踊り娘

@HAKUJYA

踊り娘

剣の舞を踊るサーシャの足がおちてゆくそのポジションを

見つめ続けた男は

やがて、

イワノフの手をシッカリと、握り締めた。


***出番を控えている義姉であるターニャの元に

サーシャの事実をつたえにいくことは、つらいことでもある。

だが、

キエフの大物舞踏家が、サーシャを預からせてくれという。

姉妹でありながら、

ターニャはこんな、地方の劇場まがいの

酒場の舞台から、抜け出ることも出来ないにくらべ、

妹の舞踏の技術は

世界を相手にする国立舞踏団の花形スターの目に十分な可能性を

秘めている。


イワノフがターニャに妹サーシャのチャンスをつげるのを、

渋りたくなるもうひとつの要因がある。

ターニャは今、この劇場のソロマドンナである。

が、それは、

ある一定の境界の中においてである。

ある時間までは純粋に舞踏、レビューで、舞台をかざるのであるが、

ある時間を過ぎると、

性的な刺激を内包する出し物に変わる。

簡単に言えば、

乳房をさらして、踊ることもざらであり、

そのサービスの見返りに客席から祝儀をもらう。

もちろん、それだけではない。

多くの場合、この舞台を布石にして、

パトロンを探すということである。


踊りだけで、ソロマドンナの位置に君臨してゆくことは、皆無に等しい。


ターニャは両親をウクライナの列車事故でなくし、

妹と二人きりになったとき、

好きだった踊りで身を立ててゆくことの出来る

この劇場に勤めだした。

それから、3年後に高等学校を卒業したサーシャもここに

つとめだしたのである。


そして、ターニャはかなり、早いうちから

ソロマドンナの地位を得たのであるが、

昨年末くらいから

客の人気にかげりがではじめてきた。

それでも、ソロマドンナの位置にターニャを座らせておいたのも、

イワノフの個人感情のせいである。

「結婚してくれないか」

20歳以上年齢も違う。

ターニャが返事に戸惑うのもわかる。

「いそがなくていい」


と、いってはみたものの、

ターニャがこれ以上ソロマドンナを

張ってゆくことは困難になってきていた。

「どうするかね?アフタータイムにかわるか?」

つまり、舞台で胸をさらけだして踊るかときいている。


ターニャは

「え?」

と、声を上げた。


イワノフに、ターニャの驚きはなぜかわかる。

プロポーズした男が

なぜそんなことをターニャにきりだすのか?


***ぐっと息をのんで、イワノフをみたターニャの顔が思い出される。

プロポーズはプロポーズ。

ビジネスはビジネス。

割り切った考えを理解しろということが、土台むりであろうが、

イワノフの計算もある。

ターニャをおいつめてゆくことで、

イワノフとの生活がいかに安泰なものであるかを

しらせてゆこうと言うのである。

だが、残念なことに

ターニャをおいつめる者が自分であり、

救いの手を差し伸べるのも自分である。


海につきおとしておいて、

たすけてやろうかといっても、

自分で泳げるうちは

ターニャとて、イワノフにすがってきはすまい。


そして、サーシャのことから、ターニャはますます、おいつめられてゆくだろう。


舞踏家という夢を描くのはターニャとて、おなじであろうに、

ターニャのこの先は芸術とは、程遠い

色艶の世界しかない。


そこで、胸をさらけだして踊ることなど、させたくないのが、イワノフである。

だが、

いくら、イワノフがターニャをかばいたくとも、

出来ないことである。

踊り娘は他にもたくさんいる。

これ以上、イワノフのひいきで、ソロ・マドンナに据え置くことが、無理に

なってきているターニャの実力でしかない。


ターニャが踊りをつづけてゆくとしたら、

脱ぐしかないといって、過言でない。

身体を武器に踊りを担うしかないにくらべ、

サーシャは一流の舞踏家になれる素質を有している。


結婚を逃げ場にしてくれというわけではないが、

一人の女性の夢がついえてゆく。

そう思うとイワノフはターニャに平凡な結婚生活を送ってほしいと

考えたのである。

もちろん、二十歳も年齢が違うイワノフであるから、

ターニャの結婚相手に自分を考えることは、なかった。


だが、

ターニャに踊り娘としての限界、

ターニャの才能がそこまでのものでしかないことを

告げたとき、

イワノフは思わぬ告白をしていたのである。

「君がよければ、結婚してくれないか」

思わず口をついた言葉が先で

イワノフは、やっと自分のターニャへの気持ちを確信した。


心のそこのどこかで、

ターニャがサーシャでなかったことを喜びながら、

イワノフは

手短にサーシャをキエフの舞踏家に紹介したいきさつを話した。

ビデオに収めたサーシャの踊りが舞踏家の目に触れると、

幾日も経たないうちに

舞踏家自ら、ここに尋ねてきたのである。


「サーシャが?」

ターニャの顔が複雑にゆがんだ。

妹の才能が本物であることは

姉としてうれしい。

だが、同じ踊り娘として、

歯牙にもかけられない自分をいっそうにしらされる。


「サーシャには、まだ、はなしてないが、

君がサーシャの保護者である以上、

まず、君の同意が必要だと思う」

サーシャをキエフにいかせる。

それは、

サーシャが一流のプリマドンナになれるチャンス。

「サーシャの気持ちしだいです」

答えてから、ターニャはどこかで耳にしたせりふだと思った。

イワノフだ。

「踊りをつづけてゆくか、僕と結婚してくれるか、

君の気持ちしだいだ」

踊りを続けてゆく。イコール、結婚は断るという意味になるだろう。

逆に

結婚するといえば、踊りは続けてゆけない。


ターニャの迷いはそこにあったかもしれない。

踊りは続けたい。

だが、

自分の踊りはもう、踊りだけでは稼げる代物でなくなってきている。

踊りをつづけてゆくということは、

人前で、胸をさらけ出すということだ。

イワノフと一緒になれば、

彼の財力で

たとえば小さな養成所をつくって、

子供たちを指導するということで、舞踏にかかわってゆくことも出来る。


だが、そんなことよりも、

もう、売り物にならない自分のレベルをつきつけられ、

いま、また、

サーシャの才能を見せつけられた。


才能さえあれば・・・。


踊り続けてゆくことが出来るのに・・・。


あと、二月でソロマドンナの地位を手放すしかない。


イワノフの劇場をはなれ、

他の場所にいったとて、結果は同じ。

むしろ、もっと、ひどい境遇がまっているだろう。

踊り娘という名を語る陰売。

あるいは、

踊りを踊れる陰売という言い方が正解かもしれない。


才能がないものは、

どこまでも、おちるしかないのか。

サーシャが逆にそれを証明する。

才能があるものは、

どこまでものぼりつづけてゆける。


ターニャは、出番を控えるため、舞台のすそから

ステップに上がっていった。

心なしか張り詰めた表情が泣き出しそうにも見える。

「返事ははやいほうがいい」

イワノフは伝えると観客席に移っていった。


舞台をはねて

二人のアパートに帰ってくるまで、

並んで歩きながら

ターニャの足取りが重い。

「姉さん?どうしたの?」

やはり、ソロマドンナ降格が応えているのだろうと、

サーシャは言葉を選ぶ。

「あたしは・・・アフタータイムの踊り手でも、

別にかまわないんじゃないかとおもうんだけどね」

悲しそうにうつむいたターニャにかまわず

サーシャの言葉が続く。

「姉さんはアフタータイムの踊り娘をばかにしてるし、

観客を馬鹿にしてるんだ」

ターニャの言葉が不思議で

サーシャは尋ねかえした。

「どういう意味だろう?」

「姉さんはアフタータイムの踊りが実力で成り立ってない。

踊りを見る目がない観客が女の裸を見に来てる。

そこで踊ればさらしものだとおもってるんだ」

サーシャに・・・何がわかるというんだろう?

ましてや、この子は間違っても

さらし物になることなんかない子だ。

もちろん、まだ・・・・サーシャは

キエフからの招待をしらないけれど。

「あなた・・・。じゃあ、胸をさらして、おどってゆける?」

「できるよ。あたしは、胸をさらすんじゃないもの。

踊りを踊るんだもの。

胸を出すのは衣装を着けてないと思うからおかしいのよ。

おっぱいっていう衣装をつけてるのよ」

確かに演目は胸をさらけて踊るにふさわしい

妖艶な音律をBGMにしている。

「あなた・・・」

本当に踊りがすきなんだと思う。

どんな場末にいてもこの子は

「踊る」んだ。

「今はさあ、ラインダンサーとか、十把一絡げの

端役でしかないけどさ、アフターでソロをはれっていわれたら、

そっちのほうがいいな。

そこから、チャンスをつかむことができるかもしれないもの」

サーシャの考えは若さゆえではあろう。

だが、

チャンス。

その言葉にターニャは話さなければならない

いろんなことを思い返してみた。

たとえば、イワノフのプロポーズ。

サーシャのキエフへの招待。

そして、自分の進退・・・。

これらすべてが

「チャンス」という紐でくくられる。

どうチャンスにしてゆくかで、

この先の運命も

ラッキーかアンラッキーに

分かれてゆく気がする。


サーシャのことは、簡単だろう。サーシャの決心ひとつだ。

自分がこの先どうするか。


ターニャはやっと、サーシャに

イワノフからのプロポーズを

話してみる気になった。


安いアパートの二階の北の隅は

ただでさえ陽があたらないのに、

二人の留守で火の気の無い部屋は

いっそう、凍えている。

それでも、鍵を差し込む手をかじこませた姉妹が

やっと部屋の中に入るまで外気に晒される廊下の寒さに比べれば

部屋の中は安息地である。

中に入ればまずストーブをつけよう。

夕食には昨日のジャガイモのポトフが残っている。

ストーブの上でポトフが温まる間に

イワノフのプロポーズのことなど、話せるだろう。


ターニャがなにか、考えている様子を

察っしたサーシャはあけられたドアの中に入り込むと

一番先にストーブの火をつけに行った。

後から入ってきたターニャがポトフをストーブの上に置きかけると

サーシャはなにかいいたげな姉の話を催促した。

「食事はあとでいいよ。姉さん、なにか、はなしたいことがあるんでしょ?」


妹はいつもこうだ。

気になることを後回しにすることを嫌う。

「いいのかな?」

ポトフの鍋を見ながらターニャは

サーシャの空腹が気になった。

「いいよ」

やっぱり、後回しになるかと、

ポトフの鍋から目を離し

ターニャはまだ、温まりきらないストーブの前に

椅子をふたつ引っ張ってきた。

足を暖めながらサーシャに話そうと座り込んだ姉の横に

サーシャもすわりこんだが、

並んで話す形が不安定でサーシャは

椅子ごと持ち上げると

ターニャの顔が見えるように

向きを変えて座りなおした。

「で?」

「うん」

いきなり、イワノフのプロポーズのことを口にするのも

てれくさい物がある。

「なに?」

「うん。やっぱり・・・あなたの話からにしよう」

「え?なに?あたしの事もあるわけ?そんなことあとでいいよ」

「うん。でも・・・。姉さんの話に関係あることだから・・・」

先にサーシャがキエフ行きをどうするか、それを判ってからのほうが

いいだろうとターニャは

イワノフから聞かされたサーシャのチャンスを話すことにした。

イワノフがサーシャの舞台稽古をVTRにおさめ、

それを、キエフ在住の舞踏家に送った。

「ああ?あれ?剣の舞だったかな?

3回くらい・・・・おどらされたかなあ」

サーシャにも覚えがある。

「うん。その3回ともイワノフさんが取ってたんだって事も知ってる?」

「え?そりゃしらない。で?」

話の先を急がせるサーシャの目が輝いている。

「うん。ポジションが3回とも、1cmの狂いがないって・・」

「はあ?」

それがどうしたのだという?

サーシャにすればあるいは。当然だと思ったのか?

それよりも、その事実より先が問題だといいたいのかもしれない。

「うん。で、そのVTRをみた舞踏家というのが、「コンドラテンコ」なんだよ・・」

「え?」

ターニャの口から告げられた大物舞踏家の名前に

サーシャが、そのまま、噴出して笑い始めた。

「やだな。舞踏家だっていうだけなら、あたしだって、

なにか、いい話かなって、おもわないでもないじゃない?

で、その天下のコンドラテンコさまにVTRを見てもらった・・・」

出てきた名前が大物過ぎて

サーシャのわずかな期待がしぼんでしまった。

大体欠点を指摘するときは

長所を先にほめるのが筋だから、

この後に話される内容にも想像がつく。

それにしても、

「イワノフさんも何を思ってそんな大物のところに・・・」

ポジションが正確だからって、

そんなことくらいで驚かれてたら、

ポリジョイサーカスの綱渡りなんか、

正確なポジションが当たり前。

命がいくつあってもたりやしないだろう?

そんなことを考えたら特に驚くことでもない。


「イワノフさんの目は確かよ。コンドラテンコさんはあなたをキエフの

プリンシバル育成所に入所させたいと、もうしこんできたのよ」


プリンシバル育成所への招待?

飛び出してきた話が大きすぎて

サーシャにはこの話が真実であるとは思えない。

「まさか?

それだったら、なんで、******関係の人がじかに

あたしに話しにこないわけ?」

サーシャの疑念はもっともだと思う。

「いくら、イワノフさんが口をきいたからって、

あたしに断りもなし、入所を決定する権利はないわ」

サーシャは関係者が来ないわけを

そんなふうに、想像する。

でも、それは、本当のことだと信じたがってるサーシャだということにもなる。

そして、ターニャは

イワノフがサーシャに先に話さず

ターニャに任せた本当の原因を話すべききっかけなんだと思った。

「イワノフさんはまず、あなたが未成年だということ、

つまり、あたしがあなたの保護者だということを

尊重して、私から、あなたにきいてほしいといったの」

でも、それもおかしな言い訳だと思う。

だいいち、サーシャはイワノフにとって1従業員なんだ。

未成年であるといっても、自分で金をかせぎ、

きちんと生計を立てている以上

社会人。大人。1個人としてあつかわれるべきであろう。

「だったら、姉さんに話すときにあたしもよんでくれればよかったんじゃない?

変だよ?」

やっぱりサーシャは聡い。

淡い期待でも、目いっぱい膨らませれば、はじけたときは辛く痛い。

サーシャの防御本能が

美味い話をうのみにしちゃいけないと

サーシャを守ろうしている。

「あのね・・・」

ターニャは大きく息を吸い込んだ。

その息と一緒にじゃなけりゃ、思いが定まらぬ返事を持ってることでしかない

イワノフのプロポーズのことははなせそうになかった。

「姉さんもそのことをこれから、あなたに相談しようと思ってたんだけど、

イワノフさんが姉さんにあなたへの話を任せたのは、

あなたの進路によって、

姉さんがイワノフさんのプロポーズの返事を

どうするか、きめるだろうって、考えたんだと思うんだ」

とたんにサーシャが戸惑った顔をした。

話の筋が良くわからないのだ。

「イワノフさんが?姉さんにプロポーズをした?」

「そうよ」

「イワノフさんが?」

「そう」

「あの・・イワノフさんが・・・」

「・・・」

「え?で、姉さんは云ってっ言ってないってこと?」

自分の話が後回しになるのもそっちのけで、

イワノフのプロポーズに話が集中しだすのも

イワノフのプロポーズが意外過ぎたのだろうと思っていたターニャは、

「云」と言ってないのかとたずねたサーシャが逆に意外だった。

「あなたには、あたしが「云」と言うほうが、不思議じゃないってことだよね?」

サーシャはもう一度、自分の頭の中を見渡して

「云。そうだね」と、答えた


「なんで?」

ナゼ、あたしが云というわけ?

「なんで・・・って・・・」

サーシャは自分の頭の中を見回す。

「なんとなく・・・

う~~~ん。イワノフさんは優しい目でいつも、姉さんをみてたし・・」

サーシャの言葉をきいた途端にターニャの反撃が始まりだす。

「優しい?

イワノフさんが?

わけないわ。

あの人は・・・・。

そうよ。

脅しよ。

自分と結婚しないなら、裸で踊るしかないって、

人の弱みに付け込んで

結婚をちらつかせて・・・・」

癇走って喋るターニャを呆れ顔でみていたサーシャが、そんなターニャに

「あたしには、

ロマンチックにドラマチックにプロポーズしてくれなかった。

乙女の結婚への夢はプロポーズの一言から花開いていくのに

イワノフさんは夢を踏み潰す言い方しかしなかったって、

ようは、そういう不満を言ってる・・・・って聞こえるだけなんだけど?」

「え?」

あるいは図星であったのか、

この芬々たる思いはようは、サーシャの言うとおり?

思いを分析されて、

サーシャはその分析結果にいっそう戸惑った。


『じゃあ・・・私が優しく・・ロマンチックに・・・愛情一杯でプロポーズされてたら?』


云といったのだろうか?


ターニャの戸惑いを見透かして、サーシャが笑う。


「姉さんこそ踊りと結婚を天秤にかけてるんじゃない?

本当に踊りたいなら、踊ればいいし

結婚は踊りとは、別問題だよ」

サーシャに

「今更ながら、判っている。

当たり前の事じゃない」

と、ターニャが言い返すとサーシャは

かすかな笑いを浮かべた。

それは、どこか、自嘲めいた悲しい笑いにも、見えた。

「そうよね。

判っている。

あたしは姉さんみたいに、恵まれたプリマドンナじゃないから・・・。

どうにかして、踊りを続けていきたいって、

それが、いつでも、最初。

だから、たとえば、結婚?

そんな事ひとつだって、考えの中にはいってきやしないのよ。

でも、姉さんは、結婚を考えることが出来るじゃない?」

つまり、サーシャは「踊り」しかないのに、

ターニャは結婚を考えられる。

すなわち、その状況自体が結婚と踊りを天秤の台に載せているという事であろう。

サーシャの言い分に百歩譲って見たとて、

ターニャには譲れない部分がある。


「だけど、あたしは、確かに結婚と踊りを両手にもとうとはしている。

でも、結婚と踊りを天秤なんかにかけてはいないわ」

サーシャはいっそう、深いため息をついた。

「そうね・・・。

すくなくとも・・・そう、見えるわね・・・」

棘をふくんだように聞こえるのは

ターニャの受け止め方がわるいせいだろうか?

それとも、じっさい、わざと、サーシャは棘を含ませたのだろうか?

「それ?どういう意味?」

事と次第によっちゃあ赦さない。

ターニャの語気に怒りが見えると

サーシャはいっそう、淋しそうに笑った。

「姉さんに踊りしかなかったら、

イワノフさんのプロポーズを考える事もなかったと思う。眼中にも無いって、大慌てで断っていたと思う。でも、姉さんの中でこれ以上ソロマドンナを維持できない自分だと分かったとき

、結婚を考える姉さんになっていたと思う。

そして、相手がイワノフさんだから・・・。

姉さんの踊りがソロじゃ通じないと評価した相手だから、姉さんは踊りをとるか、結婚を取るか・・・迷っている。

踊りを取りたいのは、やまやまだろうけど、

もう、下降線を辿るしかない自分だと、

知ったとき、

姉さんは、結婚してもいいと思った。

でも・・・。

それは、ズバリ・・・。

結婚を逃げ場所にしてるとも思うし

自分で自分への評価を認めることにもなる。

だから・・・。

姉さん・・には、きつい事をいうけど、

姉さん・・・は、自分に才能が無いって認めたくなくて・・・

逃げ場所に思える結婚もさけようとしている」

返答に窮するというのが、まさに言いえているサーシャはターニャの様子をぐうと、奥歯をかんで見据えていたが、

「そんな結婚と踊りへの思い・・・

これは天秤状態・・・だよ」

サーシャの宣言にぐうの音もでないまま・・・ターニャは決心していた。

『問題は・・・評価じゃない。

私が踊り続けていたいか・・・どうか・・・』

サーシャのいいたい事はそうだろう。

俯いた顔が上に向けられると

ターニャははっきりと微笑んだ。

『サーシャ・・・ありがとう。

確かにあたしは、有頂天になりすぎていた。

どうにかして、おどれないか・・・

一番最初の

一番大事な心を置き去りにしていた』

胸をさらけてさえ、踊りで観客を魅了することさえ、できるかどうかもわからない。

そこまでの、レベルさえないといわれたも同然の自分が売りものにするのは、

裸踊り・・・。

そう考えるのも・・・。

あるいは・・・。

それでさえ・・・。

己の才能のなさをわかっているから・・・。

「サーシャ・・・やっぱり・・・あたしは

踊っていたい」

暗にイワノフのプロポーズを断るといい、

もうひとついえば、

アフタータイムで踊ると

ターニャは決心していた。


サーシャは無論、キエフ行きを承諾した。

「チャンスだと思う」

踊り続けていく人生への確実な布石。

そうなるのだろう。

「でも・・・あなた・・・それでいいの?」

年頃の女の子らしく、恋もしたかろう?

お洒落もしたかろう?

ターニャの仕送りなど、微々たるもので、

サーシャが踊りで稼げるようになるまで、

養成所でのレッスンとアルバイト。

それが、何年続くか・・・。

すぐプロになれるかもしれないし、

一生、芽がでないかもしれない・・・。


姉の心配を察すると

「確かにね・・。

あたしも、踊りをすてても良いと思えるほどの人にめぐり合えたら、どんなに良いかなって思わないでもないのよ。

朝・・・ベーコンエッグを焼いて

オニオンスープを添えて

ふたりで、パンがやけるのを待ちながら

とりとめない会話を交わす。

平凡でありきたりな風景だけど、

本当はとても手の届かない所にあるのかもしれない。・・・・あたしには・・・ね」

サーシャに比べればターニャの目の前に平凡な風景があって、ターニャが望みさえすれば、

あっさりと、手が届くものだ。

「姉さんね・・・。

イワノフさんのことは、断ろうって思うの」

くっと、唇を結んで

なにか、いいたい言葉を閉ざすと

サーシャは

「アフターで踊るの?」

ターニャの決意を確かめた。

「うん・・・」

「そう・・・」

短すぎる言葉で姉の決意に同意するサーシャが

ターニャには、不思議な気がした。

「それだけ?」

「うん。だって、どっちを選ぼうと

努力していくのは、姉さんだもの。

やっていきたいと思うことを選ぶのも、

姉さんだもの」

「ひとつだけ、きいていい?」

「ん?」

「あなた・・・ナゼ・・・

あたしが、イワノフさんのプロポーズに云というとおもったの?」

それは、さっきもきいてきたことだと、

サーシャは思った。

「だから・・・さっきも言ったように・・・イワノフさんは姉さんのことを愛してるんだろうって思った・・から」

「ばかね。それは、なぜ、イワノフさんがプロポーズをしたかってことでしょ?

あたしが聞いてるのは

なぜ、あたしが云というと思ったかって事・・・」

「ああ・・・」

確かに尋ねられたことへの、返答にはなって無かった。

「う~~~ん」

ナゼだろう?

なぜ、ターニャが云というと思ったんだろう?

「だよね。

父親かと思うくらい年がはなれていて・・・

イワノフさんにとっては、

美人でスタイル抜群で若い・・こんな姉さんと一緒になりたいだろうねってのは、判るけど

逆を言えば・・・

凡庸でもう、50歳ちかい年齢・・

わざわざ、こんなじいさんと一緒になりたいと思うほうがわからないよね?」

「・・・」

だから、尋ねているんじゃないかと、切り返す言葉を飲んだのは

自身がイワノフのプロポーズになんの違和感も感じてなかったと気が着いたからだった。

「たぶん・・ね。

姉さん・・一番大変だったから・・・。

ウクライナの列車事故で・・父さんも母さんも死んじゃって、あたしのために、

姉さんが父さんのかわりに稼いで、

あたしのこと、支えてくれてた。

だから、姉さんは甘えたい時にも、頼りたい時にも、ずっとひとりでがんばってたから・・・。だから・・・。

ひょっとして、イワノフさんに、父さんみたいに甘え、頼りたい姉さんの底の弱さ?

そんなのを・・・イワノフさんになら見せられる。イワノフさんなら頼れる。

あたしには、そう・・・みえたのかもしれない。

だから、云というっておもったのかもしれない」


ふた月はあっという間にすぎた。

サーシャのキエフ行きの準備と

アフターでの演目のレッスン。

振り付けを覚えるだけでも、

今までとは、違う媚たしなが

随所にはいり、

それが、ターニャの勘を狂わせる。

振り付け師の厳しい叱咤が遠慮なくターニャを叩く。

「それでも、ソロをはっていたのか」

悔し涙を飲み込んで、やっと、舞台にたつ初日にアフターの踊り娘がターニャに声をかけてきた。

「あんた・・・どうして、イワノフさんと一緒にならなかったの?」

傍目からみてさえ、イワノフがターニャに特別な好意をよせていると判ると、いうことになる。

もう一つ、言えば

ターニャがアフターに来るという事は

いわば、都落ち。

そのうえ、胸をさらけだす以前の

妖艶なしなひとつに、戸惑い煩悶している。

「最初は・・・サーシャのために、

お金がいるのかなって思った」

サーシャのキエフ行きは皆の知るところとなっていた。

「でも、それだったら、イワノフさんに出してもらえば済む事じゃない?」

つまり、アフターはパトロンを捕まえにくる場所でしかないと、彼女は考えている。

だが、ターニャはしなひとつつくるに、

戸惑うばかりで、

どうやら、身体を張ってパトロン探しというわけでもなさそうに見えた。

イワノフをパトロン、あるいは、伴侶に

する気になれず、他を捜しにきたにしては、

あまりにも、吹っ切れない迷いがありていにですぎていた。

「う・・・ん」

頷いたきりターニャは返事が出来なかった。


あの日。

サーシャのキエフ行きをお願いしにいって、

そして、

アフターで踊るとイワノフに告げた。

「それは、すなわち、僕と結婚しないという意味だろうか?」

求婚を断っておいて

まだ、イワノフの元で働かせてくれというのは、いかにも、あつかましいと判っていた。

判っていたが

それでも、ターニャにも考えがあった。

もし、他の劇場に移ったら、

収入面も減るが、

客もへると思った。

ソロマドンナとしてのターニャを知っている客が、

アフターのターニャに対しても特殊なまなざしでなく

以前からの踊り娘としてのターニャとして、

見つめてくれるはず。

だから、アフターを踊るにしても、

ココが一番好条件だった。

ターニャのあつかましい申し出に

イワノフはビジネスの顔で応対した。


「収入はおそらく、今の2倍以上になると思う。

あと、どうしても、アフターに入ると

後援者という名目で、

君は特別な援助を申し込まれるだろう。

もちろん、これは、君のプライベート部分に関わることなので、援助を断る、受ける、は、君が決める事なのだが、

直接交渉になると、客は断られた時に

やはり、気分を害す。

だから、交渉は踊り娘に直談判でなく、

私を通してという事になっているので、

そこのところは、心得ていて欲しい」

イワノフのいい口は

まるで、ターニャがパトロン漁りのために、

アフターにいったようにきこえ、

「私は援助が欲しいわけじゃありません」

切り口上で畳み込むと

イワノフは淋しそうに頷いていた。

「判っているよ。

金が欲しいなら・・へたな客よりも、

この私が一番金を出す。

君がそういう面で私を望まなかったように、

私も逆に君のパトロンになる気もないよ。

私が欲しいのは、

共に人生を歩んでくれる人だから・・・」


イワノフの言葉は少なからずターニャの心を痛めた。

サーシャにも言われたように、

ターニャの心の底では、イワノフの存在を受け入れ

よりどころにしている自分がいるせいだったのかもしれない。

だから、アフターの同僚である彼女にとっても、

ターニャが

イワノフと一緒になるのが、自然に見えたのかもしれない。

でも、なぜ、そう見えるのだろうか?

「わたしが、イワノフさんと一緒になるのは、

変にみえないってこと?」

アフターの同僚はそうねと頷いた。

頷いたついでに、

「むしろ、貴女がここに来るほうがおかしいわね」

「ココ?」

「そうよ。このアフタータイムの踊りがどういうことか、わかっているのでしょ?」

わかっている。

胸をさらけだし、欲情をそそらせる。

客は女の子の裸身を目当てにかよう。

でも、そうじゃない観客だって居るはず・・・。

「ここに来る半分以上の女の子がパトロンを掴むのが目的。

そうでなくても、いつまでも、芽のでない自分にジレンマを起し、まわりでは、同僚がパトロンのおかげで裕福に暮らしている。

そのじれんまに追い詰められ、

身を売るような考え方にも、いつのまにか、慣れてしまって、気が着いたときには、流されてる。それが・・・おち」

「そんなことはないわ。

ちゃんと、自分を見失わず、目的をもって、

アフターで踊ってる人も居るはずよ」

子供の話はきいちゃ居られないと、

彼女は

「そうね」

と、あっさり賛同をみせる。

それが、いっそう、ターニャの癇を高ぶらせ

彼女をへこませてやるためだけの言葉を返す結果につながる。

「あなたが、自分を見失って、パトロンを掴んで楽に暮らしたがる人間だから、あたしのこともそんな眼でしかみれないんだわ」

「おとなしいだけのおじょうさんかと思ってたら、けっこうな口をたたくじゃない」

ターニャの反撃をものともせず、

むしろ、ちっとは、骨があるとターニャを認めると彼女は

「でも、世間知らず・・で、恵まれた人間でしかない」

と、ターニャへの評価は辛らつである。

また、サーシャに言われたと同じ「恵まれている」が、でてくると、ターニャも自分を調べなおしたくなってくる。

「世間知らず、恵まれてる・・・そうなのかもしれないけど、なぜ?どうして?

あなたが、そこまで言うほどに、あなたは、世間を知っていて、恵まれない人間なわけ?」

ここが、ターニャの生真面目さ。

こんな女のひとこと、ふたこと、

軽くうけながしておけないのも、

ずばり、世間知らずであるターニャを証明しているとも気づきもしない。

気が付かないまま、むきになるターニャが妙に純粋にみえて、彼女は口調を和らげた。

「あたしは・・はじめから、アフターにはいったの。実入りがいいからね。

あたしは、17の時に子供をうんで、

どうしようもなくなって、母親に預けたの。

子供の父親とは、籍もいれないまま、

子供も認知されないまま・・・。

母親に子供を預け、養育費を送るためにね。

パトロン・・はね・・・。

この仕事はいつまでもつづけていけないでしょ?

そのための保険。

子供もこれから、お金が要るし、

女手ひとつの稼ぎで十分な教育をうけさせてやりたいと思ったら・・・

あたしには、このアフターの収入とパトロンの存在は必要なのよ」

あるいは・・・。

目的を持って流されず、しっかりと自分の意志でアフターをはる場合もあるんだよと

彼女はいいたかったのかもしれない。

「もうしわけないけどね・・・・

貴方から、アフターに入るだけの覚悟が読み取れないんだよね」

「あ・・あたしは・・・ただ・・踊っていたくて・・・」

それがターニャの本音。

「だけど、あなた・・・。

客の好奇な目につぶされそうだよ。

アフターに来る客の多くはただのすけべ。

愛人契約を結べる女の子を物色しにきてるだけ」

「そ・・そんなことない・・」

「踊りを純粋に楽しみたい人間は

アフター以前の時刻にいるか、

国立劇場にいってるよ」

「そ、そんなことないわ。

アフターの中からだって、プロになれる素質をもってるこがいるか、どうか、

そんな風に見てくれる人だっている・・」

ターニャの言葉は間違いではない。

いや、もっと肯定的にいえば

正解であり、真実である。

但し、以下の条件下において・・・・。

「そうね。

確かに、年齢的に「若ければ・・・」

道を間違えたマドンナをアフターから救いだして、プロを目指させてやりたいと思うでしょう。

だけど、あなた、いくつ?

才能もないのに、若さと美貌とスタイルのよさでソロマドンナの地位にたっていたけど、

あなたは、もうソロをはれるだけの若さでなくなって、

アフターに来て

それでも、まだ、踊りを評価される?

踊りを見たいなら

もうとっくにプロになれてるんじゃない?

ソロでも、目が出なかった人間の踊りをアフターにもってきて、

まともな評価を得たい?

貴女・・・自分でおかしいと思わない?

でも・・・」

彼女はターニャを見つめなおした。

「こんなこと、わたしがいわなくても、

これからの舞台・・・

観客が眼に物みせてくれる・・よ」


カルメンをアレンジしたバックミュージックが、流れるとそれが、ターニャの演目。

イワノフのせめてもの、配慮なのか、

それとも、

もともと、こういう衣装なのか。

真紅のバラを思わせる襞の濃いケープをまとい

5フレーズめまで、タップを踏んで

観客の拍手を求める拍手を自らうって、

ドラムがはいり、

情熱のカルメンは舞台で、

両手を天に翳す。

求めるものは灼熱の恋。

天に向かって祈りもとめるだけの女じゃないのが、カルメン。

己の手で恋を手繰り寄せるため

魅惑の身体を捧げる。

ドラムがとまり、フラッシュバックがはじまると、ターニャはケープを投げ捨てる。

あらわになった乳房をここぞと誇るが如く

胸を張り

紅いスカートをたくしあげ、

フラメンコ。

高く掲げた手は髪元におかれ、

下に曲げた手はスカートを掴み、振る。

一点のくすみのない情熱のため、

カルメンの胸はぴいんと、はりつめた背筋にささえられる。


だけど・・・・。


この胸をこの両手で覆い隠してしまいたい。


暗転からフラッシュバックした舞台に

立ち尽くす裸身のターニャに

観客席からどよめきが起きた。


だれもが、昨日まで、ソロをはっていた、美貌のプリマドンナの胸を

その目でみたいとチケットを買い求めた。


好奇と興味と卑猥・・・。

舌なめずりがきこえそうな欲情・・・。


踊りとは、程遠い見世物。


観客と目が合えば、


独特の秋波に包まれる。


ターニャをその手に抱いた夢想に酔うのか、

胸だけで、飽き足らず興味の触手は

ターニャの下半身にのび、

夢想を実現させる手段があると、

観客の触手は胸のポケットの中の金をまさぐる。

ターニャに触れることができるパトロンに

なれるチャンスはあるいは、皆に平等で

望さえすれば、夢が叶うかもしれない。


そんな観客にとって

ターニャは・・・


『私は見世物じゃない。

それよりも、もっと、酷い。

そう・・・・。

商品。

それも、陳列台に自ら乗った・・

馬鹿な商品』


己を売り物にしているだけにすぎないと、

気がついた時は、

もう、遅すぎた。


引き返す術がなくなったのは、

サーシャへの仕送りがからんだせいでもある。


キエフで・・・どれだけ、金がいるか・・・。


アフターの同僚が

子供のために・・裸で踊った。

ターニャだって出来ないわけは無い。

まがいものの踊りでも、

その手で稼いだ金で

サーシャはいつかプロになる。

踊りたい。

その心を底に埋め隠すと

サーシャを希望の星にかえ、

・・・・。


そして、

いつか・・・・。

私も・・・。

誰かの手に落ちる。

この先、

何百人

何千人の好奇の目にさらされるくらいなら、

きっと、

たったひとりのパトロンのものになったほうが、

楽になれる。


それは・・・・。

サーシャがプロになった時?


悲しい自嘲と諦めがターニャを包み

真っ白になる頭の中で

ステップを踏むこと。

胸を・・・

裸の胸を張る。


なにも、胸を張ること一つもてなかった女に、できることは、

このくらい・・。


真っ直ぐ胸を張って・・・。

目を瞑らない。

腕で覆わない。

ステップ。


次のステップ。


ターン。


タップ。


スカートをふって・・・。


タップ。


ターン・・・・・。


そして・・・。


ターニャのカルメンは絶賛を浴び、

アフターデビューは大成功に終った。


いっそ、逃げ出したい羞恥をこらえさせたものは、ふたつ。

ひとつは、サーシャへの仕送り。

両親の列車事故の弔慰金も、底を突き出した今、収入が増えることは・・・それも、倍増はありがたいとしか言えない。

もうひとつは、微かな希望でしかないのだろうが、

観客の中には、きっと、踊りを見に来る人がいる。


たったひとりでも、純粋に踊りを見てくれる人がいれば・・・、

その人のために踊れる。

自分の存在価値が、踊りに支えられているかぎり、どんな場末でも・・踊れる。


何度もくじけそうになる心を叱咤して、

2週間が過ぎた。


だが、たった、2週間でターニャをささえていた物事がくずれさるとは、

ターニャも思いもしなかった。


イワノフから、事務所に来るようにと

連絡を受けた時、

ターニャは自宅で一通の手紙を手にしていた。

差出人はサーシャ。

封をあけなくても、内容は分かる気がする。

キエフでの生活。

レッスンのこと。

そして、それらを支えるべきバイトはみつかったろうか?

ターニャの知りたい答えがこの手紙に入っている。

封をきろうとした時、イワノフから連絡が入った。

なんとなく、憂鬱なイワノフの声にターニャは

サーシャの手紙を後にすることにした。

またも、ろくでもない演目をしいられるのかもしれない。

もしかすると、もっと、腰をふれとか、

胸を揺すれとか、

そういう類いの注文かもしれない。

イワノフの憂鬱そうな声音が

ろくなニュースでないと証明しているから

サーシャの手紙で、胸を弾ませた思いがいっぺんにしぼんでしまうだろうから

イワノフの話を聞いてから

サーシャの手紙を読んだほうが安らぐと考えた。

手紙の封をきらないまま、ダイニングテーブルの上に置くと、

ターニャはイワノフの事務所に行くために

ストールをまきつけた。

外は随分春めいてきていたけど、

やはり、まだ、寒い。

寒い外を歩き、

また、イワノフの話に心を凍えさせられる。

帰ってきたら、身も心も温めてくれる手紙を

留守番役にして、

「なにをいわれても、くじけない」

独り言で、応援しながら、

ターニャはイワノフの前に立った。


イワノフと二人きりで真正面きって、会うのは、アフターに入ると宣言して以来だ。

イワノフの求婚を断ったせいもある。

イワノフももう、ターニャを引きとめようともせず、ターニャの申請通り、次の日から

アフターの振り付け師がついた。


向かい合わせの席でイワノフが

「アフターでのデビューは予想以上に

大反響だよ」と、ターニャをたたえた。

そうなのだろうか?

実際問題、ターニャには、大きな手ごたえを感じない。

むしろ、舞台をはねて、街で買い物をしていてさえも、観客のあの特異なまなざしと同質な視線を感じ、あえて、手ごたえがあるというのなら、それは、嫌悪感でしかなかった。

「それが証拠に、僕個人としてははなはだ不愉快でしかないが、君と個人契約を交わしたいとの、申し込みが

この2週間で、13件。

僕の一存で握りつぶすわけにもいかないし、

検討するのは、君本人なんだから・・・。

君の参考になるか、どうか、分からないが・・・。13人の申込者のリストを作っておいた。特殊な契約を望んでいる人たちなので・・・プライベート情報として

読み終えたら・・・破棄してくれたまえ」


『え?』


イワノフから告げられた事実と

イワノフが告げるという事実とが、

ターニャに二重の衝撃を与えていた。


ターニャが暫しの沈黙を護らざるを得なかったのは怒りが言葉を作らせなかったせい。

混乱の怒声は、ただのわめき声になりそうで、

わあああと、叫びそうになる喉元をおさえつけておくのが、精一杯だった。


「わざわざ、よびたてておいて、

用事はそれだけでもうしわけないのだが・・・。

今日もアフターだろう?

帰って・・・」

良いと、いいかけた、イワノフの

傍らまで、ターニャが近づいてきていた。

ターニャの顔色で次に起きることが予測できるとイワノフは泰然自若の様でその場に立ち尽くした。

怒りの相貌のターニャといえば、声にならない思いをイワノフにぶつけざるを得なかった。

それが、すでに、イワノフへの甘えと期待を裏切られた反動でしかないときがつかないまま。


今。

イワノフの頬がターニャの平手打ちに

パンと高い音を立てた。


イワノフはなにもかも、承知していたともいえる。


黙ってターニャを見つめると

ターニャの心の中で起きている理解が

偏った物でしかないことを

今のターニャに説明できるか、

ターニャに聞く耳があるか、どうかだけを

考えていた。


「イワノフさん!!」

怒りを掌で開放したせいで、

ターニャの喉が堰を開いていた。

「なんだろう・・」

まずは、ターニャの怒りを胸の中から吐き出させるしかない。

それをしなければ

ターニャはイワノフの言葉を聞こうとはしないだろう。

我が子に対する親の許容にちかい姿勢で

イワノフはターニャに対峙する。

「これじゃあ・・・

まるで・・・」

まるで?

なんだろう?

「まるで、ここは、売春宿じゃないですか。

アフターの踊り娘は・・売春婦じゃ・・ないですか」

興奮が堰をきり、ターニャの目に溢れる。

「私は・・・」

踊り娘・・踊りたいだけ。

なのに。

「あなたは、呈よく、劇場という蓑に隠れて、女の子を斡旋してる、

ただの悪党だわ。

そして・・・・」

私もその悪党の餌食・・・。

結婚を断ったから?

だから、平気で狼たちの餌にしてやるって?

私は・・・いったい、なに?

貴方はいったい、私の何をみて、

求婚したの?

求婚まで、したくせに

どうして・・・

こんなことが、できるの?


手に持った個人情報の封筒をわざと

胸に抱くと

ターニャはせいぜい、目一杯の皮肉と強がりをいうしかなかった。


「お望みどおり。

私、せいぜい、立派な殿方をえらばせていただきます。

ただし、

20も30も年上のおじいさんのお相手だけは、さけさせていただきますけど」

いいはなつと、ターニャは事務所から、でていこうとした。


だが、

イワノフは静かな瞳のままで、

ターニャをみつめかえしていた。

「君は、本当に私を悪党だとおもうのかね?」

「そうよ。

じゃ、なけりゃ、なに?

ひも?ジゴロ?」

「君は・・・・。

恵まれすぎていて、めくらになっているよ」

なに?

あなたが悪党に見える私がおかしい?

いうにことかいて、

とんでもない方便。

おまけに、また・・・・。

恵まれてる・・・・?


なんだというのよ・・・。


「私のどこが、めぐまれてるというの?」


イワノフはターニャが尋ねてくる事を待っていたといえる。


尋ねるイコール耳を貸す体制になりつつあるといえるからだ。


「まず、君に言っておかなければいけないことがある。

パトロンは強制じゃない。

アフターを張る踊り娘の特権ともいえる権利であって、義務じゃない。

断るも受けるも踊り娘の自由である。

これは、君がアフターに入ると言った時に

心得ていてくれと僕は念を押したはずだ」

イワノフの言葉にターニャが反駁する。

「でも・・・実際、こんな風に資料まで渡されたらパトロンを持てといわれてるのと同じことだわ」

「それは、君の覚悟が浅いってことじゃないかね?」

この言い方ではターニャが誤解すると分かっていながらイワノフは他の言葉を選べなかった。

「アフターにはいる。イコール、パトロンが付く。そうならば、そうだと初めにいってくださればいいわけでしょ?

断ればいいって、いったのは、貴方だわ。

なのに、こんな事されたら・・・」

「違うね。

君がアフターにはいっても、パトロンを持たずに置くこともコレも、君の権利だ。

だけど、それでも、パトロンの話は舞い込む。

それに流されず、踊りだけで、アフターを張っていく。その覚悟が出来ていたら、君は僕を叩いたりしていない」

ゆっくりとターニャを覗き込み

イワノフが望む返事が返ってくることを待つ。

と、

「だけど・・・貴方はそんな私を分かっていて

資料まで作る必要なんか・・ないじゃない!!」

どうせ、断ると分かっていて、ナゼご丁寧に個人資料まで作って渡さなきゃ成らない?

「僕は君にほかのアフターの踊り娘と同じように対処しただけにすぎない。

君だけを特別に扱うべきだとかんがえているのは、君のほうだ。

君は僕に擁護されて当たり前だと思っている。

踊り娘が自分の力で舞台をはっていくことが、

どんなにむつかしいか、君には、わかっていない」

立て続けに並びたてられたイワノフの言葉にいくつもターニャが思っても見なかったことがあった。

「ちょっと待って・・・?

特別に扱う?

私は特別に扱われていたわけ?

擁護されていたわけ?

そして、アフターに入ったら

いいえ、

結婚を断ったら

皆にこうやって、断ることができないように、

資料を渡していたように、私にも渡すのが、

公平な扱い?

あげく、

踊り娘が独りで舞台を張るのがむつかしいから、パトロンを持たなきゃならない?」

矢継ぎ早にはむかいの言葉を投げつけらても、イワノフもターニャの痛いところをつきたくないばかりに黙り込むしかなかった。

「つまり、パトロンを持たずにアフターにたてる。それが、恵まれてるってことだっていいたいわけね?」

どうして、此処まで曲解してしまうのか、

その心の底の本心に気がついているイワノフはターニャの心が解ける時期を待つしかないと改めて思いなおしていた。

「君にはパトロンが必要じゃなくても、

ほかの踊り娘の中には、パトロンが必要な娘もいるんだよ。君もまた、いつなんどき、パトロンが必要な立場になるか、判らないし、

君はパトロンを悪視してるけど、

それが、出会いで今じゃ幸せな結婚をしてる娘もいる。たまたま、一生の伴侶との出会いが

そういう形になることもある。

と、したら、君に求婚を断られた僕が

出会いのチャンスを握りつぶす権利はないだろ?」

話の支点をずらされたと気がつくこともできないほど、

イワノフの顔があまりにも、淋しく悲しそうで

ターニャは

これ以上イワノフに言い返せなくなった。


「君の気分を害させた事はすまないと思っているよ。だけど、例えば、カタリナのように、

父親がアル中で廃人同様で病院に入院していて、母親の稼ぎは入院費用に飛んでいくし、

若いときに生んだ子供の養育費用と

母親の生活費と、自分の生活費。

どう頑張っても、アフターの稼ぎだけじゃ

おいつかない。そんな娘にとって、パトロンの話は天の助けなんだよ。

それが、あるおかげで、好きな踊りで身をたてていける。

こういう場合も有るんだ。

多かれ少なかれ、パトロンの存在で救われている。その救いを僕は分かっているから

あえて、パトロンの話は踊り娘の特権だという。裸の身をさらしてまで、舞台にたとうとする彼女達がすがれる存在はそんな者しかいないんだよ」

『それは・・・

つまり・・・・

私には・・・

貴方が居る・・から

恵まれてる?

カタリナ・・・

貴方が言う・・・恵まれてるは

そういう意味?』


憔悴が、どこからわいてくるものか、

わからないまま、

おぼつかない足取りで

イワノフの事務室から出てくると、

ターニャは時計を見つめなおした。

今一度、自宅へ帰るには、

とんぼ帰りすぎる。

すこし、早いけれど、アフターの仕度にとりかかろうか。

控え室で珈琲をのんで、

すこし、気分を変えよう。


サーシャの手紙がターニャの気分をもっとよくかえてくれるだろうけど、

イワノフとの話し合い・・と、いえるだろうか?

でも・・・。

話し合い。

いつのまにか、時間が流れていた。


控え室の前に立ったターニャは首をかしげた。

もう、誰かきてる。

ドアの隙間から漏れる光と

いくばくか、荒い息。

誰だろう?

なんだろう?

ターニャは扉をノックすると

「入るわよ」

と、中の誰かに声をかけながら、扉を開いた。


「あっ・・カタリナ?」

控え室の中央の狭いスペースで

カタリナは振り付けのおさらいをしていた。

荒い息はカタリナの喉からはっせられたものに

相違なかった。

「あら?」

ターニャに気がつくと、

カタリナは照れ臭そうに笑った。

「何度、踊っても舞台に立つ前は不安になるわ」

それが、こんなところで、レッスンのおさらいをしていた、いいわけ。

「どうしたの?早いじゃない。

やる気まんまん?それにしちゃ冴えない顔色ね。ん?なんかあった?」

軽い汗をふきとりながら

にこやかに笑いかけるカタリナがひどく優しくみえて、

ターニャの糸がぷつりと切れた。


「さっき、イワノフさんに呼ばれて・・・」

皆までしゃべらなくても、先達のカタリナである。

察するものがある。

「あ~~~。パトロンの件?

あなただったら、すごいでしょ?

何人お声ががりがあったの?」

なんでもないことのように、

受け答えるカタリナの野放図さ。

重大問題のように考え込んでるほうが、

おかしいと、思えてきたのは、

ターニャの心にやっと余裕がでてきたせいだろう。

「ん・・・13件・・・」

「ひゃああ~~~。すごいね。

あたしなんか、そこから10もひいてくれなきゃなんないね」

「そんなこと・・・」

なにも嬉しくないことなのに、

なぜか、ほめられたように思えるのは、

カタリナの心に邪気がないせいだろう。

「でも、ことわっちゃうんでしょ?」

カタリナなりにターニャの心を見抜いているらしく、ターニャの方針をいいあてた。

「う・・・ん」

「なに?歯切れの悪い返事だね?

迷ってるってこと?」

それも見透かすと

「なんで、迷うの?」

なかなか鋭い質問を寄せてくる。


「うん・・・。あのね」

カタリナになら、うまく話せそうな気がして

ターニャはきりだしていた。

「聞いてくれる?」


イワノフとのひと悶着をききおえると、

カタリナは大きなため息をついた。

「ん~~~~。

なんていっていいのかなあ。

あたしが聞いてると、どうしても、

イワノフさんの求婚をうければよかったのになあ。

って、そればかり、思うんだよね」

なぜだろう?

サーシャも似たようなことを言った。

『きちんと、求婚してくれなかったことが不満』

百歩譲ってサーシャの言うとおりだとしても、

カタリナの言い分は跳び越しすぎている。

「なぜ?

イワノフさんが、アフターで踊れといってきたのよ。

その同じ口で、求婚されても・・・・」

「はああああ~~ん」

「なによ?」

なにか、からかい半分のまなざしにむきになるターニャに

「わかった」

と、カタリナがひとりがてんにうなづく。

「な・・なによ?」

「ようするに・・・。

ひとつ。

あなたは自分が恵まれてる。

それが、わからない。

ふたつ。

あなたは、まけおしみの強い人ね。

うん・・・プライドだけ人一倍強い」

カタリナは遠慮会釈なく好き放題いいたてる。

が、

喧嘩になりそうな物言いのうしろの顔は酷く優しい。

だから、ターニャも穏やかにたずねなおすことができた。

「それ・・は、どういう事?」

「そうだね。

まず、恵まれてるってこと。

うまくいえる自信はないんだけどね。

まず、あなたは、どうにしてでも、

ん~~~。

例えば、

身を売ってでも、

どうにしてでも、

踊り続けたいって、そんな事しなきゃ

舞台にたてない。

そんな目にあってないよね。

ぽっと、入った劇場で

いきなり、ソロをはって、

アフターに入ったって

十把一絡げのラインダンスから

登っていくのが普通のところを

これまた、いきなり。ソロデヴュー。

恵まれてるとしか、いえないけど、

そのおかげで

あなたは、石にしがみついてでも、

踊りぬく、って、情熱に欠けてる。

あたしは、

踊りたい。

パトロンがど~の。

アフターがど~の。

裸がど~の。

そんなことどうでもいい。

踊り続けていくための材料でしかない。

まあ、アフターのソロにしたって、

イワノフさんのてこいれが随分あると思うけど、あなたは、それさえ、あたりまえに考えて

踊れる事を喜んで無いし

イワノフさんに感謝さえしない。

そして、その事実に気がついたら

今度はあなたは、てこいれされてソロに立った自分でしかなかったって、落ち込む。

それが、プライドの高さ。

あたしだったら、どんなに有り難いか。

何も見返りも求めず、後援してくれて、

そのおかげで、踊れる。

パトロンというよりスポンサーなんだろうけどさ。

その後押しに答えるためにもすこしでも、いい踊りをしたいって思うのが本当でしょ?

なにが・・・迷ってるよ。

笑わせないでよ。

黙って応援してくれていた人間に

感謝一つもしないで、

パトロンを持とうかしら?

そんなのね。

踊り娘より先に人として、失格。


あなたね・・・。イワノフさんが

女性としてみてくれてないって、

おもってるでしょ?

商品みたいに扱われてるって・・・。

それも、とんでもな~~~~い・・よ。

イワノフさんは

貴方の意思をなによりも尊重してるし、

あなたのことはよく分かってる。


あなたは、

ただの負け犬。

踊りじゃ身をたてられない自分の思いいれのなさを、

裸踊りのせいにして、

そこからイワノフさんにすがれば

もっと自分が惨めになるから、

気になってしかたがない存在に蓋をして

いやいや、胸を晒し

踊りを踊るんじゃなくて

胸をさらすだけ。

そして、胸を晒さなきゃならなくなった。

惨めになった。

落ちる所まで落とされたって、

わざと、イワノフさんに面当てして見せてる。


あなたが、イワノフさんをどんなにか、心の内に住まわせてるか、自分で気がついてない?


あなたが取った態度。


あなたがイワノフさんをただの雇用主と、考えてたら叩くなんてできないよ。


あなたは、イワノフさんに護ってもらえなかったって、思い込んで怒り狂ったわけだろうけど、

イワノフさんがただの雇用主ならあなたを

護る義務さえない。

でも、あなたの中でイワノフさんは

あなたを護ってくれる人だった。

だから、怒る。


それ、どういう意味か、わかるよね」


カタリナに解き明かされた

ターニャの心の襞はあまりにも鮮明だった。


「私は・・・踊れない・・?」

「そうよ。

踊って無いわね。

踊りたくて、踊りたくて

無性に踊りたくて・・・。

あなたのどこに、踊りがあるの?

踊りを捨てきれない未練と

妹さん?への仕送り?

妹さんのせいとは、いいたくなくて、

わが身を犠牲にする美談で宥めて

いやいや、

仕方なく、踊る。

そこから抜け出して

あっさりイワノフさんに救いだしてもらうも、

沽券にかかわって・・。

ちゅうぶらりんで、いつまでも、もがいてなさい」


「じゃあ・・私は・・イワノフさんを断らなかったほうが良かったってこと?」


「そうかもね・・・。

でも、今のあなたじゃイワノフさんまで、ちゅうぶらりんにして、苦しめるだけ。

あなたから踊りを奪い取った・・・

って、苦しめられるだけ。

そんな結婚生活が幸せ?」


「わ・・た・・・し・・」

どうすればいいのだろう?

なにか、言いかけたターニャにカタリナの声が被った。


「ターニャ・・・行こう。

もう、舞台が開く・・・」


急かすだけのことはある。

カタリナが今日の出し物のトップ。


カタリナをみおくって、

舞台の袖にたった、ターニャは

カタリナの踊りに釘付けになった。


演目はオリジナル。

ストーリーがある。

街角に立つ娼婦。

それが、カタリナ。

曝け出した胸を誇り

ストリートを闊歩する紳士を

こまねく。

だけど、だれ独り、カタリナの誘いにのってこない。

あれやこれやの術を使い

しなをつくり、

胸を揺すり

カモン・カモンと指をうごめかす。

それでも、誰ひとり、カタリナにふりむかない。

強行手段のカタリナは歩く紳士の手をつかまえ、

自分の胸に触れさせてみるけれど・・・。

これも、ダメ。

ふてくされて、路上に座り込むカタリナ。

そこにチャチャチャ風にアレンジされた

シャル・ウィ・ダンスが流れ出し

通り過ぎると見えた紳士が

カタリナに手を差し伸べる。

「シャル・ウィ・ダンス」

なんですって?

「♪シャル・ウィ・ダンス」

どうせ路上の接客業。

お客様の望むとおり。

と、カタリナが踊り出すと

さっき通り過ぎた紳士や

今、通りぬけかけた人達まで

立ち止まると

いっせいにチャチャチャをおどりだす。


カタリナの心そのもの。

身を売るんじゃない。

踊りたい。

踊りたい。


舞台の華と化したカタリナはあでやかだったけど、

それ以上に

「なんて、楽しそうに踊るの・・・」

役になりきって、

ただただ、踊りを踊る。


誰もカタリナに変な好奇の目を向けていない。

本人にとって楽しい。

それだけで、見ているものまで楽しくなる。


踊りは・・・

本来そんなものなのかもしれない。


楽しくて、楽しくて、仕方が無い。


それだけのもの。

そこが、原点。


『私は・・・むしろ・・・

踊り続けていくために

苦しんでいる』


それは、

踊りに対して・・・

あまりにも不誠実。


『でも・・・私は・・・

やっぱりたのしめない。

胸をさらすのは、

どうしても・・・苦痛』


でも・・・。

どうしようもない。

稼がなきゃならない。


心の自由をなくし

枷をはめられた踊りを

みていても、

観客だって楽しくない。


むしろ・・・・。


その苦境からすくいだしてやりたい心境に駆られる。


だから・・・。


13件?


『私は自分を映し出した鏡を見て

嘆いていただけ?』


いっそ、舞台にあがることは、あきらめて、

独りの部屋で自由に踊りつづけるだけ。

そんなふうな趣味として・・・

踊りたい心をもっと大事にできたかもしれなかったのに・・・。


ひどく、イワノフの笑顔が恋しく思えて

ターニャは

自分の肩を自分の手でなでさすった。


「そう・・・。

私は独りで生きるしかないんだから・・・。

がんばらなきゃ・・・」


ターニャの出番はまだ、先。


すこしだけ、カタリナのいう事が

理解できたと伝えに行こうと

ターニャは思った。


舞台がはねたというのに、帰宅の足取りが重い。

少し前までなら、サーシャと並んで帰る時刻は

充実感につつまれていた。

家に帰るという事は、ひいては、明日への準備。

また、半裸身でおどるために身体を休めるだけ。

食事・・・をとって、風呂に入り、それから・・・。

なにもする事が無くなっている。

とりとめないお喋り。

サーシャに癒されていたくつろぎの時間も今は無い。

物思いが流れるままに

とぼとぼと歩くターニャの目に映る町並みも暗く

店々の多くが戸を閉めている。

「あ・・」

うっかりしていた。

イワノフとの話しのあとに、

パンをかっておこうとおもったのに、

そのまま、劇場にはいってしまって・・・。

いつものパン屋は・・・もうすっかり戸締りをし終えている。

無理の無いことだろう。

ただでさえ、

朝の早い仕事。

こんな遅くまで店を開けているわけが無い。

どうしようか・・・。

最近、増え出したコンビニエンスストアも、

ココから歩いてだと、15分。

それも逆に引き返さなきゃならない方向。

ココまで、戻ってくるのに

30分・・・・。

それから、家まで・・・。

もう・・いいや・・。

わずかな、時間でしかないと思うけど

それさえ・・・もう・・だるい。

家に帰れば・・なにか・・あるだろう・・・。

ターニャは明日まで、空腹を辛抱できるだろうと

向きを変えず、歩き出した。


暗い部屋。

灯りをつけるのも自分。

まだ、薄ら寒い季節の深夜の部屋は

人気がなかった分いっそう、冷たく寒い。

小さな溜め息をついて

冷蔵庫を開けてみる。

ヨーグルトと卵と牛乳とレタスとベーコン。

おかずとデザートがあるけど、肝心の主食になる物がない。

パスタ・・もない。

小麦粉・・は?

パンケーキでもと覗き込んだ袋の中にわずかに小麦粉が残っていた。


サーシャがキエフにいってしまった後

ターニャがアフターで踊るようになって

買い置きもあまり足してない。


パンを千切ってミルクで飲み込んで

なんだか、マトモに食べてないから

なにも、買ってないのか、

買って無いから・・マトモに食べてないのか。


いずれにせよ・・

なにか、パンケーキ?でもたべるしかない。


ふと瞳をずらしテーブルの上のサーシャの手紙を見つめる。

なんだか・・・。

それも、今は読みたくない。


きっと、栄光への足跡でしかないサーシャの手紙は、

今のターニャが読むに

引き比べてしまう自分があまりにも惨めでみすぼらしい。


明日・・。

今・・それを読んだら、きっと、ねたみとうらやましさで・・・

悲しくなる。

サーシャの手紙は暖かなまなざしで読みたいと、思う。


きっと、くたびれすぎてるせい・・・。

ゆっくり寝れば・・・もう、大丈夫。

明日・・

明日・・・

朝一番で読むからね。


サーシャの手紙にわびると

ターニャはパンケーキをつくるために、

まず、エプロンに手を伸ばした。


午後から新しい出し物の打ち合わせがある。

だから、ゆっくり、寝ていればいいのに

やっぱり、目が覚める。


起き抜けに珈琲をいれて・・・。


そう。


朝のパンがないんだ。


忘れないためには、先手をうつのが一番。

サーシャの手紙を読んだら、

パンを買いに行こう。


今日の予定が、出来た。

とても単純なことだけど、

買い物にでかけるのは、

なんだか、心弾む。


日差しのやわらかい朝。

そろそろ、ライラックが咲き始めて

きっと、通りも甘い香りに包まれている。


『あたしって・・・単純よね』

芽吹きの季節は心を和ませる。

でも、もっと、私は簡単。

焼きたてのパンのかぐわしい匂いが好き。

だって・・

パンは命を紡ぐ糧だもの。

きっと、あの香りに生きてるって

実感がわくんだわ。

これって、単純じゃないかも・・・。

なかなか、哲学的だわとターニャは苦笑をこぼす。

でも・・・。

ふと、ターニャの中にちかりとひかる思いがわく。

その実体をつかもうとすると、

もやのように胡散霧消して、

それが、なにか、分からないまま、

ターニャはサーシャの手紙に手を伸ばした。


少し深呼吸してサーシャの手紙を開く。


***姉さん・・・いろいろ、心配と負担をかけてしまってごめんなさい***

いきなり殊勝な妹が手紙の中に現れる。

「やだ・・。らしくないよ」

文面に返事して次を読む。

***姉さんのことだから、仕送りをしてやろうって、また、無理してない?

え?そんなこと思ってなかった?のに、それじゃ、ねだってるのも、同然?****

「うん・・・それは、強請ってるよ~~」

****だけどね・・・。

大丈夫だよ。と、いうのもね・・・*****

そこまで、書かれた文面は次の便箋に続いてる。

「やあね・・・。もったいつけちゃって・・・どう大丈夫か・・次?」

便箋をめくると・・・。

***驚き・・・驚き。

まさかそんな話があるなんて・・****

「あら?らら・・なによ?」

***キエフに来て、最初に、オーディションがあったんだよ。

なんのオーディションだと思う?***

「なんだろ・・・」

サーシャのニュースにターニャの目が奪われ

手紙への返事も口から出なくなる。

ターニャは次の内容を何度も読み返す事になった。

***映画を創るんだって。

アラベスクってタイトルで

ソビエトの舞踏家達を集めて、

大スペクタクル・・。

ストーリーはアラビアンナイトから

アレンジするらしいんだけど・・・。

その映画のヒロインのオーディション。

だったんだけど・・・。

*****

どうやら、くだんのキエフの大物舞踏家が自ら監督件主人公。

相手役のヒロインを以前から捜していた。

候補は何人か上がった。

外見も踊りの実力も兼ね備えるものの、イメージにピッタリとはいかず、

見切り発車するしかないと、候補者を絞り始めた時にイワノフから、サーシャのビデオが送り届けられた。

この時点でもう、アラベスクのヒロイン有力候補の最前線にサーシャがたっていたのは言うまでも無い。

形だけのオーディションを行い、

満場一致でサーシャに白羽の矢がたった。


***来月から、クランクインするって、

もう、毎日踊りのレッスン。

おまけに、

アラビアの象形文字の中に踊りの基本スタイルがあるって、アラビア文字を毎日勉強してるんだよ。

でね・・・。

今日、契約書を書いてきたんだ。

ビックリするよな・・金額だよ。

姉さん・・あのね・・。

もう、アフターで踊らなくても

養成所でも建てて

小さな子供達に踊りを教えるとかさ・・。

そんなこともできるんだよ。

考えておいて・・・よ。

そのほうが姉さんの踊りへの情熱を

活かせると思うから・・・****


サーシャのニュースの大きさよりも

ターニャの胸をえぐったものがあった。

『情熱・・・?』

そんなもの・・ない・・よ。

そんなもの・・ないのに・・

養成所?

そんな事にあなたのお金を使わせるなんて、

もったいないだけ・・・。

もっと、あなたの役にたつように・・

使わなきゃ・・』

「あ?」

サーシャに語りかけた心の底に、

きらりと一条の光が差し込んだ。

さっき、胡散霧消した閃きと同じもの。

それがくっきりと姿を現していた。

『役に立つ・・?』

それが、ターニングポイントを作り出すキーワードだったとは、ターニャは思いもしなかった。


陽射しの中に歩み出たものの、パン屋がひどく遠い。

ターニャの頭の中に渦巻くものと対話しながら

歩けば、自然と足並みが緩む。

サーシャのニュースは姉としてまず、嬉しい。

だけど、養成所を造る・・なんて考えはターニャにはない。

なによりも、自分の踊りの才能が認められていないのに、

ううん・・・。

才能が無いのに、認められるわけも無いけど。

それでも、

認められるほどの才能も無い人間が

人に踊りを教えようなんて

思いあがりもいいところ。

たとえ、自分の稼ぎでスタジオを作れるほど資金ができたとしても、

それでさえ、

考えもしないだろうに、

妹におんぶされて、

道楽のように、

濡れ手の粟を芽吹かせて・・・

はたして、

充足するだろうか・・・。


するわけがない。


どうすれば・・・。

何をすれば・・・。

心から満足できるだろう?

今の私は・・もう、踊りからにげだしたい。

それだけ・・・。

だけど・・・。

ターニャはしごく当然の事態にやっと、目をむけた。

「だけど・・・?

だけど・・・。

サーシャへの仕送り・・がある?

ううん。

もう・・・サーシャはひとりで、十分にやっていける。

だったら・・

私・・?

私は無理にアフターで踊らなくてもいい?」

つい、昨日までは、

たとえ、アフターであっても

踊りを続ける理由があった。

しかたなくでも、

どうしょうもないからでも、

とにかく、

踊りを続ける理由があった。

サーシャの自立。

アフターで踊り続けている限り、寄せてくるパトロンの申し出。

そのふたつの事情が

踊りを続けていく原因を打ち砕いていた。


ターニャに残ったのは

いくつもの壁の影に隠されて

読み取ることが出来なかった本心。


踊り続ける為のなんの理由もなくなった今、

ターニャの本心だけが問われる。


「踊りたいの?

やめたいの?」


自分に問う言葉がいっそう、

ターニャの足取りを重くする。


やめるに、未練がましく、

続けるに覇気を欠く。


やめるにたりる納得もない。

続けるだけのひたむきさもない。


たんに・・・。

長年慣れた「踊りのある暮らし」から、

自分を引き離すのが、苦しく、怖いだけなのかもしれない。


つまり・・・惰性?


それとも、

保守的?・・・。


自分の生活を・・

環境を・・・

今まで、積み重ねたものを・・・

くずしたくないだけ・・・?


『私って・・こんなに、臆病な弱虫だったっけ?』


自分の可能性に手を伸ばそうとする間は

きっと、人間は成長する。


ただ・・の足踏み?

停滞?


また・・歩みだせる?


歩みだしても・・・

もう、踏み出せる舞台はない。

才能の薄い人間を舞台にいつまでも立たせておくほど

舞踏の世界は甘くない。


それを、身をもって知った今。


華のあるうちに、引退するのが引き際なのかもしれない。


「潮時・・・なのかな・・・」


アフターに行くしかない自分への

イワノフのプロポーズが

いっそう、ターニャを惨めにした。


間違いなく、

才能の無い自分とレッテルを貼られたようなもの。


それなのに・・・。

イワノフの求婚を受けたら・・・。

才能のなさのせいで、踊りから放逐され、

あげく、行き場所をなくして、イワノフにすがるしかなくなった。

そんな自分でしかないと思えて、

救いの手を差し伸べるイワノフと思えば思うほど

救われる自分の哀れさがいっそう深くなった。


踊りに関わっていれば、

いつも、自分の惨めさと向き合わされる。


『カタリナ・・・。

あなたのいうとおりよ。

私は自尊心ばかり強くて

踊りたい・・・だけじゃ・・・やっていけない。

かといって、

やめるのさえ・・・自分が納得出来ないから

それも・・できない。

あなたの言うとおり・・・ちゅうぶらり・・。

中途半端・・・』


いつのまにか辿りついたパン屋のドアを開くと

ベルがからりんとターニャの来店をしらせ、

パン屋の主人の元気な声がターニャを歓迎していた。

「やあ、いらっしゃい」


すがすがしい笑顔は・・・

きっと、自分の仕事に誇りと自信があるせいだろう。

「あ、いつものを・・・。半斤・・・2、5cmにスライスしてちょうだい」

おずおずと、注文をつたえると、

主人はぺこりと頭を下げた。

「もうしわけない。

朝の釜のぶんが全部うれてしまってね。

次の分を焼いてるんだけど・・・。

もう少し時間がかかると思うんだ。

急ぐのかな?」

「いいえ・・・大丈夫よ」

「そう?だったら、そこの椅子にでも座ってまってる?

紅茶を出すよ。

用事があるなら、そいつを先にすませてくれてもいい。

ター・・・えと、ターニャさんの注文のパンは

ちゃんと、とっておくから・・・」

人恋しさも手伝うか、

主人の温かい気配りが身にしみた。

紅茶を飲みながら

この居心地の良い店でパンが焼きあがるのを待つことにした。


まだ、温かいパンを胸に抱かえたターニャの

行き先は決まっていた。

イワノフの事務所に行こう。

そして、

アフターを辞めると宣言しよう。


パン屋で熱い紅茶を飲む間に

ターニャのうろこがおちた。


サーシャへの仕送りという目的がなくなった今。

「踊りは、無くても生きていける」

と、ターニャの根底が変わった。

そして、根底の変化はターニャの意識をも、

侵食しだした。


簡単な真実が、パンを待つターニャをゆさぶった。


このパン・・・。

どう?

人が生きていくために

どんなに役にたっているか・・・。


踊り・・・。

どう・・・?


余暇と余裕と・・・。

人類文化の繁栄の副産物。


生きるに必須のものではない。


自己満足と自己追従。


なにかの役にたつだろうか?


人の暮らしをささえるだろうか?


命を、

生活を、

ささえるだろうか?


ひきくらべ、


このパンは・・・

私の命を紡ぐ糧・・・。


地球という大きな生命体のなかで、

人の一生など、ほんの、またたき。


そのまたたきの間に

ちっぽけな自分の満足に終始して、一生を終る?


そんなの・・・なんだか、虚しい・・・。


生きている間に

なにか・・・、

自分以外のものの役に立って・・・。


ちっぽけな自分の事なんかに、

こだわっていられないほど、

なにかの・・・

役にたつ・・・生き方・・・。


そう・・。


たとえば、サーシャの言うとおり。

ベーコンエッグを焼いて

愛する人の生活を支える。


あるいは・・・。


踊りへの思いをすてられるほどの

相手にめぐりあえない不幸。

自分の事などかえりみないほどの

相手にめぐり合える幸せ。


執着するものごとが、

自分・踊り・というのも、

あるいは・・・

悲しい生き方でしかなかった。


なにか・・・。

人の役にたつ・・・生き方。


もう一度。


人生・・踏みなおしてみてもいいかもしれない。


まだ、舞台には当分早い時刻に現れたターニャにイワノフの動悸が早くなる。

昨日の今日。

大人しそうに見えて

激情家のターニャ。

昨日の啖呵。

あの捨て台詞。


憤怒解きやらぬ頭で

パトロンをチョイスしてきたのでは

なかろうか?


まさかの思いがイワノフを包み

ターニャを前にしても、まだ、不安の鼓動が

耳に届いていた。


「突然ですけど、私、此処をやめさせていただきます。

今までイロイロ、お世話になって

そのご恩もおかえししないのは、

心苦しいのですけど・・・」

切り口上の物言い。

なにか、固く決心したターニャと伺える。


「辞めるのは構わないが・・・

この先・・どうするのかね?

次の就職先はきまっているのかね?」

もしも、ターニャの口から

パトロンの誰かに話をつけてほしいと

いわれたら

どうすればいい?

13人の申し込み者の名前を頭の中で

確認したイワノフに

一人の男の名前が浮かび上がってきていた。

さる若手事業家。

独身。

この出会いが結婚に結びつくこともある。

そういったのは、イワノフだが

ターニャの生真面目さから考えると

愛人でしかない契約・後援を承諾しはしない。

と、なると・・・。

彼との縁をむすぶ可能性が一番高い。

ターニャにとっても、安定した生活。

彼ならば、ターニャを気に入れば・・

エンゲージリングを渡すかもしれない。

ターニャの可能性をにぎりつぶすわけには、

いかないのだ。

ターニャの口から彼の名前がでたら・・・。

私は・・

彼に告げる・・しかない。

ターニャが承諾しました。と・・・。

だが・・・。

はたして・・。

伝えられるだろうか?


「イワノフさん・・。

そうやって、いつも、心配ばかりかけているのに、その優しさに甘えてばかりで、

もうしわけないのですけど・・・」

ターニャが少し微笑んだ。

「私・・パン職人になろうと

決めたんです」

「え?」

あまりにも予想した答えと違うと

何を言ったか

もう一度確認したくなる。

「パン?踊りは辞める?

誰かと契約を交わすんじゃないんだね?」

ターニャはいっそうくすくす笑い出した

「パン職人と契約を取り交わす後援者がいますか?」

いいかえれば、契約者を破棄するために、

アフターの踊りに付随してくる物事もろとも踊りを辞めるに等しい。

「また・・いったい、どうしたのかね?

どういう心境の変化だろう?」


口元に指を当てて考えていたターニャは

やがて、

小首をかしげ、にこりと微笑んだ。

「そうですね。

人生という舞台にふさわしい踊りをみつけた。

と、いうところかしら・・」

「ほうう。

それがパン職人になるということなんだね?」

「ええ・・そうよ」

どうやら、ターニャは人生の指標をつかんだらしい。

イワノフの暖かいまなざしがターニャに注がれる。

「どういうところが、ふさわしいんだろうかね?私におしえてくれるかね?」

そう。

これ。

このイワノフがいっとう・・素敵。

小さな子供の夢にうなづく父親に似た、イワノフの大きく深いまなざしがそこにある。

優しい光をたたえたイワノフの瞳に覗き込まれると

ターニャもまた、父親に夢を語る幼い少女に戻る。

「パンは人々の生活を、命を支えるわ。

そのパンを焼く。こんな素敵な職業は他に無いわ」

「なるほど」

ターニャがこの先の人生をパン職人にかけようと思った大きな心境の変化は、そこにある。

「だけど・・・。

生活は大丈夫なのかい?

見習いからはじめるわけだろ?

給料なんて、今の君からみたら、

雀の涙くらいしかない。

生活は・・、君の暮らしは、大丈夫なのかな?」

そうやって、いつも、いつも、心配ばかりかけて・・・。

他の誰がこんなに親身になってくれるだろうか。

私は・・・確かに恵まれていたんだ。

そして、今も・・・。

「イワノフさん。大丈夫。

サーシャはひとり立ちできるし、

私は自分の生活だけ・・」

うん。うん。と、頷くイワノフの顔が

安心したものになる。

「そうか・・・うん。君が充実できる。

それが、一番、大事な事だからね」


ターニャの岐路選択。

それが、誰かとの契約で無い事に胸をなでおろしたものの、

イワノフにとって、深刻な問題が生じていた。

ターニャが此処を辞めて・・しまえば、

イワノフとターニャの接点が無くなる。

接点をなくした男女が、

お互いの距離を縮められるだろうか?

ましてや、

求婚を断られた相手。

接点をつくろうとしても、

焼けぼっくいにもならなかった二人に

火がつくこともなく、

不自然な接点をつくろうとする

わざとらしさが

ターニャの嫌悪感をそそりかねない。

と、なると、いつかどこかで、偶然に会うことを願うしかないのだろうか?

そのいつかはくるのだろうか?

来たとして、その時にも、まだ、ターニャはひとりだろうか?

誰かの妻となり、

嬰児をさする優しい母親になってから、

であったら?


今・・此処で何か手をうたなければ、

イワノフのこの先の人生は後悔一色になるかもしれない。

イワノフにとって、今が岐路なのかもしれない。


もう一度、自分の思いを素直に伝えてみるしかない。

それが、要る、要らないは、ターニャが決めること。

何度断られても・・・

結局、自分の気持は変わらない。

ターニャを諦めきれないのは、たとえ、ターニャが他の人の妻になってもだから。

自分の気持ちを伝えるだけ。

多くは望むまい。

ただ、伝えるだけ・・・。


「ターニャ。

さっき、パン職人には後援者はいないと

いってたけどね。

私はたとえ、君が踊りをやめても

君が君である限り

君を応援したい。

もっと、はっきりと、いえば・・

やっぱり・・・・」

こんな回りくどい言い方じゃだめだと思い惑った時、ターニャが唇に人差し指をあてて、

しぃ、黙ってとイワノフに合図をした。


聡いターニャのことだ。

イワノフの話が再度の求婚になると、

察して、婉曲に断りをいれた。


手の打ち様さえないのか?

気持をつたえるだけ、それさえも、ターニャは拒絶するのか?

避けたい話題でしかないのかと、

イワノフは黙らざるをえなかった。


「イワノフさん・・。

ごめんなさい。

私・・後援者はいらないのよ」

出来れば、耳を塞ぎたい。

それとなく、話をさけられるだけなら、まだしも、はっきりとした、拒絶の言葉は聞きたくない。


ターニャの顔をじっと見る事が出来ず

イワノフはかすかにうつむいて、

ターニャの視線から逃げた。


「イワノフさん」

ターニャの口から、今後一切イワノフとかかわりを持ちたくないと絶縁を宣言される。

ききたくない言葉を聞かざるを得ない状態に追い込んだのは自分。

わざわざ、はやって、断頭台にのぼってしまったんだ。

「うん。いいんだよ。気にせず、話したまえ」

宣告しようにも、きっと、イワノフの表情で、ターニャに痛みを感じさせているに違いない。


覚悟するしかない。

それでも、私はターニャを愛しているから。

「君の望むとおり。

それが一番良い。

私はそれに従う。

だから・・・気にせず・・言ってごらん」


ほんの少し・・・ターニャははにかんだ。

イワノフに告げる内容があるいは、唐突で

かつ、身勝手でもあった。

応諾といいがたい回答よりも、

女性から、言うためらいがターニャに恥じらいを含ませた。


「私はやっと、恵まれてるという意味がわかった気がしています。

こうやって、自分の人生のプリマドンナになろうと思った時

イワノフさんに支援されていた自分にきがつきました。

でも、それは、本当の意味で

私の・・人生という舞台でソロをはっていた自分じゃなかったから、

イワノフさんの支援に、感謝ひとつ、もてない自分だったと思います。

でも、そんな私でも、

本当のソロ・プリマドンナとして、

自分の舞台の主役になれたときのことを考えます。

その時にきっと、

私は後援者でなく

パートーナーが欲しいと思います。

人生という舞台で私が焼いたパンを食べる・・・。

その配役にイワノフさんしかいないとおもっています」

一気にしゃべりきると、ターニャは俯いて口を閉ざした。


一点を見つめ続けたイワノフの焦点が鮮明な画像を結ぶ。

「ターニャ・・・?

それは・・?」

それは、つまり・・・

「僕と・・?」

一緒になってもいいということ?

俯いたターニャがかすかに顔をあげると、

イワノフの視線の中でひとさし指をたてた。

「ただし・・・」

ひとつの条件。

それを、人差し指でもう一度、確かめる。

「私がプリマドンナになれた時・・・

それでも・・いいですか?」

イワノフに異論があるわけがない。

「待ってるよ・・。

君が納得できる、生き方に

地に足つけて踊るプリマドンナになれる日を・・」

やっぱり、そう。

イワノフに惑いひとつない。

いつも、ターニャを見守る優しい男は、

これからだって、その視線をかえはしない。

なにが、かわったかといえば、

ターニャの意識。

イワノフの護りを失ったと思った時、

はじめて、イワノフの存在の重さを知った。


だから、ゆえに、いっそう、安易に

イワノフを逃げ場所にしたくない。

舞台から落ちたみじめなマドンナの人生の捨て場所にしたくない。


だから・・・。

「待っていてください」

いまでも、すぐにでも、イワノフの妻におさまることは出来る事だけど、

それでも、

「人生をいっしょにあゆんでいきたいのは、

私もおなじです」

イワノフはイワノフの人生の主役であり、

ターニャはターニャの人生の主役にな。

ソロで主役がはれる生き方を掴んでこそ

共演者は一つの舞台を共有できる。

むつかしいことをいわずとも、

イワノフの理解はそも最初の一言につきる。


「君の望むとおり。

それが一番良い。

私はそれに従う」


胸の中にイワノフの言葉を刻み付けながら

ターニャはサーシャにどんな風に手紙を書こうかと、かんがえていた。


******

サーシャ。

驚き。驚き。

姉さんはなんと、立派なパン職人になっちゃうんですよ。

するとね・・・。

そこにイワノフさんがパンを買いにくるの。

そして・・・。

こういうの。

「僕の家で僕のために

パンをやいてくれませんか?」

そう。

そして、姉さんはきっと、こうこたえるの。

「YES」


***************

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踊り娘 @HAKUJYA

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