第72話 1553年(天文二十二年)9月 若狭制圧(武田信実から見た)

 後瀬山城のちせやまじょうを船の上から見据える武田信実たけだのぶざねの心の中にはたくさんの思いが渦巻いていた。

 懐かしさ、驚き、不安、楽しみ…それらが入り混じっている。気付けば腕に粟が立っている。儂は恐れているのか、なにを…

「武田殿、どうなされた」

 主の声が聞こえた。そうか、儂は主を恐れていたのか。本当に儂をここに連れてきたこのお方を恐れていたのだ。富田城の深い奥の部屋であの話を聞いたとき、夢物語を語るただの世間知らずとしか思えなかった。従うふりをして出奔する機会を伺っているうちに、あれよあれよと夢は一つずつ現実となり、儂の中に迫ってくる、外堀を埋めるように。気がつけば逃げ場は無くなっていた。

「御屋形様、後瀬山城が見えまする」

「うむ、そうだな。武田殿の仕事場だ。これから武田殿にはしっかりと励んでもらわねばならん」

 主はそう言うと、いつ見ても変わらぬ強い力を湛えた目で儂を見た。見つめられるうちに恐れは消えていった。このお方は恐ろしい。夢をこの世に顕現させるなど人のわざではない。だが無道ではない。人の心も持ち合わせている。

「御屋形様。もう【殿】を付けられるのはおやめくださいませ。某、既に尼子の臣にございます」

「おお、すまん。つい癖でな。わかった。武田信実、しっかりと励め」

「ははっ!」

 御屋形様は戻られる。視界から消えると儂はふり返りまた城を見た。心の中は定まった。後はただ行うのみ。


 九月三日の夜明け前、後瀬山城の沖に尼子水軍の船が浮かんでいる。朱印船六隻、ジャンク船一隻。兵一千、荷駄隊二百と鉄砲玉、矢、硝石を運んできた。

 小浜の湊は尼子には馴染み深い。勝手知ったる他人の家(湊)だ。三隻の朱印船が桟橋に滑り込み続々と兵たちが下船する。この段になってようやく異変を感じとった武田方はバタバタと若狭武田家当主、武田信豊たけだのぶとよの下に走る。

「殿!尼子の船から足軽共が降りてきます。もしや城に攻め込んでくるのでは!」

「なんだと!なぜ尼子が武田を攻めるのだ。今すぐ兵をあつめよ」

 武田信豊が下知を出したところに、戦支度を終えた内藤重政ないとうしげまさが兵を引き連れ信豊の元にやってきた。

「殿、こちらへ」

「おお、重政。どうなっておる」

 重政に声をかけながら近づいた信豊を兵が囲んだ。

「何をする!重政どういうことだ」

「殿、お静かに。私の言うとおりになさりませ」

 城内を武装した武田兵が占拠していく。そして城門が開けられた。

 尼子兵の先頭に立って武田信実が入ってくる。

「兄上、お久しぶりですな」

「信実?!何をしにここに来たのだ。貴様は安芸武田家当主であろうが」

「安芸武田家はもう滅びました。そしてこのままでは若狭武田家も滅び、この地は戦が絶えぬ不毛の国になりましょう。そうなってはあまりにも不憫。よって某が若狭を救いに参りました」

「ばかな、何を言っているのだ。直ぐにこの者たちを下がらせろ!」

「下がるのは兄上です。今日この時をもって若狭武田家は尼子の傘下に入り、その名を残していくのです。そして若狭は尼子の領国となり、私が代官としてこの地を守っていきまする。兄上、達者でお過ごしください」

「こんなことがあってたまるか、エイ、離せ離さんかー」

 武田信豊は尼子兵に連行され城の外に連れて行かれた。

 信実の前に信豊の嫡男、武田義統たけだよしずみが連れてこられた。

「義統よ、そちは出雲に向かえ。出雲国、八雲城にて尼子の政を習うのだ。励めばいずれ若狭に帰ることができるやもしれん。とにかく己の力で生きていくのだ」

「そんな、叔父上!!このようなことが許されると思っておるのかー!」

「ならばどうする。儂に切りかかるか?そもそもお主たちが、くだらぬ内紛を繰り返し武田家を潰して行ったではないか。今もお前と兄上がまた懲りずに争おうとしておるであろう!許されぬのはお前たちじゃ!!」

 義統は怒りに震える。しかし言い返すことはできなかった。信実の言うとおりだからだ。

「出雲に行く前に、儂が行うことをしっかりと見ておけ」

 そう言って信実は後ろに控えている二人の武将のうち一人に近づいた。すれ違い際に小声で

「では手はず通り、行いまする」

 頭を小さく垂れる信実に武将は軽く頷く。


 尼子兵たちは後瀬山城と小浜の湊を完全に支配し、増援の到着を待つ。次の日の朝、兵一千の増援が到着する。信実は領内の家臣、国人たちに後瀬山城への出頭を命じた。

 石山の武藤友益むとうともますが真っ先に出頭に応じ、武田四老のうち二人が信実傘下に加わった。続いて熊谷直之くまがいなおゆきがやってくる。残るは粟屋勝久あわやかつひさただ一人。しかし粟屋が城に来る気配はなかった。

 高浜の逸見昌経へんみまさつね砕導山城さいちやまじょうに籠り、出頭を拒否した。明確に武田信実に対して叛意を示したのである。

 九月六日、二千の兵と共に砕導山城に進軍した信実は陣を敷き城攻めの気配を見せる。しかし城には城兵二千が籠る。逸見昌経は余裕だ。

「たったあれだけの兵で何をしようというのだ。やはり武田は阿呆ばかりじゃ」

 日が暮れ夜になり戌の刻(20時)、城内から火の手が上がった。ここにも尼子の草はいる。阿呆は逸見だ。すぐに城門は開かれ拡張途中の城内に尼子兵がなだれ込む。一刻後、逸見昌経は信実の前に引っぱりだされた。

「こやつは三好と通じようとしておる。即刻首を刎ねよ」

 信実は躊躇なく首を飛ばし、逸見一族は全て処断された。砕導山城は落城しこれで若狭三郡のうち遠敷郡おにゆうぐん大飯郡おおいしぐんの二つを尼子が支配した。残るは越前と接する三方郡みかたぐんのみ。


 九月七日、粛々と兵が湊に降りる。小浜に尼子兵五千が揃った。

 武田信実を総大将とする尼子軍三千は丹後国建部山城たけべやまじょうに向かって進軍を始めた。城には一色義幸が詰めている。丹後では若狭武田の侵攻、国人の反乱及び国人同士の争いなどが頻発し、一色家の権力は失墜していた。現当主、一色義幸いっしきよしゆきはなんとか国をまとめ国力の回復に努めているところであった。しかし尼子軍の進軍に対しては籠城するしか手はなく、建部山城に続いて稲富祐秀いなとみすけひでの弓木城、高屋良栄たかやりょうえいの下岡城も落城、丹後国は九月十一日に尼子の支配地となった。


 武田信実が丹後から後瀬山城に戻ると粟屋勝久が出頭していた。

「安芸守様、お見逸れいたしました。粟屋勝久、尼子家に臣従いたします」

「…儂を値踏みしていたのか?」

 問を投げかける信実に対して粟屋勝久は俯いたまま答えを告げる。

「傀儡の代官など如何程と思いましたが、鮮やかなお手並み、誠に感服いたしました」

 歯に衣着せぬ物言いに信実は思わず大笑いした。

「そうか、そうか。お主がそう見たなら僥倖じゃ。これからは尼子に忠義を尽くすがよい。」

「ははっ。して尼子の御屋形様は若狭においでになられるのでしょうか」

「うむ、近いうちにいらっしゃるであろう。若狭は今後、尼子にとってとても大事な領国になる。御屋形様が長期に渡って逗留されることもあろう」

「左様でございますか。楽しみにございます」

「御屋形様の下におると退屈せんぞ。少々恐ろしいお方じゃが、普段は静かな方じゃ。ま、自分で確かめるが一番ぞ」

 信実はそう言って粟屋を下がらせた。


(信実様があのような一廉の武将だったとは。それに勇将の下に弱卒なし…尼子の御屋形とは何者だ)

 粟屋勝久は尼子の棟梁に会える日が待ち遠しくなった。これで憎き朝倉に立ち向かうことができると思うと。無性に嬉しくなった。


 若狭、丹後の代官となった武田信実は客将扱いであった今までとは打って変わって忙しさに忙殺されることになる。尼子の最前線を任されたのだ。それに主は無茶振りの権化だ。無理難題を押し付けてくる。だがそれが主の優しさなのだと自分に言い聞かせながら黙々と主命を遂行していくのであった。 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る