第88話 1554年(天文二十三年) 5月 北近江


 時は一年以上前に遡る。



 浅井久政はおかしな客の到来を告げられた。行教ぎょうきょうという名の虚無僧とその弟子の二人組である。そのような名に覚えはない。まして虚無僧など。


 天文二十二年十一月、地頭山合戦で六角義賢に敗北した浅井久政。北近江で守護の京極氏を追いやり成り上がってきた浅井家だったが、この敗戦で独立性を失い南近江の六角家に従属するようになる。浅井を盟主に担ぎ北近江を支配してきた国人衆は六角に押し込まれ、支配されてしまった久政に対して不満を貯めていった。


 近江の北の若狭では去年(天文二十二年)の九月。若狭武田家が山陰の雄、尼子家に滅ぼされた。同じく京極家を主家とする浅井と尼子。それぞれが主家を飲み込み大名と化したが、尼子は幕府より八カ国の守護に任じられそれ以上の領国をもつ大大名。浅井は六角の従属大名。その差は天と地ほどに大きい。

 遠い国の出来事と気にもしていなかったが、もうそんなことを言ってる場合ではなくなった。遠い顔も見たことがない親戚がいきなり成り上がって挨拶に来たようなものだ。六角より尼子のほうが強いのではないか?領国の数は尼子が圧倒的だ。畿内は三好が支配し上様すら放逐するほどの力を持っている。六角も押され気味だ。そこに今度は尼子だ。これは戦の匂いがする。そのように考えれば今の我が身が不甲斐ない。大名たちの争いにただ巻き込まれるだけの存在でしかない今の浅井家。せめて北近江だけでもしかと治めること叶わぬものか。忸怩たる思いが胸に溜まっていく。


 海北綱親かいほうつなちか(綱親は海北家に代々伝わる名前)は虚無僧が殿に面会を求めていると聞いて、直ぐに久政の元に向かった。今年の二月頃から領内に二人組の虚無僧が現れ、浅井家臣の城にきて城主に面会を求めるということが何件かおきていた。対して気にも留めてはいなかったが久政に面会を求めてやってきたことで、これは裏に何かあると思い直した。必ず殿と同席し何を企てているのか、しかと見定めなくてはならない。六角に臣従しているこの状況で、更に悪い方向に家が傾くのは避けねばならん。場合によっては…久政の押込みも考えなくてはならない。

 海北綱親は厳しい覚悟を持って久政の元に向かい、虚無僧との面会に同席した。



「お目通りが叶いありがとうございます。私は従者の茂吉と申します。こちらが我が師匠の行教ともうします」

 久吉と名乗った従者の一言から会談が始まったが浅井久政と海北綱親は虚無僧の異様さに目を見張った。

 虚無僧は顔に頭巾を巻き目だけを覗かしている。いや深編笠は脱いでいるので今の出で立ちは虚無僧とは言えない…のか?

「その、お顔はみせてはいただけないのですか?」

 率直な疑問を綱親は投げた。少なくとも北近江を治めている長の前で頭巾をかぶり顔を見せないなどありえない。それを平気で行える目の前の御仁に呆気にとられたというか、度肝をぬかれたというか。

「…率直に申し上げます。師匠が被りを取られるとお二人方はもう後戻りができません。それでもよろしいですか」

 茂吉が吐いた言葉の意味がよく分からない。

 久政は聞いた。

「それはどういう意味じゃ」

「言ったとおりにございます。少し付け加えるならば、浅井家は後戻りが出来ないということでございます」

「なんじゃと!おのれ半僧半俗の分際で武家を愚弄するなど、この場で手打ちにしてくれる!」

 綱親は後ろに置いてあった刀を手に持ち、鞘から抜いた。そして行教の首であろう箇所に押し当てた。しかし従者はピクリとも動かない。行教も不動の姿勢を崩さない。

「…よろしいのですか」

 一言、行教が言葉を発した。その声を聞いた時、何かが浅井久政の身体を走った。これは…儂はこの声に聞き覚えがある。頭巾で声がくぐもっていたが、確かに聞き覚えが。

「綱親、刀を収めよ」

 ゆっくりと綱親が刀を鞘に収めた。

「もう一度聞く。後戻りが出来ぬとはどういう意味じゃ」

 茂吉は行教の方を見た。行教は頷く。

「浅井家は滅ぶということにございます」

 浅井久政は暫しの沈黙の後

「顔を見せよ」

 と被りを取ることを促した。

 真っ赤な顔をして海北綱親は座っている。ここまで尊大な態度を取るとは、くだらない話なら直ぐにでも切り捨ててくれる。

 頭巾の中から現れた顔を見たとき二人は息が止まった。

「お、お、お館様」

 浅井久政は動かない口と喉を精一杯開けて声を絞り出した。

 目の前には主家の主、京極高延が座っていた。


 浅井久政と海北綱親やっと我にかえりその場に平伏した。

「お許しください。分からなかったとはいえ、お館様に対する数々の非礼、ましてや刀を向けるなどあってはならないこと。ひらにお許しください」

 久政は許しを乞う。綱親はただただ頭を床に擦り付けるだけだ。

「二人とも、久しぶりじゃ。面をあげよ。今の儂は京極の棟梁ではない。ある大名の客人じゃ。先に言っておくが京極の旗を立てるなど考えてはおらんぞ。そしてその大名から大切な話を持ってやってきたのじゃ。さ、面を上げてくれ。話を進めたいでのう」

 二人は高延に促され顔を上げ、席についた。

「これから話すことは浅井の行く末を決める大事な話じゃ。真に間違えれば浅井は滅ぶぞ」

 久政はゴクリと喉を鳴らし、頷いた。下克上を果たし追い落とした主家の主が目の前に現れただけでも胸が苦しいのに、その主はなんとも落ち着いた様子でサラリと恐ろしいことを言う。動かなくなる頭を必死に回しながら耳を立てる。

「儂は今、尼子出雲守義久様の客将として八雲城下に屋敷を頂いておる。ゆくゆくは尼子の臣下として働くつもりじゃ。出雲守様は北近江の雄、浅井家と盟約を結びたいと儂をここに遣わした。浅井にとってこれ以上ない話じゃ。この話受けられよ」

「その話、受けねばどうなるのですか」

 久政の問に高延は即答で返す。

「浅井は滅びる。六角と共に」

 な、滅びる、六角とともにじゃと。尼子は六角を滅ぼすのか!

 自国だけでなく六角も滅びるとの答えに驚愕しつつもそんな事があり得るのか、出来るのかと久政は思う。そして首を横に振り海北綱親を見た。綱親は信じられないと首を横に振る。

「信じられぬのも無理はない。よって暫く猶予を与える。来年までに周防、長門の大内氏、内情は陶晴賢の国じゃがここは滅ぶ。尼子の支援を受けた毛利によってな。尼子と毛利の盟約がなり大内は滅び、尼子は後顧の憂い無く、京を目指すことができる。もう若狭は尼子が制したであろう?次は京の都じゃ。それどころではない。御屋形様は畿内だけではなく日の本の一統を目指しておられる。将軍を放逐して天狗になっている三好などとは違うのよ」

 話が大きすぎて着いていけない。

「直ぐに朽木の上様は京に戻られる。御屋形様によってな。そしてその方らにこう告げよと申された。『手始めに近江一国浅井が面倒をみんか』と。よいか、尼子の覇道に浅井を加えても良いと仰っておるのだ。そのための力添えを、今すぐにでも始めるとも仰ったのだぞ。よく考えよ。このまま六角の下でただの国人として終わるのか、北、南合わせた近江の領主となるのか、そしてさらに多くの国を従える道を歩むのか、どちらが良いのか考える必要もないと儂は思うがの」

 しばらくして久政は聞いた。

「何を今からしていただけるのでしょうか」

「戦に必要な物を秘密裏に運んでくださる。銭も用立てしてくれる。タダとは言わんが十分配慮がなされるぞ」

 綱親が問う。

「誠に恐れ多いのですが、お館様のお言葉を信じてもよろしいのでしょうか。なにかお話の裏付けになるものか事柄とかはあるのでしょうか?」

「小谷にも尼子の商人が来たはずじゃ。その者、尼子の御用商人の証として御屋形様の花押が入った書状を持ってきたはず。それを持ってまいれ」

 確認すると確かに尼子の山城屋という商人がやって来ていた。近江で商いを行いたいと花押が入った書状を提出していた。持ってきた書状を拡げる。高延は懐から丁寧に包まれた書状を出し、横に拡げたそれには

『京極高延殿 尼子観光大使に任ずる 尼子義久』

 とあり花押が記されている。山城屋が提出した書状に記された花押と一致した。

「まさに…お館様、尼子観光大使とはいかなる役職なのでございますか」

「それは今は言えぬ。だが尼子の威光を天下万民に知らしめる、とてつもなく重い役目じゃ」

 浅井久政は決めた。この盟約に乗ろうと。それに乗らなければ間違いなく尼子は攻めてくるだろう。荒唐無稽なようで実現可能なようで、なんとなく狐に騙されたような気もするが、目の前にいる旧主君の、以前には考えられなかった堂々たる振る舞いに呑まれていたし、今の鬱屈した境遇から抜け出せるなら騙されてもいいので乗っかろうと思ったのだ。

「細かい話は追ってくる使者と話されよ。そしてしかと見よ。儂が先程言ったことが一つずつ成されていく有様を。婿殿はやると言ったことは必ずやり遂げる男だ。舅の儂が保証する」

 誇らしげに笑みを浮かべながら、京極高延は小谷城を後にした。


 そして高延の予言は的中していく。その度に浅井久政は己の決断が間違ってはなかったと心に刻む。そして静かにハッキリと行く先を定めた。【近江統一】必ずや成し遂げてみせるぞ。





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