忘れられない話

平賀学

忘れられない話

 お姉さんに声を掛けられたのは初めて家出したときだった。行く当てもなくて今夜いきなり泊めてなんて言える友だちもいないし、財布には千円札が二枚と小銭がいくらか。駅のホームの柱に背中を預けて座り込んで、スマホを見つめるくらいしかできなかった。お尻が冷たい。せいぜい数時間うろついたら帰ってくるでしょ。そんなふうに思ってるのが透けて見えて、実際そうするしかできないのでとてもいらいらした。いらいらしながらお尻と一緒に気持ちが冷えるのを待つしかなかった。


 だから声をかけられたとき、最初は自分のことだってわからなかった。もういちどすみません、と声を掛けられて頭を上げた。わたし? 視界に入った人は優しく笑った。

 家族以外と話すのは苦手で、話しかけられると頭がまっしろになってしまう。しどろもどろに受け答えして、なんでだかわからないけど、行くところがないならお姉さんのところにおいでよという結論になった。知らない人についていっちゃだめだとかこういうのは危ないところに連れていかれるんだとかぐるぐる頭を回ったけど破滅的な気分だったから別にいいやとなった。家に戻るしかないならこんな風に非日常で終わってもいいや。


 お姉さんに連れていかれたのは駅から少し歩いたマンションだった。途中ぽつぽつと話しかけられたけど気の利いた答えは返せなかった。片付いた部屋。人の家のにおい。知らないにおい。

 あたたかい飲み物を出されて、二人でお笑い番組を見ながら、他愛ない雑談をした。ほとんどお姉さんが喋るのを、わたしがときどき相槌を挟むみたいなものだったけど。

 そのあとも別に危ないものを勧められたりあなたは神を信じますかなんて言われたりすることもなく、夜が更けていった。お姉さんはお酒を飲んでたけど、君未成年でしょ、だめだよ、と言われた。別にねだったわけでもないけど。お姉さんはソファを即席のベッドにして、そこで横になるように言った。借りたルームウェアは少しぶかぶかだった。


 朝、連絡先を交換してお姉さんの部屋を出た。お姉さんは学生は朝早いねえとだけ言った。家からは連絡はなかった。


 それからときどき、家出先にお姉さんの部屋を選ぶようになった。映画を見たり、小説を借りたり、しまいに冷蔵庫の中を勝手に見るようになった頃には君も図太くなったねと少し呆れられた。家出の前に連絡を入れておいたら、いいおかしを買ってくれていることもあるのだ。


 家出の回数が増えても誰にも何も言われなかったし、お姉さんの部屋に行くのが楽しみになっている自分がいた。


 秋が過ぎて、冬になって、すっかり空気が冷たく痛くなった頃、お姉さんはぽつりと言った。


「君の受験が終わったら旅行行こうよ。合格してたら合格祝い、落ちてたら傷心旅行」

「ええ。落ちる前提ってなんかやだな」

「別に落ちるとは言ってないでしょ、がんばったらご褒美がないと。結果がどっちでも遊びたいなってことだよ」


 合格したら君、東京の方行っちゃうんでしょ、とお姉さんは笑った。

 二人で調べて、温泉がいいだの海が見えるところがいいだの、こういうときはけち臭くなっちゃだめだだの言いあいながら候補を挙げていった。絞るのはなかなか骨が折れた。だってどこに行くのも楽しそうで、きらきらして見えたからだ。


 二月の頭。わたしは駅からの道を走った。少し積もった雪がとけて、道はすべりやすくなっていたけど、気にせず走った。転んだって構わない。早く伝えたい。


 今日はケーキでお祝いかもしれない。実は料理がてんでできないお姉さんは、わたしが来るときだけおいしそうなごはんを全部出前でとっている。少し見栄っ張りなところがあるのが、大人のくせになんだかおかしくて、でもわたしが好きだって言ったものはずっと覚えてくれていて。


 弾む足はマンションの前に停まっている白い車を見て止まった。あれなんだっけ。救急車か。誰か倒れたのかな。走ってないときは鳴らさないんだ、サイレン。

 珍しいものを横目に見て、部屋番号を押して、インターホンを鳴らした。


 その日お姉さんには会えなかった。

 それからずっと会えなかった。


 合鍵も持ってなかったし、家族でもなんでもないし、そもそもお姉さんが何をしてる人なのかもなんにも知らなかったから、あの日何があったのか、ほんとうのところは誰にも教えてもらえない。

 ただ長袖の裾から見えた白い筋の重なった跡とか、サプリみたいに飲んでいた錠剤とか、見えていたけど見ていなかった振りをしていたものはあって、でもそれはお互いさまで、別にわたしたちはそれでいいんだって勝手に思っていて。


 既読のつかないメッセージを眺めながらぼんやりとお姉さんの言葉を思い出した。


「合格したら君、東京の方行っちゃうんでしょ。そしたら忘れられちゃうの、やだな」

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