第2話 人魚と人間
そう、最初はそれだけだったのに……わたしは、出会ってしまった。最愛の彼に。
交わる事のなかったはずの二人の運命は、幸か不幸か交わった。
見ているだけでよかった海。眺めるものだと決めつけてかかった風景でしかなかったそこもまた世界であり、数多の命を育んでいた。
彼もその一員。それも、どこかの王族の、国の中枢を担う人魚。わたしとは大違い。正反対と言ってもいい。
恋愛なんて幸福の代表格みたいなものは、自分とは一生無縁の事柄だと思っていた。するにしても、相手は人間だろうと。市井の片隅に住まう、わたしと同じような人だろうと高を括っていた。
人生は、なにが起きるか本当にわからないものだ。
あの日、帽子が風にさらわれていなければ、わたしたちは出会わなかった。いまでも思う。海中に住まう彼と出会うチャンスは、その日のその時刻しかなかっただろう。
毎日、海に行っていても、わたしはそれを眺めるばかりで、足さえ浸そうとはしなかった。彼は彼で、一人になれるところはないかと行き着いた先がここだったと言う。
偶然がわたしたちを引き合わせた。
人魚という種族について詳しくはないが、彼の話から描き出せる彼らは、人間とそう遠くない精神構造をしているように思える。
その彼は、もし人間だったとしても、平均値に収まるような人でなかったであろう事は容易に想像できるが。
あるとき、わたしが彼の肉体を大きく傷つけてしまうという事件があった。
わたしには、愛しい対象を噛む悪癖があり(とはいえ、それも彼と出会って発覚した事だ)、あの人魚を前にするとその欲求を抑える事が出来ず、いつも彼に噛みついては痛々しい痕を残して満足していた。
その事だけでも獣じみているというのに、わたしは彼の肩の肉を噛み千切ってしまったのだ。
人間なのに顎の力が強すぎる……。自分でもなかなかのショックを受けたが、肩を噛み千切られたうえに、その肉を誤嚥された彼などは、その比ではなかったはずだ。
しかし、それを告げられた彼は、わたしに『僕の肉の味を君に味わってもらえなくて残念だ』と言ってのけた。
それを聞いて、こんなに優しいひとは世界中のどこを探しても他にいないと思った。発言内容のすべてが本当だというわけではなかったとしても、彼が責める事も怯える事もしなかったのは変わらない。
おまけに、あのときの彼の表情ときたら。わたしの情欲に直接訴えかける恍惚とした笑み。よほど、もう一度噛みついてしまおうかと思ったのは、ここだけの話。
……とまあ、なんてことはない愛情が過剰な恋人たちの一幕として解決するはずだった事件だが、その日から、わたしの運命は思わぬ方向へ転がっていく事になる。
とはいえ、人魚の肉を人間が食した際に発生する効果の特性上、異変に気付くまでは数年を要したが。
そう。わたしは誤って口にした愛しいひとの肉片により、不老長寿を得たらしい。
……などと聞いても、うまく飲み込めないだろう。つるっと勢いよく喉に滑り込んだ肩の肉と違って。
わたしだって、十年ほどは気のせいだと思っていたし、もっと言えば気にも留めていなかった。おばあちゃんの話を聞いていなければ、いつ気付いていたかわからない。
確か、生贄として捧げた人魚の肉を食べた集団が全員、死ぬまで当時の姿を保っていたという概要だったか。
その話は単なる民話という体で書物に載っていたというけれど、実際に老いとは無縁の体になったわたしだからわかる。大部分が実話なのだ、おそらくは。
どの部分に不都合があったかは不明だが、実際の出来事だと割れれば困る者がいたのだろう。
伝承という形でなければ、後世に残す事ができなかった。……虚構に落とし込まなければ、語り継ぐ事も許されなかったのではないか。
幸い、わたしと関わりがあるのは、この村のお年寄りたちだけ。
怪しまれる危険性が高いのは付近の町村に住む同僚たちだが、年齢に対して不自然な容姿だと勘付かれる頃には、この村の人口は
だから、なんの問題もないのだ。その頃はまだそう信じていたし、実際に生活していくのに取り立てて支障はなかった。
先述のとおり、政府から支払われた給金は高額だった。
また、制度自体は廃止されたが、この村に事実上の隔離を余儀なくされた人々は他に行くあてもなかった。帰る場所はあれど、彼らの帰還は多くの親族にとっては望まぬものだった。
ゆえに、わたしはこれまでどおり職務を継続する運びとなったのだが、のちに、同様のケースを抱えた自治体は少なくなかったと風の便りで聞いた。
肉親の情など幸せな勘違いなのかもしれないと思うと同時に、かの人権無視の制度は、世の中の多くの人にとってはとても都合のいいものだったという事実まで明確になり、どうしようもなく胸が痛んだ。
だが、そのおかげでわたしの生活が守られたのもまた動かぬ事実だ。就職後、あっという間に失業するという悲劇を避けられたのだから。
それどころか、普通に働いているだけで使い切れない額の金銭が発生する。努力らしい努力もなしに報われる不気味さは拭えなかったが、けちで低俗なわたしは、目の前にぶら下がった大きなにんじんに食い付いて離せなかった。
とはいえ、なにも高給取りだったからというだけの理由で貧窮せずに済んだわけではない。
わたし自身、無趣味だった事も大いに関係しているだろう。出費のほとんどが食べる物くらいで、食にも無関心かつ少食……そんな具合だったので、意識せずとも貯金は増えていく一方だったというわけだ。
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