンジンというものらしい。わしには分からんが、人の知恵の結晶だとユウゾウは言っていたな」
「ネモはどこだ」
随分と清々しい表情をしているフロスに違和感を覚えつつ、ウッドはきつい口調で尋ねる。だがフロスはそれをはぐらかし、声を殺して笑った。
「どこだ。どこへやった」
「彼女はお前のものか?」
「それは違うが」
「なら、わしがどうしようと関係ない。そうだろう」
フロスの目を真っ直ぐにウッドは見返した。
「ネモをどうした?」
「彼女は歌虫だからな」
意味が、分からなかった。だがそんなウッドを尻目にフロスはその手にした白い陶器に口をつけ、小鳥の
「これは楽器というものの一種で笛と呼ぶらしい。人の発明だというが、こんなものでペグ族の歌を真似ようとしたのかね」
フロスはそれを思い切り床に叩き付けた。短い断末魔のような甲高い音を上げ、それは砕けた。その欠片を踏みしめ、フロスは笑う。
「何がおかしい」
「わしは生まれた時から、何故自分はアルタイ族なのだろうかと疑問に思っていた」
そんな風に唐突に語り始めたフロスを前に、ウッドは目の前の彼が一体何を考えているのか、前以上に分からなくなっていた。
「どうやってアルタイ族が生まれるのか、それは未だによく分かっていないらしいがな、それでも生まれた子供は全てちゃんと見つけた誰かや、その里の者たちが育てて大きくする。そういう風に思い込んでいるのだろ?」
「ああ。だって命は大切にしないと……」
「だが、見つけた瞬間に殺されようとした子供がいたとしたら?」
そんなこと考えようと思ったことすら無い。ウッドも、ほかの多くのアルタイ族も、子供を見つければその命を大切にしようとする。アルタイ族にとって命は大事な資源だからだ。大きく育ち、立派な戦士となることを誰もが望む。
「アルタイ族は戦闘の民だ。その本能は常に己の命に向かっている。わしには推測することしか出来ないが、わしを見つけた者は将来わしがそいつを殺してしまうと感じたのかも知れん。だから殺そうとした」
それはウッドが知らないだけで、実はよくある話なのかも知れない。帝国軍時代も、同僚の中には自分の練習相手の中に筋のよさそうな新入りが居れば、そいつに怪我をさせたり、わざと危険な任務につかせたり、中には本当に寝ている隙に殺してしまった者もいた。それは帝国軍だけに起こる特別な現象だと思っていたが、今のフロスの話でそうではなかったのだと気づいた。
「その相手を殺したよ、わしは。どうやったのかは知らない。だが気づけば相手の血が雨となり自分に降り注いでいた。それからわしはずっと、戦うことの意味と生きていることの意味を考え続けてきた。今も考えているよ」
「だが」
ウッドを頭を振り、フロスの話をぶった切る。
「たとえあなたがそういう境遇だったとして、それがネモと何の関係があるというのだ」
「関係か……。それは彼女がペグ族というだけで、充分に条件を満たしているよ。わしが本当のわし自身の生き方を見つけることが出来たのは、あのペグ族の歌声を聴いた瞬間だったのだからな」
ゆっくりとそう語りながら、何故かフロスは背中に持っていた剣を鞘から引き抜いた。音のしないその所作に、ウッドは身の危険を感じ取って、即座に腰から剣を抜き放った。
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