カタツムリの恩返し

千里温男

第1話

 昇が小学校から帰って来ると、軒下にひからびた刺身の切れ端みたいなものが落ちている。

昨日の晩御飯の食べ残しかしらとつまみ上げてよく見ると、ひからびかけたナメクジだった。

もう死んでいるとは思ったけれど、水に浸した脱脂綿でそっとくるんで近くの大池公園のアジサイの根元に置いてやった。

 二ヶ月くらい経った日、背中に大きな荷物を背負ったお姉さんが訪ねて来た。

「わたし、このあいだ命を助けてもらったカタツムリよ」

「ボクが助けたのはナメクジだけと…」

「わたし、あの時、家出していたの」

「?……」

「恩返ししたいから、しばらくあなたのお部屋の押入れに置いてちょうだい」

お姉さんは、そう言って、勝手に二階の昇の部屋の押入れに入ってふすまを閉めてしまった。

 昇は、図々しさに呆れたけれど、きれいな人だし、お姉さんが欲しいなと思っていたので追い出さないことにした。

でも、カタツムリが人間のお姉さんになって恩返しに来たなんていう変な話は信じてもらえないだろうと思って、両親には内緒にすることにした。

 次の日、昇が学校へ行こうとしていると、お姉さんが押入れから出て来て、

「帰りに葉っぱを十枚くらい持って来てちょうだい」

と言う。

「何の葉っぱ?」

「何でもいいの、葉っぱなら」

 昇が学校から帰って来ると、お姉さんは寝転んで漫画を読んでいる。

「あら、お帰りなさい」

そう言って、お姉さんは立ちあがった。

そして、

「葉っぱ、持ってきてくれた?」

と訊く。

 昇がプラタナスの葉っぱを十枚てのひらにのせて差し出すと、お姉さんはそれを持って押入れに入って行った。

そして、振り返って、

「のぞいちゃだめよ」

と言うと、ふすまをピタリと閉めてしまった。

 朝になって、昇が学校へ行く準備をしていると、お姉さんが押入れから出て来て、

「行ってらっしゃい」

と言ってくれる。

帰って来ると、押入れから出て来て、

「お帰りなさい」

と言ってくれる。

けれど、それだけで、あとは押入れのふすまをピッタリ閉じてひっそりしている。

 昇はもの足りなくなってきた。

恩返ししてくれると言っていたけれど、勉強を教えてくれるわけでもないし、話し相手になってくれるわけでもないし、一緒に遊んでくれるわけでもない。

なんのために来たのだろう?

でも、『行ってらっしゃい『と『お帰りなさい』は言ってくれるのだからと思って我慢する。

 十日くらい経った日の朝、昇が学校へ行く準備をしていると、お姉さんが出てきて、

「これを学校帰りに隣町の天宝堂へ持って行って売ってらっしゃい」

と言って、まっ白な葉脈標本を十枚渡した。

 天宝堂の店主は

「ほう! 君は葉脈標本を作るのが上手だね」

と感心して、思っていたより高く買ってくれた。

 昇が喜んで家に帰って、そのことを言うと、お姉さんは

「もっともっと葉脈標本を作ってあげるわ」

と言ってくれた。

 昇は植物のことはよくわからないので、学校の中庭屋大池公園の樹から適当に葉っぱを摘み取ってお姉さんに渡した。

 棘のある葉っぱを持ち帰った時は、

「まあ、ヒイラギなんて、舌を怪我するでしょ。悪い子ね」

と睨まれた。

 お姉さんは一日に一枚くらいの割合で葉脈標本を作ってくれた。

それが十枚たまると、昇は天宝堂へ持っていった。

 天宝堂の店主は

「君の葉脈標本は実に見事だ。一体どうやって作るのかね?」

と訊いた。

「カタツムリが作ってくれたんです」

昇はつい本当のことを言ってしまって、しまったと思った。

けれど、店主は子供にからかわれたと思ったらしくて、とてもいやな顔をした。

 昇も、どうやってあんな美しい葉脈標本を作るのだろうと不思議に思った。

『鶴の恩返し』を知らないわけじゃないけれど、どうしても葉脈標本を作っているところを見たい。

そっと押入れに近づいて、ふすまを細く開けてのぞいた。

昇がしゃがんだくらいのカタツムリが葉っぱをゆっくり舐めていた。

 翌朝、お姉さんは押入れから出て来ると、

「いけない子ね、のぞいたりして。今度のぞいたら、あなたを骨格標本にしちゃうわよ」

そう言って、昇の頬をベロンと舐めた。

昇は照れて

「へへ」

と笑った。

ヤスリでこすられたみたいに少しヒリヒリしたけれど、なんだかいい子いい子されたみたいで気持良かったのだ。

 天宝堂の店主が

「もっと大きなものは作れないかね。ヤツデの葉とかサトイモの葉とか。うんと高く買うよ」

 昇はお姉さんにヤツデやサトイモの葉の葉脈標本も作ってもらった。

高く買ってもらえたので、貯金が増えた。

昇は貯金をもう一桁大きくしたくなった。

 真夜中こっそり、大池公園のオオオニバスの葉を丸めてかついで来た。

部屋の畳に広げると、お姉さんは

「まあ! たいへん。とても押し入れの中ではできないわ」

と目玉をとび出させた。

「ここでやればいいでしょ。ぼくも手伝うよ」

昇の言葉に、お姉さんの目玉がギョロリと動いた。

 それから一ヶ月くらい経った朝。

朝ご飯の時間になっても、昇が二階から降りて来ない。

お母さんはプリプリしながら二階へ上って行って、

「昇、何しているの。はやくご飯を食べてしまいなさい」

と大きな声で呼びかけた。

ひっそりとしていて返事は無い。

お母さんは勢いよくドアを開けた。

 部屋いっぱいにまっ白なオオオニバスの葉脈標本が広がっている。

その真ん中に、ひときわ白い昇の骨格標本が膝をかかえてお母さんを見上げている。

(おわり)

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カタツムリの恩返し 千里温男 @itsme

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