白砂に落つ

@HAKUJYA

白砂に落つ


「とっつあん・・・」

張り付け台に掲げられた佐吉の目に

竹縄の向こうの義父の定次郎がみえた。


女房殺し、が、佐吉なら

大事な娘を殺された父親が定次郎だろう。


娘が犯した不義をおもわば、

佐吉の罪がかなしすぎる。


「おまえが、わるいんじゃねえ」

定次郎の横で泣き崩れる弥彦に

かける声がなんまいだぶと、かわり

手があわせられてゆく。


佐吉は女房殺しの罪で獄門張り付けになる。


お千香が、実の亭主に殺される訳がわからない。


その訳を呵責に耐えかねた弥彦にさっききかされるまで、

佐吉は、処刑の場所に行く事なぞ、考えもしなかった。



八っつの年から

定次郎の所に預けられた弥彦の

指物師としての、腕はいま、見事に開花している。


定次郎の仕事場から、離れ今は一本立ちになった

弥彦であるが

お千香が佐吉と一緒になると

いいださなければ、


定次郎の跡目をついでもらいたいと、

思っていた男である。


だが、弥彦もお千香も幼い頃から、お互いを見慣れすぎたのか、

異性という目は無論、

夫婦になるという考え方さえなかったようである。


なかったようであるという、妙な言い方も、

わけがある。


少なくとも、

定次郎はそう思っていたし、

お千香もそう思っていた。

だが、

弥彦の胸の中には、お千香が居たのである。


弥彦にお千香への恋慕がなかったら、

佐吉が

お千香を殺す所まで、物事がすすまなかったかというと、

実に微妙なところである。


いろいろな要因が複雑に絡まっていた。


たとえば、

定次郎が弥彦の腕前を愛し、

その気性を愛していなければ、

お千香を追い詰める事もなかったといえる。


お前ら、夫婦にならないかと、

定次郎が言わなければ、

こんな事件がおきずにすんだのかもしれない。


何もかもが

弥彦の口から話しだされると

大きな衝撃を受けた事実よりも、


佐吉の最後を見届けなければならないと

定次郎は処刑場所に走り出したのである。



佐吉の処刑は正午である。

お天燈様が真上から見下ろす白日に

其の罪を清算しようというのであろう。


お千香と佐吉は仲の良い夫婦だった。

なぜ、お千香が佐吉に殺されなければ成らなかったのか。

佐吉がなぜ、お千香を殺されなければならなっかたのか。


佐吉はどんなに仕置きをされようとも、

そのわけをかたろうとしなかったという。


其の理由がわからないまま、

定次郎はお千香の残した二人の子供を

引き取った。


どんなわけがあるにせよ、

二人の子供にとって、

父親が母親を殺してしまった事実は変わらない。


定次郎にとってもそれは同じで

どんなわけがあったとて、

娘を殺された事実は変わらないのである。


それでも、なんで好いた亭主にころされねばならない。


訳を知りたいという思いがもたげてくるのを、定次郎は

かむりをふって、払いのけた。


訳を知ったとて、お千香がかえってくるわけでもない。

ましてや、

孫の父親でもある佐吉をこれ以上、憎みたくは無い。

二人の子供を引き取ったゆえに

定次郎はいっそう、佐吉のわけをしらぬほうがよいと決めていた。


子供は上の子がもうじき、三っつになる。

お千香の子供の頃を思い起こさせる

かたえくぼのできる、おなごの子である。

下の男の子はようやっと、乳離れをしはじめ、

固いものを食べれるようになってきている。

せめても、乳がいるときに

母を亡くさずにすんだ事だけがさいわいだったかもしれない。


佐吉の処刑が今日ときかされたときから、

定次郎は佐吉の最後も

自分に縁のないこととして、

常のままに過そうと決めていた。


すんだ事はもう、関係が無い。

すんだ事にこだわるまい。

こだわったとて、

お千香がかえってくるわけでもない。


定次郎がこだわるのは、

二人の孫の行く末だけでいい。


だから、かかわりのない人間の処刑になぞ、

のこのこでかけてゆくのもおかしい。


佐吉の存在を意識の奥からさえ

いなかったものにすることで、

定次郎の心の天秤がかろうじて、保たれていた。



其の日の朝であった。


弥彦が定次郎の元にやってきた。

弥彦にすれば、複雑な心境であろう。

佐吉は弥彦の朋友といってよい。


そもそも、

お千香が佐吉としりあったのも、

弥彦からなのである。


兄妹といっても過言で無いほど

弥彦とお千香も仲が良かった。


朋友である佐吉とお千香が惹かれあい

恋に落ちるともしらず、

二人を引き合わせることになった、弥彦とて、

定次郎の胸のうちでは、

お千香の婿にと、夢を描いた男であった。


無理じいはできまいが、

お千香にだけは、

「弥彦に貰ってもらったらどうだ?」

と、ひそかにたずねたこともある。


定次郎の眼の前にすわった弥彦は

相変わらず、

自分が佐吉とお千香を引き合わせたことを

くやんでいるのであろう。


お千香の死をおもえば、

佐吉の処刑は当然の報いであるが、

いよいよ、佐吉が処刑となると、

友の立場で考えることが許されるなら、

弥彦は妹につづき、

友をなくすことになるのである。


弥彦は佐吉のつながれた牢にまで、

佐吉のわけを聞きにいっていたようだが、

佐吉は

「親父さんと子供をたのむ」

と、いったきり、もう、何もいわなかったという。


お千香は定次郎のたった一人の娘であり、

佐吉の両親はとっくにこの世の人でなくなっていたから、

残された子供の将来については定次郎を頼るしかない。

それはわからないでもないが、

女房を殺してしまう男が

子供のことを頼むも

親父さんを頼むもどの口をついてでるかと、

はらだたしい。


「ききたくねえ」

それ以来、定次郎は佐吉のことを聴こうとしなかった。

捕縛ののち、投獄。

仕置きの連日に裁きがきまってからも、

定次郎は佐吉の佐の字も口にしなかった。


お千香と佐吉の間にはなかなか、子が授からなかった。

そんなことでさえ、

「仲がよすぎると、子ができにくい」

定次郎は

お千香が愛されているものだと信じていた。


それがくつがえされ、

悲しい結末を受止める事しかなくなった今、

佐吉がお千香を殺すほどに

お千香を憎んだわけなど、知りたくはなかった。


お千香が哀れでしかない。


膝に抱いた孫をあやしながら

弥彦にかける言葉を捜していた

定次郎の眼の前で、弥彦が頭を下げた。


「親方。もう、俺はこれ以上・・・。嘘をついていきてゆけねえ」



弥彦の思いつめた表情に定次郎は

膝に抱いた孫を見つめなおした。


下の子はともかく、

上のおなごの子はわけがわからぬとも、

大人の言葉を解し始めている。


弥彦の話が佐吉のことであるだろうと

思えば、いっそう、幼子の心のひだに

何が残るかわからない話が飛び出してきそうである。


定次郎は隣の部屋にいる、家内を呼ぶと、

二人の孫を散歩にでもつれだしてくれと頼んだ。


家内である、お福にも

弥彦の話がもれきこえないほうが良いと

定次郎は思った。


それ程に弥彦の顔つきは尋常なものでなかった。


部屋の中で定次郎と二人きりになると、

弥彦はいきなり定次郎に手をつき、畳に頭をこすり付けた。


「弥彦」

それでは、なにがなんだかわからない。

はなしてくれねば、わからぬ。

わしに遠慮せず話せばよい。


佐吉のことを聞きたがらない定次郎に

佐吉のことを聞かせるをわびる弥彦だと思い

定次郎は話せばよいと言葉をつづけようとした。


「親方。俺さえ、俺さえ、あんな事をしなければ、

佐吉もお千香ちゃんをあやめたりしなかったんだ」


お千香が殺されたわけが

弥彦にあるのだといわれても、定次郎には、わけがわからない。

きり詰まった口調で弥彦が告げる口元が苦しくゆがんでいる。

どういうわけがあるか、判らないが弥彦が佐吉の死に目に

せめて、汚名をはらそうと、一芝居うっているわjけではない。

「弥彦よ。真実をお前がしっておろうと、今更それをきいて、

お千香が、かえってくるわけでもない。

かといって、お前の友であり、

お千香の好いた男のことだ。

わしが佐吉をにくんでは、お千香も二人の子も哀れだろう?

わしは、佐吉をにくんではおらん。

いや、にくまぬときめた。

だから、おまえが知っているわけをわざわざ、はなさずとも・・・」

話すにさほどくるしくなることなど、そっと胸の中にしまっておけばいい。

定次郎が宥める言葉に弥彦は激しく首を振った。


「そうじゃない。そうじゃないんだ。そんなんじゃないんだ」

男が泣き崩れそうである。

が、それを見つめる定次郎にすれば、

できれば、ききたくはない。

まんがいちにでも、

きいて、佐吉がお千香をころしても仕方がなかった。と、

うなづいてはやりたくはない。


佐吉はお千香を好いていたと思う。

心底ほれたお千香とみえた。

だが、真実がそうであるなら、

佐吉に殺されなければ成らない

落ち度がお千香にあったということになる。


弥彦の話はそこに触れるきがして、

定次郎は

弥彦の口からもれでてくる言葉を

ふさごうとした。


だが、


「親方・・・。俺は佐吉にもお千香ちゃんにも、

つぐなってゆかなきゃならないことがある。

それをするためには、

親方にはつらいだろうが、やはり、本当のことを

話さなきゃなんねえと思う」


弥彦の気持をおさめることはできそうもない。

定次郎は弥彦の話をきくことだけが、弥彦の気持を

軽くしてやれるきがして、

「まあ、話しちまいな」

と、折れるしかなかった。



うなだれた弥彦のまま、

その言葉ははきだすかのように、

もれるかのように、

弥彦の口からおちていくようだった。


「佐吉には・・・子胤がなかったんですよ・・・」


弥彦がもらした言葉の意味は

つまり、どういうことになるのだ。

だが、実際には、お千香は二人の子供を生んでいる。

それは、佐吉の子ではないということなのか?

半信半疑のまま、

定次郎は弥彦の次の言葉をまった。


「親方は俺がお千香ちゃんを好いていたことを

しってなさったろうか?」


それが佐吉に子胤がなかったことと、

何の因果があるのだろう?

二人の孫が佐吉の子でないと言い切る弥彦が

まさか?

まさか?

弥彦が孫のてて親だとでもいうのか?

それは、つまり、

お千香の佐吉への裏切りということになるのではないか?


「ま・・・待て。弥彦、ちょっと、待ってくれ」


定次郎が弥彦に告げられたふたつの事柄を

つなげあわせてしまうと、どうしても、

とんでもない事情にいきあたる。


「つ・・・。つまり、お前はお千香と、不義密通を

はたらいていたと、こういうことか?」


弥彦の頭がますます重くさがってゆく。

その姿は

定次郎の問いを肯定しているとしかみえない。


弥彦はまじめな男だ。

嘘をつくような男じゃない。

その弥彦が告げることは事実であろう。


事実であろうが、定次郎も

にわかには、信じられない。

なぜなら、

お千香は佐吉を心底すいていた。

そんなお千香が

佐吉を裏切り、弥彦と深い仲になるわけがない。


「親方もしってのとおり、佐吉とお千香ちゃんのあいだには、

三年も、子供ができなかった・・・」


弥彦のいうとおりである。


「お千香ちゃんは、俺に・・・」


弥彦の声が止まった。

この先こそを口にしたくは無い。

弥彦の沈黙は暫く続いた。



佐吉は大工職人だった。


指物師の弥彦とは、段々畑で顔を

あわせるような知合いでしかなかったが、

ひょんなことから、

同郷であると知った。


同じ年頃、似た境遇の同郷の知人というものが、いかに、

ひとり、他国の空に暮らしているもの同士の

心を暖めるか。


弥彦も佐吉も、兄弟に会ったかのごとく

親しみを覚えた。


土地柄の持つ、古くからの因習が

ものの考え方、感じ方を差配する。

同郷人というものは、

其の部分で語らずともお互いを知るものがある。


この点でも、弥彦も、佐吉もお互いの存在が気安い物になっていった。


そして、弥彦は、早くも、二十四の年に一本立ちになり、

せまいながらもの、長屋の一軒をかり、

独り暮らしを始める事に成った。


もちろん、その裏側には定次郎の願いがあったのは言うまでも無い。

一本立ちになった職人であらば、

弥彦もお千香を嫁にもらいやすい。

お千香に対して

「親方の娘」と、遠慮することもなく、

大手を振って嫁に迎えることが出来る。


自分をおしころし、

相手の思いを先にくもうとする弥彦の性分を

定次郎はすいていた。

すいていたからこそ、

定次郎も弥彦に無理強いになるかもしれぬ言葉は

一言もかけなかった。


その代わり、

お千香にはなんどとなく、

弥彦をすすめたものである。


「腕もいい。気性もいい。あれは、本当に優しい男じゃ。

心をぬくめられるような、良い人柄だ」

「弥彦が息子であったなら、俺の後をついでもらいたいのだが・・」

「お前が弥彦の嫁になれば、良いのだ」

「娘の婿はすなわち、俺の息子だなあ」


遠まわしに言ってみたり、はっきりじかにつげてみたりした。


其のたび、お千香はわらっていた。

「おとっつあんの気持はよくわかるよ。

弥彦さんは、本当にいい人だよ。

でもねえ、弥彦さんは、きっと、ほかにいい人がいるよ。

あたしのことは、妹とおもってたら、まだ、上出来。

ねんねのおちびにしかおもってないよ」


男と女と意識した感情一つさえ無いのか、

お千香はあっけらかんとした物言いで、笑うだけである。


「そうかなあ?」

昨日まで子供だと思ってた男子が

女子が

なんのきっかけで、どうかわるか、判らないのが

男と女である。


定次郎は

ことあるごとに、

ことがなければ、用事をつくってでも、

なにかとお千香に弥彦の住まいに出向かせた。


彼岸だとおはぎをつくれば、

そうだ、弥彦にもくわせてやれ。

指物の仕事を弥彦にまわしたから、

下絵をとどけてくれ。

そうだ。そうだ。

あわせの着物がいるだろう。

お千香が縫ってやれ。

縫えば縫ったで、

お前がとどけてやれ。


「これじゃあ、まるで、弥彦さんが本当のこどもみたいじゃないかあ」

お千香は笑いながらも定次郎の目論見を受け流した。


定次郎の願いはかけらひとつもかなうわけが無い。

なぜなら、

お千香は弥彦のところで佐吉にであった。

であったときから、

佐吉のことが胸から離れない。

佐吉もそれは同じで

お互いを意識したものは、

それとなく、お互いの気持を確かめたくなる。


そして、

お互いが弥彦に問い合わせるのである。


「むこうは、こっちをどうおもっているだろうか?」


弥彦は自分の感情を殺し、

二人のなかだち役に徹するしかなかった。


お互いにひかれあうことこそが、しあわせであるのだから、

自分の片恋なぞ、けどらせたりしたら、

その幸い振りの前に、元をわるくさせるだけである。


「似合っているように思う。

お前を見るときの目はいっとうやさしい」

事実を告げただけにすぎないのであるが、

弥彦の胸ははりさけそうに、苦しかった。



定次郎の願いをしりながら、

お千香は佐吉と一緒になると決めた。


定次郎も

一人娘のお千香の言い分を

聞かぬわけにも行かず、

弥彦の気持を確かめる事も、

もはやおそいと、判ると

お千香がそれで幸せになるならと、

頭を下げる佐吉を許すしかなかった。


ところが、

この佐吉とお千香には、中々、子供が出来なかった。


「え?まだかい?

なあ、男の子なら俺のところにつれてこいよ。

しこんでやるよ」


定次郎の指物の腕は一級品である。

其の血を継いだ男の子を

自ら、仕込んでみたい。

その気持は良く判る。

が、


「おとっつあん。まだ、できてもない子供が

男の子かどうだか、わかるもんかね」

「うむ」

女子しか授からなかった定次郎である。

ましてや、ようやっとひとり。

子が出来にくい血筋なのかもしれない。

だとすれば、

お千香に孫をせくのも、

勝手すぎるというものであろうが、

跡をついで欲しいと思う子が女子であったばかりに、

諦念するしかなかった、定次郎であり、

さらにいえば、

弥彦ならと思った思いもかなわなかった、

定次郎である。

三度目の正直と、いうわけでもないが、

男の孫を期待する気持は

いっそう、深くなる。


定次郎のまだか、まだかがとどかぬのか、

佐吉のもとにとついで、

三年。

子無きは去る。

と、いう言われもある。

定次郎も今度はお千香の身が心配になってくる。

「でえじょうぶなのか?

佐吉にあいそをつかされてるんじゃねえだろうな」

子供が出来ないのではなく、

子供を作る行為自体がなくなってるのではないのだろうな?

お千香があわてて、

それも、ひどくほほを染めて

「そんなことはないよ・・昨日だって・・・」

と、密かな事実を口にしかけて、

はっと、気がついた。

「やだね。おとっつあん、なにをいわすんだよ」

聞くにつけても、野暮な事を聞いたものだと定次郎が

ほっと胸をなでおろすことになるのであるが、

今度は逆に

「なんだよ。仲がよすぎてもいけねえってきくがなあ」

と、やはり催促がましい言葉になる。


「あら?じゃあ、おとっつあんも

随分、仲がよすぎたんだね」

子供はようやっとお千香独りしか出来る暇が無かったようである。

一度だけは、子を設けるまぐわい事で、

あとのまぐわいは・・・。


「ばかやろう。親をからかうんじゃねえや」


定次郎の催促をうまくかわしてみせた

お千香は

それから、暫くして子をはらんだ。

それがうまれてみれば、

おなごの子である。

しばしは、孫かわいさで、

声を潜めていた定次郎であったが、

ふたとせの誕生をむかえると、

「次はまだ、できねえのか?

今度こそ男のこがいいの」

やはり、血筋の男の子に技をしこみたい思いを

捨てきれない定次郎であった。



お千香が弥彦のところにやってきた其の日のことを

弥彦は今でもはっきりと覚えている。


玄関の戸口をあければ、そこに思いつめた表情のお千香が居た。

弥彦はすぐには、

なにかあったな。

と、思い、

お千香の胸のうちを聞いてみようと思ったし、

お千香も弥彦に話す気で居るのだとも思った。


「まあ、茶でもいれるから、あがってくんな」

三畳の小さな部屋は

居間であり、寝間でもある。

奥の四畳半が弥彦の仕事場にもなっていて、

仕事の道具も置いてあるし、

人を通せる場所ではない。


「ごめんよ。急に・・・」

ぼんやりとしたまなざしで

弥彦に急な来訪をわびると

お千香は座り込んだまま、

何も言おうとしなかった。


其の姿にけおされたまま、

弥彦もお千香の前に茶をおいたきり、

しばらくの沈黙が続いていた。

「お千香ちゃん?

なんかあったんか?」

弥彦が切り出さないと

お千香は喋りだすきっかけが

つかめないだろう。

普段から無口な弥彦が

ようやっと、声をかけると、


お千香は

喋りだす事を決心するかの様に

いったんは口の端をきっと、固く結んだ。


結ばれた口が開かれたとき

弥彦はお千香の言った言葉の意味が

判らなかった。


「お千香ちゃん?

今?なんていった?

俺は耳がどうかしてるみたいだ」


弥彦の耳に届いたお千香の言葉は

弥彦をからかってるとは、思えない。

お千香の表情は

はじめと変わらず固く張り詰めている。


お千香が唐突に言い出した言葉。

それは、

簡単な言葉だった。

そして、弥彦の聞き間違いでなければ

お千香は確かにこういった。


「あたしを抱いてくれないか?」


訊ね返した弥彦にお千香は

聞き間違いでは無いと応えた。


「な、なにをいってるんだ。

なにがあったんだ?

お千香ちゃん?

あんた、やけになってるんだ?

佐吉となにかあったのか?

喧嘩でもしたのか?」


弥彦の尋ねる言葉、ことごとくにお千香は

違うと首を振った。


「だったら、いったい、なんで、そんな、馬鹿なことをいいだすんだ?」

よもや、俺をからかおうって、気なのか?

言いかけた言葉を喉の奥に引き戻させるお千香の悲しい顔がある。


「なあ、いったい、どうしたんだ?

理由を言ってくれなきゃ、なんの相談にもなりゃしない。

え?いったい、なにがあったんだい?」

たたみかける弥彦をお千香は見詰めかえした。


「理由を言ったら、私の頼みをきいてくれますか」


えっ?


弥彦は其の言葉に一瞬戸惑いとひるみをみせた。


10


弥彦が言い出した事が事実であるなら、

「ちょっと、待て・・・。するってえと・・」

定次郎の理解は

事実だけにまず、むけられる。


「あの子らは、佐吉の子じやなくて・・・

お前の子だということなのか?」


弥彦はそれをわざわざ、定次郎に告げている。

いったん、口に出したことを

もう、否定する気も無い。


「そういうことです」


弥彦は静かに、出来るだけ静かに事実を認めた。


「ま・・まて?

な・・・なんで、そんなことになっちまったんだ?

いや、それより、

お千香が佐吉をうらぎっちまうなんて、そんな馬鹿なことを

いいだすなんて・・・」


「親方。お千香ちゃんが悪いんじゃねえ。

俺が、もっと、しっかりしてりゃ・・・」


弥彦さえお千香を好いてなけりゃ、

お千香の頼みに負けることは無かった。


「俺が・・・あの日・・・」

黙った弥彦に定次郎は

先を促すしかなかった。


「弥彦。つまり・・・。それが、元で

佐吉はお千香を殺しちまった。

そういうことなんだな?」


「そ・・・そうだと思う。だけど、佐吉は

俺になにもいおうとしない。

お千香ちゃんとの事をしってるのか、

それさえ、俺にはわからない」


佐吉は知らないのかもしれない。

牢に出向いた弥彦に合うわけも無いし、

弥彦と常のように話しても居る。

だが、そうなると

「じゃあ、いったい、なんで、佐吉が・・・」

触れたくない事を

こじ開けてしまった定次郎の思いはここに戻る。


「俺は、思うことがある。

これは当て推量でしかねえんだが、

お千香ちゃんが言い出したわけを

考えると・・・」


弥彦はあの日のお千香のことに

話を戻していった。


11


「佐吉には、子胤がないんだよ」

お千香が口を開いた言葉がそれだった。


弥彦は其の言葉で

お千香の望を理解した。

弥彦に子胤を落としてくれといってるに違いなかった。


が、

「だから・・。と、いって、そんなことができるわけはないじゃないか。

え?

子供ができねえからって、

なんだよ。

貰い子でも、なんでも・・・」


弥彦はお千香を真正面から見据え、

もっともな、意見をしたつもりだった。


だが、お千香は悲しい目で弥彦をみつめかえした。

「佐吉はそんなことに、きがついてないんだ。

そんなこと、いえやしない」


じゃあ、子供が出来ないならできないでいいじゃないか。

できなけりゃ、佐吉もきがつこう。

きがつかなくとも、

子供のことについては、あきらめがつこうというものだろう。


「そして、子供ができないまま・・?

あたしも佐吉もそりゃあ、そんなこと、かまいやしないよ。

でも、おとっつあんのことを考えると・・」


「ああ。親方かあ・・・」

弥彦もついうなづいてしまってから、

はっとした。

それは、半分がた、お千香の意志を飲んだといってるようにも聞こえる。


「今なら佐吉も自分の子だと思ってくれる。

だから、後生だから」


弥彦の胸の中に沸く思いに妙な嫉妬がある。

弥彦がそれでもお千香を断れば、

お千香は他の誰かのところにいくのではないか?

この思いに取り付かれると

いっそ、それくらいなら、自分こそが、お千香を抱いてしまいたいと思う。


だけど、それは、反面、惨めなものである。


「お千香ちゃん。

そりゃあ、つまり、誰でもいいってことなのかい?」

其の言葉が既にお千香の心を欲していると

白状している事にきがつかない弥彦であるのに、

弥彦の問いに答えたお千香は

弥彦の自分への気持をさとっていた。

手管になれた女郎のように、

お千香は弥彦の其の気持をかけひきにする。


「おとっつあんは、あんたと、一緒になってくれと、あたしには、何度も言ってたんだよ」


え?


弥彦の知らぬ所である。


「だから、出来れば弥彦さんの」

子胤がほしい。

皆まで言わず

「だけど、弥彦さんが、あたしなんか、どうしてもいやだっていうなら、

他の人との事もかんがえなきゃ、しかたがない」


俺はていのいい、種馬でしかないかと、

お千香の心が流れ込まぬ事がみじめであるくせに、

このままでは、

お千香の決心が固いから、確かに他の男の所にいっちまうかもしれないことだけは、

都合よくしんじこむと、

弥彦の嫉妬は

欲情の火に油を注ぐだけになる。


「だめだ。佐吉だとおもえばこそ、俺はお千香ちゃんをあきらめたんだ。

それなのに・・・。

他の男なぞに・・・」


弥彦の理性はあえなく砕け、

一度ときはなった恋情は

お千香を欲しがる。


『お千香ちゃん・・』

手を伸ばすまでも無く弥彦の傍ににじり寄ったお千香がいる。

いままで、せきとめたことが

嘘だったかのように

弥彦はあっさりと、

お千香とむすばれる事を選んでいた。


12


「つ・・・まり、それで、お咲が、できたってわけかい」

孫娘の名前は

佐吉の「さき」をもらって、

咲と、なづけられている。


定次郎はどうしても信じられない。

お千香が口をぬぐい、

あげく、

「咲」と、なづける事を承諾する?

承諾するしかなかったか、

いかにも、佐吉の子とおもわせたかったか。


「親方。勘弁してくだせえ。

お咲にやあ、何の罪もねえこった。

お咲は佐吉を父親だと思ってるんです。

俺もそれは、充分に承知しているつもり・・・」

弥彦の言葉が、又も途切れた。


お千香が咲を産んだ。

その事が弥彦の鬱屈を

いっそう、大きくした。


親方が男の子を欲しがっているのを

よく、知っていた弥彦である。


「俺はお咲の出生の秘密を種にお千香ちゃんをなんど、おどかそうとしたか、

わかりゃしない。

だけど、それだけはしちゃいけない。

あのことはそれ一度限りのこと、そうかんがえていた」

もう一度、お千香と・・・。

思いがもたげてくるたびに、弥彦は自分を押さえつけた。

だが、生まれてきたのが女子であると、わかると、

今度は、

お千香がもう一度、やってくるのではないかと

待ち続ける弥彦になっていた。


はたして、弥彦の思惑どおり、お千香はやってきた。


一度堰を切った男が、

子供を授けるだけの交渉で、気がすむわけがない。


「お千香ちゃん。俺がどんな気持ちでいるか、わかってるのかい」

子種のためだけでなく、

お千香と濃い情をかわしたい。

「なあ、俺のことを好いてるって、そういってやってくれないか」

「嘘でいいんだ。このときだけでいいんだ」

だが、お千香の口から

弥彦を好いてるという慰めはえられなかった。


心をつなげない、結びとなれば、

弥彦はその行為をお千香に刻み付けるしかない。

『佐吉にだかれておっても、俺が恋しくなるなるように』

弥彦はあるとあらゆる性戯をお千香に試みるしかなかった。


口に出すことも出来ない結びであるゆえに

お千香独りの中で弥彦の狂態がきざみつけられる。

お千香にとって、

必要でないはずの弥彦の口での愛撫。

お千香の股の間に顔をうずめた弥彦の舌の動きと

陰核を吸い上げられてゆく奇妙な感覚に

お千香はとうとう、こらえきれず

嗚咽をもらした。


あとは、簡単だった。

弥彦に屈服した女性が居る。


「お千香ちゃん。あんた、誰のもので、そうなってるんだ?」

身体が心を裏切りだし、

お千香の芯がふるえ、

あがってくる、あくめにお千香は酔った。


その時、弥彦はお千香の中に打ち離すことなく、

事を終えた。


そうすれば、

お千香は、もう一度弥彦のもとにに来るしかなくなると、

判ったからだ。


13


「俺は卑怯だとおもった。

だけど、一度、そういうつながりを

もっちまったら、自分の気持ちにうそがつけなくなっちまった」

子胤を与えたら、それで、自分は用なし。

弥彦の気持ちひとつ、

考えてもくれないお千香であればあるほど、

いっそう、好いた気持ちがどこにも、抜け出ず、

はらまなかったと

再び訪れたお千香をかきくどくことになる。

「なあ、俺はいったい、なんなんだ?

お咲の父親だということも出来ず、

佐吉をうらぎって、

あげく、お千香ちゃんには、

種馬でしかねえ。

なにひとつ、俺はむくわれねえのかい?」

この惨めさにおとしこむものは弥彦の、お千香への恋情のせいでしかない。

弥彦に欲だけしかなかったら、

転がり込んできた熟れた女の体を棚ぼたであると、

喜んでいられただろう。

だが、弥彦は苦しい。

苦しいのはお千香に思いをかけてもらえないことだけではない。

いずれ、この関係に止めが刺されることである。

「用がすんだら、おわりってことだよな?」

指物の腕の血筋があるほうがいい。

確実な血として、弥彦を選んだお千香である。

でも、それがかえって仇になったといっていい。

そして、お咲を設けた弥彦であれば、

さすがにお千香もほかの男という脅かしも

できない自分を知っている。

「弥彦さん。あんたが、どうしても、嫌だっていうなら、

あたしも、あきらめるしかないんだ。

だけど、お咲と父親の違う子をうみたくもないし、

あたしも、できりゃあ、ほかの男にだかれたりしたくない。

弥彦さんだけが、頼みの綱なんだ・・・」

それは、少なくとも弥彦だから、抱かれているんだという

意味になるのだろう。

「じゃあ、俺以外の男のところにはいきたくねえんだよな?」

せめてもの好意ととるべきかもしれない。

「いくら、子供がほしいっていったって、

抱かれるのはあたしなんだよ。

あたしだって、佐吉以外の男に指一本触れられたくない。

でも、それをこうやってゆるせるのは、

弥彦さんだからじゃないか・・・」

「うん・・・」

うなづいてみたものの・・・。

「でも、それで、今度男の子ができたら、俺とのことは・・・」

終わりになるんだろう?

当たり前のことを聞く自分がおかしくて、弥彦はふと、口をつぐんだが、

「なあ、お千香ちゃん。

一月に一度なんて、無茶はいいやしねえ。

三月か半年に一度でいい。

男の子がうまれても、こうやって、あいにきてくれねえか?

な?

約束してくれよ。

そしたら、今度はちゃんと・・・」

お千香の中に子胤をはなつといいかけて、弥彦は

しまったと、思った。

だが、お千香は

「やはり、そうだったんだねえ。

上り詰めたふりをしてみせたんじゃないかって、あたしはおもってたんだ」

こめかみをおさえながら、お千香は思い当たったことを小さくあざけ笑った。

「やっぱり、あたしが弥彦さんをおいつめてるんだよね・・・・」

欲にまみれた男にだかれたくないと、思ったからこそ、弥彦を選んだという部分もある。

だけど、結局

弥彦を欲にまみれた男に変えてしまったのが自分でしかない。

「でもねえ。弥彦さん。

あっさり、わりきっておくれでないかい?

弥彦さんも所帯をもたず一生このままって、わけじゃないだろう?」

「え?」

お千香以外の女?

そんなこと考えたことすらなかった。

「だから、あたしになんか、こだわってないで・・・」

弥彦の口から出た返事は弥彦の底がいわせたのであろう。

「嫌だ。俺はお千香ちゃんがいい。お千香ちゃんじゃなきゃいやだ」

ふっと、ため息をつくと、

お千香は弥彦の条件を飲んだ。

正確には飲んだふりをしたといっていい。

だれか、いい人を探してこよう。

そして、定次郎からということで、

引き合わせてみよう。

それらしい人が現れれば弥彦の気持ちもそちらにむくだろう。

そう考えると、

お千香は弥彦の言葉にうなづいて見せることにした。

「節季に・・・それでいいだろう?」

盆、正月。ときに、春の彼岸に秋の彼岸をふくむが、

つまるところ、半年に1度くらいで折り合いをつけてくれないかという。

「わかった」

と、この先をみた男は早速に女の胸元に手を差し伸べてゆく。


そして、この後、お千香は身ごもった。


14


お千香が身ごもった後に

なんどか、弥彦は無茶をいった。

だが、

お千香は

「子供に障るから・・」

と、弥彦の手をふりはらった。


確かにお千香に触れたいが

お千香の腹の子は

弥彦の子でもある。

「そうだな。俺の子だ・・・」

誰にも言うことが出来ない。

誰にも知られてはいけない事実を

いえる相手はお千香しかいない。


いくら暗黙の中に隠しても

お千香と弥彦をつないでいるものがある事を

念押しするためにも

弥彦はくりかえした。

「俺の子だ・・・」


形は佐吉の女房であっても、

本当の夫婦は俺たちなのだと

弥彦は胸をなでる。


そして、お千香が男の子を産み、

産褥がおさまるころに、

弥彦は約束の逢瀬をねだった。


「親方・・・。お千香ちゃんは、いやだっていったんだよ。

だのに、俺は・・・。

佐吉にすべてを話すって、おどかしたんだ・・・」

弥彦の手が再び、顔を覆った。

「弥彦。もう、すんじまったことだ。

もう、誰もおまえをせめやしない。

はなしちまえ。

はなして、楽になっちまえ・・・」

定次郎は出来ればもう、これ以上聞きたくないと思った。

だが、

生きている弥彦が

死んだ人間のことで苦しんでいるのが

憐れであった。

そして、

孫の父親であるというなら

いっそう、子供にこの世の命を与えた男である。

「おまえがいなけりゃ、あいつらもいなかったんだ。

お千香もそれをねがったんだから、

お前が苦しむ必要はない。

それよりも、お千香が・・・。

お前のことをいいように

利用しやがって・・・」

すまないといおうとした言葉が涙になる。

「俺が跡継ぎ。跡継ぎ。って、いわなきゃあ、

お千香もそんなことをしでかしたりしなかったんだ。

お前のせいじゃないんだ。

俺が・・・。お千香をそんなふうにさせちまったんだ・・・」


弥彦はただただ、かむりをふった。

「俺がお千香ちゃんの気持ちがわかったからこそ、

お千香ちゃんを抱いたんだ。

だから、そのまま、役目がすんだら、俺が黙って

あきらめりゃ良かったんだ。

種馬の役目だけで・・・

それだけでも十分だったんだ、

なのに・・・。俺が欲をだして・・・・」

弥彦の気持ちを考えれば

それは、無理のないことである。

「お千香もよくよく、幸せな女だよなあ。

佐吉に心底惚れられ

お前にもそうやって、思ってもらえて・・・

それなのに、あざといことをしたんだ。

ばちがあたったんだ」

そうかんがえるしかないと、

定次郎がおもいなおすと

ふと、

佐吉がきになった。


佐吉がお千香を殺した

詳しいいきさつはわからない。

だが、

やはり、佐吉はお千香の不貞にきがついたのだろう。

そして、

惚れぬいた女房だけに

ゆるせなかったのだろう・・・。


『俺は佐吉にあやまらなきゃならねえな』

つぶやくと佐吉に一言、告げなきゃ

佐吉がうかばれなくなると定次郎はおもった。


15


佐吉を囲む人の群れが

定次郎をみつけると、

佐吉の前までの通り道を

あけてゆく。


『佐吉の親父だ』

『お千香さんの親父だ』

通してやれ、

場所をあけてやれと、

言葉が飛び交い

定次郎の目の前に

憐れな佐吉がうかびあがってきた。


娘を殺された男と

女房を殺した男が向かい合う。


しんと静まり返った

その場所は

定次郎の舞台を

演じるのを待つかのように

人の群れが2歩3歩と

定次郎から退き

丸く定次郎と弥彦を

囲んでいた。


目を瞑ったまま、

張付けられている佐吉ににじりよるにも、

竹縄が邪魔をしている。


佐吉は最後の時をまつのか、

苦しみもないのか?

身じろぎ一つみせずにいる。


竹縄に手をかけ

佐吉を呼ぼうとした

定次郎の声がかすれた。


そのときだった。


「とっつあん。よく、きてくれなすった」

ひときわ、大きな声が群れの中からひびいた。


定次郎がきたくもないのは、

誰だってわかる。


それでも、

やってきた定次郎であれば、

佐吉に石つぶてのひとつでも、

なげにきたのだと考えるかもしれない。


だが、その声の主は

定次郎の性分をよくしっていたといっていい。


定次郎が佐吉のいまわの際にも

現れない。

と、なると、

佐吉にとって自業自得ではあるが、

定次郎が佐吉の死をもってしても、

佐吉をゆるせないという

呵責を抱きながら

裁きを受けなければならない。


佐吉は地獄におちるにしろ、

せめて、

現世で親子になったふたりである。


最後くらい、せめて、ひとつくらい、

佐吉の呵責をかるくしてやってほしい。


刑場に現れようとしない定次郎の

憎しみがいかに深いかと

胸をふさがれ佐吉を見つめ続けていた

男は

定次郎がここにきたことを

たとえ、

佐吉にいしつぶてをなげるとしても、

声高くほめてやれずにおけなかった。


16


男の声に佐吉がうっすらと目をあけ

定次郎を目に留めた。


まさに目に留めたというしかない。


佐吉の瞳は定次郎を映してはいたが

定次郎への何の感情もよこしてこなかった。


「佐吉・・・す・・すま・・」

すまねえ。

云おうとした言葉に

定次郎はよどんだ。


俺があやまったら、

もしかして、佐吉はお千香の不貞のわけを

しらずにいたなら、

子供が佐吉の子じゃないことを云うに等しいのじゃないかと。


ぼんやりと定次郎を見つめていた佐吉だったが、

いよいよ、

処刑役人が長槍をかまえ

佐吉の横にたちならび

槍を構えると

佐吉は今度はしっかりと

瞳を閉じた。


「構え」

執行奉行の重い声が響き渡るほどに

静かに佐吉を見つめる人の群れの中で

たけなわにしがみついた定次郎は

見届けてやるしかないと思った。


俺に出来ることはみとどけてやることしかないと

思った。


構えた槍が佐吉の身体を貫き

佐吉の命を

身体の外に放り投げる。


かわりに死を身体の中にいれこめる。


その刹那。


苦痛を訴えるかと思った

佐吉の喉の奥からほとばしった言葉は

お千香をよんでいた。


それは、まるで、

お千香のところにいくぞと

お千香をよんでいるとしか思えない叫びだった。


定次郎の耳に届いた叫びは

にくくてお千香を殺したんじゃない。

あるいは、

俺だけのお千香にしたかったんだ。

と、聞こえてきた。


誰にも渡さずにすむようになった

お千香のところに

いけるんだと

佐吉の心が解放されてゆく。


定次郎にはそう、きこえていた。


17


佐吉の最後を見届けた人の群れが

波を退くように消え去ってゆくと、

定次郎と弥彦は

役人詰め所に向かい歩きだした。


がくりと肩を落とした弥彦は佐吉の死の前と後で

いくつも老け込んだかのようにみえた。

憔悴とせめぎが、

弥彦をとらえている。


「弥彦。佐吉の亡骸をお千香の横にうめてやれねえかなあ」

佐吉は身寄りも無い。

このままでは、野ざらし同様に阿弥陀淵の投げ込みにすてられ、

無縁仏になるしかない。

佐吉の亡骸をゆずりうけることができるか、どうか。

それも判らないが、

お千香を呼んで死んだ佐吉があわれすぎる。


そして、もっと、憐れな男がいる。

「お願いしてきてみます」

と、役人詰め所に足を運びかけた弥彦のことである。

「うん。そうして、佐吉を一緒につれかえってやろう。

そしてな・・・」

定次郎はどうつたえようか、迷った。

「なんでしょう?あっしに出来ることなら・・なんでも、させてくだせえ」

弥彦の言葉を逆手にとるわけじゃないが・・・。

「なに、なんだ。

おまえもな、このままじゃあ、いけねえとおもうんだよ」

「はい・・」

うなづいた弥彦である。

定次郎のこのままじゃいけないという意味はわかっている。

「いや・・・。何だ、こんなときにいうのもなんだが・・・」

「いえ・・・あっしも覚悟はできていやす」

お千香を死なせた元。佐吉を処刑にいたらせた元。

この弥彦がさばきもうけずのうのうといきているわけにはいかない。

「なんだ?おまえ?番所につきだされるとおもってたのかい?」

どうりで、どこに行くのかとも聞かず定次郎の後をつきしたがってきていたわけだ。


「あはは」

思わぬ笑いを漏らした定次郎を怪訝な目で見る弥彦に

「なに。そんなことじゃねえんだよ。だいいいち、お縄になるなら、俺のほうだ」

笑ったままいいおえると、定次郎は真顔になった。

「そんなことじゃねえんだ。

俺はな、お前に養子にこねえかっていおうとおもってたんだよ」

「え?」

「びっくりすることじゃねえさ。かんがえみれば、

お前はお咲たちのてて親でありながら、てて親になれねえ。

でもな、お前が子供養子にはいりゃあ、

いやでもてて親ってことになるんじゃねえかい?」

「・・・親方。いいんですかい?あっしなんかかが・・・」

定次郎の申し出をうければ佐吉との約束を果たすこともできる。

弥彦の罪を拭うとすれば、

それしかないだろう。

だが、弥彦のせめぎは

「お千香ちゃんを、おっかあを殺させたのはこのあっしなんですよ」

と、子供たちに顔向けできる自分でないことをいわせようとする。

「なあ。お千香は俺がお前と所帯をもたねえかって

口をすっぱくしたもんだから、

ちゃんと、お前の子供をうんでみせたんじゃねえのかなあ。

だとしたらよお。

もう一人たりねえよな?」

「もうひとり?」

「お前だよ。お千香が命をかけて子供をのこしたんだったら、

お前も俺の息子じゃねえか?孫の父親は俺の息子ってことじゃねえか?

お千香はそうのぞんでたんじゃねえのかなあ・・・」

こぶしで顔を拭うと弥彦は強くうなづいて見せた。

「親方・・・。精一杯・・・てて親と息子に・・・勤め・・」


弥彦の肩に手をおくと、

「なに。それでもな・・。

俺もお前をしばろうなんて了見はないんだ。

この先、いい娘がいたら、所帯をもちゃいいし、

そのときは、お咲たちはいままでどおり俺が面倒みるさ」

「と・・・とんでもねえ。

親方・・・。あっしは、それで、

お千香ちゃんとも夫婦ってことにもなるんだって・・・・」

そうおもわせてくだせえ。

弥彦の肩が思い切り振るえ

弥彦の大きな泣き声が

おんおんと路地にひびきわたっていった。


18


佐吉の亡骸は

定次郎の菩提寺である寒山寺のお千香が眠るに傍らに葬られた。


本来ならばとが人を

墓所にほうむってやることなど、

断りをいれるはずの住職であったが、

人づてにきいた佐吉の最後の絶叫があまりにあわれでもあった。


お千香さんの横でねむらせてやれれば、

佐吉の魂も、やすらぐであろう。

お千香さんもそうのぞんでいるだろう。

住職はそうもかんがえた。


だが、残された家族。

定次郎や定次郎の妻。

つまりお千香さんの両親には、

許せないことであろう。


ところが、案に相違して

定次郎が処刑場から

佐吉をひきわたされると

住職に頭をさげてきたのである。


とが人を墓所にいれてやってくれというのも、

無理難題であろうが

佐吉の亡骸をお千香のそばにほうむらせてくれないか。

と。


住職が定次郎の温情に

手を合わせたことはいうまでもない。


実際、お千香が自分を殺した

佐吉を傍らに眠らせることをうけいれるか、どうか。

これを考えるはずであろう定次郎が

頭を下げるということは

お千香の死んだわけを知っていると考えてもいい。


どこまで、

定次郎が真相をしっているのか、

判らないし、

住職が類推したことも事実かどうか、

わからないまま、

一生、我が胸にうずめておくことなのだと

住職は心口をむすんだ。


真新しい盛り土の横に

さらに真新しい盛り土ができあがると、

住職は卒塔婆を立て

回向経を上げた。


佐吉が弔われて四.五日がたった。


ちょうどお千香の四十九日にもあたるその日。

佐吉とお千香の墓に

線香を手向ける男がいた。


川端文左衛門である。

川端は捕縛された佐吉の牢内での

吟味役に徹した男である。


川端は佐吉の行状を聞かされると

すぐに

『佐吉が我が女房を殺した事情』に思いをはせた。

だいの男が

狂いはてて、女房をあやめるなど、

たいていの筋書きはみえている。


おそらく

『女房のお千香が不貞をはたらいたのだろう』

と、川端は読んだ。


ところが、

お千香を剃刀で切り殺し、返り血をとっぷり浴びたまま、

お縄にくくられた佐吉であるから、

誰が見てもそうだろうと思うことでしかない言葉。

「俺がお千香を殺してしまった・・・・・」

佐吉はそれ以外のことをいっさい喋ろうとしなかったのである。

だが、

お千香の不貞を口にしようとしないのは

お千香をにくんでいるという態にはみえなかった。

また、お千香に裏切られた自分がみじめすぎる。

こんなものも匂わせなかった。


しいて、言えば

お千香のしたことをかばっている。

お千香の名を汚されたくない。

こう見えた。

そして、もうひとつ・・・。

お千香の両親にお千香の醜態を晒したくない。

お千香のためでもあり、

両親の心痛の慮ったと

川端には見えた。


そう見えたのにも根拠がある。

佐吉の牢に差し入れをたずさえ尋ねてきた

唯一の男である、友人の弥彦に

佐吉がいったのである。

『親父さんを頼む。子供を頼む』

と。


そんなことを考え合わせて見ると

佐吉は

お千香という女房にずいぶんほれていたんだと

川端は思った。


思った川端は

ふと、我が女房に佐吉のことを話した。

女房が問いかえしてきた言葉が疑問になり、

きがついたら、

川端の足はお千香さんの墓に向かっていたのである。


そして、

そこに佐吉の墓を見た。

「どういうことだ?」

なんとなく腑に落ちないのは住職と同じかんがえであろう。

実際、お千香が自分を殺した

佐吉を傍らに眠らせることをうけいれるか、どうか。

定次郎は考えるはずであろう。


考えを煮詰めてゆこうとした

川端の耳に子供の声が聞こえてきた。


まだ、まともに歩けない下の子を抱いた弥彦と

定次郎夫婦に手を引かれたお咲が

墓所に入ってくるのを見つけると、

川端はやっと、

ああ。四十九日になるのかと気がついた。


19


お千香の墓に線香を手向けると続けて佐吉の墓に

手を合わせる男を見つけた弥彦が

子供を抱いたままちかよって

深々と頭を下げるのを見ていた定次郎である。

「弥彦。どなたさまだろう?」


定次郎が川端を知らないのは無理もない。

佐吉が入牢してからも、

一切佐吉の下に出むくこともなかったし、

川端も佐吉の黙秘のわけを思うと

定次郎に事情をきくこともやめていた。


定次郎は今日、

初めて佐吉を取り調べた川端と顔をあわせたのである。


「定次郎さんといいなすったかねえ。

よくぞ、赦してやんなすったね」

佐吉の亡骸をお千香の傍らに埋めてやったことを云う

川端の言葉に弥彦の胸がつぶれそうになる。

その弥彦に振り返り

「弥彦さんもずいぶんおもやつれしなすった」

無理もないと思う。

朋友である佐吉が死んだ。

指物の師であり、

弥彦にとって父とも仰ぐ

定次郎の娘は弥彦の妹のようなものであろう。

友が妹を殺し

裁きこそつけられたが、

悲しみと憎しみと・・・。

そして、こんな事件になる前に二人の相談にのっていられたら・・・。と

弥彦の悔いが深い焦燥をその顔に刻み付ける。


弥彦に抱かれた童を見つめると、

当然そうであろうと思いながら

川端はたずねた

「お千香さんの・・?」

「ええ」

そうだとこたえた弥彦の後ろに

しがみついた女の子を

「べろべろ・・・ばあ~~」

あやしながら覗き込むと

きゃらっと声を上げた。

片えくぼがくっきりと頬に

浮きで、

人懐っこい黒いまなこが

お千香さんに似ているのだろうと思った。


牢の中の佐吉は

暗い深い悲しみをたたえた瞳だったが、

むしろきれ長のまなじりだった。


「じいちゃんのいうことを

よくきいて、

赤ん坊の面倒もみてやるんだぞ。

おねえちゃんらしくなあ」

わずか、三つばかりの子に

難しいことを言っても判るまい。

川端は

定次郎に

『お孫さんを大事に育てなさることだ』

と、暗にほのめかしてみたのだ。


察するのは老爺の亀の甲である。

定次郎は

「ありがとうございます」

と、礼を述べた。


定次郎の先行きは孫の成長が喜びで満たしてくれるだろうと

川端はわずかながら安堵すると、

「おまえさんも勢だしてやってゆくんだよ」

と、弥彦に声をかけて

ここを立ち去ることにした。


20


定次郎が弥彦と二人で佐吉の亡骸を

下げ渡してくれと願い出てきたときから

川端の胸の中に妙なしこりを感じていた。


それがなにであるか、わからないまま

家に帰ってぼんやりと庭を見ていた。


家内のお春が

「おまえさん。また、なにか、かんがえてなさるね」

と、茶を入れてくれたものを

ずずっとすすると、

ふと、お春に佐吉のことを漏らした。


佐吉がお千香さんの不貞を隠し通したことには、

触れずに、

「佐吉って男はよほど、女房にほれてたんだなあ」

と、つぶやくようにいうと、

お春は即座に言い返したのである。


「やだよ。本当にほれてたら恋女房をころしたりするもんかね。

自分だけがおっちんじまうよお」

お春のいいようが妙に明るくて

川端はそのときは

「そうかもしれねえな」

と、お千香を殺すほどに思いつめた佐吉が馬鹿だと思った。

なにも、そこまで思いつめなくても

自分だけおっちんじまえばすんでしまったことかもしれない。

自分だけおっちんじまおうと思えば

逆にそんなしょうもないことで、死んでしまうのが

ばかげてるとおもえてくるだろう。

そうすりゃあ、

いくら、恋女房だって自分の命を投げ出してまで

義理を立てる必要がないと、

離縁でも何でも・・・。

ところが、

それができねえ、融通のきかない大馬鹿物なのだ。

不器用な男過ぎたんだと悲しく笑った。


寺の門を目指して歩きながら川端は

お春が言ったことをもう一度

考え直していた。


「本当にほれてたら殺しやあしないよ」

簡単すぎる言葉だが

妙にこの言葉も川端の胸に引っかかっていた。


そして墓所につけば、

佐吉の墓がお千香の墓の傍らにある。


これも妙なことだと思った。


佐吉の気持ちを考えれば

お千香の近くにおいてやりたいだろう。


だが、お千香を殺された定次郎にすれば、

憎い男のはずだ。


弥彦が佐吉の亡骸をどうにかしてやりたいのは

判らないでもない。

でも、それも定次郎に隠れ、目に届かぬように配慮しそうなものであるに、

とうの定次郎が来た。


いくら、佐吉の気持ちが憐れであっても

そこまで、定次郎が仏様のような気持ちになれるものだろうか?


どうにも、解せねえ。

つぶやいて、墓所から出るときに

もう一度、定次郎を振り返った。

『あ・・・』

川端の目に映ったものが

お春の言葉を別の言い方に変えさせていた。

「本当にほれてたら殺しやあしないよ」

佐吉は本当にお千香にほれていた。

これは嘘じゃない。

お春の言う

「本当にほれてたら殺しやあしないよ」

これも嘘じゃない。


なぜならば・・・・。


弥彦はかがみこんでお千香の娘に

線香を持たせて

「なんまいだぶ」

を、するのだと教えていた。

定次郎が蝋燭に火をともし

弥彦とお千香の娘はその蝋燭から

線香に火をもらおうとしていた。

ちょうど、並んだ二人の顔が

川端の目に映った。


そのときに川端の胸の中のしこりが

突然ぬけおち、

何もかもに納得がいった。


つまり・・・・。

そういうことか・・・・。


お千香の娘と

弥彦が顔を並べてみて、

判った。


あの娘は・・・

弥彦の子だ。

おそらく下の子も・・・。

そして、その事実を

定次郎もわかっている。


佐吉が隠し通してきた

事実は、それを知る必要の在る人間だけに

託されたのだ。

そして、

定次郎は佐吉へのすまなさに

お千香の傍らを赦したのだろう。


こう判ったとき、お春の言葉も

嘘でないと思った。


お春の言う

「本当にほれてたら殺しやあしないよ」

これも嘘じゃない。


そのとおりだ。

何の確信も無いが

佐吉が弥彦に子供を頼むと言った。

おそらく、佐吉は

弥彦とお千香の仲にきがついていた。

子供が弥彦の子だと言うことも気がついていた。


佐吉は

お千香にほれていればこそ、

自分が身を引けば

万事が丸くおさまると、考えたはずだ。


お春の云うとおりだ。


だが・・・・。


佐吉がおっちんでしまうより先に・・・。


確かにお春の言う

「本当にほれてたら殺しやあしないよ」

そのとおりに、


佐吉はお千香を殺しちゃいない。


「やだよ。本当にほれてたらころしたりするもんかね。

自分だけがおっちんじまうよお」


お春の云うとおり。


おっちんじまおうとしたのは、

お千香さんのほうだ・・・・。


21


川端は自分の中に突然沸きあがってきた推量を

もう一度、さらえ直してみた。


佐吉のもともとの性分をいうなら、お春の云うとおりに

ほれた女房を殺すだいそれた男ではないと思った。


なぜなら、

そんな性分の男だったら、

定次郎がお千香の傍らに埋めてやるわけがない。

また、、

傍らにうめてやらずにおれなかったのは、

お千香の不貞の挙句の佐吉の狂乱だったと

定次郎が知ったからだろう。


だが、

弥彦に子供を頼むといったのが、

既にお千香と弥彦の仲を知ってのことであれば、

ここが、おかしい。


どのみち、あからさまにしなければならなくなるだろう、

弥彦が父親であるということを

隠す必要も、かばう必要もない。


あっさりと、

弥彦にくれてやりたくなかったからだ。と、

云って見せてもかまわない気もする。


そうなると・・・・。

世間の人間はどうだろう?


弥彦を非難する・・・か・・・。


まして、お千香の不貞だとはっきりいえば、

お千香は毒婦よばわりにもなるだろう。


だが、

そういう事情をはっきりさらせば、

佐吉は情状酌量の余地が認められ、

死罪だけは、免れたかもしれない。


そうだ・・・。

そこだ。


ところが、佐吉はまるで、いきようとする気配が無かった。


むしろ、


お千香のあとをおう事をかんがえているようだった。


それも・・・おかしい。


女房を寝取られて・・・。


弥彦に怒り一つ、見せようとしない。


俺だったら・・・。


川端はお春を思い浮かべていた。

「わからねえな」

だいいいち、お春が俺を裏切るなんて事を考えられない。

俺ならどうするだろうなぞと、考えても

わかりゃしない。


すると、俺は何でさっきお千香さんが自害したんだとおもったんだろうか?


もう一度頭を振って

川端は考え直す。

簡単なことだ。

俺じゃねえ。

お春なら、女なら・・・。

自分の方が死ぬといったんだ。


その考えはこっけいかもしれない。


だが、たとえば、お千香が不貞を悔いて、

自害したとする・・・・。


その時、佐吉も弥彦のためにお千香のために

お春の云うようにしんでしまおうか、

どこかにいってしまおうか・・・。


いずれにしろ、お千香をなくすことになる覚悟をつけようとしていただろう。


ところが、お千香が先に自害・・・・。


佐吉はお千香が弥彦との仲をくいていると、さとるだろうが、

あとのまつり・・・。


そして・・・。

佐吉はお千香の後を追おうとするかな?


いや・・。


それをしたら、お千香より・・・


『弥彦・・・だ』


弥彦がお千香を追い詰めて

自害させたってことになる。


佐吉は・・・・。


そ・・・・。

そ、それを、かばったんだ。


弥彦に子供を託すしかなくなった佐吉は

自分が父親でないと気がついた佐吉は


弥彦がお千香を死なせた張本人だって事を

しらせちゃあ、いけないと思ったんだ。


だから・・・。


佐吉は自分がお千香を殺したって・・・。


川端の握り締めた手の中に涙が零れ落ちてきた。


22


川端が門前で涙をぬぐっている。


その後ろから

住職が声をかけた。

「川端さん・・・」

牢役人である、川端は近在では、良く知られている人間である。

川端がとが人を調べるときに

まず、自分の名前を名乗る。

「俺は川端という。

山端にすんでいるが、川端という」

この名乗りは世間の人の耳に有名らしく、

時折、

「山端の川端さんですね」と、問われる。

だが、住職はそんなたしかめをしなくても、

川端が川端であることをしっていたし、

佐吉の吟味役にあたったのが、川端であることも知っていた。


その川端がお千香の墓所に現れ、

定次郎たちと

いや、厳密には弥彦とお千香の子供たちと

顔をあわせた。

そして、門前に立ち尽くした、川端が

じっと、考え込んでいるのを

見つめ続けた、住職は

川端のそばに歩んでいったのである。


あわてて、男泣きを拭い去ると

川端はふいに現れた住職に照れた笑いを見せた。

「川端さんは・・・気がつかれたのですね」

住職がいうことは、

さっき川端が類推していたことだろうか?

それとも、

お千香の子供の父親が弥彦だということであろうか?

うかつなことはいえまいと、

川端が言葉に迷っていると

事の事実にふれるかのごとく住職が川端に告げた。

「誰も何もしらないんじゃ、佐吉があまりにも、

かわいそうで、忍びなくって・・いけません」


ああ、住職はなにおかをしっている。

川端の胸に巣食ったものは、

佐吉の潔さと情愛のふかさである。

それを誰にも知られず、報せず、

ただ、白砂に命を落としていった

佐吉である。


「住職・・・」

川端は自分の推量を

住職に話してみようと思った。


23


川端がどこまで、はなしてよいものか。

どこから、はなしてゆけばよいもか。

迷っていると、

住職のほうから、さきに口をひらいた。

「実は・・・私はお千香さんの死は

自害だったのではないかとも、考えられるのではないかと、

おもっているのです」

その根拠というのが・・・。


「ご存知のように寺のまかないは

檀家衆の寄進でなりたっているのでございますが、

私の口を潤わすことばかりが

寄進ではなく・・・」

蝋燭や線香という寺で使われるもので

あがなわれることもある。

そして、こういう使えば、無くなるものを

特に、住職のほうからも

寄進の項目の中に足しこんで

伝えているのであるが、

「その中に帷子の寄進を特におねがいしているのです」

死人の装束である帷子は

枕経を上げに来てくれと

伝えにきたものに、

最初に手渡すものである。

死装束は死人がそのまま、

墓にみにつけてゆくものであるから、

当然、使えば無くなるもので、

寺も死人を供養してくれと駆け込んできた人間に

さまに帷子を渡せるように

いくつか、数をもっていたいものでもある。


その帷子であるが、

「お千香さんが寄進してよこしたのですよ」

住職はそのときは寄進でしかないと、

こだわりもしなかった。

だが、

「お千香さんがなくなられた・・」

まるで、自分がその帷子を着るために

寄進してよこしたようにさえ思える。


「もしも、そうであるならば、

お千香さんは佐吉に殺されると

考えていたでしょうか?」

川端は尋ねられた言葉の裏を考えていた。

殺される。

そう、考えるかもしれない。

だが、そうと判って

帷子を縫っている暇などないであろう?

佐吉がお千香を殺したとするなら、

事の事実を知った佐吉が

突発的にお千香を殺したと考えられる。

佐吉に事実を話したのが

お千香であると考えても、

事実を話す前に

「佐吉は自分を殺す」

と、お千香が思うだろうか?


そして、

佐吉はお千香を殺すだろうと決め付けて、

先に帷子をぬうだろうか?


不自然である。


いや、仮にそうだとしても、

お千香は佐吉に殺されることを覚悟していたということになる。


つまり、この場合は

お千香の死はお千香自らのぞんだという意味で

自害、自殺ということになろう。


まして、こんなに、回りくどく、考えなくても、

お千香が死のうと覚悟していた。と、思える。

そして、

剃刀で首を切った。

それがさきで、

そこにたまたま、佐吉が帰ってきて、

死に切れずにもがいていたお千香をみつけ・・・。

佐吉は

お千香を楽にしてやるために

お千香に剃刀を当てていった。


そこに、異変を感じた同じ長屋の

お末が、顔をだした。

お末に子供を預けて

用事で帰ってこれないといった留守のはずの

お千香の家から、

何か、物音と、妙な声がする。


そして、そこに、血だらけの佐吉がたっていた。


子供を預けることは、おかみ連中の間ではよくあることで、

偶々。預けていたとかんがえていたが、

これも、お千香がはじめから死のうとしていたのなら、

筋の通る話である。


「お千香さんは自害だったのでしょう・・・」

川端はうなづいてから、

ふと、疑問に思った。


「住職はなぜ・・・そのことを

番所に?」

つげにこなかったのだ?


「それは・・・。佐吉が自分で殺したと

認めたときいたからです」


住職の答えは

川端のもう一つの疑問に

良く似ていた。


なぜ、

佐吉はお千香を殺したと

いいはったのだろうか?


「住職?それで、なぜつげにいかなかったのです?

なぜ、佐吉は自分が殺したといったのでしょうか?」


その答えを持っていると思う住職の「それは・・・。佐吉が自分で殺したと

認めたときいたからです」といった言葉を反芻しながら

川端は

住職がしゃべりだすのを待っていた。


24


「お千香さんと佐吉は本当に仲のよい夫婦だったのですよ」

先祖の墓に参る佐吉夫婦を見るたびに

住職はそう思った。

仲のよい夫婦というのは

ともに並んで歩いているだけで

華が咲いたように明るい風をそよがせる。

「佐吉がお咲ちゃんを授かったときにも

佐吉はずいぶんよろこんでいたものですよ」

柔らかな頬に佐吉の頬をすりつけ、

もみじの手を佐吉の手でくるんで、

墓参りに来たときも

佐吉がお咲をだいていた。


だが、お咲が成長してくるにつけ

佐吉の疑念が大きくなってきたのだろう。

目をつぶっても、

朋友の弥彦の面立ちを思い浮かべることの出来る佐吉なら

川端がきがついたより、はっきりと、確信をもったのではないだろうか?


「私はお千香さんが弥彦に気をうつしたとは、

どうしてもかんがえられないのですよ」

お咲をあやす佐吉を見つめたお千香の瞳は

幸せ色そのものだった。

「お千香さんが佐吉をうらぎらなきゃ、いけない理由・・・」

それを考えつくことは、安いことである。

「三年も子供が出来なかった夫婦に突然子供が出来て、

その子がだんだん、弥彦ににてくる・・・」

住職が考え付くことも

川端が考え付くことも

同じである。

「佐吉は・・・・、こだねがなかったんじゃないでしょうかねえ?

そうじゃなきゃ、お千香さんが佐吉をうらぎる理由がない・・・」

「子供ほしさ・・・か・・・」

「ええ・・・」

定次郎の孫期待に一切、触れず

「佐吉はお千香さんの裏切りを知ると同時に

自分がどうしてもやれない身体だだときがつき、

お千香さんのやむをえない気持ちも理解した・・・・。

だから、お千香さんののぞむとおり、

佐吉もきがつかないふりをして、

父親になろうとしていたとおもいます」

「そして・・・。それなのに・・・・。

お千香さんがしんでしまった・・・」

「ええ。お千香さんはつらかったのでしょう。

弥彦を利用したみたいなものですし、

佐吉へのすまなさと・・・、弥彦へのすまなさ。

そして、弥彦にどんどん似てくるお咲ちゃん・・・。

いやでも、佐吉がきがつくことになる・・・

弥彦も我が子とひきはなされているようなもの・・・」

なにもかもが、お千香をくるしめたのだろう・・・。

だが、そのお千香の苦しみごと佐吉はきがついていただろう?

「佐吉は嫌な予感がしてたんじゃないでしょうか?

だから、あの日、ひょいと家にかえってきた・・・・」

そして、何もかもがおそかったと・・・。

「佐吉が父親じゃないとしっていると思ったわけは

もうひとつあるのですよ・・・。

お千香さんが自害だったとしても、

佐吉が父親だと思い込んでいたなら、

子供のためにいきてゆこうとするでしょう?

お千香さんの死は佐吉に

子供が弥彦の子だということを

はっきりつげたようなものだったんでしょう」


そこまで話すと住職はやっと、

川端の尋ねごとに触れだした。

「ですから、私は帷子のことを番所にとどけなかったんですよ」



「どういうことでしょう?」

川端の目の中に小さな憤りが見える。

しらせてくれれば、

佐吉を処刑に追い込むことは回避できたかもしれないというのに・・・。

「お千香さんがしんだあとに、

佐吉には生きていく理由が無かったでしょう・・・

子供は弥彦の子・・・。

お千香さんはいない・・・。

ほうっておいても、佐吉はお千香さんの後をおったとおもいます」

それが、捕縛された・・・。

「佐吉は自分が殺したといったんですよね?

私はそれだとおもうんですよ・・・・」

住職の言うことがわからない。

川端はもう一度、たずねなおした。

「どういうことでしょうか?

私にわかるようにおしえてくれませんか?」

戸惑った顔の川端を見ながら

住職は小さく、ため息をついた。

「佐吉は自分が殺したことにしたかったのですよ。

わかりますか?

自分の女房を死なせたのは

誰でもない「佐吉」でありたかったのじゃないでしょうか?」

「え?」

「わかりにくい感情だとおもいます。

けれど、お千香さんの・・・・

おそらく自害とかんがえてよいとおもうのですが・・・

お千香さんの自害を見届けた佐吉は

お千香さんの死をが自分から離れてゆくためと、かんじたことでしょう」

「あ、ああ・・・」

川端の胸の中のしこりがこんどこそ、おちてゆく。

「それならば、

佐吉自身がお千香さんを殺すことが

お千香さんを我が物にすることになったのじゃないでしょうか?」

「それで・・?」

「そうだと思うのですよ。

だから、「女房を殺したのは自分だ」と佐吉がいったと

聞いたときに

佐吉は死ぬ気でいることも

佐吉の思いも・・・・私には・・・みえていた・・・」

だから、

私が出来ることは黙って佐吉を逝かせてやること・・・。

女房殺しとよばせたまま・・・・。

それこそが佐吉の望んだことだったと思うから・・・。


得心が川端の顔に浮かぶのをみてとると、

住職は川端に深く頭を下げ

その場をたちさっていった。


「佐吉・・・おまえ・・・。

今・・・。空の上でお千香さんとふたりきりで、

・・・・しあわせなんだよな・・・」

川端は返ってこないたずね事をつぶやくと

家に帰ろうと思った。

家に帰れば

お春がまた、茶を入れてくれる。

のんびりとお春の顔を見ながら

佐吉が今、空の上で

こんな気持ちでいるんだろうと、

思いをはせてみようと思った。


                        終

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白砂に落つ @HAKUJYA

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