第7話

 ■■■


 限界まで膨張した月が高く浮かんでいる。


 見る者の胸の内を搔き乱すような赤みを帯びた月を見上げ、溜息をつく。


 嫌な色だ。


 部屋に一か所だけ設置された掃き出し窓を開け、吹き上げる風に目を細めながら眼下に広がる街並みを見ていると、後ろでガチャリとドアが開く音がした。


「妹尾」


 一気に吹き込んだ風にバタバタと髪を煽られながら渋い顔の柚須さんが鋭くヒールを鳴らして目の前に立つ。


「奴はどうやら根城でじっとしているらしい。お前にやられた傷が痛むのかもな」


「そりゃどうも」


「これを持っていけ。お前が狼男にくれてやったやつの代わりだ」


 投げて寄越された通信機を手の中で玩び、耳にねじ込む。


「動きがあれば連絡する。さっさと行け」


「柚須さん」


「なんだ」


「覇気がなくて気持ち悪いんだけど」


 狼男の死期が近かったのが余程堪えたのか、いつになく元気がない。


「馬鹿者。私をなんだと思っているんだ、お前は。私だって悩みの一つや二つ抱えているんだよ。生きるということはそういうものだ」


「さいですか」


「無駄話はいい。お前はお前の出来る最善を尽くしてこい」


「…………」


「分かるな」


「了解」


 返事を聞いた柚須さんはにやりと笑い颯爽と部屋から出ていく。


 風に煽られてバタンと強くドアが閉まったと同時に静寂が訪れる。


 最善、ね。


「まいったね、どうも」


 口の端が歪むのを感じてバリバリと頭を掻く。


 あの小娘、どこまで見抜いているんだか。


「怖いなぁ、ホント」


 独りごちて、窓の縁を蹴った。


 ■■■


 柚須さんから教えられた場所は、静まり返った住宅街の中にある神社だった。


 事前に人払いをしたのだろう、ひしめく住宅はどれも明かりがついていない。


 暗闇の中一層の闇を落とす木々に囲まれた神社の中で、古びた街灯だけが点々と灯っている。


 鳥居をくぐる手前で一瞬、耳を掠めた風切り音に足を止める。

 いる。


 鳥居の足元に鎮座する狛犬を一瞥して鳥居をくぐり境内の中に足を踏み入れた途端、獣臭さと血の臭いが鼻を突く。


 臭いを辿って進んだ境内の奥でおそらく群れをなしていたのだろう、野犬が幾重にも倒れていた。


 そのどれもが原型を留めていない肉塊の中心で、ひときわ大きな体躯たいくの狼男が唸っていた。


 背後に立つ俺に気を配る余裕などないのだろう。


 身をかがめ、全身の毛を逆立てている背中は緊張からか大きく盛り上がっている。


 ピー。


 弾かれるように飛びかかっていった狼男の体は、耳元で響いた電子音と同時にその勢いを相殺されるように風切り音と共に爆ぜた。


 肉塊と化した狼男が崩れ落ちるその向こう側、こちらに指を向ける人影がひとつ佇んでいた。


 こいつが。


「よぉ」


 ゆっくりと右手を下ろしたその人物は俺の声に反応して小首を傾げた。


 犬の残骸を踏み付けて人影との距離を詰める。


 線の細いその人影は黒いコートを羽織り、顔面は狐面によって隠されているため表情は見えない。


「散々邪魔してくれたな。お前のせいでどれだけ苦労してると思ってんだ」


 狐面は答えない。


 一足で飛べば手の届く距離まで詰め寄った俺をじっと見つめたまま、左手に携えた分厚い本を開いている。


 何も感じない。


 こいつ、殺気はおろかキメラであれば感じるはずの嫌悪感すら微塵も感じない。


「お前、なんなんだ」


「─────」


 狐面は小さく肩を揺らして再び右手を上げる。


 揃えた二本指をまるで銃口のように突き付け、狐面の奥から見据える瞳が俺を捉えた。


 一瞬、爆発的に膨張ぼうちょうした殺意にうなじの毛が逆立つ。


 視界の中で狐面が持っていた本のページがはらはらとひとりでにめくれていく。


 成程、あれか。


「──────」


 風切り音に混ざって聞こえた声に思わず口元が緩む。


「そうかよ」


 自分の体が爆ぜる音と共にブツリと意識が途切れた。



「何なのって聞かれても、困るんだけど」

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