5
「何故、歌を」
それは尋ねても良いことだったのか分からない。けれど、歌を、ペグ族を追い求めたフロスが何故自ら歌おうと思ったのか、それはウッドにとって大変興味深いことだった。
「あの日以来、ずっと耳から離れないのだよ。ペグ族の歌が」
フロスは目元を拭いながら答えてくれた。それはウッドにも同じことが言えた。あの日以来、確かに何度となくペグ族の歌を思い出す。
何故、戦うの?
何故、殺し合うの?
こんなにも、ほら、溢れてる。
世界には、沢山の色があって、
みんな邪魔しないで一緒にいるのに、
あなただけに、ならなくていい。
世界は、ほら、溢れている。
安心して、いいんだよ。
「それが、君の歌か」
言葉を並べただけだが、初めて他者に内容を語った。それは五十歳の頃のウッドが聴いたものなのだが、何故かフロスは『君の歌』という言い方をした。
「わしの歌は、こうだったよ」
そう前置きしてから、フロスは少し恥ずかしげに笑い、もう一度その「彼の歌」を歌った。それはやはりウッドの耳には「歌」には聴こえなかったが、それでも今度は不快になることなく、その低い声の響きを聴いていることが出来た。
憎しみは、永遠に終わらない。
悠久の時を超えて、
何度でもそれは
悲しみ、
恐さ、
悲劇は繰り返され、
また、落ちる、崩れる。
世界は何度も破壊され、
その度に蘇る。
また必ず、求める。
その想いを、
愛も終わらない。
それには沢山の分からない言葉があった。古き時代に使われていた言葉たちだ。今では死語となり、研究者たち以外には忘れ去られてしまっている言葉だ。
その意味を、けれどネモはよく理解したようで、フロスの歌を聴いて彼女は何とも形容しがたい表情で、そっとその小さな手で彼の指を掴んだ。
ウッドはネモをそっと見やった。その口が小さく動く。何だろう。それは何を伝えたいのだろう。
「あ、い?」
ネモが微笑む。
「そう。愛。それが何なのかわしにも分からないが、ずっと大昔に失われてしまった、アルタイ族の大切な宝物だそうだ。そう、研究所の知り合いが話していたよ」
「愛、か」
ウッドにも分からなかった。その古い言葉の意味するものは何なのか。何故それをネモが口で示したのか。
それでも口に出してみると、その言葉はただそれだけで随分と力を持っているように感じた。
――愛。
たったそれだけの言葉なのに、どこかペグ族の歌に近いものがあった。そしてそれが分からないということが凄く悲しいことに思え、ウッドは訳も分からずに目から雫を溢れさせた。それは「涙」と呼ぶのだと、かつてネモに教えてもらった。それが溢れてくる。流れ出る。
「ネモ」
そんなウッドの涙を、彼女はその小さな腕で拭ってくれた。
涙で曇った瞳がぱっと晴れて、そこにネモの笑顔があった。
その瞬間、えも言われぬほどの温もりを感じた。体中に広がる心地よいもののせいか、ウッドは無意識の内に彼女を抱き締めていた。その大きな両手で彼女を包み、自分の頬に寄せる。彼女の小さな心臓が脈打ち、彼女が生きていることを感じる。ただそれだけのことがどうしてこんなにもウッドを充足させてくれるのか。理由は分からなかったが、それでも構わずにウッドは彼女を抱き締めていた。
そんなウッドたちを置いて、フロスは先に斜面を降りてしまった。何故かその背中は怒っているようにも思えたけれど、何故、と考える前にくすくすと笑い出したネモに邪魔されて、考えるまでに至らなかった。
家に戻ると、ウッドはフロスに改めてネモのことを話した。
彼女との出会い、メノの里の長に言われたこと、それで絶望の砂漠を目指していた途中に帝国軍に遭遇して殺されそうになったこと、そこで何かが起こり、気づいた時には砂漠の近くの滅ぼされた里の辺りに居たこと、ネモが話せなくなり、歌えないこと。
彼女が歌えないと知った時、フロスは何度も「本当か?」と訊ねた。ウッドもネモに確認したが、彼女も歌おうとするも何も音は出ずに、やはり歌えなかった。その事実が分かった時のフロスの落胆の具合といったら無かった。
「そうか……歌えないのか。お前はペグ族なのに、歌えないというのか」
何度もそう呟いた後に見せたフロスの顔は、それまでに彼が見せていたどの顔とも異なっていて、まるで別の生き物のように思えるほど酷いものだった。
その日は結局それ以上、フロスは何も語ろうとせず、仕方なくネモと共に早めに就寝した。
夜中に一度目が覚めて、それはフロスがこっそりと外に出て行ったからだが、やはりネモも共に目覚めて彼女に追っていった方がいいか確認すると、それはよした方がいい、と首を振ったものだから、気にはなったがそのまま再び眠りに就いた。
その日は夢を見なかった。
翌日目が覚めると、そこには随分とすっきりした表情のフロスがいた。
「おはよう。よく眠れたかね」
「はあ」
一日でこうも様子が変わるものかと思ったが、ネモの方はフロスの表情が明るくなったことが単純に嬉しいようで、そこまで気にしていなかった。
「実は帝国の研究所で、ずっとアルタイ族とペグ族のことを研究している奴がいてね」
その噂は耳にしたことがあった。直接顔を合わせたことは無いが、帝国軍時代、ウッドの耳にもその「変わり者」の話はよく届いていた。
「彼に聞けば、そのネモ君が歌えなくなった原因も分かるのではないだろうか」
フロスはじっとウッドの顔を覗き込むように見て、その答を待った。
「帝国へ行く、というのか」
ウッドは内心、出来ればそれは避けたかった。戦いだけが正義で、強い者だけが正しいとされるあの場所へは、もう戻りたくはなかったのだ。
「嫌なら君はここに残ればいい」
そんなウッドの考えを見透かすようにフロスは言ったが、よく考えればそれは、ネモを彼に預けるということだ。
そんなことが出来る筈が無い。彼女は自分が……自分が、どうするというのだ。守る。何故それほどまでに彼女に
彼女がペグ族だからか? 自分もフロスと同じように、もう一度彼女の歌を聴きたいのか。
ペグ族の歌を求めているのか?
分からなかった。分からなくなった。
ただ、それでも今は彼女と離れることは出来ない。
「帝国へ行くよ」
ウッドが必ずそう答えるだろうと予感していた笑みを、フロスは浮かべた。そう答えたウッドに手を差し伸べて握手をすると、
「よろしく、同士」
と、フロスは硬く手を握り、満足そうに一つ頷いたのだった。
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