32.無音

 私が部屋に戻ったとき、既にそこはいつもと違っていた。初めはただの違和感だったが、机に近付いて確信した。

 ――少し前まで、ここに誰かいた?

 宝箱はいつも机の下に置いていたはずであり、机の上などというセキュリティの欠片もない場所に置いたつもりはなかった。それに、かけておいたはずの鍵が外されている。泥棒や空き巣のたぐいだろうか。それならば何か奪われている可能性がある、確認しなくては。

 私は恐る恐る、それを開いた。

「あぁ、間違ってしまった。私が馬鹿だった……君が私の隣から消えてしまって以来、私は何もかもがダメだ……」

 何よりも、命よりも大切にしていたマラカイトがなくなっていた。象嵌ぞうがんを施した、私と彼女の誓いを、失っていたのだ。私はそんなことに気付きもせず、外で何をしていた? 下らない依頼をこなしていた。何の意味も持たない、村人からの頼みだ。私のためにも、君のためにもならないことだ。

 冷静をよそおうだけで一苦労だった。外に出れば私を頼る不甲斐ない村人と顔を合わせることになり、家にいようともユウがいた。村人は誰ひとり――そう、村長家の者すら、君と私の関係を知る者はいなかった。だからこそ私は「村長の娘が死んだだけ」と演じていた。ユウは君と私について全てとは言えずともある程度知っていた。それでも私をいつわる必要があったのは、彼がまだまだ小さな少年だったからだ。私は「いつも通り」を徹底てっていしていた。

 だからだ、そんなことばかりだったから、私は今こうして壊れてしまうのだ。

 頭の中、時計の内側で、ある日の君の声がよみがえる。

『あなたから頂いたこれを持っているとね、幸せになれるんですの。ほら、肌身離さず持つようになってから、わたくしをいじめてくる子たちがいなくなりましたもの』

 記憶の中の君は、いつでもほがらかだった。美しく明るく、けれどかなしさをはらんでいて。

『だからねクロック、あなたにも持っていてほしいのです。だから、ほら、割ってくださる?』

 それに私は、何と返したのだったか、何を言ったのか。正確には覚えていない。割るだなんてとか、君が持っていてくれたならとか、そんなことだったかもしれない。しかし結局私がそれを受け取り、割ったのは確かだった。

 あのとき私が断っていれば、君に宝石を持っていなさいと言っていたなら、君はまだ私の隣にいたのだろうか。いじめられることもなく、誰かに殺されるなんてこともなかったのだろうか。あのとき私が――。

 幾度も考えたことが再び私の時刻しこうを支配した。

 深いため息を吐き、大きく首を振り、私の中のネガティブな考えを飛ばそうとする。と、宝箱の下に見知らぬ紙があるのを見つけてしまった。これもマラカイトを盗んだ泥棒の仕業だろうか。そこに謝罪文があれば私は許すだろうか。何が書かれていようとも、私は私を保っていられるだろうか。

 箱を持ち上げ紙を手に取る。そこには文字が並んでいた。見覚えのあるような、どこかで見たことのあるような字だ。

『お前のローザを殺したのは人間の女。サックを殺したのと同じ女、ジルケだ』

 そこで、何もかもが抑えられなくなった。私は力の限りその紙を破り、机に叩きつけた。それから――その後の記憶は曖昧あいまいだ。自分の中の燃えるような怒りの感覚と、手当り次第暴れたことだけは覚えている。

 あの女だった。人間のあのジルケという女が君を、私のローザを殺した。それだけで充分だ、あの女を殺す理由は――。

 気付けばユリシスの家の前まで来ていた。認証も終わった。あとは家に入るだけだ。どうしてここだと思ったのか、それは簡単なことだ。ジルケはユリシスの拾い子だから。どうせあのふたりはここから逃げようとでも考えているのだろう。しかしそんなことはさせない、私が、絶対に。

 扉が開いた先には闇が広がっていたが、しかし見えた。そこにはひとりのヒトがいる、ひとりの人間がいる。一方はちょうど昇降箱に乗り込んだところで、もう一方は後ろを向き私を見た。そうか、玄関が開くのは物音がしてしまうから偽装ができないのか。私は時計の下部に手を当て、少し考えた。

「いえ、そうですね。どうだっていいことだ」

 つぶやいた声が耳に届いて、自分があまりにも冷静であることに気付く。今の私は先程とは違う、全くの正気だ。

「き、きみは……どなた、かな?」

 目の前の女――確かに狩人のような服装をしてはいるが、そんなもので私をあざむくことはできない――は口を開いた。説明をするのも、問いただすのも億劫おっくうだった。だから歩み寄って――。

「いたっ! なにを、どうして、ぼくを殴るんだクロック!?」

「私はわかっていますよ、君はサックではない。君だって彼だってわかっていたはずでしょう? サックでありたいのなら、紙袋を被ったまま森の奥にいればよかったものを」

 家の中、もろいパイプを見つけ、それをもぎ取った。重くない、扱いやすい。私はそれを振り上げ、そして。

「やっ、やめてくれ! ぼく、ぼ、ぼくはきみに、何も――」

「何もしていない、とでも? バカなことを言わないでください」

 振り下ろす。ぎゃっ、と気持ちの悪い声がひとつ部屋に放たれる。心の底から憎しみがこみ上げてくるようだった。だから、もう一度振り上げて。

「私のローザをどうしたんです? 銃で一発撃っただけ? だったら許される?」

「やめっ……うぐ、そ、うする、しか、っ」

 振り下ろす、振り下ろす。

「ローザを殺したのはあなたで間違いないということですよね? それだけ聞けたなら、もう充分です」

「いやだ、たす、っ、け……ゆり、し……」

 振り下ろす、振り下ろす。振り下ろす、振り下ろす、振り下ろす。振り下ろす振り下ろす振り下ろす振り下ろす。

「ローザも、今のあなたのように助けを請い、しかし助からなかったのではないですか?」もう何も言わなくなったそれを見下ろす。

 何者だったかわからなくなってしまったそれの傍らにしゃがみ込み、彼女の顔をのぞいた。「ローザ……?」真っ赤な花が咲いている。

「あぁ、ローザ、私は……ローザを殺したのは、私なのだろうか? 私を殺したのは、ローザなのか?」

 背後に何かの振動があった。しかしそんなものはもうどうだっていい。私にはまだやることがある。やらなければならないことがある。上の部屋へ逃げていった青い蝶を逃がす訳にはいかない――しかし、どうして? どうして、理由はどこに……いいや、そうだ。あの蝶々が人間を連れてきたのだから、死してつぐなうべきだ。私のローザを殺したのはジルケだけではない。私ではない。

 部屋の奥へと足を動かす。不思議と、何の音もなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る