第四章 「絶望の砂漠」

1

 雨、だろうか。

 ぽつり、ぽつりと瞼や鼻頭の上に、落ちてくる。

 ウッドはもやがかったような意識のままに目を開けた。直ぐにネモの大きな二つの瞳が飛び込んでくる。

 彼女は目覚めたウッドの顔に抱きつき、嬉しそうに何度も頬ずりをした。花の香りがした。ウッドは自分がどこに居るのか分からなくなる。花粉が多く飛ぶ春季や秋季になれば外を歩いていて花の香りに遭遇することはあるが、今は乾季。まだまだ熱い夏が続くはずだ。それとも自分が勘違いをしているのだろうか。

 ウッドは上体を起こそうと、いつまでも顔に張り付いているネモの背中の羽根をひょいと捕まえて引き剥がした。広がった視界には、見たことのない平原が広がっていた。


 ――どこだ?


 ウッドが上半身を起こすと、胸元に載っていた大きな落ち葉がかさついた音を立てて崩れた。不思議と体が軽かった。

 頭を動かして視界に入ってくる景色を確かめると、背の低い草がぽつぽつと生えた平原が広がり、森は消えていた。遠くがかすんでいるのは蜃気楼しんきろうだろうか。


「ネモ。ここは一体……」


 彼女はほっとした顔でウッドを見つめている。


「なあ、ネモ。俺はどうなったんだ?」


 ぼんやりと状況を思い出すと、ウッドはミスリルと戦っていた筈だった。途中からは内部から響いてくる「声」のようなものに突き動かされ、はっきりと覚えていない。

 自分が何をしていたのか。

 そこで何が起こったのか。

 ただ流れる血が濁流のような勢いで、体が熱かったことだけは覚えている。


「俺は何をしたんだ」


 ネモを見た。彼女は口をぱくぱくとさせて何か必死に説明してくれているようだったがそれは声にはなっていなかった。

 ただの風だ。音にすらなっていない。


「どうした、ネモ?」


 彼女は小さく首を振る。


「まさか」


 小さな口の動きを、彼女は何度も繰り返す。


「そう、なのか」


 ――で、な、い。


 声が出ない。彼女はいつの間にか声を失っていたのだ。

 それからはっとして彼女はウッドから後ずさった。背中を向ける。小さな羽根が何度もきゅうっと踏ん張って伸び、何かをしようとしているが、その度に大きく脱力し、何度も溜息を落とした。


「どうしたんだ?」


 振り返った彼女の瞳は、くすんだ色を映しているように思えた。ただ力なく首を横に振る。


「どうした?」


 首を横に振る。


「どうしたんだ、ネモ」


 何度も首を横に振っていたが、じっとウッドを見つめたかと思うと、その大きな瞳からしずくあふれ出した。一度れ出たそれはもう止まらない。次々と大きな玉となり、ネモの両の瞳からこぼれ落ちていく。それを目にして、ウッドにもようやく彼女が「かなしんで」いる意味が理解出来た。


「歌えない、のか」


 こくり、とうなずく。

 歌虫が歌えない。

 それはアルタイ族にしてみれば戦えないことと同義だ。


「お前も、俺と同じ、か」


 その言葉にネモは微笑んだ。だがその笑みには「悲しい」が含まれているようにウッドには思えた。

 笑っているのに、悲しいのか。

 そう思うとウッドの胸の中にまで彼女の「悲しい」が去来してくるようだった。

 ウッドはまず自分の剣や装備、頭陀袋ずだぶくろがちゃんとあるか確認し、しょぼくれて地面に座り込んでいるネモを右手で持ち上げた。びっくりしてウッドを見た彼女に一つ頷き、それから彼女を定位置の頭陀袋の中へと入れると、自分たちがどこに居るのかも分からないままに歩き出した。

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