第6話 アングライト


 裁判の提出書類など、インターネットの競売ページには、ときとして信じられない代物が現れている。アングライト(Angrite)もそのようなひとつであった。


 ブラジル、リオデジャネイロの西150kmにあるアングラ・ドス・レイス。美しい海岸と大小無数の島々に恵まれたこの地域は、 漁業や観光だけでなく、ブラジル唯一の原子力発電所が設置された場所としても有名だった。


 1869年1月、この地に1.5kgの隕石が落下した。その地名からアングライトと名づけられたこの種の隕石の2つ目が発見されたのは、実に1世紀以上が経過した1986年の南極においてであった。 21世紀に入ってもアングライトは10数個しか見つかっていない稀有な隕石だった。 その起源については解明が進んでいない。ある意味では、月や火星から飛来したとされる隕石(それぞれ100個以上発見されている) 以上の価値があるものであった。


 1年におよそ650億円の物件が売買されるというテキサス州ダラスの競売会社ヘリテージ・オークション・ギャラリーズに、2009年1月、 太陽系生成初期に出来たとされる原始的な隕石であるアングライトが出品された。


 たちまちそのうわさはネット上に広がり世界の注目を浴びた。長さ約4cm、厚さ2mm、重さ7.2gの、 まるでポテトチップスのような形の物体は、よく見ると灰色の母岩(斜長石)の中に赤紫色の灰長石や黒っぽい橄欖石、深紅の尖晶石が含まれていた。とりわけ、赤い鉱物がこの隕石の印象を引き立てていた。


 2010年3月には、世界中に9千万人の利用者がいるというeBayにもアングライトが出品された。こちらは 12mgという少量だが、たったの2ドル76セントで買い手が決まったという。 研究者らにとっては信じられない値段であった....


 出品された断片のもとの隕石は、 2004年8月にアフリカ北西部、モロッコで隕石ディーラーのグレッグ・ユーペが発見した NWA 2999 という12個のアングライト隕石 (計392g)であった。


 それでも最近ではアングライトの価格が上昇傾向であるという。水星から飛来した隕石であるという(十分立証されていない)説が広まったせいらしい。 斜長石に富む玄武岩質の岩石であることは、この隕石が「火成岩起源」であることを示唆している。大部分の隕石が鉄やマグネシウムに富む鉱物が含まれているのに対して、アングライトにはアルミニウム、チタン、カルシウムに富む鉱物が含まれ、化学組成上の特異性を示していた。ほとんどのアングライトはいずれも急激に冷却したと見られる構造をもっていたが、 NWA 2999 は深成岩の特徴をもっていた。すなわち、天体の表面付近ではなく地下深くでゆっくりと冷却したものだった。


 水星から飛来した、といわれる理由のひとつが、ナトリウムのような気化しやすい元素が欠乏していることだ。 太陽に近い空間で生まれたものなら、高熱環境によって気化しやすい元素は天体から流出してしまうだろう。 酸素の同位体比も、地球や月、火星だけでなく、小惑星ヴェスタのものに近い。したがって、まだサンプルは得られていないものの地球型惑星である水星にも近いであろうという推測が成り立つ。


 隕石が地球に落下する前、惑星間空間を漂っていた間に受ける宇宙線。それによってできる放射性元素の量から、惑星間空間にいた (宇宙線を浴びていた)時間を見積もることができる。ワシントン大学のアンソニー・アーヴィンとスコット・クーナーらは、 その「宇宙線照射年代」の値が610万年以下から5500万年というかなり幅の広い範囲であることから、 小惑星との衝突によって隕石をはじき出した母天体には、長期にわたり何度も小惑星が衝突していたと見ている。 度重なる衝突でも破壊されない天体のサイズとして、水星はたしかに合致する大きさであった。


 小惑星衝突による水星表面からの岩石放出のシミュレーションからは、数%の物体が 3000万年の間に 地球に到達する可能性が指摘された。 水星表面からの脱出速度は、火星表面からの脱出速度である秒速5.0kmより少ない4.2kmしかない。 もちろん、水星から脱した後も太陽に呑み込まれることなく、地球軌道に交わるコースに乗るには、さらに大きな速度 (秒速約6.2km)で水星表面から放出されなければならないが、小惑星衝突による放出物の多くがそれを大きく 上回る速度を得るはずであった。



 マサチューセッツ州パイオニア渓谷のほぼ中心に位置するサウス・ハードリーには、1837年に設立された、今なおアメリカでは 珍しい女子大学であるマウント・ホリオーク大学がある。歴史を感じさせるレンガ造りの建物とみごとな並木が、 全米有数の美しさといわれるキャンパス独特の雰囲気を作り出していた。


 同大学の天文学教授であるトーマス・バービンは、隕石の母天体を追求している研究者であった。 小惑星2000個を超える反射スペクトルと、実験室で測定される隕石の反射スペクトルとを比較し、それらの類似性を見極めている。 近年、とくに南極大陸とアフリカのサハラ砂漠から多くの隕石が収集され、隕石データベースへの登録総数は6万個に上っていた。


 バービンらの研究チームは、HEDグループの隕石が小惑星ヴェスタの地殻破片であるという結論を導いていた。


 アングライトの母天体として小惑星説を考えていたバービンは、2005年、ついに 火星と木星の間の小惑星帯をまわる「ロビンソン」(小惑星登録番号3819)と命名された天体が、その候補となることを つきとめた。分光特性が、可視光領域では確かによく一致していた。


 しかし、残念なことにその小惑星でも、近赤外域では一致が見られなかったのだ。当時、小惑星研究者のもっぱらの関心は、地球近傍、小惑星帯、そして海王星以遠のカイパーベルトに向けられていた。


 水星軌道の内側を探ろうとする者はほぼ皆無に近い状態だったのだ。





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